SSブログ

20)由比正雪の乱 [朱子学・儒教系]

cyuyahaka_1.jpg 王陽明は政府中枢にいて、各地続発の農民蜂起を次々に討伐しつつ「陽明学」確立の『伝習録』(47歳)を刊。大衆から〝謀略家・偽学の徒〟と非難中傷されると、自らを〝狂者〟と言ったとか。56歳でまた反乱軍討滅に出て、その帰還途中で病没。

 そんな王陽明(陽明学)の影響を受けた日本人は、民衆蜂起討伐とは逆に幕政に牙を剥いた。「由比正雪の乱」~「大塩平八郎の乱」、そして幕末へ。

 『伝習録』刊が1524年。日本は室町時代後期。その81年後の慶長10年に、朱子学の藤原惺窩が徳川家康から退き、林羅山は徳川に仕え続けた。むろん両人共に『伝習録』を知っていたが~

 それから45年後の慶安3年(1650)。日本の陽明学の祖・中江藤樹没後に和刻『伝習録』も刊。備前の岡山藩主・池田光政は陽明学に傾倒して、中江の弟子・熊沢蕃山を重用。慶安2年、光政に随行して蕃山も江戸に入った。

 進士慶幹著『由比正雪』には、江戸の紀州家(頼宣)で「経書」を講ずる熊沢蕃山が、兵書を講ずる正雪と同室になった。互いに謀反気ある危険人物と見破り合った。別説では見破ったのは家老・安藤帯刀の説もあり。

yuinoran_1.jpg また大橋健二著『神話の崩壊』では、慶安事件(正雪の乱)の陰の首謀者=頼宣説もありと記していた。正雪は紀伊徳川家の眷顧(けんこ)と称して浪人を集め、頼宣の名を利用して謀反を企てたのは事実ゆえと記していた。さらに国会図書館デジタルで石崎東国著『陽明学派の人物』(大正1年刊)の「熊沢蕃山と由比正雪」を読めば、池田光政が正雪を抱えるべく蕃山を差し向けたが、5千石の提示に正雪は難色。蕃山は彼には謀反の気ありと忠告し、抱えるに至らなかったと記されていた。

 慶安4年、由比正雪「慶安の乱」。慶長から慶安同年までの間に生まれた23万5千人の浪人。正雪の元に全国の浪人が結集(数百人~1500人)。丸橋忠弥らが江戸で騒動を起こして将軍・家綱を拉致。大坂では金井半兵衛らが決起で天皇を擁す。両陣営の総指揮を正雪がとる計画。だが7月23日に謀反露見。26日に正雪自害。僅か4日で鎮圧。幕府はこの事件を機に文治政府へ舵を切ったとか。

 進士著には、肝心の蕃山・正雪の〝陽明学〟についての記述僅少。熊沢蕃山は陽明学嫌いの保科正之や林羅山らに、その「王道主義」が批判されていた上での「正雪の乱」。以後は浪々の人世を送って亡くなったと記されていた。次回は陽明学を分析しつつの宮崎公子著『大塩平八郎』を読んでみる。

 写真は金乗院(目白不動)の丸橋忠弥の墓。絵は豊原国周の歌舞伎「樟紀流花見幕張」の簡易模写。絵は俄か道楽ゆえ、久しく描いていないと一気に描けなくなる。絵が拙いので文字(レタリング)で頑張ってみた。

コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。