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14)改めて、松平定信とは(上) [朱子学・儒教系]

sadanobu1_1.jpg 松平定信(第11代将軍家斉の老中)については<儒者の墓(10)寛政の三博士・柴山栗山>の項で紹介済。また「寛政の改革」については幾度も記してきた。朱子学を幕府公認学問とし、「天皇~将軍~大名・役人~国民」思想。小生はそれが「尊王・大政奉還」へ、さらに「大日本帝国憲法」に至るようですと記した(定信72歳没の38年後に大政奉還)。

 さて松平定信は、果たしてそれほどの人物だったのだろうか。彼の父は8代将軍・徳川吉宗の第2子・宗武。父の兄・家重が健康芳しくなく、次期将軍は自分と思っていたも、兄が将軍就任。宗武は江戸城内の田安邸へ。兄の欠点を羅列して、吉宗から3年間の謹慎命。

 宗武の子は15名。正室から生まれた治察が嫡子で、側室との間に生まれた7男が定信(幼名・賢丸)。7歳から学問開始。書道や儒学を。11歳から和歌、弓・剣・槍・馬術を。12歳で猿楽や絵(狩野派、南蘋派)も学ぶ。この頃の江戸は浮世絵が錦絵になって大流行。

 父の将軍就任が叶わずで、定信は幕政への意欲を胸に秘める。明和8年、14歳の時に父死去。兄・治察が相続。安永3年、17歳の賢丸は白河藩主・松平定邦に婿養子へ。田安邸で暮しつつ「松平定信」に改名。同年に兄・治察が病没。定信は田安家相続を願うも〝執政邪路のはからいで(田沼意次の反対で)〟田安家相続~将軍の道が絶えた(実際は一橋治斉の工作だったらしい)。田沼を憎むこと・恨むこと。

 松平定邦が発病で、定信は定邦の娘・峯子(5歳年上)と結婚。八丁堀の松平藩上屋敷に移居。この頃の定信の述懐~「20歳の頃までは四書五経のみを学んだために頑なで人情にも疎かった」(その狭量は後も変わらず)。政治に権力に意欲、かつ頑な性格の彼にとって、為政者向き朱子学はもろに嵌った。と小生は推測する。

 安永8年、22歳。将軍世子の家基が18歳で急死。一橋治斉の子息・豊千代(家斉)が世子へ。一橋が御三家・三卿と組み、権力願望の強い定信を仲間にした。時、天明3年7月の浅間山噴火。前年も凶作で〝天明飢餓〟。白河藩主・松平越中定信になった彼は、いち早く米穀買入れに奔走して白河入り。倹約質素、農業増産、商業資本の統制、風聞流布の警戒、家中引き締めの武力強化策(これらが後の「寛政の改革」へ)

 天明4年3月、旗本某が若年寄の田沼意次の嫡子・意知を襲う(裏で誰かが動いていたの噂)。そして天明5年に定信が一代限りの「溜間詰」になって、田沼追放に画策開始。

 天明6年、家治没で家斉が将軍へ。御三家や一橋治斉らの推挙で定信が老中首席と奥勤めを拝命。田沼意次失脚と田沼家と田沼派を激しく追放。(以上、高澤憲司著『松平定信』と磯崎康彦著『松平定信と生涯と芸術』を参考にまとめた。両著者の定信評は正反対)。

 絵は30歳の定信自画像模写。撥乱而反正(乱を撥めて正に返す)賞善而罰悪(善を賞して悪を罰す)と書いてあった。

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吾が孫か愛でいたはりて月桂樹 [暮らしの手帖]

gekkeijyu2_1.jpg 20年前に月桂樹〈ローリエ)を大島の庭に植えた。女房の友人ら(おばさん連)が島に来ると、誰もが月桂樹の葉を持ち帰った。肉料理用ハーブとして使うとか。買う程でもなく、庭木から頂くのがベストらしいが、その月桂樹が5年程前に塩害で枯れた。

 以来、東京で近所の公園の立派な月桂樹から幾葉かを失敬してきたが、その木が何故か突然に跡形なく伐採された。以後は散歩途中に月桂樹を見れば、女房が数葉をコッソリ失敬して保存。

 かく月桂樹に不自由をして、園芸店を見れば必ず探すも出会わず。それが年末に中野のホームセンター「島忠」へ行った際に、コレ(写真)が売っていたんです。450円也。

 鉢に植え替えたが、真冬のこと。初年度の冬は大事に育てようと、夜間は部屋に取り込み、陽が当たればベランダに出している。ひと冬越せば、そんな過保護は必要なかろうが、まぁ、そんな風に手をかけて、まるで孫を愛でるような気の使いよう。

 他にベランダには、挿し木で根付いたムクゲが5本ほどあるも、晩秋に葉が落ち、今は爪楊枝風です。小鉢で買ったブーゲンビリアも植え替えたが、これまた葉が落ちて枯れ木のようです。春になれば、きっと芽吹くに違いないと見守っているが、春はいつ来るのでしょうか。

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鳥瞰の快感「カレッタ汐留」へ [散歩日和]

siodomehidari_1.jpg 小生〝高層ビル好き〟かなと思った。未だ「東京タワー」も「東京スカイツリー」も昇っていないが、先日は四谷区役所9階から国立競技場を見た。そのちょっと前には「都庁展望台」へ行った。数年前に浜松町「世界貿易センタービル展望室」を楽しんだ。自転車散歩途中に幾度も「文京区役所の展望台」へ寄った。

 一昨日の朝、「そう〝カレッタ汐留〟の眺望を楽しんでみよう」と思い付いた。自宅傍の「東新宿」から大江戸線に乗れば「汐留」下車で、地下道沿いのエレベーターに乗れば、そこが46階、地上200m。

 地下鉄の中で考えた。「小生の高層ビル好きって何だろうか」と。色々考えたが、確かな答えは出て来なかった。そんな気持ちで展望スペースに着けば、眼前眼下に広がる湾外風景にハッと思い当たった。

siodomemigi_1.jpg 小生の高層ビル好きは、この「俯瞰・鳥瞰」好きゆえらしい。鳥になって眼下を見る稀な視覚・感覚の妙。超高層階の住民、また高層階で働いている人々には日常だろうが、小生には稀で、非日常の視覚の妙。

 今までの俯瞰体験で面白かったのは、調布空港から伊豆大島への小型飛行機低空飛行の眼下俯瞰。だが楽しむには速過ぎて、やはり静止画像で落ち着いて俯瞰を楽しみたい。それが己の超高層ビル好きの正体らしい。

 かくして「カレッタ汐留」からの俯瞰眺望です。眼下に「旧築地市場」。昨日夕刊の1面トップが「築地跡地を国際会議場へ」だった。五輪時は車両基地で、その後に再開発されるらしい。完成は2040年とかで、小生はもうこの世にいないだろう。

 隅田川に架かるのは「勝鬨橋」。その先の「晴海大橋」も見える。築地前の橋が「築地大橋」で「黎明大橋~豊洲大橋」へ。昨年11月に暫定開通(環状2号線)。その先が月島ふ頭~晴海ふ頭(目下は五輪選手村建設中)~豊洲市場。さらに有明から台場、中央防波堤へ繋がっている。築地川を挟んで眼下右は「浜離宮」~「竹芝桟橋」。

 この俯瞰景色を見ていると、不染鉄「山海図絵」を想う。彼は大島・野田浜から伊豆半島を眺めつつ煙草をくゆらせて富士山から日本海までを夢想し、時空を超えた俯瞰図を描いた。あたしも絵描きならば、この俯瞰から大島からハワイを、そしてアメリカまでも描き足してみたい。

 さて、俯瞰眺望をカメラに収めた後は、地上に降りて浜離宮を虫のように歩き回ってから帰宅。女房に写真を見せると「あんた、先日の国立競技場写真だけれども、あの工事現場で過労死があったわよね。〝カレッタ汐留〟ってぇのは電通本社ビルでしょ。確か同社では何人かが過労死しているわよね。そこを忘れちゃダメよ。そう五輪招致疑惑、ロゴデザイン問題も電通がらみじゃないの」と言われた。

 テレビニュースが、歌舞伎町カラオケ店での暴力団発砲殺人事件を報じ、逃走バイクが「東新宿」駅辺りに乗り捨てられていたと自宅近所の景色が映っていた。あたしは部屋の扉の内鍵とチェーンを掛けた。

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定信を国立競技場見つつ読み [散歩日和]

yotuyakara_1.jpg 松平定信関連書を求めて四谷図書館へ(新宿御苑・大木戸門前)まで歩いた。目的の本を借り、久し振りに9階の喫茶店(モスカフェ)で頁をひもとこうと思った。

 店に入って「アッ」と眼を見張った。眼前に工事中の国立競技場が見えるじゃないか。カウンターのおばさんにコーヒーを注文しつつ話しかけた。「ここから競技場があんな風にみえるんだぁ」「えぇ、最初から最後まで毎日見ていますよぅ」と自慢げだった。

 御苑の景色を見下ろすばかりでなく、国立競技場の工事進行を楽しむに絶好の場所になっていた。次に四谷図書館へ行く時は、工事観察用双眼鏡を持って行きましょうか。

 それにしても五輪招致の賄賂疑惑の行方は? 2億3000万円が問題らしいが、招致総費用は89億円とか。その前の失敗に終わった16年の招致活動費は146億円だったとか。図書館で本を借りた後に250円のコーヒーを楽しみつつ、国税の〝甘い蜜〟を誰かがどこかで吸っているに違いないと思った。

 さて、お目当ての松平定信の書の「はじめに」を読む。定信は家臣や後世の人達に自分が賞賛されるべく、いかに立派な儒教的政治家で、文化保護・継承に務めたかを家臣に書かせ、不都合なことは隠蔽した人物だったと書かれていた。明治維新~終戦までは清廉潔白、「仁政」を貫いた儒教的政治家のイメージも、戦後に学問の自由、学術発展に従い、本当の実像が次々に明るみなって来た、と書かれていた。

 さて、2020年の五輪は、後にどう評価されるのだろうか。五輪招致関係で得意げだった方々のなかには、理由は様々もすでに〝イメージ失墜〟の方も出ている。

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13)儒者風刺の古川柳 [朱子学・儒教系]

jyusyasenryu_1.jpg ここでまた脱線です。中国では「科拳」合格で即官僚も、江戸・寛政期の「学問吟味」では小普請の徒歩組、大田南畝がトップ合格でも2年後にやっと支配勘定へ昇進で30俵が加増されただけ。儒学(朱子学)を学んでも幕府官僚や各藩儒者になれるのは稀で、多くは貧乏学者のまま。せいぜいが手習所(寺子屋)で食って行く他はなかった。

 渡辺信一郎著『江戸の寺子屋と子供たち』に、そんな儒者らを微笑ましく笑った古川柳が紹介されていた。そこから幾つかを紹介です。

 「頭神(し)ン喉仏(ぶ)ツ胸に儒が住居」 これは(6)冒頭で中国では三教「儒教=先祖祭祀による現世への招魂再生。道教=自己努力による不老長生。仏教=因果や運命に基づく輪廻転生」混在と記したが、江戸庶民は「頭は神、喉に仏教、胸に儒教」混在と、見事に川柳にまとめている。

 儒者の真面目、杓子定規を笑ったのが「墨までも儒者は曲がらぬやうに摺り」。「子供にも草履隠しを儒者させず」。「儒者だけに欠かぬは義理と犢鼻褌」(犢鼻褌=とくびこん=ふんどし。儒者はふんどしも漢文調)。儒者の博識自慢を笑って「虎の鳴き声を聞かれて儒者困り」。

 昌平坂学問所がらみでは「昌平は唐名和名は芋洗い」(昌平橋の昔の名は〝芋=魔羅〟洗橋)。「三度目に昌平坂の下へ越し」(孟子の母の故事にかけて教育ママを笑う)。学問ばかりの貧乏暮しを笑って「借銭の余計にあるのに儒者困り」。「儒者を立てても古郷に借り」。「しこうして儒者店賃の日延べなり」(而して=漢文で)。「財を食む如しと儒者の初鰹」(初鰹の高値に漢文調で驚いている)。「而て後にと儒者の大晦日」(漢文調で年末の借金の言い訳)。「富は家を潤すものと儒者も買ひ」(言い訳しつつ儒者も冨札を買う)。「店賃で言いこめられる論語読み」(論語読みも店賃を溜めれば大家の言い分に負ける)。

 儒者の性を笑ったバレ川柳。「きっとした学者かならず女好き」(むっつり助平が多い)。「一陽が来復したと儒者おやし」(おやし=勃起。それを一陽来復と漢文調で)。「ラリルレロタチツテトには儒者困り」(ラ=マラ。魔羅がちょくちょく勃って困惑の儒者)。「論語読み思案の外の仮名を書き」(日々漢文だが、恋文だけは仮名で書く)等など~

 なお同書には「寺子屋以前の子供の実相」「寺子屋風俗」「詠の師匠と弟子」「三味線の師匠と弟子」「琴の師匠と弟子」などの項で多数古川柳が蒐集・解説されている。

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12)朱子学・陽明学は関西中心? [朱子学・儒教系]

masakado.jpg.jpg 森銑三著に「寛政の三博士は全員が関西人」なる記述があった。過日「大塚先儒墓所」を掃苔したが、余り胸に響かなかったのは、そのせいかも知れない。同墓所に眠る室鳩巣と岡田寒泉のみが江戸の人で、他全員が関西出身者。そこを調べ記してみる。

 まず江戸生まれの室鳩巣は現・台東区谷中生まれ。14歳で金沢藩に仕え、京都遊学で木下順庵に学ぶ。岡田寒泉は西丸書院番の子。松平定信が老中退任後は常陸の代官職。そして以下全員が関西出身者。

 木下順庵は京都出身。藤原惺窩の弟子かつ姻戚の京都・松永尺五に師事、一時は江戸にいたが京都に戻って金沢藩に仕え、その後に江戸幕府儒官。「木門十哲」を輩出した。柴野栗山は讃岐(香川県)生まれ。高松藩の儒者に学んだ後に、湯島聖堂で学び徳島藩の侍講に就任。定信に召喚されて昌平坂学問所の最高責任者へ。

 尾藤二洲は、伊予国(愛媛県)生まれ。24歳まで讃岐国の儒者に学び、その後は大阪の片山北海の門下。古賀精里らと共に学んで寛政3年に昌平坂教官へ。古賀精里は佐賀藩士の子。京都で朱子学を学んだ。彼らの先輩の藤原惺窩は、播磨(兵庫)生まれ。歌道の下冷泉家系で、家康に侍講したが危険察知で京都鞍馬の山麓に隠棲。林羅山も京都生まれ。

 次に幕末志士らに影響を与えた陽明学の方々を調べれば、大塩平八郎が大坂町奉行の元与力。中江藤樹は近江国(滋賀県)出身で近江聖人。熊沢蕃山は京都下京区の浪人の子。備前国岡山藩主の小姓から近江に戻って中江藤樹の門下。三輪執斎も京都の医者の子。江戸~京都を住み替えつつ、晩年は京都に退居。吉田松陰は長州藩士。

 儒教が朱子学から陽明学へなるに従って、それが俄然、西の人の学問・思想の感が濃くなってくる。江戸っ子の長屋暮しの熊さんにはとんと縁がない。「幕末は表向き、陽明学歪曲の革命的解釈だが、根は日本古来の神道による王制復活だった」と指摘されれば、江戸っ子庶民にはますます縁遠い。

 天皇が江戸城に入った年が明治元年。それまでの江戸庶民の〝お上〟は徳川だった。江戸っ子の総鎮守が「神田明神」で、そこには坂東武士のヒーローで東国独立で〝朝敵〟となった平将門が祀られている。「山王日枝神社」は江戸氏や大田道灌が建立で、別当寺は鏡智院。御祭神は山や水を司る地主神・大山咋神。さて、江戸っ子・熊さんは朱子学や陽明学をどう解釈したらいいのだろうか。写真は「神田明神」。

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夫婦連れ抜かれ追っての1万歩 [散歩日和]

nanposanpo_1.jpg 二日間、家に籠って「今年は世界中が嫌な状況に突入するなぁ」と嘆けば、かかぁが「お前さんが政治、世情を嘆いたってどうしょうもないよ。さぁ、歩いておいで」ってんで家を出た。

 今回は大久保通りを飯田橋方面へ。若松町を過ぎた辺りで、隠居小生を若い夫婦連れウォーカーが颯爽と追い抜いて行った。

 追いつこうとするも、その差は縮まらない。起伏のある「牛込柳町」から「牛込北町」へ。身体が辛い。信号に止められて、若い夫婦連れを見失った。飯田橋まで歩く積りも「神楽坂の賑わい」の中へ入った。ここまで約4千歩。

 神楽坂下の手前で右折し小露地に紛れ込んだ。間口一軒程の小店が黒塗りで統一されて並んでいた。そんな路地をクネクネと曲がれば「宮城道雄記念館」の案内標識あり。牛込中町の角「フールオンザヒル」なるビートルズナンバーの名の肉まんじゅう屋の壁に「大田南畝旧居案内」チラシが貼られていた。(写真下の①から②へ移転したと記されていた。出典は鈴木貞夫著『大田南畝の牛込中御徒町住所考』で、同書は中町図書館が蔵書)

 昔、小生が大田南畝旧居巡りをした際は場所特定表示なく、あたしは同地前「中町公園」の写真を撮って、南畝の家があったのは公園の反対側と記したことがあった。

nanpookati_1.jpg その道を西へ進むと、その「新宿区中町図書館」あり。新宿11図書館のなかで、同館のみ蔵書の例もままあって幾度か訪ねたことあり。牛込北町~市ヶ谷田町の道を横断し、そのまま西へ歩く。左に「牛込第三中」。その先に〝奇をてらった代表例〟みたいな某芸人宅あり。その先に渋く粋な裏千家東京出張所、大正8年建築の欧州山荘風の家(旧・野本耳鼻咽喉科医宅)など、多彩な建築ストリートです。

 「おや、この辺に最近来たことがあるなぁ」と思い出せば、徳川宗家(家達)との確執で役所辞任して民俗学専念の柳田国男旧宅が一本裏の道だ。大久保通り反対側には「林羅山一族の墓所」もあり。自宅帰還でやや歩き過ぎの計10,590歩。

 今年は日本を含み世界中が次第に嫌な状況突入と気分が沈んでいたが、しばし江戸に遊んだ楽しい散歩でした。イラストマップがもっと上手に描けたらいいなぁ。

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11 ) 陽明学から幕末へ [朱子学・儒教系]

youmeigaku_1.jpg 「陽明学者」が関西人、さらに西の方々ってぇことで、俄かに興味を失ったが〝いとまある身の徒然に~〟「陽明学」のお勉強です。参考は島田虔次著『朱子学と陽明学』、吉田公平著『王陽明「伝習録」を読む』ほか。

 その祖・王陽明は1472年、浙江省生まれ。父が進士試験首席及第で北京で官界入りし、陽明も10歳から北京暮し。勉強嫌いで戦争ごっこ好き。18歳で勉学に目覚め、28歳で進士へ。35歳の時に権勢ふるう宦官への反対運動で投獄。山地に流された。

 そこで日夜静坐。「聖人の道は、吾が性自ら足る。さきの理を外に求め̪るのは誤り」と大悟とか。つまり朱子学の圏外で、自己救済の道を発見。39歳で例の宦官が誅せられて官僚コースへ戻る。陽明学を講義しつつも陸軍大臣控まで昇進し、大規模な農民反乱の続発を平定。中国では人気のない人物だったらしい。また女性運悪く、家庭は常に修羅場だったとか)。

 さて、その陽明学を、長屋の隠居・熊さん(小生)にもわかる言葉、言い回しでまとめてみる。孔子の儒教は先祖からの生命持続論で「礼・孝・仁」が肝心。朱子学はそこに「気と理」概念を持ち込んで形而上学まで発展。その軸は「性即理」。人間の多様性や弱さの「情・人欲」は「気」の歪みゆえ、学問・修養で修正し、天から与えられた純粋な本性(性善説)をもって「即理」とする説。

 一方の陽明学は「心即理」。「心と理」を二分せず。「性・情」合せたものが本来の心ゆえ「心即理」。それを説いた書が『伝習録』。「心即理」に併せて「知行合一・至良知・万物一体の仁」が要とか。

 「到良知」の良知=万人が持つ先天的な道徳知=人間の生命力。これを全面的に発揮すること。人欲も自然なものとして肯定。「知行合一」=美しい色を見る=好きだから見る=「好き=行、見る=知」即ち「知行合一」。「万物一体の仁」は、自分を含む万物は繋がって一体ゆえ、他人の痛みは自分の痛みと説く。ゆえに社会教育や社会改革に至る。

 朱子学は読書や静坐を重視したが、陽明学はコトが起こったら、それでは役に立たない。日常生活の中で「良知」を磨く「事上練磨」が肝心とも説く。ゆえに陽明学に影響をされた者は社会的、政治的行動に走りたくなるらしい。

 日本の陽明学は中江藤樹(没後に『伝習録』が和刻)~三輪執斎~佐藤一斎~彼の門下らは陽明学を己の私欲・執着を「良知」を勘違いし、妄念を心の本性の叫びと間違えて行動に移して革命志向に走ったと指摘されていた。なお吉田著は「伝習録」原文と現代語訳・解説で構成されている。

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10)江戸から明治維新へ [朱子学・儒教系]

IMG_1685_1.JPG 小島毅著『儒教が支えた明治維新』が儒教・朱子学の流れをダイナミックに説明していた。同書参考に小生調べも加え、明治維新までの流れを一気にまとめてみた。

 孔子開祖の儒教思想は、紀元前1世紀~紀元後1世紀に、漢帝国の御用学問となり、7世紀の唐初期に教義統一が図られた。日本は、その政治秩序、社会組織を真似て8世紀初頭に儒教思想を理念の「律令国家」を完成した。

 中国儒教は、その後に朱熹が「理と気」の概念をもって朱子学を確立。より個々人の内面修養が重視された。朱熹没の約100年後、久しく中断の「科拳」が再開で、朱子学による新注「四書五経」が科目となって、朱子学が権威を有した。

 日本では17世紀に藤原惺窩や林羅山らによって朱子学が普及。徳川家康は羅山の〝曲学阿世〟をもって豊臣討伐を正当化して天下統一。老中・松平定信の「寛政の改革」で「異学の禁」で蘭学禁止。朱子学を幕府公認学問にした。聖学堂に昌平坂学問所を設け、寛政の三博士(全員が関西人)はじめを招聘。江戸庶民の贅沢品禁止、幕府批判禁止、混浴禁止、帰農令、囲米、棄損令、出版統制など。

 その後、藤原惺窩の寛容さもあってか諸説思想家が次々に登場した。経験主義的性格が濃い貝原益軒、新井白石などの派。大学頭の林家系。古学派(反朱子学者の山鹿素行、伊藤仁斎、萩生徂徠など)。懐徳堂派(大阪商人設立の学問所)。崎門学派(山崎闇斎の門下、浅見絧斎、佐藤直方、三宅尚斎など)。折衷派など~。

 そして陽明学派(中江藤樹、熊沢番山、三輪執斎、幕末の大塩平八郎=三島由紀夫は大塩に影響を受けた)は、その革新的な傾向を受けて吉田松陰、西郷隆盛らによって討幕運動の精神的背景になった。

 よって日本はアジアの中で最も早く西洋風近代国家への脱皮を果たしたが、その表向きは陽明学歪曲の革命的解釈で、根は日本古来の神道による王制復活、実質的には西洋列強を模倣した国家構築~が正しい。つまり端から儒教・朱子学は為政者に便利な理念で、民衆が支えていたのは仏教(寺請制度)だった。明治国家は陽明学的な幕末志士らが退場し、朱子学的な能吏が政治中枢を占め、その官僚制度が今も持続されていている、と説明。

 神道や王制復活の文言で、吾が鼻がムムッとうごめいた。もしやと陽明学に影響された方々を調べてみれば、全員が関西人なのに衝撃を受けた。江戸下町の熊さん八っつぁんには無縁の臭いがして、ここは小生ならではの臭覚発揮どころかなと思ってしまった。

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9)宇江佐真理と大田南畝旧居 [朱子学・儒教系]

harukaze_1.jpg 蔵書せぬ主義だが本は増える。先日は高価で捨て難かった洋書ゴルフ大型本を二括り捨てた。女房も膨大な時代小説群を捨てている。終活です。それでも残った宇江佐真理『雪まろげ』から「14歳の蜆売り・新太が手習所で習った『論語』だって澱みなく言えた」に、そりゃないだろうと記したばかり。

 そしてもう一冊、同作家の『春風ぞ吹く~代書屋五郎太参る』について。同文庫がなぜ本棚に残っていたかと云えば、同小説は代書屋で働きながら昌平坂学問所に通い、学問吟味に挑戦する小普請・五郎太の物語で「大田南畝」が登場しているからなんです。

 物語最終章「春風ぞ吹く」。五郎太が代書屋に詰めていると、芝居見物帰りの南畝(七十前後)が妾お香さんと入って来る。風邪気味ゆえ京伝店へは行かず代書(狂歌一首)の配達を頼んできた。

 老人は、五郎太を学問吟味に挑戦中と察し、自ら著わした学問吟味の詳細『科場窓稿』を進呈するゆえ、京伝店の返事を自宅に届けてくれと頼む。南畝が「寛政の改革」によって学問吟味を受ける経緯や当時の状況などを詳しく記して興味深い小説なのだが、どうも大田南畝の家の設定がおかしいのです。

 「老人の家は急な金剛坂を上り、東に折れて三軒目にあった」。坂を上り切れば、そこは現・春日通り。同じく金剛坂生まれの永井荷風は、南畝の家を「是則金剛坂なり。文化のはじめより大田南畝の住みたりし鶯谷は金剛坂の中程より西に入る低地なりと検証家の言ふところなり」と記している。金剛坂を下れば、そこはさらに低地・鶯谷で、そこを見下ろす見晴らしのよい崖上に南畝の「遷喬楼」と名付けられた家があったが定説。「鶯が喬木に遷るに逢う」の意の命名。この辺は実際に現場を歩いてみないとちょっとわからない。その谷底を今は地下鉄・丸ノ内線が通っている。

nanpokesiki.jpg.jpg さらに決定的な間違いは、南畝は文化9年(1812)の64歳に、金剛坂から駿河台淡路坂の拝領屋敷に移って、最晩年の11年間をそこで過ごしている。二階の十畳が彼の書斎・客間。そこから神田川渓谷向こうに湯島聖堂の甍と森が、その左に昌平坂学問所が見える。南畝はその家を聖堂の「緇林杏壇」から「緇林楼」と名付けていた。ここに五郎太を招いていれば、物語はさらに盛り上がったろうに、作者は迂闊にも「緇林楼」を見逃していたらしい。

 小生、南畝旧居巡りをした際は、「緇林楼」の地はずっと工事中で、2013年に23階ビル「御茶ノ水ソラシティ」完成後に「蜀山人終焉の地」の立派な史跡看板が設置され直されていた。そう云えば永井荷風の麻布「偏奇館」も45階「泉ガーデンタワー」になって、1階の植え込みに「荷風旧居」の史跡看板ありで、江戸文化人の旧居は、かくも高層ビルに呑み込まれている。

 小生、永井荷風好き。荷風が大田南畝好きで「年譜」まで作成していたことで大田南畝を知り、「寛政の改革」や「学問吟味」も知った。而して今、学問吟味の「儒教・朱子学」のお勉強に相成り候。写真は「緇林楼」から湯島聖堂辺りを臨んだ今の写真。

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今年は月十万歩の〝街歩き〟 [散歩日和]

kokuritumatu_1.jpg ブログは空から地へ。貧乏隠居は読書(&お勉強)中心ゆえ運動不足。足腰が萎えます。少し前までは自転車に凝っていました。しかし半日も乗り続けていれば、路面凸凹衝撃が腰や脊柱に良いワケもなく、今はもっぱら街歩き(ウォーキング)。読書に疲れたら「さぁ、お散歩に出かけましょう」です。

 スマホに「万歩計アプリ」を入れたのが昨年2月。同月累計58,396歩。そして12月累計が102,746歩。「脊柱狭窄症」が改善され、歩く力も甦りつつあります。この調子ですと三浦雄一郎を真似てどこかの山に挑戦したくなります。(若い頃、PRマン時代に彼のエベレスト・スキー滑降壮行会かのイベントスタッフ要員にかり出されたことを思い出した)

 さて、小生の歩き方や姿勢が悪いのでしょうか、スニーカー踵底が外側へ斜めに減ります。「NB」から「Nike」、そして年末に「FILA」へ買い替えました。新スニーカーで大晦日に国立競技場まで歩きました。

pano.jpg_1.jpg 自宅~新宿御苑・千駄ヶ谷門~国立競技場。いつもは東京体育館から競技場の写真を撮りますが、東京体育館は改修工事壁で囲まれていました。国立競技場は木材が張られ始めました。隈さん設計は、鉄筋の上に木材を貼り付ける工法らしいです。

 競技場をぐるっと回って、長崎ちゃんぽんの「水明亭」~中央線を跨ぐ「無名橋」~大京町~富久町~不正入試の東京医科大~新宿文化センター経由で11,400歩。今年はこの調子で月累計10万歩の〝街歩き〟を愉しみたく思っています。

 先日は「新江戸川公園」まで歩きました。芭蕉庵寄りに新しい門が出来て、正門看板は「肥後細川庭園」に名称が変わっていました。振り返れば、同公園の山を登って「永靑文庫〝春画展〟」を観て以来の同公園訪問。昨日も歩きで久々に都庁展望室へ。沿岸方面がよく見える南棟展望室が工事中で北棟展望室へ。

 国立競技場でスマホ「パノラマ撮影」を試みるも出来ませんでしたので、都庁展望室でパノラマ撮影の練習をしました。今年は街歩きに併せ、もう少しスマホを使いこなしたく思っています。(写真は共にスマホ)

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朗報!懸案の古木伐採 [週末大島暮し]

bassai.jpg.jpg いやはや、朝1のコーヒー飲みつつブログを立ち上げたら、驚きに腰を抜かしてしまった。友人が大島ロッジ懸案の(危険な)古桜を見事に伐採!の写真をアップしているじゃありませんか。

 この朽ちかけた桜は(1)ストーブ煙突からの火気危険。(2)倒壊時の屋根破損の危険をはらんでいたのです。

 非力な小生は、2年前の夏に「長い棒先にノコをくくり付けて」煙突に接触の小枝を払っていたのですが(2年前のスケッチ)、それをバッサリと倒してくれたのです。その手腕と、息詰まるような伐採ドラマは、リンク「つくって、つかって、つないで」をご覧下さいまし。

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東京の空を震わせ急降下 [暮らしの手帖]

hikokigumo_1.jpg 我家上空を飛ぶジェット機を撮った後で、東京上空の物騒な「羽田新ルート計画」(国土交通省)があるのを知った。ネット公開の同省「羽田空港のこれから」や新聞報道などから、その概要を記してみる。

 昨今の国際線増便によって、オリンピック開催時までに東京上空を縦断して羽田A滑走路、C滑走路への新ルートを設けるというもの。

 C滑走路への新ルートと高度は、赤羽先で左旋回し(1200m)~池袋~新宿(900m)~渋谷(400m)~品川(300m)~C滑走路へ。

 A滑走路への新ルートと高度は、浦和~新宿(900m)~恵比寿(400m)~品川(300m)~A滑走路へ。

 新宿の我家上空は先日記した北側の空(写真)を、羽田~船橋辺りで左旋回した飛行機、成田上空で大旋回したジェット機らが西方向へ約7千m上空を飛んでいる。加えてオリンピック前頃からは、我家南側の空を羽田へ降下しつつ(当然のこと爆音を地上に轟かせつつ)1時間に数十便のジェット機が飛ぶらしい。この新ルートは南風が吹き始める3月頃から国際線需要集中の午後3時~7時に限って、多い時で1時間に30~40便が飛ぶらしい。

 新宿都庁243mの上657mを飛び、先日散歩レポートした秋に開業「渋谷スクランブルスクエア」(45階展望施設230m)辺りから恵比寿上空へ一気に地上400mまで降下で、品川では東京タワー(333m)より下を飛んで着陸態勢に入るらしい。「大井競馬場」や「東京湾野鳥公園」辺りは240~210~150m。

 新聞には、品川区のマンション20階住民の「生活が激変する」というコメントが紹介されていた。すでに反対運動も展開らしいが、もはや日本は国民が知らぬ間に空母を造り(改造して)、F35Aと垂直着陸可能なF35Bの計105機の1兆2千億円購入(先日のテレビでトランプがサンキューと言っていた)とか。〝立憲民主国家から一党独裁国家の美しい日本〟になって、なんでも強行採決で決まる国になっているゆえ、政府が国民の声を聞くこともなかろう。

 なお上記の国土交通省「羽田空港のこれから」には「羽田新ルート・第5フェーズ(段階)説明会」の各地予定も公開されている。ちなみに新宿では2月8・9日に新宿駅西口広場イベントコーナーで行われるらしい。詳しい新ルートや高度、説明会日時は同サイトをどうぞ。オリンピック開催頃には、東京上空では各国ジェット機が羽田へ急降下する華麗なショーも加わり、益々楽しみなオリンピックがやってきます。

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ジェット機が閃きてわが空を飛び [暮らしの手帖]

sora_1.jpg 冬の空は澄みきっている。数ヶ月前にふと、我家上空を飛ぶ飛行機が多いことに気付いた。航路は同じで、東方に聳えるスカイツリー方面から俄かに現れて、西へ飛んで行く。機体が陽光を浴びて輝いている。

 バードウォッチング用にベランダ脇のチェスト上に双眼鏡を置いているが、それで飛行機も見る。午前10時頃だろうか、まぁ、ひっきりなしに飛んでいた。前の機を追尾するように飛んでいる飛行機もある。

 某日、ベランダに出て望遠レンズを向けた。アッと言う間に5機が飛んだ。撮った写真を見て「尾翼が黄色」のネット検索で「ポーラーエアカーゴ機」とわかった。「お腹がオレンジ色」検索で「ジェットスター機」。あとはJAL機とANA機で、わからないのが1機。

 写真は上左がANA機、右はJAL機、下左がjetstar機、下右がPolerエアカーゴ機らしい。後で日本上空を飛ぶ飛行機をリアルタイムで追跡するサイト「Flight rader24」を見つけた。飛行機にアイコンを合せれば、画面左枠に機体名、出発地、目的地、軌跡、高度、速度などが表示される。

 我家上空北側を飛んでいる飛行機群は、羽田から東京湾~船橋辺りで左旋回して東京上空から西方向(日本列島西の各空港、東南アジア)へ、また成田上空で旋回して東南アジアへ行く飛行機らしい。

 上空に取材用セスナ、ヘリが煩く飛んでいれば、概ねその下で大事件勃発で、テレビニュース映像になるが、そんな小型機までちゃんと追跡されている。

 読書やキーボード叩きに倦めば、その「Flight rader24」を見てしまう。刻々と変化するジェット機軌跡に飽きることがない。(スマホ用アプリもあるらしい)

 現在、我家上空を飛ぶ機は、気を付けなければ眼にすることもないが、オリンピックが始まる頃の東京上空は、逆方向から羽田着陸の新コースで、ちょっと大変(大騒音)なことになりそうです(続く)。

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