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応仁の乱(15)名庭を造った夢窓疎石とは [日本史系]

musou2_1.jpg 東山文化を代表するものに夢窓疎石(以下、国師)の庭園が欠かせない。それら名庭や建物を思うと、山ん中のボロ小屋「方丈庵」で暮し、義政と同様な歌を詠み、阿弥陀仏も飾っていた晩年の〝鴨長明〟を思わずにいられない。鴨長明の没から、国師・夢窓疎石の西芳寺(苔寺)開山まで123年。どんな時代変化があったのだろう。

 国師による主な庭は永保寺、瑞泉寺、西芳寺、天龍寺など多数。禅僧とはいえ、時の権力と結びついた名庭園。桝野俊明著『夢窓疎石~日本庭園を極めた禅僧』を参考に、彼は何者だったのかを探ってみた。

 生まれは鎌倉時代の建治元年(1275)らしいが定かではなく、三重県北伊勢の領主・佐々木家の出の説もあり。奈良・平安の仏教に代わり、大陸からの「禅」が脚光を浴びた時代。国師は4歳の時の一族紛争で、父方の源氏の縁で甲斐へ移住。

sosekihon_1_1.jpg 9歳で甲州源氏の菩提寺、当時は密教寺院へ出家。10歳で母の七回忌法要で7日間の法華経読誦とか。18歳で奈良は東大寺での受戒で一人前の僧になる。翌年に甲斐の寺に戻るも、疑問を抱いて禅宗へ。修行後に「夢窓疎石」を名乗る。鎌倉や京都の禅師を巡って悟りを得る。正式な禅師になった10年後に甲斐へ戻って浄居寺を開く。

 39歳、多治見で「虎渓山永保寺」開山。修業者が押しかけて、山へ逃れて閑居・修行。そこにも修行僧が押しかけて別の場所への繰り返し。51歳、正中2年(1325)、遂に御醍醐天皇の声がかかって南禅寺住持に迎えられるが固辞。だが北条高時の力も借りた上洛要請で南禅寺に入る。月3回の法話に修行僧が集結。今度は北条高時が鎌倉・寿福寺へ住持を要請。国師これを固辞し、南禅寺も退院。伊勢に善応寺を開山。

 ここから足跡を辿るのは止めよう。天皇、幕府から住持を要請されると修行僧殺到で寺は隆盛。また別の寺に移るの繰り返し。後醍醐天皇、鎌倉幕府と敵対する双方から支持される禅僧になったらしい。

 60歳で「出世」(禅僧として表舞台へ)の生活へ。権力側も平穏な世を願い、本人もそう願っての出生とか。荒廃していた西芳寺(苔寺)を禅寺として中興開山したのが65歳、1339年(北朝・暦応2年/南朝・延元4年)。その地名が彼の尊敬する唐・亮座主(りょうざす)の隠棲地と同じ名前で、かつ自然環境が良かったことで「作庭心」が湧いたとか。その心を漢詩で記し、その訳文が以下らしい。

 「仁徳を体得した人は、もとより山の静かなところを愛し、優れた智者は、自然の水の清らかな場を楽しむ。私が庭づくりに没頭するのは、おかしなことではない。ただ、この庭づくりによって、みずから仏道を磨こうとしているだけである」 これでは鴨長明、いや「ポツンと一軒家」の住民と変わらない。さて、別の書も読んでみましょうか。(続く)

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