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藤田嗣治1:百人町からパリへ [スケッチ・美術系]

hyakunicyo3_1.jpg 5月GWに絵を描き始め、併せて初めて画家にも関心を持った。エロチックな池田満寿夫、贋絵師・横尾忠則、女ったらし竹久夢二を読み、さて次に誰を読みましょうか。竹久夢二「黒船屋」が「エコール・ド・パリ」のキース・ヴァン・ドンゲン「猫を抱いた女」の剽窃と記したから、猫を描いた画家・藤田嗣治に参りましょう。

 関連書を読み始めたら、端から食い付きたくなる記述あり。彼がパリに旅立った地が「百人町18」とあるではないか。それはどこだ。藤田は美大卒業制作に房州へ行き、そこで「鴇田とみ」(女子美卒後に東金女高の教員)に恋して駆け落ち・結婚。結納が1910(明治43)年。藤田の父は陸軍軍医総監(森鴎外の後任)。大久保に居を構えてい、その近所にアトリエ付き新居を作ってもらった。

 「百人町18」とはどこだ。現・百人町には1~4丁目の区分あり。かつて岡本綺堂の百人町在住期を調べた。それは大正13年で「百人町301番地」。うむ、大正期の住所だな。「国会図書館の近代デジタルライブラリー」の「東京市及び接続郡部地籍地図」(大正元年11月発行)があった。

hyakunincyo18_1.jpg 該当は下巻「大久保村大字百人町字南通」。クリック、そして拡大。おぉ、なんということでしょうか。はっきりと「藤田嗣治」記入地(赤斜線部分)があるじゃないか。位置は淀橋「浄水場引込線」と「甲武鉄道」の合流点西側。

 ここで東京都水道局編『淀橋浄水場史』を読む。浄水場本工事に先立つ明治26年に、材料運搬用鉄道(軽便鉄道)を甲武鉄道より分岐線で付設。大久保~淀橋間275間(500㍍)。明治28年5月に「大久保停車場」開業。その後、甲武鉄道の電気列車運転で分岐線は危険ゆえに引込線を「大久保駅」まで路線延長。浄水場の石炭、砂などの輸送に使用。昭和9年に引込線撤去。

 再び当時の地図を確認。引込線と甲武鉄道の合流点のちょい北東に「長光寺」(島崎藤村が同寺に愛児三人と妻を埋葬。その後に姪を妊娠させてパリに逃亡。藤田と藤村はパリで交流している)あり。寺前は現在拡張されて「職安通り」。つまり山手戦や中央線に乗って新宿~大久保(新大久保)間の大ガードと職安通りの間を走っている時に、車窓西側眼下を見れば、その辺りが藤田嗣治「百人町18」のアトリエ付き新婚新居があった地だ。

 彼はここからパリに旅立った。そう思うと、なにやら藤田嗣治が身近になってきた。当初は妻「とみ」も旅立つ予定だったが、父の看病と自身も身体を壊すなどするうちに第一次大戦勃発で渡仏叶わず。藤田が「とみ」に宛てた書簡は179通とか。だが、その後に藤田は女と同棲。離婚に至る。百人町に加えて、藤田の生まれは牛込新小川町(神楽坂上の飯田橋寄り)で、新宿には縁が深い。

 藤田の新婚新居の位置特定は、藤田嗣治関連書や新宿の文化人在住記録にもなく、これは初の位置特定かも。湯原かの子『藤田嗣治 パリからの恋文』表紙に二人の挙式写真あり。本文には新居縁側で寛ぐ夫妻の大よそこんな感じ(カット絵。滲まないというセーラ―「極黒」で描いたら、ご覧の通り滲んだ)の写真も掲載されていた。地図の赤斜線に「藤田嗣治」の記入あり。合流点右の縦赤線が現・職安通りで、左の縦赤線が現・靖国通り。(藤田嗣治関連資料はシリーズ最後に一覧する)


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