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15)松平定信と田沼意次 [朱子学・儒教系]

okituguhon_1.jpg 松平定信および田沼意次の評価は賛否両論。小生、寛政期に江戸文化が芽生え武士、町人らが一緒になって狂歌、黄表紙、浮世絵などで盛り上がったことから同時代を覗いたので、彼らを弾圧した「寛政の改革(松平定信)」に良い印象なし。

 下町散歩で霊巌寺内「松平定信墓」を見た時に、その頑丈な鉄格子は江戸庶民の怒りを防ぐためかとさえ思ったもの。さて松平定信と云えば、まず田沼意次だろう。意次の生涯を描いた小説2編を読んでみた。

 平岩弓枝『魚の棲む城』に描かれた田沼意次は、一世の快男児でいい男。腹黑いのは次期将軍の実父に収まった一橋治済で、幕政参入願望の強い松平定信が巻き込まれて~の構図で描かれていた。悪徳政治家=田沼意次のイメージは、彼を失脚させて、自身が老中首座に収まりたい松平定信が流した根も葉もない噂。意次の嫡子で若年寄に抜擢された意知が凶刀に倒れたのも、暗に定信が裏にいたような思わせぶりの小説だった。

 次に村上元三の長編小説『田沼意次』を読む。まずこう提示している。天明7年に「田沼主殿へ仰せ渡されし書」で悪人にされたが、50年の後にそれが偽書だと証明された。果たして意次は伝えられるほど悪人だったろうか。田沼意次の蟄居後の居城・相良城を、定信が徹底破壊したがあれほど倹約質素主張の定信が、莫大費用をもって破壊した異常さは何だったのろうか。また同地が一橋治済の預かり地になったことからも、治済が定信を動かして田沼意次を窮地に陥れたのではないか。尊号事件にせよ、その背後に治済がいたに違いない~とも記していた。

 また「定信が〝陽明学者〟として一流の人物(ホントかいな)だったが、老中としては政道が窮屈すぎた。たとえば江戸中洲の繁華街を潰して、もとの河川に戻してしまったのも、田沼の行ったことすべてをひっくり返さなければ気が済まない確執があった証だろうと記す。まるで前政権の全施策・スタッフを徹底排除するあの国この国のようです。

 また松平定信が晩年に書いた(書かせた)自伝『宇下人言』も読んだが、朱子学者というより、やっと華咲いた江戸文化を弾圧した言い訳綴りのような内容。例えば~

「寛政四、五年の頃より紅毛の書を集む。南蛮国の書は天理地理、兵器、内外科の治療に益あるも、心なきものの手に渡れば危険があろうから〝我が方へ買い置けば、世にも散らず、御用あるときも忽ち弁ずべし〟と長崎奉行に断じて、舶来の蛮書買い侍ることと成りにけり」

 まぁ、己を神(実際に自身を祀っていた)とも思っての、マイファーストの独裁の弁明綴り。江戸庶民に倹約質素、贅沢禁止、異学の禁、出版統制など次々の禁止令。人を信用できぬ猜疑心から隠密に隠密をつけるなどで厳しい罪を科した6年間。

 だが権力欲から将軍・家斉から嫌われ、猜疑心や独裁から老中仲間に疎まれ、江戸庶民にはなにかと落首で馬鹿にされ続けた6年後に老中罷免。すると今度は造園趣味、蒐集してきた蘭書、書画に熱中で文化人面。どこが朱子学、陽明学かと。「寛政の改革」の6年間は何だったのかと思ってしまう。

 こう記した昨夜、女房が好きで観る再放送時代劇「剣客商売・御老中暗殺」にお付き合い。するってぇと田沼意次暗殺にうごめくのが一橋治斉の設定。池波正太郎もきっと〝田沼意次いい男派〟だったんだなと思った次第。次は小説ではなく定信評価正反対の高澤憲治著『松平定信』と磯崎康彦著『松平定信の生涯と芸術』を読んでみる。

 追記:池波正太郎の剣客商売『春の嵐』にこんな文章あり。田沼「一橋卿は、何としても、この意次を蹴落すおつもりであろうよ。そして、その後には、松平越中守殿に天下の政事を引きわたすのであるまいか。越中守殿なれば、わしを屈服させるよりも、たやすいことじゃ。激しく怒り、あからさまに手強く立ち向かう越中守殿なれば、一橋卿がつけこむ隙は、いくらも見出せよう。何となれば、一橋治済は、我が子の家斉を現将軍・徳川家治の養子にすることに成功してる。家斉が11代将軍となったあかつきには、一橋治済は将軍の実父として将軍同様~」。

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