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藤田嗣治7:レオナルド・フジタ巴里で死す [スケッチ・美術系]

fujitaneko2_1.jpg パリはすでに「エコール・ド・パリ」の熱気は失せていたが、藤田は意欲的に制作に没頭。1950年に戦後のパリで個展。ピカソが駆けつけた。藤田への評価は再び確かなものになる。描く絵に少女や人形も多くなり、版画や挿絵の仕事も増えた。1954年、パリの役所で君代夫人と結婚式。翌年にフランス国籍を取得。そして1959年にカトリックの洗礼。レオナルド・フジタになった。
 
 1961年、パリ郊外の田舎ヴィリエ・ル・バクルに移住。古い農家を終の棲家として、心静かに精神世界を深めて宗教画を描き出す。絵に疲れれば大工仕事や小物作り、また村の子供らと遊んで心を癒す。最後の仕事は。マティスがそうだったように礼拝堂を建てること。

 ランスのシャンパン王の土地提供を得て、自ら設計の礼拝堂造りに着手。80歳の老体に鞭打ってフレスコ画制作。1966年8月に「ノートルダム・ド・ラ・ペ 平和の聖母礼拝堂」完成。スイス・チューリッヒ州立病院で81歳の生涯を閉じた。現在、藤田夫妻が暮らした田舎家は「メゾン・アトリエ・フジタ」の記念館(歴史建造物)となって保存されているそうな。
 
 最後のカット絵は、やはり「猫」で締めくくるべきだろう。初めて「猫」を描いたが難しい。ほんわかした毛並を描くにも根気がいる。描き終わってからほんわかし過ぎたのでボールペンで描き足したら、剛毛の猫になってしまった。描きながら「猫」と「描」は似ている字だと気付いた。
 
 描き終わってから世界堂を覗いたら、穂先の短い平筆の大~少を見つけた。これで掃くように描けば、一度で毛並が描けそうで買った。また藤田の真似をして面相筆も買ってみた。
 
 <藤田嗣治参考書>田中穣『評伝 藤田嗣治』、近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』、野原かの子『藤田嗣治 パリからの恋文』、矢内みどり『藤田嗣治とは誰か』、林洋子監修・著/内呂博之著『もっと知りたい 藤田嗣治 生涯と作品』、画集『生誕120年 藤田嗣治展』、落合莞爾『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』及びネット公開文、当時の朝日新聞など。
 
※藤田嗣治関連書は、それぞれ異なる部分が多多で、このシリーズではそれら著作群より自分流取捨で勉強させていただいた。肝心なのは評伝ではなく絵の鑑賞だろうが、実際の作品には滅多にお目にかかれない。

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