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夢二と荷風の写真機 [スケッチ・美術系]

yumejikafu2_1.jpg 竹久夢二に興味のなかった2年前のこと。自転車で両国橋を渡って左折、横綱町公園の「復興記念館」に入った。夢二の「関東大震災スケッチ」展示中だった。〝塗泥(とたん)の苦しみ〟の人々に向けて悠長にスケッチブックを広げたか、と思った。

 だが今、夢二は写真好きと知った。震災惨状はカメラで撮って、そこから絵を描いたかもと思った。夢二は二千枚もの写真を遺したそうな。栗田勇『竹久夢二写真館「女」』なる書あり。夢二はどんなカメラで、何を撮っていたのだろうか。

 同書掲載の写真は、ほとんどが〝お葉〟だった。ヌード写真が幾枚もあった。最初の妻・たまき、19歳の彦乃は八枚づつ。たまきは知的で勝気。彦乃は丸顔。お葉は夢二が描く瓜実顔、八の字眉、なよっとした身体付き。夢二は己が描く女に似たお葉を得て、夢中でシャッターを切った感が伝わってきた。

 どんな写真機を使っていたか。同書に「カメラを構える夢二」の写真があるも不鮮明で機種特定は出来ず。夢二とお葉の出会いは大正8年。当時の写真機を調べると、ライカ市販は大正14年からで、それ以前の写真機ならば「イーストマン・コダック」の初ロールフィルム・カメラかもしれないと推測した。

 ネット検索したら大正4年に「ベスト・ポケット・コダック」が輸入されて写真が流行とあった。その後に国産奨励施策で、舶来材料で国産模造の「パール・コダック」が発売。同機は昭和8年頃まで改良機が発売された(小生のオヤジも、それらしいカメラを持っていた)。

 尾崎左永子『竹久夢二抄』に「不二彦(夢二の子)によれば、夢二の愛機はいわゆる「べス単」(小生註:大正1年~15年に180万台作られた初のロールフィルム使用の蛇腹式ポケットカメラのベストセラー)であったという」なる記述あり。小生推測は概ね当たっていたと言えよう。

 ついでに気になっていた永井荷風のカメラも調べた。『断腸亭日乗』の昭和11年12月に「写真機を携え亀戸へ~」などの記述が現れだして、翌12年2月に「名塩君来りカメラ撮影の方法を教へらる」があり、以後「帰宅後写真現像」の記述が繰り返される。

 それは『墨東奇譚』完成頃で、その私家本「京屋本」、幻の「大洋本」両書には荷風撮影の玉ノ井風景に俳句を添えた幾頁もが巻頭に収められている。荷風のカメラは「ローライコード」らしく、それは昭和8年発売の二眼レフで、折り畳み「ビューファインダー」をバッシャと開ける型。竹久夢二が使っただろう「コダック」と永井荷風が使っただろう「ローライコード」を描いてみた。


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