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佐伯祐三5:『素顔の佐伯祐三』と中村彝 [スケッチ・美術系]

tune5_1_1.jpg 山田新一著『素顔の佐伯祐三』の続き。佐伯一家の二度目のパリ生活開始の翌・昭和3年6月に山田もパリへ。すでに佐伯は病臥二ヶ月余。佐伯は画友らの看護の隙に失踪。この辺から死の善後策一手を采配したのが椎名其二(ファーブル『昆虫記』翻訳など)。著者・山田は椎名が記した文が最も正しいとして、自分の注釈も加えて真実を明らかにしている。

 失踪の佐伯が見つからずアパートに戻ると「そこに佐伯君が首の周りから血を流し、青蒼な顔に眼を据えているではないか」。著者山田もその姿を見ているが、後に彼の死を記す多くの文が〝索溝なし〟と真実を隠した。夫と娘の看護に途方に暮れる米子をおもんばかってか、はたまた「自殺」の否定的重み隠蔽が友情という気持ちでかで、真実が見えなくなったと記す。

 山田は椎名氏や佐藤淳一博士と数回病院を訪ね、死の前々日も見舞った。佐伯は断食状態で干からび果て、誰に看取られることなく昭和3年8月16日に世を去った。享年30歳。同月30日に娘・弥智子が小児結核で死去。6歳6ヶ月。これで佐伯祐三の30年の人生がどうにか把握できた。絵をどう鑑賞・評価するかはまた別の問題。

 最後のカット絵は「佐伯アトリエ」近くの<「中村彝アトリエ記念館」スケッチ+未完「髑髏を持てる自画像」一部模写>。さて、佐伯祐三と中村彝の関係は?。中村アトリエ完成は大正5年(1916)。中村に誘われて曾宮一念が大正10年に現・聖母大辺りにアトリエを建てた。曾宮に誘われて同年に佐伯も現・聖母病院北側にアトリエを建てた。東から西へ中村~曾宮~佐伯の順。

 曾宮は中村彝を兄事して彝アトリエに集う画友らの代表格。また東京美術学校西洋画科の佐伯の先輩。曾根は佐伯のアトリエ増築も手伝った。中村彝と佐伯の直接交流は定かではないが、すでに中村の結核は深刻さを増し、ややして佐伯はパリに旅立った。佐伯の第二次パリの際にアトリエの留守番をしたのが鈴木誠で、彼は後に中村彝アトリエを購入。この辺でこのシリーズを終える。以下、参考書籍一覧。

 白矢勝一・吉野邦治『佐伯雄三 哀愁の巴里』、稲葉有『夭折の画家 佐伯雄三と妻・米子』、山田新一『素顔の佐伯祐三』、朝日晃『そして、佐伯祐三のパリ』、落合莞爾『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』、新宿歴史博物館特別図録『差益祐三 下落合の景色』。


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