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Windows10から8.1に戻す [暮らしの手帖]

windoeskaki_1.jpg ここ最近、パソコンを起動すると「Windows10無料ヴァージョンアップのお薦め」が立ち上がった。昨年2014年3月に新パソコン「HP pavilion」にした際に「Windows8.1」になり、それに慣れた頃。老人ゆえ「新機能」より「慣れ」重視。〝新機能は結構です〟と無視してきたが、〝予約・無料〟にひかれて、ついクリックしてしまった。

 かくして「Windows10」になった。よく使う「フォト」アプリを開く。おぉ、使い勝手が良さそうな。フムフム、ここは〝マニュアル本〟が必要かも。さっそく新宿「ビックロ」地下「ビッグカメラ」パソコン書籍コーナーで『できるWindows10パーフェクトブック』を購った。1480円+税也。同店を出て次に「世界堂」で水彩用紙と今まで持っていなかった形状の水彩筆5本を買った。老人にも訪れた〝新しい秋〟の始まりです。

 が、そうは問屋が卸さなかった。どこをいじったか「お気に入りリスト」が消滅していた。改めて最初に登録したのが新宿図書館の蔵書検索サイトで「あぁ、これが俺の生活なんだ」と改めて認識した。そうこうしているうちに、今度は「スリープ」「シャットダウン」からパソコンが立ち上がらなくなった。モニター故障かと思ったがそうでもない。突然のパソコンなし生活。息子に「ヘルプ」。「ダメだよぅ、新しいもんにすぐ飛びついちゃ。まずは不具合が多いのだから」と旧ヴァージョン復旧で、パソコンが動き出した。

 パソコンなし生活で、読書と絵を描く日々。目下の読書は藤田嗣治から佐伯祐三関連書に移っていて5冊ほど読んでいる。その中の一冊に「彼の絵の特徴はパリの街並みの壁やポスターに書かれた文字だが、実は佐伯はこれが不得手で、妻・米子が平筆で描き加えていた」なる記述があった。つまり佐伯絵画は夫婦合作で、そんなところから真贋事件も起こり、佐伯の早過ぎる死も招いたとあった。

 藤田嗣治と同じく佐伯祐三関連書もそれぞれ内容が大きく異なる。詳細は謎多しだが、30歳にして体調不良(結核)、精神異常、自殺未遂、病死。それを追うように14日後、6歳の娘・弥智子を小児結核で亡くすという事実は変わらない。晩年のパリは重く暗い。パソコン不具合ならば、従来ヴァージョン復旧でやり直せるが、狂い始めた人生のリセットは難しい。そんな事を思いつつ、佐伯祐三風バック色?に平筆で不透明水彩のパーマネントホワイトで「Windows10」と描いてみた。


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藤田嗣治7:レオナルド・フジタ巴里で死す [スケッチ・美術系]

fujitaneko2_1.jpg パリはすでに「エコール・ド・パリ」の熱気は失せていたが、藤田は意欲的に制作に没頭。1950年に戦後のパリで個展。ピカソが駆けつけた。藤田への評価は再び確かなものになる。描く絵に少女や人形も多くなり、版画や挿絵の仕事も増えた。1954年、パリの役所で君代夫人と結婚式。翌年にフランス国籍を取得。そして1959年にカトリックの洗礼。レオナルド・フジタになった。
 
 1961年、パリ郊外の田舎ヴィリエ・ル・バクルに移住。古い農家を終の棲家として、心静かに精神世界を深めて宗教画を描き出す。絵に疲れれば大工仕事や小物作り、また村の子供らと遊んで心を癒す。最後の仕事は。マティスがそうだったように礼拝堂を建てること。

 ランスのシャンパン王の土地提供を得て、自ら設計の礼拝堂造りに着手。80歳の老体に鞭打ってフレスコ画制作。1966年8月に「ノートルダム・ド・ラ・ペ 平和の聖母礼拝堂」完成。スイス・チューリッヒ州立病院で81歳の生涯を閉じた。現在、藤田夫妻が暮らした田舎家は「メゾン・アトリエ・フジタ」の記念館(歴史建造物)となって保存されているそうな。
 
 最後のカット絵は、やはり「猫」で締めくくるべきだろう。初めて「猫」を描いたが難しい。ほんわかした毛並を描くにも根気がいる。描き終わってからほんわかし過ぎたのでボールペンで描き足したら、剛毛の猫になってしまった。描きながら「猫」と「描」は似ている字だと気付いた。
 
 描き終わってから世界堂を覗いたら、穂先の短い平筆の大~少を見つけた。これで掃くように描けば、一度で毛並が描けそうで買った。また藤田の真似をして面相筆も買ってみた。
 
 <藤田嗣治参考書>田中穣『評伝 藤田嗣治』、近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』、野原かの子『藤田嗣治 パリからの恋文』、矢内みどり『藤田嗣治とは誰か』、林洋子監修・著/内呂博之著『もっと知りたい 藤田嗣治 生涯と作品』、画集『生誕120年 藤田嗣治展』、落合莞爾『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』及びネット公開文、当時の朝日新聞など。
 
※藤田嗣治関連書は、それぞれ異なる部分が多多で、このシリーズではそれら著作群より自分流取捨で勉強させていただいた。肝心なのは評伝ではなく絵の鑑賞だろうが、実際の作品には滅多にお目にかかれない。

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藤田嗣治6:戦争画責任を押付けられ [スケッチ・美術系]

attutou2_1.jpg 1937年(昭和12年)、2月21日より174時間を要して秋田で大壁画を完成。この年、日華事変、翌年10月、従軍画家として漢口攻略戦を取材。「漢口突入の光景」など制作。

 従軍画家がイヤになったか、藤田夫妻は1939年にモンマルトルのアトリエ村に戻って制作没頭するも、第二次大戦勃発。翌年、慌ただしく帰国。喜望峰をまわる船上でパリ陥落の報。危機一髪だった。

 帰国後、オカッパ頭から角刈りに。ノモンハン事件の絵を依頼さる。戦車に銃剣で挑む兵を描いた「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」。公開せぬ秘蔵絵は、日本兵の死体累々の阿鼻叫喚、悲惨さを描いた作品で行方不明。

 1941年5月、画壇の錚々たる顔ぶれが揃う帝国芸術院会員に推挙さる。土門拳が撮影でアトリエに日参。12月、真珠湾攻撃。この時、藤田は従軍画家としてサイゴンにいた。翌年、シンガポールから東南アジア各国へ派遣され、1943年に迫力と臨場感満ちる傑作「アッツ島玉砕」を完成。

 1944年秋、神奈川県小淵沢村藤野(相模湖の奥)に疎開。最後の戦争画「サイパン島同胞臣節を全うす」を描く。矢内みどり著では「1937年のピカソ『ゲルニア』を意識し、戦争の悲惨さを訴えるべく描いた」。画集『藤田嗣治』で尾崎正明は「彼はドラクロアを熱く語っているゆえ、戦争画ではなく歴史画、絵画として後世に残る絵を描こうとしたと考えても不思議がない」。

 1943年終戦。1946年からGHQによる軍事裁判開始。戦争画でも戦争協力者探しが始まった。「暗い雨の一日」事件。日本美術会の書記長が雨の日に藤田宅を訪ね「陸軍関係の戦争画を描いた代表になってくれ」と言ったとか。この辺の真実は謎だが、狭量姑息な画壇を語るエピソード。だがGHQは藤田を戦争協力者に当たらぬと断。藤田の日本への気持ちがプツンと切れた。

 1949年3月、日本と決別すべく渡米。君代夫人も追うように日本を後にし、アメリカから終の国フランスへ。日本脱出のまずはアメリカビザ(査証)発給に力を貸したのは誰か。諸説あるも矢内みどり著では「フランク・エドワード・シャーマンと戦後」なる章で詳細記述あり。カット絵は「アッツ島玉砕」一部だけをラフ模写。(追記:左の顔に手を突きつけられつつ剣を突き出す兵士絵は、ダ・ヴィンチの素描やラファエロの壁画にもあって、藤田がそれを参考にしたらしい。9月19日から開催の「東京国立近代美術館/特集:藤田嗣治」で、原画が展示されて、参考元の画像も紹介されていた)。


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藤田嗣治5:高田馬場でマドレーヌ夫人急死 [スケッチ・美術系]

fujita4fuji2_1.jpg 藤田夫妻がパリ帰国後、ユキ夫人がシュールレアリスムの詩人デスノスと不倫。1930年、藤田は「カジノ・ド・パリ」の赤毛の踊り子〝雌豹〟ことマドレーヌとアメリカから中南米各国への旅に出た。インカやマヤ遺跡を訪ね、各国で個展を開催しつつ2年余の大旅行を経て、1933年(昭和8)11月に2度目の帰国。

 図書館で当時の朝日新聞を見た。帰国前日の16日に記事あり。内容は概ね次の通り。「世界的な藤田画伯は、パリから南北両アメリカに渡って各地で絵行脚を続けてゐたが、新夫人同伴で明日帰朝する。これは退役陸軍軍医総監・藤田継章翁の八十の賀に列席のため」。そして淀橋区百人町1の30の藤田家の談話を紹介。

「当分は日本に滞在して親孝行がしたいと言っていたから、その通り実行するのでせう。アメリカで描いたスケッチが沢山たまってゐて、東京で落ち着いてまとめたいと言ってゐる。今度連れてくる家内は前のユキと別です。女房運が悪くて困ったが、今度のマドレーヌは好さそうだ、といってゐます」。

 翌日の帰朝記事13行は割愛。田中穣『評伝藤田嗣治』にはマドレーヌについて、とんでもない記述があった。「彼女はアメリカの実業家の妾だが、彼がやくざな人間とわかり、たんまりせしめていた金とダイヤを頂戴して南米に逃げた。モルヒネ中毒で、その手配もした」と大富豪・薩摩治郎八の弁を紹介。

tigukafujita1_1.jpg 藤田夫妻は大久保百人町の父の家ではなく、何故か二番目の姉やすの嫁ぎ先、高田馬場の中村緑野(陸軍軍医総監)宅に寄寓(新聞記載の住所は「戸塚町3の963」。現・早稲田通り「シチズンプラザ」の裏辺りだろう)。藤田はややして、同邸裏庭にメキシコ風建築のアトリエ(2LDKS)を建築。腰を据える積りだったのだろう。

 田中穣著には、こんな記述もあり。東北の若い富豪・平野政吉の談として「アトリエを訪ねると、マドレーヌが素裸で生活。藤田はそうして生きた姿を観察、スケッチしている。やはり天下の藤田は凄い」。だがマドレーヌが一時帰国中に、藤田は日本橋の料亭仲居で純日本風の堀内君代と親しくなって、四谷左門町に愛の巣を構えた。

 パリでこれを知ったマドレーヌが急きょ帰国してひと悶着・ふた悶着。そして事件勃発。なんと1936年(昭和11年)6月、マドレーヌが戸塚の家で急死。翌日の朝日新聞は「戸塚の自宅で就寝中午前三時頃脳血栓を起し急逝した」。近藤史人著では「コカイン中毒で急死」。湯原かな子著では「アルコールと薬物で心身を冒されて極度の精神衰弱を病んでいた。自殺説から他殺説までさまざまな風説が飛び立った」。田中穣著では「庭の芝生に散水中に禁断症状の説、ひとり浴槽につかっていての説あり。警視庁詰めの記者団から、死因を究明せよという抗議のまじった要望があったとも伝わる」。騒いでも陸軍軍医総監宅である。陸軍の闇は深くどうにでも処理できる。

 さぁ、大変。同家で葬儀を終えると、辛い思い出の戸塚アトリエ宅にはもう住めない。1937年に麹町区下六番地に純和風の家を新築した(この地は島崎藤村の隣地で、帰国後も二人の交流が続いていたことをうかがわせる)。ここで共に暮すは、記すまでもなく24歳下の堀内君代夫人だった。

 なお、『天才画家「佐伯祐三」の真贋事件の真実』を著わした落合莞爾のネット公開文によれば〝陸軍の裏側を見た吉薗周蔵〟なる人物が佐伯祐三、薩摩治郎八、甘粕正彦(大杉栄一家殺害)などと絡んでいて、周蔵が残した文章から、こう記していた。「(マドレーヌの死は)モルヒネ中毒が進んで入浴中に死んだ。牧野医師が駆けつけた時は、もう手遅れであった。何しろ変死、しかも外人である。牧野は、布施一の処に行って善処を頼めという。布施さんにどういう力があるかと聞くと〝行って話せばわかるよ。特高の諜報部だよ〟と言われ、周蔵は眼を剥いた」とあった。他に藤田嗣治の裏の顔も記している。マドレーヌの死が高田馬場なら、佐伯祐三アトリエ保存記念館は下落合、大杉栄一家が憲兵・甘粕に連れ去られたのは百人町。陸軍の闇が絡んでいる。


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藤田嗣治4:ユキ同伴で17年振りの帰国 [スケッチ・美術系]

hentuguji1_1.jpg 藤田は「パリ狂乱」の寵児。乱痴気騒ぎに加わるも、人知れずアトリエに戻って絵の精進。そんな真面目さに妻フェルナンドは飽きて、若い日本人画家と不倫。これ幸いに21歳の可愛いバドゥが三人目の妻になる。肌が白いので「ユキ」と命名。若い時分には食えぬ画家らの最初の妻は概ねしっかり者の年上で、売れてくると若い女に走る。これ、画家のパターンらしい。

 1925年、ドゴール勲章とベルギーからレオポルド一世勲章を受章。豪邸住まい。パリでは日本人と見ればタクシー運転手も子供らも「フジタ・フジタ」と発する大人気。これに反発する日本人画家がいないわけもない。

 パリ留学の日本人画家の多くが洋画習得一途で、オリジナリティー発揮に至らない。それでも帰国すれば、パリ留学の箔で画壇本流グループに身を置ける。比して藤田は端からパリで評価を得るのが第一の目標。そこから「面相筆の墨の輪郭と乳白色の肌」の域に到達した。

 藤田人気を妬む輩は「ピエロ、宣伝屋、フランス人への媚び、日本の品位を貶めている」。羨望の裏返しだな。パリ滞在17年を経た1929年(昭和4年)、藤田はユキ同伴で初帰国。大衆はヒーローとして迎えるも、パリで高評価の作品が日本に持ち込まれれば、日本画壇で築いた地位や権威崩壊を危惧した画伯もいただろう。藤田を無視するか、いや陥れるか。いやだねぇ、藤田に嫉妬の渦が蠢いている。

 素人なりに解釈すれば、北斎も多視点で描いていた。広重のディフォルメも素晴らしい。多くの絵師等がシュールレアリスムとは云わずも超現実作品を描いていた。絵が庶民の側にあって、体制へ反抗ゆえに表現もあの手この手と自在だった。しかし明治大正に何故か画壇形成で権威主義。すなわち日本的アカデミズムの弊害。アートに最も大切だろう柔軟さ、自由を失った。これでは新しい絵画は育たない。

 人気と拒否。藤田は複雑な気持ちで翌年早々にパリへ戻った。アメリカ経由のパリ行き。横浜港出航船が「大洋丸」と知って驚いた。私事だが祖父に同船乗組員時期あり。幼児期にサンフランシスコ港の「大洋丸」デッキで写された祖父の船員服写真を見つつ、将来の夢は〝外国航路の船員〟だった。祖父は「大洋丸」で藤田夫妻に逢っていたや。

 カット絵は、藤田版画に面白い二作を見つけたのでその説明図。一つは自転車を漕ぐ両足がこっち側。これでは漕げない。もう一つは「ユキ」を描いた絵で、頬杖の手の形がどうもおかしい。


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藤田嗣治3:パリの交流録 [スケッチ・美術系]

fujitaparis1_1.jpg 近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』より、藤田の画家らとの交流から「エコール・ド・パリ」の様子を探ってみよう。藤田がパリの地を踏んだ1913年(大正2年)は印象派からキュビスム、シュールレアリスムの時代に突入していた。

 すでにピカソもマティスも大家で、ヴァン・ドンゲンも邸宅暮し。藤田が同邸の夜会へ行けば、老案内人が客からのチップをポケットに入れてい、それが実はドンゲンで、悪戯好きの二人は意気投合。日本人画家では川島里一郎と親交。川島がギリシャ舞踊を習っていて、共にギリシャ衣裳でパリを闊歩。

 41歳の島崎藤村もパリに来た。彼は藤田と同じく「百人町」の在住時に愛児三人と妻を亡くして前述「長光寺」へ埋葬。その後、姪・こま子を妊娠させて日本を脱出。妻を「百人町」に置いたままの藤田と交流を重ねた。(追記:大正3年1914年の寄せ書きが、2019年6月に初公開。そこに「東京大久保百人町30」と記されていた)

 藤田はピカソのアトリエを訪ねた後で、パリ印象派を学んで画壇重鎮の黒田清隆ご指定の絵具を叩きつけたとか。第一次世界大戦勃発で人々が去ったパリで最後まで絵に精進。アパート隣室はハイム・スーチンで、藤田は彼を膝枕で虱を取るのが恒例。そのまた隣がモディリアニで、彼がカフェでキスリングと喧嘩をすれば仲裁役になった。藤田は1日14~18時間も一心に絵筆を握って、気付けば髪が顔を覆い、バッサリと切れば、あのオカッパ頭になった。

 1917年、年上で姉御肌のモデル、フェルナンドと結婚(7年間)。彼女の尽力もあって安価ながら画商もついた。同年初夏に第1回個展。ピカソがそれら絵の前で立ち尽くした。この時期はキュビスム、アールデコ風にもトライ。戦火厳しくなって、画商手配で南仏へ。同行は藤田夫妻、モディリアニと恋人、スーチン。同地で76歳のルノアールを訪ねた。

 1918年11月、3度目の個展。収入急上昇。翌年再開の「サロン・ドートンヌ」に6点入賞。藤田の「私の部屋 目覚まし時計のある静物」がフランス国立近代美術館へ、「自画像」がベルギー王立美術館へ。また「キキ」モデルの「裸婦」で、あの「面相筆の墨の輪郭線+乳白色の肌」を完成。名実ともにパリ画壇の寵児。カット絵は藤田嗣治の仲間らモディニアニ、ヴァン・ドンゲン、ハイム・スーチンの絵を不透明水彩で描いた。


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藤田嗣治2:エコール・ド・パリ [スケッチ・美術系]

picasso1_1.jpg 藤田嗣治が新婚新居「百人町18」からパリに旅立ったのは1913年(大正2年)。パリのアートシーンは「エコール・ド・パリ」全盛期。小生の絵画趣味は最近ゆえに「エコール・ド・パリ」を知らず。

 先日読んだ池田満寿夫の書に、憧れのピカソ「洗濯船」を見学するも面影なしと記されていた。竹久夢二「黒船屋」がヴァン・ドンゲン「黒猫を抱く女」の剽窃。別の著者はそれをマリー・ローランサンと間違えて記していた。そのピカソもドンゲンもローランサンも「エコール・ド・パリ」の画家。やはり少しはお勉強しておきたい。

 「エコール・ド・パリ」は1900年代初頭から1930年に世界中からパリに集まって新しいアートを生んだ芸術家らの総称。間に世界第一次大戦を挟むも、彼らは貧しさの中で新たな絵画を模索し続けた。まず1904年にピカソがパリはムーラン・ルージュのある歓楽街モンマルトルの集合アトリエ住宅「洗濯船」に入居。その名は、詩人ジャコブがセーヌ川の洗濯船と同じく歩くとギシギシ軋むことから命名とか。ここでピカソはあの「アヴィニヨンの娘たち」などキュビスム作品を生んだ。

 「洗濯船」では詩人アポリネールが60歳のルソーを認めて〝夜会〟を開催。他にヴァン・ドンゲン、ブラック、レジェ、モディリアーニ、パスキンらもモンマルトルに集まっていた。しかし同地の観光化で、彼らはモンパルナスに移住。ピカソも1912年に同地へ移住。

 モンパルナスには1910年頃から「ラ・ルージュ」(パリ万博で使われた建物を集合アトリエに改造)にシャガールなどが入居。「シテ・ファルギエール」(貸室12、貸アトリエ20)に藤田嗣治ら日本人画家やモディリアーニ、スーチンらが入居。近くのカフェは彼らアーティストらで賑わった。

 「エコール・ド・パリ」の代表格には他にキスリング、オルロフ、ザッキンなど。マティスはすでに大家で、自宅アトリエで画塾を開設。画家のほかに詩人ジャン・コクトー、作家ヘミングウェイ、作曲家ガーシュイン、かのヘンリー・ミラーも書けずに酔い潰れていたかで〝狂乱の時代〟を彩っていた。大雑把だが、にわか美術趣味にはこの辺でヨシとしようか。

 美術書を読むと、画像なしでその絵を論じているケースが多々で、理解し難い場合がある。そこで「あぁ、教科書にあったあの絵か」と思っていただけるようラフ模写してみたが、著作権的にはこれでも不可か。

 ※キュビスム(英語はCubism=キュービシム)は従来の一視点ではなく対象を多角度で捉えようとする立体派。ドイツのカンディンスキー(またはバウハウス)の抽象画などと、その後のモダンアートの出発点になった。


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藤田嗣治1:百人町からパリへ [スケッチ・美術系]

hyakunicyo3_1.jpg 5月GWに絵を描き始め、併せて初めて画家にも関心を持った。エロチックな池田満寿夫、贋絵師・横尾忠則、女ったらし竹久夢二を読み、さて次に誰を読みましょうか。竹久夢二「黒船屋」が「エコール・ド・パリ」のキース・ヴァン・ドンゲン「猫を抱いた女」の剽窃と記したから、猫を描いた画家・藤田嗣治に参りましょう。

 関連書を読み始めたら、端から食い付きたくなる記述あり。彼がパリに旅立った地が「百人町18」とあるではないか。それはどこだ。藤田は美大卒業制作に房州へ行き、そこで「鴇田とみ」(女子美卒後に東金女高の教員)に恋して駆け落ち・結婚。結納が1910(明治43)年。藤田の父は陸軍軍医総監(森鴎外の後任)。大久保に居を構えてい、その近所にアトリエ付き新居を作ってもらった。

 「百人町18」とはどこだ。現・百人町には1~4丁目の区分あり。かつて岡本綺堂の百人町在住期を調べた。それは大正13年で「百人町301番地」。うむ、大正期の住所だな。「国会図書館の近代デジタルライブラリー」の「東京市及び接続郡部地籍地図」(大正元年11月発行)があった。

hyakunincyo18_1.jpg 該当は下巻「大久保村大字百人町字南通」。クリック、そして拡大。おぉ、なんということでしょうか。はっきりと「藤田嗣治」記入地(赤斜線部分)があるじゃないか。位置は淀橋「浄水場引込線」と「甲武鉄道」の合流点西側。

 ここで東京都水道局編『淀橋浄水場史』を読む。浄水場本工事に先立つ明治26年に、材料運搬用鉄道(軽便鉄道)を甲武鉄道より分岐線で付設。大久保~淀橋間275間(500㍍)。明治28年5月に「大久保停車場」開業。その後、甲武鉄道の電気列車運転で分岐線は危険ゆえに引込線を「大久保駅」まで路線延長。浄水場の石炭、砂などの輸送に使用。昭和9年に引込線撤去。

 再び当時の地図を確認。引込線と甲武鉄道の合流点のちょい北東に「長光寺」(島崎藤村が同寺に愛児三人と妻を埋葬。その後に姪を妊娠させてパリに逃亡。藤田と藤村はパリで交流している)あり。寺前は現在拡張されて「職安通り」。つまり山手戦や中央線に乗って新宿~大久保(新大久保)間の大ガードと職安通りの間を走っている時に、車窓西側眼下を見れば、その辺りが藤田嗣治「百人町18」のアトリエ付き新婚新居があった地だ。

 彼はここからパリに旅立った。そう思うと、なにやら藤田嗣治が身近になってきた。当初は妻「とみ」も旅立つ予定だったが、父の看病と自身も身体を壊すなどするうちに第一次大戦勃発で渡仏叶わず。藤田が「とみ」に宛てた書簡は179通とか。だが、その後に藤田は女と同棲。離婚に至る。百人町に加えて、藤田の生まれは牛込新小川町(神楽坂上の飯田橋寄り)で、新宿には縁が深い。

 藤田の新婚新居の位置特定は、藤田嗣治関連書や新宿の文化人在住記録にもなく、これは初の位置特定かも。湯原かの子『藤田嗣治 パリからの恋文』表紙に二人の挙式写真あり。本文には新居縁側で寛ぐ夫妻の大よそこんな感じ(カット絵。滲まないというセーラ―「極黒」で描いたら、ご覧の通り滲んだ)の写真も掲載されていた。地図の赤斜線に「藤田嗣治」の記入あり。合流点右の縦赤線が現・職安通りで、左の縦赤線が現・靖国通り。(藤田嗣治関連資料はシリーズ最後に一覧する)


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懐かしのランクル40幌タイプ [暮らしの手帖]

land1_1.jpg 「おまいさん、こんな写真が出てきたよぅ」。かかぁが差し出す色褪せた写真に「ランクル40ショート幌」が写っていた。あたしは奥手で、30歳過ぎに高校生らに混じって自動二輪中型免許を取った。ヤマハXJ400なるアメリカンタイプのバイクを購い、即!北海道ツーリングに旅立った。乗用車免許はその後で、四駆「ランドクルーザー40系ショートの幌タイプ・紺色」を求めた。

 写真は運転席上部、後部の幌を巻き上げた状態。そのうちに幌もドアも外した。駐車場にはすっぽりとシートで被ってと、まぁ面倒臭いことをしながら乗っていた。

 車を描くのは初めて。緊張して手が走らぬが「ここはこうだったよなぁ」と細部を思い出しつつ描いた。そう、助手席を外して競技用トライアルバイクを積み、何度か参戦したことも思い出した。そしてトヨタタウンエースから再びランクル60系に乗る。

 写真には今は女児の父親になっている息子の、小学低学年頃の姿も写っていたので、そのまま描いた。残り少ない人生で、思い出ばかりが収拾できぬほどに膨らんでくる。


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老いた夏髭剃り泡と化粧液 [暮らしの手帖]

higesori2_1.jpg 「んたくもぅ」。そろそろ寿命が尽きる歳ってぇのに、初めて髭剃り前にシェービングクリームの泡を塗り、剃った後にスキンコンディションの乳液を使う仕儀に相成候。この歳になるめぇ前の髭剃ってぇもんは、そだなぁ、顔にバッと水ぶっかけて、ジョリジョリと髭を剃っておしめぇだった。それば、老人になるとお肌が柔になったか衰えたかで〝髭剃りアレルギー〟への対処が必要ってざまになってきやがった。

 脛だってそうでぇ。冬になるってぇと乾燥肌になりゃぁがってボリボリと痒くなる。そんでまぁ、ご婦人方がなさっているように、風呂上りに保湿剤なんかを脚に塗るはめになってしまった。で、あんたぁ、これで痒みがピタリと止まるてんだから、女みてぇだが保湿乳液をヌルヌルと脚に塗るのが習慣になっちまった。

 髭剃りの泡と乳液を描き始めて、ハタと困った。〝白い乳液〟と〝ガラスのテカり〟をどう描いていいものか。透明水彩だと共に「画用紙の白を残す」んだが、乳液はミルク色。チャイニーズホワイトをベタッと塗りたいところだったが、こう誤魔化した。老いた身体も水彩も、誤魔化し誤魔化ししねぇとやっちゃいけねぇ。


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「夢二・晴雨・お葉」関連書雑感 [スケッチ・美術系]

kikufujioyou1_1.jpg 〝責め絵〟の伊藤晴雨と竹久夢二とお葉について、関連書それぞれ記述違いが多いゆえ、今回はそれらの検証。まず間違いの指摘。尾崎左永子著『竹久夢二抄』(1983年刊)にこんな一文あり。

「夢二の代表的作品といわれる『黒船屋』は、抱いている黒猫の前足から女の右手の指の形まで、マリー・ローランサンの絵とそっくりだという点でもよく知られているが、この顔立ちは彦乃である」

 嘘おっしゃい! ローランサンに黒猫を抱く女はなく、正しくは前回記した通りキース・ヴァン・ドンゲン。加えて顔立ちは彦乃(=丸顔)ではなくお葉。竹久夢二を書く方が、数行に核心的間違いを二つも犯している。

 お葉が夢二に会う前まで〝責め絵師・伊藤晴雨〟のモデル、愛人だったという記述は、概ね伊藤晴雨の文章、またそれらを編集の福富太郎著『伊藤晴雨自画自伝』からの引用が多かった。その一例を紹介すると~

「私が関係を結んだ女は、秋田生まれの俗称〝嘘つきおかね〟という女で、故・藤島武二氏の専属モデルで、私が大正五年から七年頃迄三ヶ年打っ通しに使った女で(中略)~此女は後に竹久夢二君が、私の手から奪い取ってしまった」

 もう一文。「それ以前から私に情婦が出来て居た。東京美術学校に通って居たモデルで、俗に〝嘘つきお兼〟で通って居る兼代という女で、五年ばかり関係を続けた。~中略~秋田産れの、東北美人系の瓜実顔で~中略~五年間にこの女を写生した画稿が積んで山を成して居たが、戦火に焼かれて、今は一枚も無くなってしまった」

 そして同文紹介の福富太郎は「晴雨は話をおもしろくする旺盛なサーヴィス精神があったようで、〝お葉さん愛人説〟の一件も、素直に信じていいのかどうか」と結んでいた。この辺は〝お葉〟に焦点を絞った金森敦子『お葉というモデルがいた』にしても、これら引用にとどまり、真実に迫る取材がなされていない。

 夢二が早稲田実業生だった頃は平民社に出入りする社会主義者で、その辺は荒畑寒村『寒村自伝』が記しているが、画家の世界になると、かくも曖昧な書が多いのはどうしてだろうか。また〝夢二伝説〟は早稲田実業、雑司ヶ谷、鶴巻町、戸山町(姉が在住?)など、意外にも我が近所での展開多しと改めて認識した。

 追記)伊豆大島・三原山「もく星号墜落」を記した弊ブログでは、辻潤の息子・辻まことや竹下夢二の息子・竹下不二彦らが昭和12年頃に金鉱探しに夢中になっていたことを記している。

 なお絵は、竹久夢二が大正8年に菊坂(本郷)菊富士ホテルの自室で撮ったというモノクロ〝お葉〟写真から、色付きで描いてみた。

 以上3回に亘った竹久夢二の参考書:小川晶子『もっと知りたい竹久夢二~生涯と作品』、栗田勇『竹久夢二写真館〝女〟』、尾崎左永子『竹久夢二抄』、河出書房新社刊『生誕130年永久保存版 竹久夢二』、伊藤晴雨著・福富太郎編『伊藤晴雨自画自伝』、久世光彦『へのへの夢二』、金森敦子『お葉というモデルがいた』。


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夢二と荷風の写真機 [スケッチ・美術系]

yumejikafu2_1.jpg 竹久夢二に興味のなかった2年前のこと。自転車で両国橋を渡って左折、横綱町公園の「復興記念館」に入った。夢二の「関東大震災スケッチ」展示中だった。〝塗泥(とたん)の苦しみ〟の人々に向けて悠長にスケッチブックを広げたか、と思った。

 だが今、夢二は写真好きと知った。震災惨状はカメラで撮って、そこから絵を描いたかもと思った。夢二は二千枚もの写真を遺したそうな。栗田勇『竹久夢二写真館「女」』なる書あり。夢二はどんなカメラで、何を撮っていたのだろうか。

 同書掲載の写真は、ほとんどが〝お葉〟だった。ヌード写真が幾枚もあった。最初の妻・たまき、19歳の彦乃は八枚づつ。たまきは知的で勝気。彦乃は丸顔。お葉は夢二が描く瓜実顔、八の字眉、なよっとした身体付き。夢二は己が描く女に似たお葉を得て、夢中でシャッターを切った感が伝わってきた。

 どんな写真機を使っていたか。同書に「カメラを構える夢二」の写真があるも不鮮明で機種特定は出来ず。夢二とお葉の出会いは大正8年。当時の写真機を調べると、ライカ市販は大正14年からで、それ以前の写真機ならば「イーストマン・コダック」の初ロールフィルム・カメラかもしれないと推測した。

 ネット検索したら大正4年に「ベスト・ポケット・コダック」が輸入されて写真が流行とあった。その後に国産奨励施策で、舶来材料で国産模造の「パール・コダック」が発売。同機は昭和8年頃まで改良機が発売された(小生のオヤジも、それらしいカメラを持っていた)。

 尾崎左永子『竹久夢二抄』に「不二彦(夢二の子)によれば、夢二の愛機はいわゆる「べス単」(小生註:大正1年~15年に180万台作られた初のロールフィルム使用の蛇腹式ポケットカメラのベストセラー)であったという」なる記述あり。小生推測は概ね当たっていたと言えよう。

 ついでに気になっていた永井荷風のカメラも調べた。『断腸亭日乗』の昭和11年12月に「写真機を携え亀戸へ~」などの記述が現れだして、翌12年2月に「名塩君来りカメラ撮影の方法を教へらる」があり、以後「帰宅後写真現像」の記述が繰り返される。

 それは『墨東奇譚』完成頃で、その私家本「京屋本」、幻の「大洋本」両書には荷風撮影の玉ノ井風景に俳句を添えた幾頁もが巻頭に収められている。荷風のカメラは「ローライコード」らしく、それは昭和8年発売の二眼レフで、折り畳み「ビューファインダー」をバッシャと開ける型。竹久夢二が使っただろう「コダック」と永井荷風が使っただろう「ローライコード」を描いてみた。


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