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応仁の乱(16)夢窓疎石の作庭 [日本史系]

sosekiniwa_1.jpg 前回の桝野著に加え、飛田範夫著『庭園の中世史』も読むことにする。飛田著には現・西芳寺は殆どが明治11年以降のもので、湘南亭さえ慶長年間に千小庵が築造。よって国師(夢窓)作庭は当時の文献から推測する他なしと記されていた。

 桝野著には「上段の洪隠山部の石組は完全に残されていて、国師の作風を知るに貴重。ここから枯山水が始まる」と記されるも、一方の飛田著には、洪隠山石組の記述は室町時代の史料にない。文明元年(1469・応仁3年)に西軍の攻めで西芳寺焼亡。文明17年(1485)に蓮如上人が西芳寺を再興。その10年後に「泉石比類なし」の記述がある。天文3年(1534)に再び兵火焼失。永禄11年(1568)に信長が再興を命じた。ゆえに石組が築かれたのは蓮如によってか、信長命による可能性もある」

 また国師は西芳寺開山の2ヶ月後には天龍寺の開山も請われ、西芳寺と天龍寺の造営が同時進行と思われる。小生は造園史無知、かつ両庭園を実際に見てもなく、以上から解釈不能に陥った。以下、理解出来る点を箇条書きで整理しておく。

<日本庭園の歴史的代表例> ①平等院庭園=平安時代末期の古典的な浄土式庭園。神殿造りの庭に阿弥陀堂を造り、死後の極楽浄土を現世に再現の願いで造営された。②龍安寺石庭=室町期の禅庭典型の枯山水形式。③桂離宮庭園=江戸初期の池泉回遊式。★国師造営の西芳寺や天龍寺は、②の龍安寺石庭への過渡期的造営になるのだろうか。

<曹洞宗と臨済宗> 奈良・平安時代は旧仏教の宗教闘争が絶えず。そんな仏教に代わって中国宋から「無我無念・無心の悟り」を求める禅宗が伝わった。 ●曹洞宗=永平道元によって、ひたすら自己鍛錬の座禅で「悟り」を求めた。農民中心に広がり、山奥に入って中央政権と距離をとった。禅芸術分野では良寛、能の世阿弥、南画の風外本高など。

●臨済宗=明庵栄西による禅問答(公案)を問う形の禅宗。北条氏の帰依を受け、武士階級中心に鎌倉で地盤を固め、京都に活動拠点を広げた。五山なる官寺制度の確立で地位不動へ。臨済宗の僧は夢窓疎石をはじめに庭園分野で多数。一休宗純、雪舟、茶の湯・村田珠光、能の金原禅林など。

<方丈庭園と書院庭園> 臨済宗の最初の本格禅宗形式寺院は建長寺。曹洞宗の最初は興聖寺だが現存せず。●方丈南庭=建物の南側に位置する庭園。禅の世界を表現する場として〝自然風〟に造営した(西芳寺や天龍寺)。⇒寺院が狭くなって破墨山水画の世界に近づいた大仙院 ⇒龍安寺の抽象化された石庭~と時代変化して枯山水庭園が確立。庭の掃除=作務が修業の一部になる。

<その他メモ>★国師は石、樹木、掃除にこだわった。特に桜を愛し植えた。「なおもまたあまた桜を植ばやと花みつたびにせばき庭かな」。★国師=臨済宗は問答(公案)ゆえに「境地」を模して建物・橋・景色部分に名前〝十境〟などを設けた。(その後の庭園に十景など凝った名が付けられているのはその名残か~)。★国師は山頂に塔亭を設けて眺望を楽しんだ。★国師の庭は二段の空間構造が多い。「心字池」と、そこに鶴亀モチーフも定番。

 「応仁の乱」シリーズは、最後に「東山文化シリーズ」になった。いつもながら未消化だが、この辺で終わる。

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