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17)定信の陰謀と落首 [朱子学・儒教系]

himitusyo1_1.jpg 松平定信は、天明飢饉の最中に養子先・白川藩主松平定邦の隠居、自身の家督相続に相当額を投じたとか。晴れて藩主になると、まぁ、有頂天の感で次々と飢饉対策の諸施策を発令。藩士らの渋い顔が浮かんでくる。

 「身分の高い家柄に生まれ育った方は、自分中心になりがち。自分の考え、理想、実行力に酔って、他への配慮に欠ける。大河の中にいる自分を見極めるのでなく、自ら大きな流れになって周囲を押し流してしまう」(平岩弓枝『魚の棲む城』の一文より)

 定信は松平先祖・定綱の木像を桑名から譲り受け、藩祖を敬えと御霊屋を設けた。それに併せて己も神として祀られるよう~の算段あり。そして田沼意次を恨みつつも、養父宿願の〝溜間詰〟昇格推挙を田沼家に媚びる腹黒さ。溜間詰が決まると「勤め向きの評価だ」と家中に言い広める。定信は常に他人が気になる。〝ええ格好しい〟の性癖あり。そんな人物に朱子学が摺り込まれていたから、その先は言わずもがな。

 溜間詰に決まれば、今度は老中首座を狙い、憎き田沼意次失脚へ一橋治済と組んで動き出す。天明6年8月、将軍家治没。その公表までの間に、田辺意次解任と同時に、30歳の定信が老中首座と奥勤めに決定(小生のくずし字お勉強で筆写したのが、その裏工作成功の秘密文書一部)。定信は老中首座になると田沼派を追い出し、同志を老中に、さらに若年寄、勘定奉行、勘定吟味役なで固める。

 その独裁体制をもっての6年間「寛政の改革」。その矢継ぎ早の諸施策を見れば(内容は何度も紹介済ゆえ省略)、彼の功を図り、焦り、てらい、かつ仲間や庶民への猜疑心までもが透けて見えて来る。独裁が進むと、己が描く将軍像を押し付けて将軍に嫌われる。頑固な倹約質素で大奥に恨まれる。やがては幕臣全般に反定信グループが出来てくる。そんな定信の状況にチャンスを狙っていたのが一橋治済だった。

oumugaesi.jpg_1.jpg ここで松平定信が江戸庶民から如何に人望なしだったかを物語る落首の数々。「ちいさい物ハ西丸下の雪隠と申候」(西丸下屋敷の定信の便所が小さい。ケツの穴が小さい、狭量だ)、「世の中に蚊ほどうるさき物ハなし 文武ブンブと夜も寝られず」、「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」。

 寛政5年7月、約6年で老中解任。彼の常套手段で解任も〝依願辞任〟にすり替えた。その後の幕府は権力集中を反省して集団的な政治主導になったとか。かく老中引退後も落首は続く。よほど庶民から恨まれていたらしい。「白河に古ふんどしの役おとし 今度桑名でしめる長尺」(隠居後の松平家が桑名転封を笑って)、「越中が抜身で逃げる其跡へ かはをかぶって(以下略)」(文政12年大火で病床の定信が大駕籠に乗って避難の際に、邪魔な町人を切ったとの噂が流れて)。定信を見た幕臣の足軽が「あいつをみろ、世の中を悪くしたのはあいつで、馬鹿なやつだ」と口走ったとかの記録もあるとか。

 くずし字筆写は:松平越中守儀 弥(いよいよ)老中上座被仰付候御治定二而 来ル十九日比可被仰付御沙汰二付一両日之内 掃部頭方迄被仰付御達之程二候段 委細被仰付越承知致候 誠二御丹誠ヲ以無滞 愚願も相届致満足候 且土佐守事も被仰付候 以後世上共二評判宜趣二及承別而至大慶候~

 写真下は恋川春町の黄表紙『鸚鵡返文武二道』の一部(国会図書館デジタルコレクションより)。恋川春町は定信から出頭を命じられ自刃したらしい。お墓は新宿2丁目の成覚寺に忘れられたようにある。

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