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応仁の乱(14)能について [日本史系]

kadensyo.jpg_1.jpg 小生、音楽会社の仕事をしていた頃に世阿弥『風姿花伝』を読んだ。プロモート計画書に「ここは〝秘すれば花〟」など記し、スタッフを煙に巻くなどしていた。以下、キーン著と竹本幹夫訳注『世阿弥』より自己流解釈で「能」のお勉強です。

 まずは~。大和(奈良)を本拠の山田猿楽の3男が「観阿弥」。田楽(=豊作祈願系。神様系=神楽)に先駆けた〝劇形式〟で演じた猿楽(江戸時代まで〝能〟は猿楽)が人気に。猿楽の最古記録は貞和5年〈1349)で観阿弥17歳。やがて猿楽4座中で観阿弥人気がトップ。京で勧進猿楽興業(寄附=観覧料=有料チャリティー公演)をしたのが22歳。

 鎌倉時代から田楽(神楽?)愛好の足利将軍家が観阿弥に注目したのが、義満が将軍になって6年後のこと。観阿弥42歳、嫡男「世阿弥」12歳。世阿弥は歌・連歌も堪能な美少年。義満寵愛で将軍の文化サロンに出入り。22歳の時、父52歳で没。後10年ほど彼の記録なしも、32歳頃に一座棟梁で将軍周辺の演能に名を連ね出す。応永6年(1400)、義満の御前で金春太夫(禅竹の父?)と共演。38歳で最初の能楽論『花伝』を執筆。

 ここで世阿弥の世襲問題。まずは金春流の若者・禅竹の才能を認め、流派は異なるも指導。彼(娘婿になる)に能楽論『六義』『捨玉得花』を書いた。世阿弥に子が出来ず、弟の子・元重を養嗣子(後の「音阿弥」)に能の秘伝を教え込む。その後に妻が男子(後の「元雅」)出産(よくあるお家騒動の例)。だが世阿弥は禅竹・音阿弥・元雅に分け隔てなく教えるも、次第に元雅の才に気付き『風姿花伝』を相伝。

noutirasi_1.jpg 応永15年(1408)、世阿弥の庇護者義満が急死。次の将軍義持の鑑賞眼鋭く、近江猿楽の名手犬王もいて、世阿弥は桟敷下で控えることもまま。応永20年(1413)、犬王道阿弥が没。田楽新座より寵児・増阿弥登場で、10年ほど彼の時代。世阿弥も発奮して今も演じられる名作を次々発表。

 応永29年(1422)、60歳の世阿弥は元雅に譲って出家。音阿弥・元雅の活躍で次第に観世座人気が不動に。だが正長4年(1432)に将軍家持没。次の義教の〝恐怖政治〟が始まる。義教は音阿弥びいきで、世阿弥の実の親子共演を嫌う。永享2年末、前途絶望で元能(次男)が出家。永享4年(1432)、元雅が巡業先で30歳没。その2年後に世阿弥74歳が罪状不明で佐渡へ配流。義教が「嘉吉の変」で暗殺される。子の義政は音阿弥の観世座を「将軍の猿学」とし、義政の禅文化趣味(=東山文化)における能の幽玄なる神秘性と奥深さを高評価。

 キーン氏はじめ外国人らが能を論じ解説するも、小生は恥かしながらが「能」を知らず。このお勉強で、少しは関心を持てたか。キーン著は最後に「義政の東山文化は。彼が山荘に移って没までの僅か7年間。だが彼の趣味は現在にも及んでいる。史上最悪の将軍は、すべての日本人へ永遠の遺産を遺した唯一最高の将軍だった」

 小生、よって千駄ヶ谷・国立能楽堂まで歩き訪ねた。写真下は入門編公演のチラシ。定例公演は予約開始同時に売り切れになる人気と窓口で説明された。(余談:国立競技場が完成に向かっていた。昨夜、桜田五輪相がまた失言で辞任。日本の現・為政者、危機状況なり

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