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藤田嗣治展とレストラン [スケッチ・美術系]

tiwooyogu1_1.jpg 弊ブログで藤田嗣治シリーズ7回を終え、タイミングよく東京国立近代美術館で「MOMAT(モマット?)コレクション 特集:藤田嗣治」が開催された。

 小生には「自転車で軽く運動」の幾コース有り。そのなかの一つが皇居一周。新宿通りで半蔵門、桜田濠沿いに坂を下って日比谷左折で大手門、竹橋へ。帰路ポイントが緩やかな坂の始まりで、その右側に同館がある。今まで無関心だったが、にわか美術ファンで、いざ同美術館へと相成り候。

 自転車は、千代田区がコミュニティサイクル(シェア自転車)展開で主な施設に専用駐輪場設置で、その脇に止められた。入場券を求めれば「65歳以上無料」で驚いた。得した分を「ミュージアムショップ」の購入にまわせる。

 展示内容は同館所蔵の藤田作25点+1点で、戦争画14点の初一挙展示。「アッツ島玉砕」の一部、兵士が互いにアゴに手を伸ばして刺し違える図を二度模写したが、なんとその図はダ・ヴィンチ素描やラファエロ壁画にあるのと同ポーズ。藤田はそれを参考にしたらしいと同元絵写真も参考展示。藤田嗣治がこれはと思ってスケッチしておいたのを、同作に描いたのだろう。彼が勉強家だったことを物語り、また戦争画を歴史画として描こうとしたことも伺わせた。

 さて、同展覧会からどの絵を簡易模写しようか。刺し違え兵士図は二度も模写したし、裸体模写は恥ずかしい。そこで「ミョージアムショップ」で購った藤田著「随筆集 地を泳ぐ」挿入カットを模写することにした。あたしもこんなカットがスラスラ描けるように、と練習です。

 高齢者無料+自転車散歩コースで、今後は足しげく通いそうな美術館です。鑑賞に疲れて美しい皇居風景を見ながらカフェで寛ぎたいと思ったが、併設が有名シェフのレストランで高額ランチ・ディナー。貧乏隠居には無縁。そこで北の丸公園でコンビニおにぎりを頬張りつつ、「ショップ」で購入の図版や本をひも解いた。

 随筆にパリの貧乏物語あり。一片のパンも買えぬ時代に、彼のアトリエは同じく貧乏モデルらの塒になった。16歳のキキーが風邪から肺炎に。医者を呼ぶ金もない。藤田はフランス人画家のモデルになって2フランを稼いで医薬を買った。

 渡仏7年間、裸体画を描かなかったが、集大成として彼女の裸を乳白色の肌で描き上げた。同作を出品して大好評。4千フランで売れた。「さぁ、御馳走するぞ、レストランへ行こう」。だがキキーはためらう。藤田のモデル中は一文にもならず、服まで売って外套の下は裸だった。藤田の脚色入りエッセーだろうが、おにぎりを頬張りながら思わずグスッと鼻をすすった。


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マリー・ローランサン(3) [スケッチ・美術系]

marie6_1.jpg 最後のラフ模写は、マリー・ローランサン70歳作「三人の若い女」(中央下)。老いて、かくも若い女性を描くのは同性愛者ゆえか。ローランサンに家政婦として30年余仕えたシュザンヌ・モローも若い愛人だったか。彼女を養女にして、ローランサンは同作3年後に没。

 高尚な?絵画論が下世話な話になってきたので、最後にフォーヴィスム、キュビスムについて勝手解釈でまとめる。絵画はルネッサンスより写実一途も、19世紀中頃の写真登場で改革を余儀なくされた。同時にチューブ入り絵具の発明で野外スケッチが可能になった。絵には写真にない強力な表現があると、まずは印象派が登場。モネがルノワールと河畔に画架を並べ、水の揺らぎ・光を短線で描き出した。それがスーラへ受け継がれ、スーラの絵がゴッホを覚醒させた。表現主義の夜明け。

 光を、色を、形を感性や主観で捉えてマティス、ピカソ、ブラック、レジェらがフォーヴィスム、キュビスムを。シュールに走ったのがミロやダリ。抽象画に走ったのがカンディンスキーやクレー。また写真から肖像画を描く。ドガ描く〝踊り子〟も写真からだろう。写真のボケやスローモーション効果なども絵の参考にされただろう。

 乱暴な把握だが、ブログの写真を絵に替えた小生にとっては、写真と絵画の関係は興味深い。だがそれ以降の絵画はどうも冴えない。やや盛り上がったのは米国「ポップアート」ぐらいか。テレビの美術番組も美術館も戦前表現主義の画家ばかり。東京都現代美術館「戦後美術クローズアップ」は話題にもならぬ。

 かくして、にわか美術好きの小生の秋は忙しい。上野・東京都美術館「モネ展」へ、汐留ミュージアム「ゴーギャンとポン=タヴァンの画家たち展」(10月下旬から)へ、そして元総理・細川さんちの18禁の「永青文庫・春画展」へも鼻の下を伸ばして観に行きたい。秘蔵図版が4千円とか。小生はそれより人体デッサン用に関節が動く男女フィギヤが欲しい。

 ローランサンのラフ模写は、一枚の水彩紙にちまちまと描いた。美術展を観る度に、こんなラフ模写を続けて行けば、多少は絵の上達になろうか。なおこの項は小田茂一『絵画の「進化論」』、美術出版社『20世紀の美術』、ニール・コックス著・田中正之訳『キュビスム』、府中市民美術館の解説・図版ほかを参考にした。次は東京国立近代美術館「特集:藤田嗣治」をレポート。


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マリー・ローランサン(2) [スケッチ・美術系]

marie4_1.jpg マリー・ローランサン展には、フォーヴィスム系の絵が幾作も展示されていた。これら絵画論を推進の詩人ギヨーム・アポリネールが恋人とあっては当然か。愛ゆえの憎しみか、彼らしき横顔がアフリカ原始彫刻っぽい平面三角形っぽく描かれた作もあり。

 しかし続くキュビスム風の絵は、この一部ラフ模写した「優雅な舞踏会あるいは田舎での舞踏」(30歳作)他数点で、すでにアポリネールとの恋愛関係は終わっていた。男と別れれば、あとは「自分らしさ」の追及になる。

 ここでキュビスム(立体派)も簡単にお勉強しておく。「セザンヌの影響の流れで、形態と構成による絵画革命。アフリカ部族の彫刻的な絵。例えばピカソの<アヴィニョンの娘たち>などが有名。遠近法に基づかず、三次元の対象を二次元画面に分解・単純化・再構成。幾何学的な形を重ねたような絵が特徴」。

 よくわからないから、例えば日本の萬鉄五郎の絵も見てみる。彼のフォーヴィスム的代表作が、東京美術学校の卒業制作画で、腋毛や鼻毛黒々の「裸体美人」。キュビスム的代表作が切手にもなった「もたれ立つ女」。それぞれ15分程でラフ模写してみたが、どうも、この辺の絵は(小生には)よくわからない。(美大卒の知人がこういった。「お前はおっぱいをすぐ立体的に描くが、萬のおっぱいは平面的なんだ。ゴーギャンのように描かねばいけない。草原はモネのような短いタッチで描く。そこがミソなんだよ」)

 yorozu1_1.jpg さてローランサンはアポリネールと別れた後に母を亡くし、次に一緒になったドイツ人男爵オットーとスペインに亡命したが、彼は酒と女の日々。ほとほと男が嫌になったらしい。美術展の解説では伏せられていたが、次第に同性愛にのめり込んで行ったらしい。

 お相手はフランス・ファッション界の帝王、ポール・ポワレの妹でニコル・グレー。同性愛の派手な話題、自分らしさ追求の絵で、彼女は人気画家に上り詰める。プライベート面中心の伝記も幾冊か出版されているから、そっち系好きの方はぜひどうぞ。次はもう少しフォーヴィスム、キュビスムをお勉強してみる。


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マリー・ローランサン(1) [スケッチ・美術系]

marie1_1.jpg 過日、府中市民美術館「マリー・ローランサン」展を観た。美術初心者(小生)には丁寧かつわかり易い展示だった。加えて展示作をスライドで写しつつ、彼女の作品と人生のミニ講座もあった。

 最近、弊ブログでその名が二度も登場した。藤田嗣治「エコール・ド・パリ」の一人として。そして竹久夢二「黒船屋」を某著者が「ローランサンの絵にそっくり」と誤記(正しくはヴァン・ドンゲン)しているとも記した。

 さて、美術館の冒頭展示に、画塾で習った古典的デッサンによる自画像(左の模写絵)があった。次に「洗濯船」を訪ねてブラック、ピカソ、アポリネール(後に恋人)の影響を受けてフォーヴィスム、キュビスム系の作品(右の模写絵)になって行く。

 この辺の絵になると、ピカソ作品でも「僕にも描けま~す」的な変な、子供が描いたような絵が多い。フォーヴィスム(野獣派)の簡単説明によれば「従来写実画から印象派やゴッホの影響を受けた画家らが、より心で感じる絵を描こうと感覚重視で描いた絵。色彩は主観的感覚の表現として原色多用の強烈さ、激しいタッチ、平面的が特徴」とあった。

 ローランサンは彼らと付き合ってい、彼らの展覧会に出品だが、模写した「自画像」通り、原始美術的デフォルメは認められるも、原色多用や激しいタッチも控え目で「優美さ」を保持。しかし次第に〝小学生が描いたような絵〟になって行く。

 これも過日、上野・東京都美術館で「伝説の画家たち~二科百年展」を観たが、この辺の絵が多かったのか、思わず「てぇした絵はねぇなぁ」が感想だった。美術館を出ると人ごみで、付いて行けば芸大文化祭で、ここにも〝下手な絵〟が多かった。絵画に「眼を見張る作品なんてないじゃん」と思ったが、ちょっと冷静になって考えてみた。

 「とは言え芸大受験には難関デッサンがある」と。そこで「画学生のデッサン」と検索すれば、やはり力量あるデッサンばかり。その勉強をひとたび通過すると、写実的絵画から脱して自分流を求めだして、なんだか〝下手な絵〟になるらしい。

 またここで「デッサンにも流行がある」と知って驚いた。あたしは後期高齢者ゆえ青年期の石膏デッサンと言えば、木炭にパンや練りゴムで黒く重い調子。輪郭線でも引こうものなら「そりゃイラストだろ」と怒られたもの。それが1970年代に「きわ攻め」で輪郭明瞭、明度対比をシャープにしたデッサンが主流になったとか。デッサンと言えば石膏デッサンだが、西洋では石膏デッサンなんてないらしい。

 なんだか絵画の世界はわからない。丁寧な美術館展示に誘われて次はマリー・ローランサンの絵からキュビスム系をお勉強してみる。


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戸山公園のオオタカ、撮ったゾォ~ [私の探鳥記]

taka4_1.jpg ブログの写真を絵に替えたが、今日は特別。昨日昼のこと、かかぁが手に双眼鏡を持って「お前さん、ありゃタカじゃないかい」。あたしはカメラに望遠レンズをセットし、ベランダに出た。向かいの団地の突き出た換気扇箱の上に止るは間違いなくタカ。オオタカ・幼鳥なり。

 鳥撮りを熱心にしていた時分に、明治神宮の森でオオタカ育雛の様子を撮った。新宿御苑上空を飛ぶオオタカを幾度も見た。我が家から戸山公園の木に止るオオタカらしきを見て撮った。遠くて点のよう。カメラ抱えて走ったが、もう見ること叶わず。

 衝撃的だったのが、戸山公園を犬の散歩中に早稲田出口手前で、いきなり足許にバタバタ・ドッスンと何かが落ちてきた。なんと、タカがハトを捉えた瞬間。アッと声を上げる間もなく、カラス二羽が舞い降りてハトの奪い合い。タカがハトを掴んだまま森の中(女子学習院裏)へ消えた。息を飲む一瞬だった。

taka2_1.jpg かくも幾度もオオタカを見ているが、撮らなければ証拠にならぬ。で、ついに撮った。しかも我が家のベランダ(7F)から。

 巣立ち時期は夏とかで、狩りを始めたばかりだろう。果たして獲物のハトは獲れただろうか。

★自分のブログなのに返信できませんので、ここに書きます。「沖の太夫」さんから、オオタカではなくチョウゲンボウとの指摘をいただきました。ありがとうございます。小生はオオタカ(幼鳥)とチョウゲンボウの識別ができません。★あらっ、失礼致しました。愛犬を亡くされたのですね。小生も島へ行く度に同伴していたコッカーを亡くして、大好きだった島の庭に墓標を建てています。


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あぁ悲しき我が姿(安保法) [政経お勉強]

anposaiketu3_1.jpg 19日未明、参議院本会議で安全保障関連法が可決された。採決に先立って民主党・福山議員は「日本はずっと総理大臣や閣僚が、集団的自衛権行使は出来ないとしてきた。戦後70年にわたって守られてきた立憲主義、平和主義、民主主義の歴史を壊して、なぜにこんな法案を通そうと急ぐのか」と述べたが、彼らは聞く耳を持たず。

 さぁ、これで待望の「戦える国」になった。アメリカからの要請はもう断れぬ。アベお坊ちゃんの〝我が軍〟は海外出動し、他国軍支援をし、武器輸送や輸出給油をし、攻撃も辞さぬ。法案の拙速さに加えて、法案を通そうとする手順が酷かった。

 憲法の勝手解釈。これで憲法が信じられぬ国になった。学者が違法と言えば「学者に何がわかる」と言い放った(20日、学者の会171人が「民主主義の蹂躙だ。学問的生命をかけて廃止まで奮闘したい」と声明)。むろん民意など関係なし。法案提出(5月15日)前の昨年12月に、自衛隊総合幕僚長が米軍幹部に「今夏までに安保法案を確約」とか。アベお坊ちゃまも法案提出前の4月30日に、米国議会で同じく「夏までに安保法案成立」と、まぁ、得意満面の大演説。端から日本の国民や議会無視で鼻高々。ったくもう、どうしようもないヤツが総理になってしまった。

 すでに日本は格差拡大、貧困深刻化、中間層解体で資本主義も民主主義も危うくなっている。国の借金1千兆余円。防衛費は約5兆円になったが、今後は戦う国にふさわしく、さらに拡大して行くだろう。アベノミクスは口だけゆえ、絞り取るの先は国民からだ。若者たちには「学費免除」や「奨学金返済免除」などで「経済的徴兵」が進むとも言われ出している。

 いや、日本にはまだ可能性はあるゾ。武器輸出だ。(23日新聞:武器輸出に貿易保険。損失は税金で穴埋め)。産軍複合体が儲け頭になろう(23日新聞:軍事可能研究16大学応募、防衛省予算3億円)。原発もどんどん輸出か。うん、アベお坊ちゃんの年頭所感通り「日本を再び世界の中心で輝く国」になりそうな気がしてくる。アベお坊ちゃんは、今日はゴルフだとか。

 17日の参院・特別委員会の政権側の力で押し切る採決のテレビ映像を観た。議長を守り野党議員を近づけぬよう折り重なって、どこかで見た図だなぁと思った。意は違うが、先日にラフ模写したばかりの藤田嗣治の戦争画に似た図があった。そう思ったら、彼らの姿が大日本帝国軍隊兵士や自衛隊の姿のように見えてきて、こんなカット絵を描いてしまった。描き終わってから、ほくそ笑む「アーミテージ」を描き加えた。

 秋です。観たい美術展がいっぱい。昨日は「府中市美術館・マリー・ローランサン展」を観た。今日は東京国立近代美術館で「MOMATコレクション 特集:藤田嗣治」を観る。荒れた心が癒されましょうか。


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国会前道路封鎖を突破して [政経お勉強]

kokkaidemo1_1.jpg 昨夜の国会前デモは大変だったらしい。雨、隙間なく連なった警察車両、逮捕者13名とか。

 ここでは9月14日デモを、隠居の眼でレポート。地下鉄「国会議事堂前」下車。駅を出ると、デモ主催者側のスピーカーが至る所に設置で誘導された。「本日は大勢の方々が参加されています。ご年配の方、お子様連れの方々もいらっしゃいます。スピーカーの声はどこにいても聞こえますから、無理をしないで下さい。一人のケガ人も出さないのが私たちの願いです」~のようなメッセージ。

 ペンライトが配布される。国会前ライブコンサートでもあるかの感じ。誘導のまま進めば国会前。道路は封鎖され、歩道両脇に座り込む人々。絶え間なく流入する人波。あっという間に歩道は立錐の余地なし。

 6時半に集会開始。次々に演説が流れる。賛同の雄叫び、シュプレヒコール。次第に熱気が満ちる。大江健三郎三さん、声が出ないも老体に鞭打っている。ここでは演説内容は割愛。あたしのお薦めは『現代思想』(10月臨時増刊号「安保法案を問う」)。43名執筆で反対意見が網羅されている。

 道路封鎖柵を挟み、国民と警官のせめぎ合い。「開けろ・開けろ」の声。「過剰警備監視旗」が揺れ、弁護士腕章の女性が走り、看護班、報道と警察のカメラマンが走る。その内に警察車両が続々登場で道路脇を固めだした。こうなると逆に怒りが増す。

 「駐車しちゃダメでしょ。動かしなさいよ」「いや、危険だから」「誰が危険なの。政府は国民を怖がっての過剰警備でしょ」。警官とやり合っているのは元気なオバアさん。60年安保の国会突入を知っている世代だろうか。シュプレヒコールに合せて、鉄柵がジリジリと押し込まれる。昨日、駅売り「日刊ゲンダイ」をみたら、落合恵子が「そこの装甲車の配置は何だ!市民に向けて何やってんだ、おまえたちは!」と叫んでいたとか。

 どこかで突破個所が出来て、国会前道路に人々が流れ込んだ。道路中心を歩き出す人々の、まぁ、うれしそうな顔・顔。未だ突破できぬ人々に手を振っている。遠慮の手に力を入れれば鉄柵などワケなし。人々が一気に国会前道路を埋め尽くした。(昨夜の警察車両はこの日の反省だろう、車両増加で車両間なく詰めて突破防御。これでは怒りは増すばかり)

 埒明かぬ国会だが、ここでは道路封鎖の小さな小さな〝突破〟。国会前道路を埋めた市民のシュプレヒコールが、夜空に響き渡る。例え安保法案が強行採決されようとも、この声は国民主権(国民をバカにするな)、民主主義(この愚かな独裁者め)、立憲主義(憲法を守れ)の声は、こうした行動から全国に広がって行く予感がした。SEALDsの奥田君は中央公聴会で「次の選挙に影響が出るでしょう」と言った。新聞は早くも来夏参院選の落選危機議員のリストを挙げた。(19日、共産党は初めて野党団結すべく選挙協力を打ち出した)。~この辺で終わる。まぁ、こんな絵を描くことになるとは思ってもみなかった。


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梨食へど世情乱れて乙もナシ [暮らしの手帖]

nasi1_1.jpg 毎年、初秋(八月下旬)に千葉在住の姉の嫁ぎ先から千葉の梨「幸水」をいただく。こちらは地元名産なしで〝お返し〟に困る。

 何時の頃からか、最寄り地下鉄の一つ、東西線「早稲田」駅際、夏目坂下の酒屋「小倉屋」(延宝四年開業)発売の吟醸酒「堀部安兵衛」と「夏目坂」と地ビール「早稲田」をセットで送ることにしている。銘酒ではなかろうが、話題になればと思う。

 梨は「うまい!」と声が出たが、もはや異常ではなくなった気象変化(河川氾濫)や政情騒然で、季節を乙に味わう心の余裕ナシだった。

 夕方、梨を喰った後、小便をし、途中のコンビニでペットボトルの水とカロリーメイトを買い込む準備万端で、国会前に行った。


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若者らのウネリに期待して~ [政経お勉強]

abe1_1.jpg 歳を取って偏屈になったか、テレビをつけると 〝嫌いな顔〟が増えた。その結果、観たい番組が少なくなった。〝嫌な顔〟は見なければいいが、我慢しても観なければならぬ顔もある。5月に絵を描き出し、最初に人の顔を描いたのがその〝嫌な顔〟だった。

 5月26日からの衆議院・安全保障関連法審議をテレビで観ていて、その拙速な内容に加え、アノ人はガキみたいに「早く質問しろよ」とヤジるに至って、描かずにいられなくなった。初の似顔絵が似るわけもなく、二度描いた。似なかったが、なにやら傀儡内蔵風に描けたので6月1日のブログにアップした。タイトルは「あぁ、日本が変わって行く」。

 当初は声をあげる人は少なかったが、今はウネリのようになってきている。特に若い層からの動きがうれしい。安全保障関連法の違法性や粗雑さに加えて、アノ人の嘘臭さ、傲慢さに反対の勢いが増しているのだろうう。

 嘘っぽくて信頼できぬ人がトップの会社ならば異議異論、反逆、社を出る人も多かろうが、その〝権力〟にしがみついているのか、牛耳られているのかの議員が約400名もいて、追従政党もいる。振り返れば3.11(原発事故)から政府不信は膨らみ出していた。

 若者たちは「武力対武力」ではなく、より賢者の国へ歩み出してくれそうな気がする。そう期待して、また嘘臭いイヤな奴の顔を描いた。さて、老体に鞭打ち、若者らを応援しに行こうか。


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佐伯祐三5:『素顔の佐伯祐三』と中村彝 [スケッチ・美術系]

tune5_1_1.jpg 山田新一著『素顔の佐伯祐三』の続き。佐伯一家の二度目のパリ生活開始の翌・昭和3年6月に山田もパリへ。すでに佐伯は病臥二ヶ月余。佐伯は画友らの看護の隙に失踪。この辺から死の善後策一手を采配したのが椎名其二(ファーブル『昆虫記』翻訳など)。著者・山田は椎名が記した文が最も正しいとして、自分の注釈も加えて真実を明らかにしている。

 失踪の佐伯が見つからずアパートに戻ると「そこに佐伯君が首の周りから血を流し、青蒼な顔に眼を据えているではないか」。著者山田もその姿を見ているが、後に彼の死を記す多くの文が〝索溝なし〟と真実を隠した。夫と娘の看護に途方に暮れる米子をおもんばかってか、はたまた「自殺」の否定的重み隠蔽が友情という気持ちでかで、真実が見えなくなったと記す。

 山田は椎名氏や佐藤淳一博士と数回病院を訪ね、死の前々日も見舞った。佐伯は断食状態で干からび果て、誰に看取られることなく昭和3年8月16日に世を去った。享年30歳。同月30日に娘・弥智子が小児結核で死去。6歳6ヶ月。これで佐伯祐三の30年の人生がどうにか把握できた。絵をどう鑑賞・評価するかはまた別の問題。

 最後のカット絵は「佐伯アトリエ」近くの<「中村彝アトリエ記念館」スケッチ+未完「髑髏を持てる自画像」一部模写>。さて、佐伯祐三と中村彝の関係は?。中村アトリエ完成は大正5年(1916)。中村に誘われて曾宮一念が大正10年に現・聖母大辺りにアトリエを建てた。曾宮に誘われて同年に佐伯も現・聖母病院北側にアトリエを建てた。東から西へ中村~曾宮~佐伯の順。

 曾宮は中村彝を兄事して彝アトリエに集う画友らの代表格。また東京美術学校西洋画科の佐伯の先輩。曾根は佐伯のアトリエ増築も手伝った。中村彝と佐伯の直接交流は定かではないが、すでに中村の結核は深刻さを増し、ややして佐伯はパリに旅立った。佐伯の第二次パリの際にアトリエの留守番をしたのが鈴木誠で、彼は後に中村彝アトリエを購入。この辺でこのシリーズを終える。以下、参考書籍一覧。

 白矢勝一・吉野邦治『佐伯雄三 哀愁の巴里』、稲葉有『夭折の画家 佐伯雄三と妻・米子』、山田新一『素顔の佐伯祐三』、朝日晃『そして、佐伯祐三のパリ』、落合莞爾『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』、新宿歴史博物館特別図録『差益祐三 下落合の景色』。


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佐伯祐三4:画友著『素顔の佐伯祐三』 [スケッチ・美術系]

uzosaheki1_1.jpg 佐伯祐三関連書5冊目。やっとまとも?な評伝書に会った。山田新一著『素顔の佐伯祐三』(昭和55年、中央公論美術出版刊)。山田は佐伯と同じく上京して東京美術学校を目指して春日町・川端画学校でデッサンの日々からの画友。

 画学生ならではの思い出の数々を回想。そこになんと!大石七分との交流があって驚いた。小生は佐藤春夫邸の設計者として「大石七分」の横顔を探ったことあり。また「大逆事件(幸徳秋水)」関連書も読み漁った。紀州新宮の医師・大石誠之助や菅野スガら12名が処刑、無期刑で獄死5名。誠之助の東京連行に、甥兄弟で米国帰りの西村伊作(後に文化学院創設)と大石七分がバイクで追った。

 同書には、大石七分がその時の赤いバイク「インディアン」を駆って、本郷・菊富士ホテルから川端画学校に通ってい、著者・山田も菊富士ホテルを訪ねたりの交流が語られていた。(註:同書には書かれていないが、大石七分は大杉栄(+伊藤野枝)に誘われて、彼らの隣の部屋に入った)。他に今東光をはじめ後に名を成す多くの青年群像とのまばゆいばかりの青春。(先日、上野で「二科百年展」を観たが、西村伊作の大正2年・第二回出品作「新宮風景」があって驚いた)

 山田・佐伯共に東京美術学校入学。スケッチ旅行のエピソード、米子との恋愛・結婚。佐伯の凝り性、ヴァイオリンの練習・合奏。下落合アトリエ完成後の画友動員での増築作業、はしゃいだクリスマスイブ。卒業後の大正12年9月に関東大震災。16日に甘粕正彦による大杉一家虐殺。その11月に佐伯一家はフランスに旅立った。

 著者・山田は父のいる満州で中学校美術教師。以後の佐伯の様子は画友らの執筆原稿から考察。2年3か月振りに佐伯一家帰国。パリで未燃焼分を埋めようと下落合風景36点を1ヵ月余で書きなぐる。パリの石造りに比す日本風景にもがく佐伯。二科展に19点特別陳列で、夫婦揃って入賞。昭和2年夏、佐伯一家は再びパリへ。今度はシベリア鉄道経由。京城在住の山田宅でしばし休息してパリに向かった。(続く)

 同書に佐伯のスケッチの様子が紹介されていた。概ねこんな感じ。「穂先の固まった筆でたたきつけ、汚れた手を衣服になすりつけ、チューブの蓋はせずに箱へ放り込む。イーゼルも箱も汚れ、彼の立ってゐる地面も絵具で汚れる。ホテル主人は気狂沙汰だと言った」。油彩ならではの描き方だろうから、そんな真似はできぬゆえ、不透明水彩で5分程で再び佐伯アトリエを早描きしてみた。


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佐伯祐三3:白矢勝一『哀愁の巴里』 [スケッチ・美術系]

uzo2_1.jpg 佐伯祐三関連4冊目。今度は眼科医・日本医家芸術クラブ美術部長の白矢勝一著『佐伯祐三 哀愁の巴里』。祐三に惹かれて、医学的見地から彼の死に迫っている。

 佐伯はモランでのスケッチ行で、無理を重ねて心身を壊す。夜中に「医者を呼べ」の叫びで、米子が深夜のパリで医者探し。見かねた巡査が警察医を手配。フランス医が多めのモルヒネを毎日打ったらしい。睡眠状態後に幻覚・精神錯乱。画友らがモンパルナス駅近くのリュ・ド・ヴァングのアパートに集って保護看護。だが脱出・失踪した。翌朝未明、警察よりクラマーユの森で保護の報。

 その場にいなかった画友らの記述、自殺を隠蔽したい妻などによって真実が曖昧になる。著者は日本病跡学会で発表された「精神病院入院資料・死亡診断書」などから検証。「佐伯祐三の死は〝結核による非業の早世〟程度に捉えられているが、実際は精神の異常、自殺未遂、最愛の娘・弥智子の死などの悲劇を伴う友人・知人を巻き込んだ壮絶なものだった」と締めくくっている。

 また最後に「真贋事件」の章を設けて「落合氏の著作以外に〝吉薗周蔵〟の名を目にしたことがないし、「吉薗資料」説は小林頼子特別研究員の仔細調査報告で破綻したと一蹴。

 画家らの評伝書は、かくも魑魅魍魎。たかが絵?に想像絶する高額売買が成立して欲望が渦巻くからだろう。小生のような老人が、隠居の愉しみで覗く世界ではなさそうだ。「あぁ、イヤだ・イヤだ」と思いながら佐伯祐三の似顔絵を描いたが、似ているようで似ていない。ハンサムだが、パリの田舎の荒物屋で作業服を求めて店に入れば、店主につまみだされるような酷い格好をしていたらしい。

 昨日、自転車を駆って東京都美術館「伝説の洋画家たち~二科百年展」を観に行った。藤田嗣治の簡易模写した「メキシコに於けるマドレーヌ」他があり、佐伯祐三作品では「リュ・ブランシオン」(という名の通りの風景画)と「新聞屋」(その店頭の各紙誌の文字満載)が展示されていた。「筆が一番走っているのが佐伯の絵なんだ」と知ったかぶりの男が連れの女に得意げに解説していた。


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佐伯祐三2:稲葉有『佐伯祐三と妻・米子』 [スケッチ・美術系]

yoneko1_1.jpg 今度こそ普通の?佐伯祐三書を読みたい、と手にした三冊目が稲葉有著『夭折の画家 佐伯祐三と妻・米子』(影書房)。だが、これまた読み進むに従って落合莞爾書に沿った小説風仕上げとわかった。後悔したが後の祭り。

 同書は女性の眼で佐伯祐三の妻・米子に迫る展開で、主人公〝杏子〟が下落合の佐伯祐三アトリエ跡を訪ねるシーンから始まる。杏子はかつて米子の手記『悲しみのパリ』を読んで心打たれたことから、改めて米子の実像を探る。

 米子は銀座四丁目に店舗を構えた象牙細工商・池田家の娘。6歳の時の怪我で松葉杖生活。裕福ゆえお抱え人力車で東京女学校や画塾に通った。佐伯の実家・光徳寺の檀家だったことが縁で佐伯と結ばれた。

 佐伯がパリで、巨匠ブラマンクに自信作を見せれば「このアカデミック!」と罵倒されたのは有名逸話。ここで杏子は、祐三『巴里日記』の「焦ったらあかん やぶのゐふとおりや」の〝やぶ〟が吉薗周蔵で、ここから落合莞爾著に沿った展開になる。本を閉じようと思ったが最後まで読んでしまった。

 悩む祐三に米子は「ブラマンクの黒は自分が習った北画(漢画)の黒に近い」と、その技法を祐三に押付け、かつ平筆のレタリングなども併せて原画加筆するようになる。それを嫌って離婚話。米子は祐三の原画500枚の分与を求めるが、祐三は無視。その後に祐三の右手がしびれ、舌がビリビリし、眼がかすみだす。ヒ素被害症状で、祐三は米子が作った食事を食べずに衰弱してゆく。

 祐三死後、米子は周蔵所有の佐伯作品の返還を求め、以後は作品を売ることで暮す。筆者は「あとがき」で「落合莞爾氏の著作に沿って本書を書きすすめた」と正直に記しているが、なんでこんな本を書いたのだろうか。筆者はトーハン元常務で、退職後に執筆活動とか。

 後味の悪い読書だったせいで「佐伯祐三アトリエ記念館」の「米子さんコーナー」がえらく哀しく見えた。米子さんは昭和47年、享年75歳までここで暮したそうな。カット絵は、同コーナー展示の米子さん白黒写真から、勝手彩色で描かせてもらった。美しい夫人です。


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佐伯祐三1:下落合アトリエ [スケッチ・美術系]

usatelier1_1.jpg 下落合の「佐伯祐三アトリエ記念館」公開は5年前。外壁の悪戯書きを見ているから、それ以前に訪ねているように思う。その近くの「中村彝(つね)アトリエ」(廃屋当時)と併せてウォーキングコースにしていた時期があるから幾度も訪ねている。

 中村彝は「伊豆大島」がらみで評伝書や画集を、また「新宿中村屋」がらみで相馬黒光(創業者夫人)関連書も読んだが、佐伯祐三については知らぬまま。20代後半頃のクライアント社長室に佐伯祐三(荻須高徳だったかも)の、文字入りのパリ風景画があったと記憶している。

 先日まで藤田嗣治関連書を読んでいた。藤田が大久保百人町からパリに出発し、四度目の妻マドリーヌが戸塚(高田馬場通りの現シチズンプラザ裏辺り)のアトリエでの怪死も知った。佐伯祐三も同時期にパリへ行き、近くの下落合にアトリエがあるならば、やはり佐伯祐三についても知りたい。

 すでに藤田嗣治関係で落合莞爾『天才画家「佐伯祐三真贋事件の真相』を読んだ。これがまぁ〝とんでもない本〟だった。概要はこうだ。上原勇作(陸軍の雄、加山雄三の曾祖父?)の「草(特務)」として働く吉薗周蔵という男あり。佐伯祐三は大阪光徳寺の次男。同寺は浄土真宗本願寺系で、本願寺門主・大谷光瑞(大谷探検隊、孫文の中華民国政府の顧問など)が佐伯祐三に目をつけた。将来の〝草〟にすべく芸大に入れておきたい。そこで大谷~上原~吉薗へと令が下る。佐伯は絵は上手いが学力不足。周蔵の裏工作で無事入学。

 以来、周蔵はなにかと佐伯の面倒をみた。金がなければ絵と交換で資金提供。さて、藤田の赤毛の妻マドレーヌが戸塚アトリエで死んだ際に駆け付けたのが「救命院」牧野三伊医師。周蔵の表向きは同院精神科カウンセラーで、周蔵も現場へ行けば牧野医師が「病院事務長に報告せよ」。何故かと尋ねれば、事務長は特高諜報員で怪死を穏便処理。

 話を祐三と周蔵に戻す。周蔵は佐伯から絵をもらう代わりに資金提供していたから、周蔵の手元には多数の佐伯祐三作品があった。周蔵が亡き後に娘が佐伯作品を世に出したことで、「真贋事件」へ発展する。ねっ、とんでもない書でしょ。次に読んだのが佐伯祐三評伝の一人者・朝日晃『そして、佐伯祐三のパリ』(平成13年刊)。箇条書きの多い書で、どうやら21年前の自著の誤り検証の書らしい。

 以上、変な佐伯祐三関連書を読んでしまったので、ここらで仕切り直しと「佐伯祐三アトリエ記念館」を訪ねてみた。久しぶりの風景スケッチ。オタオタ描いていれば佐伯画伯の声が聞こえた。「スケッチはなぁ、気持ちを込めてパパッと描くんだよ」。瞬間芸のようにもう一枚描いたがアップは後ほど。彼のサインは「UZO SAHEKI」らしい。


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