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夢二の「お葉」は責め絵モデルだった [スケッチ・美術系]

yumeji3_1.jpg 横尾忠則は〝ラーメン丼〟を売っているが、自身意匠の物販販売店を営んだ元祖は絵師で戯作者の山東京伝だろう。煙草入れ、財布などの店を京橋で開業(寛政6年)した。

 京伝と同じような店を持ったのは竹久夢二。大正3年に呉服橋際に「港屋絵草子店」を開店。これは夢二が妻〝岸たまき〟(早稲田鶴巻町で絵葉書屋「つるや」営業中に夢二が来店して交際・結婚)と別れたく、彼女が自立出来るように店を持たせたらしい。同店に19歳の笠井彦乃が来店して、夢二31歳と彦乃の不倫が始まった。

 この時代の性は乱れていた。夢二・たまき宅に同居していた神近市子が、アナーキスト大杉栄と伊藤野枝(夫・辻潤を捨てた)がしけこむ葉山「日陰茶屋」を訪ねて彼を刺した。夢二も手あたり次第の情交だったが、これで女の怖さに震えたか、彦乃と東京脱出。だが彦乃は病んで実家へ。ひとり東京に戻った夢二は大杉栄らが住んでいた、かの菊坂・菊富士ホテルに入った。

 大杉栄、伊東野枝、辻潤、息子の辻まこと、菊富士ホテル、荒れた生活を送る辻潤の元に転がり込んだ小島キヨ、キヨは辻に会う前に谷中「宮崎モデル紹介所」を通して中村彝のモデルになっていた。これら諸々は弊ブログでも突っ込んで記しているが~

 今回得た新知識は、竹久夢二の黒猫を抱いた「黒船屋」のモデルが〝お葉さん〟で、彼女はその前に「宮崎モデル紹介所」を通じて「責め絵師・伊藤晴雨」のモデル・愛人をしていた〝お兼=カ子ヨ(かねよ)〟だったということ。

 〝責め絵〟モデル・愛人を経て、17歳(年齢は諸説あり)にして性の深淵を知った妖艶さを持って、菊富士ホテルの夢二を訪ねれば、夢二はイチコロ。〝お葉〟と改名させて共に生活。「黒船屋」を描いた。

 「黒船屋」の秘密はまだある。黒猫を抱く構図はエコール・ド・パリ(パリ派)のキース・ヴァン・ドンゲン「猫を抱いた女」の剽窃。ヴァン・ドンゲンってどんな絵を描く画家かとネット検索すれば、美しい御婦人方の絵に混じって多数春画がヒット。彼はいかなる人物か。

 同時に〝お葉〟を「責め絵」のモデル・愛人にしていた伊藤晴雨にも興味を持った。『伊藤晴雨自画自伝』や団鬼六『異形の宴』があるも、それら本を手にするのはちょっと恥ずかしい。絵は黒猫がいるので久し振りに不透明水彩で模写してみた。(参考書籍は次々回)


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山川健一『自転車散歩の達人』 [新宿発ポタリング]

IMG_6895_1.JPG 図書館をぶらつき、山川健一『自転車散歩の達人』(1999年刊)が眼に止った。前半三分の一が「ママチャリ讃歌」で面白かった。

 仕事先の事務所の女の子が置きっぱなしにしていた無印ママチャリを貰う。以来、仕事場・初台(自宅は幕張らしい)から西新宿・渋谷・青山・神田あたりまでママチャリ生活になって、その楽しさを綴っている。膝打つ文章を短くして挙げる。

 「敬愛する植草甚一氏は散歩の達人だが、自転車散歩の達人を目指して~」。「車で女性に会えば余計なことを考えるが、自転車は別れ際がきれいだ」。「ボブ・ディランのアルバム『フリーホイーリン』の意は坂道を自転車で下る快感のこと」(小生の注:惰性で走っている。気楽、自由奔放に行動する)。「ママチャリに乗ると思想や世界観まで〝無理しない〟が肝心とわかる」。「ママチャリとPowerBookと青い空はよく似合う」。「ママチャリのバスケットにスケッチブックを放り込んでおくと~」「海を感じながら走るのがいい」。「いい自転車だと無理をする。ジーンズで充分なのにレースウェアなんかを着るのはカッコ悪い」など。

 その後は自転車の歴史やらで読む気もせずに頁を閉じたら、中年オジさんがママチャリで「E.T」のように空を飛ぶほんわかした表紙(イラスト)だった。装画は唐仁原教久。ってことであたしは〝マイ・ママチャリ=4万円DAHONのフリーホイーリン〟を絵本風に描いてみた。頑張って坂を登って、坂を下る時は本当に快感。空は飛べぬが、そんな気分になってくる。


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池田満寿夫と横尾忠則 [スケッチ・美術系]

ikeyoko_1.jpg 図書館で『画境の本懐 横尾忠則』なる書を見た。池田満寿夫と横尾忠則は共にモジャモジャヘアで風貌が似ていた。2歳違いの同世代。エロチックな絵が多い。母親好き。ピカソ好き。〝剽窃〟が得意でコラージュ好き。文章もよくしたため、池田は芥川賞作家になり、横尾は弁当箱ほどに厚い書があった。

 受賞歴も多少の年代ズレがあるも似ている。池田は26歳で第2回東京国際ビエンナーレ展で文部大臣賞。翌1961年の第2回パリ青年ビエンナーレ展で優秀賞。横尾は33歳で第6回パリ青年ビエンナーレ展で版画部門グランプリ。この二人、似ているから互いに反目したか、交流が少ない。小生調べでは池田が芥川賞受賞で超多忙の頃に共著一冊(未読)、キャンペーンで共に西サモア島に行っているだけ。

 横尾は当初、印刷普及してこそ価値ありと、絵画や版画に否定的発言をしてい、1980年頃に〝画家宣言〟。池田は古今画家を論じた(分析した)文章が多いが、横尾は夢や少年期の思い出など自身の奥へ入り込む記述が多い。二人は似ていたが、根は違った。

 「ややこしい奴だなぁ」と横尾のオフィシャルサイトを見たら「ウェブショップ」の物販が積極展開されていた。版画やポスターや書籍はわかるが、ラーメン丼、扇子、ハンドバッグ、トートバッグ、マグカップ、スカーフ、Tシャツ、マスキングテープ、時計に傘やストラップ。何じゃこれ!。歌手らがコンサート会場やファンクラブ通販で売るのと同じで、興醒めした。

 兵庫に「横尾忠則美術館」があって、豊島に記念館もあり。国民的歌手や俳優らが、死後も遺族や仲間らが著作権事業展開で、本人生前中と変わらぬ活発展開例がままあるが、〝隠居宣言〟をした彼は79歳で、早くもそんな体制を整えたかと思ってしまった。

 池田満寿夫は女性遍歴から〝破滅型〟と分かる。比して横尾は家族の繁栄を願い、堅実な夫で父なのだろう。それでいて絵には概ねあぶない女体を描き込む。芝生で瀬戸内寂聴の膝枕で寝転がる有名写真があるも、この感性も理解し難い。寂聴は今、老体鞭打って現政権と闘っている。横尾は文化人には誰でも飛びつく八方美人で主義主張なし。冒頭の書に、池田満寿夫と暮していた当時の富岡多恵子が記した「贋絵師・横尾忠則」が収録されていた。


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応挙のグリザイル、北斎の相撲 [スケッチ・美術系]

sumouf_1.jpg 先日、NHK「日曜美術館」の「円山応挙」を観た。孔雀の羽根の精緻な描写は、墨で濃淡をつけた後でブルーを着色したと再現映像が流れていた。それって西洋画のグリザイユ(Gresaile=灰色)技法じゃないかと思った。

 次に鯉の滝登り図では、縦の幾条もが白のまま残されて光る水を描写と説明。雪松図でも紙の白を残して雪を表現したと説明。それって「白」を残す透明水彩画の描き方じゃないかと思った。さらに風炉先屏風「氷図」は、白地に凍った池の亀裂線が墨で交錯するのは、カンディンスキーの抽象画に似ていると思った。

 絵を描き始めて数ヶ月なのに、生意気な指摘(ツッコミ)をする自分がいた。また円山応挙はスケッチ(観察)をよくしたとか。その例として馬の各部位の長さを詳細記録したスケッチも紹介。あの堅物っぽい応挙だが、彩色12図〝わ印〟絵巻があるそうで、彼の〝わ印〟は、他の浮世絵師らが局部大誇張なのに比し、彼のはリアルサイズで描かれているのかしらと思った。

 スケッチと言えば葛飾北斎で、「北斎漫画」には〝相撲スケッチ〟があった。前回〝組んづ解れつ・四十八手〟の幾つかをまとめ描きしたので、もう相撲はいいやぁと思ったが、浮世絵師らの凄い努力に刺激され、かつ名古屋場所も佳境だし、また相撲スケッチをした。

 だがどうしたことだろう。前回はスラスラと描けたのに、何度描いても描けないのだ。漫画風だったり、子供絵のようだったりで、描いては破り・描いては破り。どうやら描くには、その時の気持ちも肝心らしい。良い時と悪い時の気持ちの違いってなんだろうか。描くのを甘く見くびっていたのだろうか。絵は描くのも難しく、どう描くかも難しいが、その前提に気持ち如何に左右されるらしい。今回はヤケ気味の絵になった。


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池田満寿夫『絵画を語る』を読む [スケッチ・美術系]

sumoue2_1.jpg 『エロチックな旅』の次に『絵画を語る』を読んだ。白水社・新書版。平成9年8月刊。ムッ。池田満寿夫は熱海で地震に驚いた愛犬に飛びつかれて昏倒。心不全で急逝の半年後。「あとがき」は佐藤陽子が描いていた。

 冒頭はピカソへのオマージュ。86歳に10ヶ月で銅版画347シリーズ〝エロチカ〟完成。マティスは色彩の画家で、ピカソはフォルムの画家。マティスは主題より美を追求だが、ピカソは考えること、感じることが描くこと。よって生きている限り完結なし、と書いていた。〝エロチカ〟後も死ぬまでの3年間に156点も描きまくった。池田はその姿を「死からの逃亡、生と性の執着」と記し、女(性)への尽きぬ欲望が創造力の源泉だったと書いた。だが自身は〝生と性への執着〟が強くなるだろう老人期前の63歳であっけなく亡くなってしまった。

 マグリットの青い空を分析。次にセザンヌは動かぬものに動く線を見続け、色彩のロートレックは動くものに関心を寄せて、省略法を身に付けたと記す。他にコラージュを発明のエルンストの色彩と幻想を語り、ヘンリー・ムーアの素描を認め、イラストレーターのポール・ディヴィスとの交流を語り、ベルギーの幻想派・ポール・デルヴォーの美しき陰毛を語っていた。

 そして最後がなんと『ヘンリー・ミラーと「ヘンリー」』、『ヘンリー・ミラーの女友達』2編。読むうちに「あっ、読んだ記憶あり」と思った。初出が「文藝」の1967年2月号と8月号。老いてから絵を描き始めて読んだ池田満寿夫だったが、そこで20代で読んだ文章に再会した。あたしはそのエッセイによって、ヘンリー・ミラーがどうしようもない女・ホキ徳田に夢中になっている様を知って、ミラー熱が一気に覚めたんだ。

 女、絵、画論・作家論、エッセイ、小説、芥川賞、映画監督、書、陶芸と休みなく取り組み、頑張って・頑張っていたのに突然逝った池田満寿夫。のんびりと隠居暮らしのあたしも、少しは頑張らなければいけないと思って、描き始めた相撲の〝組んづ解れつ・四十八手〟の幾つかを描いてみた。

 ★池田満寿夫関連で読んだ本=「エロチックな旅」「絵画を語る」「日付のある自画像」(以上本人著作)、「芸術と人間・池田満寿夫」(毎日グラフ別冊)「池田満寿夫~流転の調書」(宮澤壯佳著)


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池田満寿夫『エロチックな旅』 [スケッチ・美術系]

sumoue1_1.jpg 池田満寿夫『エロチックな旅』を読んだ。自身のヰタ・セクスアリス。幼児期の性的回想から始まる。両親が満州でカフェ営業。女給らへのトキメキ。級友が持つエロ写真。高校時代のヌードデッサン。娼婦と体験。そして21歳で「結婚するなら見せてあげる」と言った11歳年上R子(大島麗子)と結婚。詩人で高校教師退職のT子(作家の富岡多恵子)と駆け落ち。画家L(リラン:中国人画家と米国夫人の娘)とNYで13年間の暮し。最後はヴァイオリスト・佐藤陽子と暮す遍歴。(R子以外の全員が同棲記を出版。池田自身も他に数冊。皆で晒し合っている)

 昭和33年。T子と暮した頃だろう。江戸の浮世絵師と同じく、食うために春画(4点モノクロ銅板画)を制作。セット4~500円。完売で1万円。当時は1ヶ月半の生活が出来た。それまで抽象画だったが、具象の方が売れる(瑛九の助言)と認識。

 昭和35年に限定40部の色彩性交銅版画『男と女』。定価1500円。10年後の70年代の米国生活中に、日本の古書市場で120万円の値がついたとか。昭和43年には限定20部の版画集『愛の方法』。これら〝わ印銅版画〟はエッセイ『エロチックな旅』全3章の合間に挿入掲載されていた。

 確か詩人・金子光晴も世界放浪中に金がなくなると春画を描いて売っていた。あたしも絵の腕を磨き、雀の涙の年金暮らしから脱出すべく春画を描こうと思ったが、今やエロはDVDやデジタル映像で氾濫し、それは叶わぬ時代になっている。

 池田満寿夫の絵が好きだと言っても、真面目な小生は〝はしたない絵〟も描けず、〝遍歴告白〟も書けず。そこで同じ裸でもテレビの相撲から絵を描いてみた。池田満寿夫の銅版画で男女が抱き合う有名作あり。相撲技なら〝鯖折〟だろう。タッチは限定エッチ銅版画風で、かつよく登場する〝見る男ら〟もこっそり加えた。描いてから遊び過ぎたと反省し、ウィンドウズ・ピクチャーの修整機能で〝P〟を消した。


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アニメ背景画のリアルさに驚く [スケッチ・美術系]

ikedakimono2_1.jpg 池田満寿夫の人物デッサンの「抽象と写実の中間按配がいいなぁ」と思い、「絵は写真ではないから抽象化する力が必要」などの言葉に感心した後のこと。アニメ好きではないあたしが、ふとテレビで見たアニメ『おおかみこどもの雨と雪』、昨夜放映の『時をかける少女』(共に細田守監督)のアニメ背景画に釘付けになった。とくに前者の背景画の見事なこと。

 多分あれはガッシュ(不透明水彩、ポスターカラー)で描くのだろう。森は木々の葉の一枚一枚までを描く緻密さ。アニメ制作スタッフの皆さんは、そうした絵を日々描いているらしい。時間に追われぬ仕事ならば、彼らは美術館で展示されるス-パーリアルの写実画も描けそうな気がした。

 調べてみると、今のアニメ背景画は写真をデジタル加工したり、3DCGやフォトショップを駆使したりしているそうな。それでも背景画を担う方々の基礎はアナログ描写とか。ではどう描くか。

 「アニメ背景の描き方支援サイト」なるがあった。道具の使い方から描く要領が動画で紹介されていた。下絵から移すのに〝鉄筆〟を使うとか。またデジタル編もあって、これまた制作過程を動画で紹介。ご丁寧にもアニメ背景の制作会社まで紹介されていた。

 改めて、自分が描きたい絵について考えた。ブログの写真に飽き・倦んで絵を描き始めたってことは、アニメ背景画のような写真っぽい(写実的)な絵ではないような気がする。絵は風景スケッチから始めたが、それには余り魅力を感じない。

 絵を描き始めて約三か月。基礎もないくせに、生意気にも早くも〝自分流〟とやらを探し出している。風景スケッチでもなく、写実的でもない方向で、隠居の道楽なりに納得して愉しめる絵とは、どんな絵なのだろうか。

 それはさておき、今回の絵は前回に続き着物女性の二枚目。まず黄系水彩でデッサン。乾いてから、前回失敗した万年筆(墨インク)で〝早描き〟をしてみた。今度はペンが走った。走った理由の一つは、吸収力強い画用紙の上に水彩を塗ると、それが被膜になってインクの滑りが良くなったため。描けば、そんなことも覚えるんですね。


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池田満寿夫の人物水彩画っていいなぁ [スケッチ・美術系]

ikedakimono1_1.jpg 『池田満寿夫の人物デッサン』なる教本を見た。「いい絵だなぁ」。写実と抽象の中間按配が良く、線と色が躍動していた。今まで幾冊もの水彩画教本を見て来たが、ほとんどが風景画、しかもどこか優等生っぽくて面白くなかった。描いている方も〝面白い人物〟とは思えない。芸能人でも風景スケッチをする方が多いが、上手な絵より下手な絵を描く方々に人間味がある。

 ヘンリー・ミラーは底なしの魅力を持ち、当初は発禁、伏字だらけの作家で、彼の水彩画を敬愛したのが池田満寿夫だった。池田は江戸の浮世絵師と同じく、食えぬ時期に春画(限定性交版画集)を描いた。それで抽象より具象が売れると知った。彼の抽象と写実の中間按配は、そんな経緯に裏打ちされているらしい。彼が有名になって親戚は喜んだが、エロチックな絵が多くて居間には飾り難かった。

 同書に「私のデッサン論」があった。~作家のデッサンはプライベートな部分があって人に晒すのは恥ずかしい。絵は写真ではないから抽象化する能力が必要になる。原初的な壁画は、写実的な絵より生き生きとしている。イメージの視覚化デッサンには虚飾がなく、細部なんてどうでもいい。絵にはある程度の訓練は必要だが、上手である必要はない。肝心なのは自由な気持ちの表現だ。

 上記は長文の勝手解釈。同書はモデル・山口小夜子を〝モデル〟にした淡彩デッサン。併せて雑誌の「下着ファッション写真」を元にした「フリーデッサン」を掲載。モデルがいようが写真だろうが、同じような仕上がり。

 「フリーデッサン」の意が分からぬが、それら絵から細部にとらわれず、感じたところを自由に描く、とでも解釈できようか。同書の絵を見ていて、あたしも女性を描きたくなった。だが小生は初心者で、真面目で、貧乏で、老人で~モデルになってくれる女友達もいない。そこでかつて撮った着物女性の写真を元に、どこまで自由な線と色で描けるかにトライしてみた。

masuomosya1_1.jpg 最初はボールペンや万年筆(黒)で描いた。真面目だから、つい細部に手が止まる。ノビノビとした線が描けない。そこで細部描写が出来ない筆ペンを持った。細部からちょっと解放され、少し筆が走った。色もちょっと自由に塗った。しかしあと五割は抽象化し、もっと自由に描かないと彼の教本にあった「淡彩人物デッサン」のようには至らない。

 ちなみに同書に掲載された池田満寿夫人物デッサンの一作を〝簡易模写〟すると、こんな感じ。「絵は写真ではないから抽象化する能力が必要」&「細部なんかどうでもいい〝人物デッサン〟」への道は果てしなく遠く難しいとわかった。いや、酒でも呑んで酩酊気味で描けば、意外に近道があるかもしれない。


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あぁ、双眼鏡が溶けて行く! [私の探鳥記]

sougankyoa_1.jpg 7月某日。「あっ、あの鳥は」。ベランダ側のチェスト上に置いてある双眼鏡を手にして「ゲッ」とした。気持ち悪くベタつく。数日前まではなんともなかった。消毒綿で拭く。次に中性洗剤で洗うがベタつきは消えない。「何じゃこりゃ」

 ひょっとしてと、自室の同種双眼鏡も確認した。ありりゃ、ラバーの一部が欠落しているじゃないか。「そんなバカな」。いじっていたらボロッとラバー部が剥がれ落ちた。「な・なんだ。怪奇現象でも起きているか」

 落ち着いてネットで「ニコン双眼鏡がベトベト」と検索。案の定、何件もヒットした。「ラバーコートが経年劣化で溶けてベトついたり、剥がれたりする」とあった。皆さん、ベトベト除去に四苦八苦されていた。

 製品は「Nikon sportstar」10倍。2008年11月に1万円ほどで購入。使い勝手がいいので、かかぁにも同じのを買った。小型軽量で携帯便利。ピント合わせが素早くできバードウォッチングに最適だった。

 そして7年目のこの惨状。こうなることがわかっているのだから、メーカーも販売店も「7年ほど経ちますと気持ち悪いベタ付き現象が起きますが、それでもよろしいでしょうか」と言うべきだろう。1万円の双眼鏡、かつ7年後のことゆえにユーザーは我慢だが、高額の光学機で同現象が起きたらどうするのだろうか。これはカメラのグリップ部分でも起こるとか。

 ネットには、ベトベト除去には無水エタノール(アルコール?)で拭くのがいいとあった。また「気持ち悪いからずべて剥がしたら30グラム減でスッキリした」のレポートもあった。怪奇現象ではないとわかってホッとし、あたしも全ラバーを剥がすことにした。ボロッと剥がれてスリムになった。あなたの双眼鏡やカメラは大丈夫でしょうか。(追記:友人のブログで、この現象を「加水分解」と知った。彼は雪山用ゴーグルが「加水分解」して壊れたとサラッと記していた。ネットを見るとスニーカーの踵部分もそんな現象が多く起こるらしい)


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我がブランチ。だが中性脂肪高め。 [スケッチ・美術系]

lunch1_1_1.jpg 先月の血液検査結果が出た。GPT(肝細胞障害)が少し高いが、すでに酒はやめている。US(尿酸)が高い。数年前に痛風に二度襲われた。TG(中性脂肪)を高く、HDL(善玉コレステロール)が低い。

 マメに血液検査をした時期があって、ちょっと前にアレを食ったコレを食ったで如実に数値が変わることを知った。ゆえに一週間も食生活に留意していると健康数値に変わったりする。つまりコントロール出来るから、数値が絶対ではないと認識している。

 そんなこんだで食生活が変わった。食う量が半分になった。写真の絵はブランチで、これに小さなご飯茶碗七分目だけ。夕食は六時頃で、これまた軽め。理想は江戸時代の箱膳程度の分量と思っている。しかし問題はかかぁが甘味・お菓子好きで、つい誘いに乗ってしまうこと。かかぁは飯を食わず、お菓子で生きている。女医先生はあたしに尿酸を減らす薬を進めてくるが、どうしようかと悩んでいる。

 初めて食い物をスケッチした。ウインナーと目玉焼きの黄身、トマトのテカりがうまく描けただろうか。透明水彩はテカり部分を塗らずにおく。そのために描く前に着色計画をしっかり立てておく必要がある。えらくややこしい。それが描く自由を妨げるならば、白や黒(ガッシュ)も使った方がいいようにも思う。肝心は〝自由に描くこと〟だろう。


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ヘルマン・ヘッセの水彩画 [スケッチ・美術系]

hesse3_1.jpg 新宿図書館の「水彩画」検索で『ヘルマン・ヘッセの水彩画』がヒットした。ヘンリー・ミラーの水彩画集はないが、ヘッセの同書は四谷図書館にあり。どんな絵なのだろう。

 ヘッセは少年期に読む小説だが、大人になって購った本がある。平成八年刊『庭仕事の愉しみ』。伊豆大島にロッジを建てた五年後。初めて自分の庭を持って、庭仕事の真似事を始めてい、同書をフムフムと頷きつつ読んだ。やがてガーデニングとやらにも熱中した。しかし庭の草木ばかりではなく、周囲をも枯れ地に一変する酷い塩害に幾度か襲われて諦めた。今は草刈機をぶん回して長く繁った雑草を刈るだけ。

 ヘッセ『庭仕事の愉しみ』を経て、次に出逢ったのが『ヘッセの水彩画』。彼の絵は色彩豊かで、小・中学生が描くようでもあり、イヤそうではなく、マティスの風景画のようだった。

 ヘッセが本格的に絵を描き出したのは四十歳からで、南スイスのイタリア国境際の湖畔の村モンタニューラに移住して、生涯を閉じるまで描き続けたらしい。約二千枚の絵が残されているそうな。

hesse1_1.jpg いずれかの絵を模写しようと思ったが、その気にさせるてくれる絵はなく、先日知ったグレー系以外で明暗を描く「カマイウ(Camaieu)技法」で、ヘッセの顔を描いてみることにした。エンピツやボールペンのデッサンなしで、いきなり薄いセピアで描き出して、次第に濃いセピアで形を整え、濃淡をつけ、最後に肌色をサッと塗った。余り似ていないが、まぁ、ひとつの描き方を知った。


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グリザイユとカマイユとは [スケッチ・美術系]

chert1_1.jpg 中村彝(つね)「少女」模写遊びで「黒(black)を使ったが、透明水彩は黒は使わず、補色(反対色)を混ぜて黒代わりにするのが定石、上手なやり方らしい。ならばと黒っぽい補色サンプルを作ってみた。いろいろな色の組み合わをしていて、なんか子供時分に戻ったようで、とても愉しかった。

 黒系、グレーで描くのを「グリザイユ技法」というらしい。「Grisaile=灰色」。モノクロで濃淡を付けた後で着色する。またモノクロ以外、例えば褐色(セピア)で明暗を描くのはカマイユ(Camaieu)技法とか。これまたその上から着色するといい味が出るらしい。

 そうならば試みなければ前に進めない。また白は塗らずに紙の白を残すための「マスキングインク・筆洗い液・筆代わりの鳥の羽」も揃えたが、これも未だに試みていない。新しい試みは億劫で面倒臭い。老いなのか。まずは前へ踏み出すべく「混色サンプル」を作ってみた。

 補足)では透明水彩の絵具セットに、なぜに使わぬ白と黒が入っているのか。子供みたいに質門したいが、こう記された一文に出逢って謎が解けた。「白(チャイニーズホワイト)を混ぜて〝不透明水彩〟にして使います」。ならば黒(アイボリーブラック)も同じなのだろう。つまり透明水彩は、白や黒を混ぜて不透明水彩として使ってもいいんですよ、という意らしい(ったく、初心者は世話が焼ける)。

 いや、透明水彩でも色(顔料)によって、それぞれ透明度に違いがあるらしい。混ぜても濁らない絵具があれば、混ぜたら透明度がなくなる絵具もあるらしい。もっと勉強、もっと経験を積まなければ使いこなせない奥の深さがあるらしい。「イヤイヤ、難しく考えずに、描きたいように描けばいい」という意見もある。


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透明水彩で油絵風に~ [スケッチ・美術系]

tosiko1_1.jpg 絵を描き始めて約二ヶ月。透明水彩の使い方を未だ知らず、描く力も得ぬが「やっちゃいけない」タブーはやってみたくなる。

 机の後ろにファックスがある。壊れた排出用紙ガイド板の代わりに『中村彝画集』(表紙が「少女」)が立て掛けられている。「少女」は新宿のカレー屋・中村屋の娘(相馬黒光の娘・俊子)がモデルで、ルノアール風に描かれている。着衣画だが、ほぼ同じポーズで豊満乳房の裸絵もあって、そんな絵をコッソリ描いたり、また彝の健康も優れぬことから、黒光は二人の交際禁止・結婚拒否。傷心の彼は伊豆大島へ渡った。

 その油絵を透明水彩で模写してみようと思った。透明水彩は透明度が特徴ゆえ、サッとひと筆がいいそうな。濃い色の重ね塗りはタブー。タブーは犯したくなる。透明水彩でどこまで濃く描けるか。入念模写ではなく初心者の即興模写で、濃い色を重ね塗ったら、それなりに「ふ~ん、透明水彩でもこんな風に描けるんだ」とちょっと勉強になった。

 なお「俊子」は後にインド独立運動家で亡命のボースと結婚。中村屋にカレーをもたらせた。拙い我が「少女」模写を見ながら、今夜は中村屋のレトルトカリーを食おうと思った。中村屋でカレーを食えば高いが、レトルトカレーはスーパーで200円台。+ライスだけで夕食になる。貧乏隠居の財布が淋しい時には大助かり。中村屋レトルト〝インドカリー〟は安いが、油絵のように深い味わいでなかなか旨い。


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ブログの写真をやめた弁 [スケッチ・美術系]

boen1_1.jpg ブログの写真を絵に変えて数ヶ月。なぜ絵にしたか? 絵は「上手・下手・いい・悪い」含めて〝個〟が如実に現れる。比して写真は機能・性能進化で誰もが同じような写真が撮れるようになって〝画一化〟が始まった。そんな写真に倦み、飽きたのが理由のひとつ。

 一眼レフは20代の頃から仕事と趣味で使ってきた。デジカメ過渡期に、仕事と鳥撮りで使った。難しいコンサート撮影でプロカメラマンを手配すると、使い込んだフィルムカメラと古い望遠レンズで現場に来た。一方、遊びの鳥撮り現場に行くと退職金と暇を得た隠居翁らが、プロも持てぬ白の超望遠レンズに最新デジカメを三脚にセットしてズラッと並んでいた。プロが白の超望遠レンズを持っていれば社の備品だったりした。

 ブログ前の「ホームページ」は、紙焼き写真をスキャンして写真アップ。だがデジカメの技術進化・発展・普及は驚異的。今、スマホCFの惹句はなんと!「一眼レフが嫉妬する」。別メーカーCFは雀のホバリング映像、つまり超高速動画映像を披露。ポケットに収まるコンデジも、35ミリ相当で1000㎜超が撮れる。高額で重いカメラ・レンズを持つ時代ではなくなりつつある。個人の技量・思惑よりデジタル技術が優り先行している。女の子も〝プロ並みの写真が撮れます〟で画一化が始まった。

 写真に代わるビジュアルとなれば〝手書き(描き)〟になる。描く行為は原初から変わらぬ〝個の作業〟だろう。ならば描くは無経験だが〝よし、描いてみよう〟と思った次第。「下手・拙い・悪い」などで描けば描くほど恥を〝かく〟。断るまでもなく、あたしは美大卒でもないし、デッサンをしっかり勉強したこともない。まぁ、あたしの絵は「ブログのカット絵」の範疇。その気持ちで描き続けてみようと思う。

 昔の文人はよく絵を描いた。俳人の絵は〝俳画〟で、作家が描けば〝文人画〟で、本格派も多かった。江戸時代に遡れば、山東京伝が絵師・北尾政寅だったように、戯作者の多くが元絵師だったりした。昔の人は書も嗜んだ。今は政治家・評論家が高説展開後に「ボードに提案を~」で掲げる字が小学生みたいな字でズッコケてしまう。あたしらが子供時分は、多くの子らが近所の書道教室に通ったものだが、書も忘れられたようだ。

 ブログの写真をやめて絵を描き、できるだけ書(小生の場合は〝くずし字〟)を書き、恥をかき続けようと思ったが、共に老いてからの初心者で四苦八苦。さていつまで続くやら。


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荷風と植草とミラーの帽子姿 [スケッチ・美術系]

3kenjin1_1.jpg 先日、世田谷文学館で「植草甚一展」を観た後に常設展示も観た。なんと荷風の森鴎外の次女・杏奴(あんぬ、画家・小堀四郎と結婚)に宛てた数通の直筆手紙があった。小便箋に小さな文字がびっしりで、その緻密・繊細さにちょっと驚いた。

 外に出て自転車に跨ってから気付いた。「あれっ、帽子がない」。戻ると受付の忘れ物コーナーに我が野球帽あり。走りつつ気付いた。「そう言えば植草さんも荷風さんもヘンリー・ミラーも帽子を被った写真があったなぁ」と。

 荷風もミラーもパリから母国に戻っていて、日本で言えば〝洋行帰り〟。帽子が似合っていた。晩年の荷風さんは変なベレー帽も被っていた。Hミラーは洒落た外套に帽子を斜めに被って決めている写真がある。植草さんはアメリカ好きでニューヨークで買ったチェック柄の帽子やドゴール帽を被った写真があった。

 昔の男達はみんな帽子を被っていた。あたしのオヤジも山高帽やカンカン帽などを持っていた。あたしが帽子を被り出したのは、隠居後に自転車に乗るようになってからで、もっぱら「マークなしの野球帽」だ。自転車がスピードの出ない小径折り畳み自転車だから、頭の保護と日除けで野球帽。しかしスポーツ系自転車ならば絶対に自転車用ヘルメットは欠かせない。あたしは、あの自転車用ヘルメットを被るのがイヤだから、小径自転車なのかもしれない。

 そんな事を思いながら、三賢人の帽子絵を描いてみた。少しは似るようになってきて、似顔絵のコツがわかってきたのかもしれない。絵を見た女房が言った。「男はね、禿てくると帽子を被りだすのよ」。 


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