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佐伯祐三2:稲葉有『佐伯祐三と妻・米子』 [スケッチ・美術系]

yoneko1_1.jpg 今度こそ普通の?佐伯祐三書を読みたい、と手にした三冊目が稲葉有著『夭折の画家 佐伯祐三と妻・米子』(影書房)。だが、これまた読み進むに従って落合莞爾書に沿った小説風仕上げとわかった。後悔したが後の祭り。

 同書は女性の眼で佐伯祐三の妻・米子に迫る展開で、主人公〝杏子〟が下落合の佐伯祐三アトリエ跡を訪ねるシーンから始まる。杏子はかつて米子の手記『悲しみのパリ』を読んで心打たれたことから、改めて米子の実像を探る。

 米子は銀座四丁目に店舗を構えた象牙細工商・池田家の娘。6歳の時の怪我で松葉杖生活。裕福ゆえお抱え人力車で東京女学校や画塾に通った。佐伯の実家・光徳寺の檀家だったことが縁で佐伯と結ばれた。

 佐伯がパリで、巨匠ブラマンクに自信作を見せれば「このアカデミック!」と罵倒されたのは有名逸話。ここで杏子は、祐三『巴里日記』の「焦ったらあかん やぶのゐふとおりや」の〝やぶ〟が吉薗周蔵で、ここから落合莞爾著に沿った展開になる。本を閉じようと思ったが最後まで読んでしまった。

 悩む祐三に米子は「ブラマンクの黒は自分が習った北画(漢画)の黒に近い」と、その技法を祐三に押付け、かつ平筆のレタリングなども併せて原画加筆するようになる。それを嫌って離婚話。米子は祐三の原画500枚の分与を求めるが、祐三は無視。その後に祐三の右手がしびれ、舌がビリビリし、眼がかすみだす。ヒ素被害症状で、祐三は米子が作った食事を食べずに衰弱してゆく。

 祐三死後、米子は周蔵所有の佐伯作品の返還を求め、以後は作品を売ることで暮す。筆者は「あとがき」で「落合莞爾氏の著作に沿って本書を書きすすめた」と正直に記しているが、なんでこんな本を書いたのだろうか。筆者はトーハン元常務で、退職後に執筆活動とか。

 後味の悪い読書だったせいで「佐伯祐三アトリエ記念館」の「米子さんコーナー」がえらく哀しく見えた。米子さんは昭和47年、享年75歳までここで暮したそうな。カット絵は、同コーナー展示の米子さん白黒写真から、勝手彩色で描かせてもらった。美しい夫人です。


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