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18)松平定信の造園道楽 [朱子学・儒教系]

yokuonzenzu_1.jpg 松平定信は「家柄+秀才=自己中心=人や世の理解不足=狭量」によって老中解任。その直後から庭園造成に没頭した。江戸では同年着手で築地下屋敷に「浴恩園」を、大塚の抱屋敷で「六園(りくえん」を、深川入船の抱え屋敷で「海別(うみやしき)」を造園。白河に約1万4千坪「三郭四園」と「南湖」の計5つの庭園を造った。

 5つの造園経費はどれほどで、どこにあったお金なのかしら。「寛政の改革」で庶民に執拗なまでの倹約質素、贅沢禁止を強いて「あんた、一体何をやってんの」と呆れてしまう。あなたの「儒教・朱子学」ってぇのは庶民を痛みつけ、自らは贅沢三昧、風流を気取るってことだったのかと思ってしまう。

tukijisijyo_1.jpg ここでは江戸の庭園のみを記す。「浴恩園」の地は現・旧築地市場。元・一橋家下屋敷の1万7千坪を老中首座時の寛政4年に入手。翌5年から造園着工で翌年の37歳に完成。寛政3年に山東京伝が手鎖50日の刑、蔦重が財産半分没。司馬江漢だって寛政6年に『西遊旅譚』絶版令。着物から煙管まで〝贅沢品だ〟で引っ張られた庶民は数え切れなくいたのではなかろうか。

 「浴恩園」の名は、実際に将軍に嫌われての解任なのに、働きが認められてを装った命名か。二つの池を中心に回遊式庭園で、隣の「浜離宮」と同じく水門調整で潮水を導入。池周辺に春風館、花月亭、霞台、秋風舘。そして定信居館は両池を見下ろす数百坪の千秋館。祖父・吉宗が飛鳥山で行った手法で51カ所の景勝ポイントを設け、名士の漢詩・和歌の筆跡を刻んだ碑を建て、詩歌会や琴棋書画四芸会などの風流遊び。

 文化9年(1812)55歳で家督を嫡子定永へ譲ると同園で生活。世俗を離れ忘れて風流を楽しむ「楽翁」と名乗ったらしい。同園で繰り広げられる宴の参加者は、在任中(寛政の改悪)のことには触れないが決まりだったとか。一体どういう神経で風流なのや。

 「浴恩園」は文政12年(1829)72歳時の、神田佐久間町から出火の大火(2800名焼死)で類焼。その跡地は明治維新に海軍兵学校、関東大震災後に日本橋から魚市場が移転してきた。そして今は市場が豊洲に移って、オリンピック時は車両基地。その後は国際会議場他に再開発されるらしい。

 写真は先日に「レガッタ汐留」より撮った現・築地市場跡。市場正面の壁に「浴恩園の史跡案内板」が埋め込まれているらしい。絵は「浴恩園全図」(国会図書館デジタルコレクションより)。次は大塚の「六園」と深川の「海荘」について。 

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