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矢来町②鏑木清方旧居跡 [牛込シリーズ]

yaraikoen_1.jpg 「矢来公園」の「小浜藩邸跡・杉田玄白生誕地」史跡柱を見た後に公園周りを歩くと、令和2年設置の真新しい「鏑木清方旧居跡」史跡説明板あり。こう記されていた。

 ~日本画家・鏑木清方(1878~1972)は、大正15年(1926)9月から昭和19年(1944)まで、現在の新宿区矢来町38番地3に暮らした。ここ新宿区矢来公園の東に隣接する一帯(説明板の右奥)である。

 清方は、本名を健一といい、明治11年(1978)に東京神田に生まれた。13歳の時に、浮世絵の流れを汲む水野年方へ弟子入りし、美人画を得意とする画家として地位を固めていった。矢来町の家は、大正15年(1926)9月より賃貸し、のちに購入して、懇意の建築家・吉田五十八へ依頼し、応接間や玄関を改築して制作環境を整えた。清方はこの家を「夜蕾亭」と称した。

 代表作となる「築地明石町」(昭和2年)のほか「三遊亭圓朝像」(昭和5年、重要文化財)など絵画史に名を残す名作をこの地で多く制作した。ない、鎌倉に移転後の昭和29年(1954)には文化勲章を受章した。

kiyokatahon1_1.jpg 補足すると、鏑木清方は「條野採菊」の三男。父は幕末~明治の作家・ジャーナリストで、明治5年に仲間と「東京日々新聞」を創刊。同新聞社には福地櫻痴、岸田吟香、岡本綺堂などが入社。また「やまと新聞」も創刊し、圓朝の人情噺速記に月岡芳年の挿絵などで人気。明治20年に同社近く(木挽町)に歌舞伎座竣工。そんな明治の下町暮らし、文人や芸人との交流、思い出が綴られたのが昭和36年刊『こしかたの記』、昭和42年刊『続こしかたの記』。清方の挿絵デビューも「やまと新聞」挿絵だった。

 『続こしかたの記』には「夜蕾亭雑記」と題した五編が収録。その書き出しは「矢来町三丁目は、もと酒井邸の構内で、住居のあたりも字を山里と呼んで、隣家の庭には幾抱へもある銀杏の老樹が聳え立つた。久宗元台湾銀行理事から譲り受けたこの家も明治中期の建築と見えて、畳を敷けば二十四畳になる洋間の応接間は先ず学者か医者を連想する~」

 「道はやがて小高く。その右側北下りの崖上にたつのがわが家である。~二階からは護国寺のうしろに筑波山が見え、西の高い小窓からは富士山を眺めることもできた。その筑波の見える画室で〝築地明石町〟を描いた」。赤城神社については「その時分は江戸初期の特色ある黒塗の柱、極彩色にした花鳥の彫物のある欄間などに、参詣の都度懐古に耽ったものである」。

 同著には、他に当時の神楽坂の町や店、文人らとの交流、関東大震災の体験などが記されている。また江戸の暮しが漂う下町(京橋、湯島)暮しの思い出や、父・條野採菊に興味を持ったが、次は「小浜藩矢来屋敷」のお勉強に移る。

 メモ:10日の東京都コロナ感染者、最多の243名。新宿区64名。新宿の定額給付金支給は14%で23区最低。九州豪雨の死者63名・不明16名。住宅被害1.3万棟。

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矢来町①小浜藩邸と杉田玄白 [牛込シリーズ]

yaraiobama_1.jpg 「矢来町」と云えば、あたしの場合は「古今亭志ん朝」だ。志ん朝が矢来町のどの辺に住んでいたかは知らないが、自分が老いて病院や養老院暮らしになった時の愉しみに、随分も前から『志ん朝CD全集』を備えている。某日のウォーキングで早稲田通り「牛込天神」から、矢来の文字に誘われて「矢来公園」へ出た。

 そこに「小浜藩邸跡」史跡柱があって、その横に「杉田玄白生誕地」とも刻まれていた。杉田玄白については、2年間のブログ「司馬江漢シリーズ」で『蘭学事始』(83歳の玄白著)を読み、似顔絵付きでアップ済。菊池寛の同題を「青空文庫」で読み、不満足ゆえ中公クラシックス刊『蘭学事始ほか』を読んだが、この矢来公園=小浜藩邸生まれとは知らなかった。

 「小浜藩邸跡」の史跡柱下の石板に、こう刻まれていた。~若狭国(福井県)小浜藩主の酒井忠勝が寛永5年(1628)徳川家光からこの地を拝領して下屋敷としたもので、屋敷の周囲に竹矢来をめぐらせたことから矢来町の名が付けられました。もと屋敷内には、小堀遠州作による庭園があり、蘭学者の杉田玄白先生もこの屋敷に産まれました。

m_kaitaisinsyo_1.jpggenpaku5.jpg 改めて杉田玄白の転居歴を調べてみた。享保18年(1732)に同屋敷で生まれ、父が小浜詰になって7~12歳が小浜藩暮し。再び父が江戸勤めで矢来屋敷へ。ここで漢学と、芝の西玄哲家へ通って医学修業。

 20歳で小浜藩医として上屋敷(昌平橋内)へ。5年後に日本橋で開業。父の死で家督・侍医を継いだ37歳で新大橋の中屋敷(浜町)へ。43歳で中屋敷を出て浜町で開業。この頃にオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』を藩に買ってもらって、蘭学仲間と翻訳した『解体新書』を刊。確か『蘭学事始』に、翻訳の苦労が詳細に書かれていたと記憶する。同書の「解体図」模写は平賀源内が江戸に連れて来た「秋田蘭画」を学んだ小野田直武。田中優子(現・法政大総長)は『江戸の恋』で源内と直武はゲイ仲だった~と記していた。

 さて、例の通り芳賀善次郎著『新宿の散歩道』の「矢来屋敷」説明。~寛永16年(1639)の江戸城本丸の火災で家光がこの下屋敷に避難した。まわりに竹矢来をつくり昼夜警固。酒井忠勝は以後、垣や塀を設けず竹矢来にした。また矢来町71番地あたり一帯は、明治末期までひょうたん形の深くよどんだ池があり、これを「日下が池」とか「日足が池」と書いて「ひたるが池」と読ませていた。長さ約108m、幅36m、面積800坪。(中略)こにに長さ12.6mの板橋があった。ここで家光は水泳、水馬、舟遊びに興じられた。

 矢来公園の周りを歩くと、真新しい史跡説明板「鏑木清方旧居跡」があった。かくして次第に、この小さな「矢来公園」の明治、江戸へ惹かれて行った。

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新宿の徳川以前の牛込氏、コロナ感染者急増 [牛込シリーズ]

usigome3si_1.jpg 宿題<牛込氏7『大胡系牛込氏の研究』を読む>を、今朝やっと6月5日のブログ欄にアップです。同冊子や『牛込氏と牛込城』などは新宿の地元史として欠かせないも、共に図書館の隅で眠っているようでした。

 そんなこたぁ~好事家や閑隠居の趣味域で、今の新宿在住者にとってはコロナ感染者急増への警戒・慄き・用心が最大関心事。図書館も異常な過敏さ・警戒態勢での通常利用を再開です。この辺は歌舞伎町裏で〝夜のお勤めの両性の方々〟のお店、お住まいも多い地域ゆえ無理もありません。

 でも生活するにはスーパー、コンビニが欠かせず、さらには通院もある。近所の大病院には「新宿区新型コロナ検査スポット」もあり。同スポットに入って行く方とも擦れ違います。かくしてコロナ菌の感染から免れているのは奇跡・偶然のようなもの。

 収束するまで生き延びられましたら「ウイズコロナの達人」になるかも。皆さま、特に〝お酒と密〟にお気を付け下さいませ。また異常気象のせいだろう多発する「かつてない大雨~洪水被害」をお見舞い申し上げます。

 追記:牛込勝重が徳川家旗本になり、幕府から小日向・龍慶橋の屋敷を与えられたそうな。そこで嘉永2年(1849)の「江戸切絵図」を見ていたら、同橋際に「牛込常次郎」屋敷を発見した。小生、酒を呑みつつ誰かさんとおしゃべりするより、そんな発見が小躍りするほどうれしい。

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牛込氏7)『大胡系牛込氏の研究』を読む [牛込シリーズ]

usigomesi_1.jpg 著者は牛込博康氏。まず『牛込氏と牛込城』によって、自分の祖先が徳川家旗本の牛込氏ではなく、江戸幕府初期に足立の庄屋として分家した牛込氏であることがはっきりしたと記している。足立の牛込氏末裔と思われる著者が、江戸時代初期までの大胡系牛込氏の歴史を探ったのが同著。以下、小生注を()で加えつつのお勉強で、簡単要約してみます。

 大胡氏初代は大胡太郎重俊。鎮守府将軍(陸奥に置かれた軍政の長官)藤原秀郷(俵藤太)の5代渕名大夫「兼光」の長男(足利大夫成行)の3男。(藤原秀郷は平将門追討で源氏・平家と並ぶ関東支配の武家諸氏の祖になった。父は平安前期~中期の貴族)。渕名大夫「兼光」は上野国佐位郡渕名(伊勢崎市)の郡司。足立大夫「成行」は足立の郡司になった藤原成行。(ちなみに「西行」も俵藤太から9代目の武家生まれ。秀郷流奥州藤原氏と遠縁で、陸奥への2度の旅も納得です)

 さて、大胡太郎重俊から5代目あたりまでが大胡城主だろうか。「元弘の乱」(鎌倉時代末期の幕府VS後醍醐天皇の闘いで隠岐流刑の天皇が、隠岐を脱出して新田義貞勢を加えての討幕戦に勝って京都凱旋)で鎌倉幕府に仕えていた大胡牛込氏の所領は新田貞義の手に渡った。

 この時代は勝ったり負けたりの乱戦続き。生き残った大胡一部は、後の戦いで所領を奪取し、また大胡別流は足立、磯子、銚子など各地にも散った。この辺の詳細は省略。では大胡系牛込氏はいつ牛込に移住したか。大田道灌が「田島の森の赤城神社」を番町(牛込御門内)に遷座したのが寛正1年(1460)ゆえに、それ以前に大胡系牛込氏が「赤城神社」を勧請していたことになる。

 一方、暦応3年(1340)に鎌倉公方・足利義詮の意によって「江戸近江権守」が牛込郷を預かっていた。南北朝内乱が関東にも飛び火で、応永23年(1416)の上杉禅秀が足利持氏・上杉憲基に反旗の乱。「牛込江戸氏」は上杉方の太田氏指揮下に入り、後の太田康資が北条氏康への反旗で失敗。牛込江戸氏も大胡系牛込氏の背後に潜んだらしい。(江戸氏関連書も多数。お勉強テーマは無限です)

ryukeiusigome.jpg かくして江戸憲重氏は、隣地の大胡重方と姻戚関係を深めて、文安6年(1446・宝徳元年)に江戸氏所領の桜田、牛込領を牛込氏に譲渡して身を隠した。早大「下戸塚遺跡調査」で「安倍球場跡地で多数建物跡を発見」は、牛込流江戸氏の屋敷跡と推測されているらしい。

 天文24年(1555。弘治元年)、大胡系牛込氏・重行の子の勝行(大胡平五郎)が北条氏から宮内少輔の官位をもらったのを機に大胡から牛込へ改姓。大田道灌が移した「赤城神社」を現在地に遷座。その後、勝行から勝重へ相続。勝重が徳川家旗本になった際に幕府から与えられたのが小日向・龍慶橋の屋敷。(嘉永2年・1849年の江戸切絵図を見ていたら、牛込濠の牛込御門の先、飯田橋の船河原橋を渡って神田川を遡った最初の橋=龍慶橋の右に「牛込常次郎」屋敷があった)。

 またこの頃に、二人の兄弟(大胡氏の子・房光=島根牛込氏、江戸氏の子・平四郎=栗原牛込氏)が足立の大庄屋として分家されたらしい。同著の概要はこんな内容だろうか。小生、東京生まれながら関東武士の歴史に疎く、またの機会にお勉強したく思っています。

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牛込氏6)『牛込氏と牛込城』を読む [牛込シリーズ]

 ~としたいも、新宿区図書館の本は未だ読めず。11日に新たに予約か、通常利用開始の7月1日まで待たないといけないらしい。「コロナ自粛解除ステップ2」も、新規感染者34人で「東京アラート」発令。歌舞伎町はじめ〝夜の街〟を擁する新宿区ゆえ無理もない。

 コロナ感染と関係ありやはわからぬが、ここ1週間でふらふらと歩いていて倒れる女性、座り込み標識柱にしがみついている女性、ハイヒール姿で左右に揺れつつ歩く女性~を続けて見た。

 さて、続きものブログアップ中ゆえ、ブログ機能上「このタイトル+この文」を仮アップで、同書読了後に(6)を「再・編集機能」で書き直せ(差し替えせ)ばシリーズが続く体裁になる。

 読む本が切れたので、自粛前と同じ賑わいに戻った新宿・紀伊国屋書店で、渡辺淳一著『女優』(戸板康二『松井須磨子』は書店にも図書館にもなし)を購った。松井須磨子の小説。読み始めて未だ100頁だが島村抱月と松井須磨子が初めて二人で飯を食うシーン後に~ 抱月の家は諏訪町で、須磨子の家は大久保とあった。坪内逍遥の小劇場付き研究所も近くの余丁町坂上で、坂を下ると荷風旧居。抱月と須磨子のドラマはこれから神楽坂へ移って行くだろう。散歩圏内で展開する大正ロマン、愛のスキャンダル、新劇史~。

 ★上記をこのまま残したまま、7月2日に<『牛込氏と牛込城』を読む>を追記です。

usigomejyo_1.jpg さて『牛込氏と牛込城』(新宿区郷土研究会刊)は、他館では貸出可もあるが、中央図書館では館内閲覧のみ。20頁の小冊子ゆえコピーして自宅で読ませていただいた。今まで『新宿の散歩道』(芳賀善次郎著・昭和48年刊)を主参考にさせていただいたが、同冊子には芳賀氏が「新宿区郷土研究会」元会長で、同会の創立十周年記念号とあった。

 「はじめに」に~元会長は同会にとって「牛込と牛込氏」テーマは避けて通れぬと強調された。元会長の資料と考証を中心に同会全員(13名)が研究を続けてきたが元会長が急逝され、故人の遺志を継承しての発行と説明されていた。

 小生ブログが記した概要に大間違いはなさそうだが、不明部分などが丁寧に説明されていた。まずは「江戸氏と牛込氏の関係について」。江戸氏は平安末期から鎌倉、南北朝時代の武蔵在地の武士団・武蔵7党の1つ。秩父党の重継の代から鎌倉幕府の家人を務め、江戸を領として江戸氏を名乗った。

 牛込本家所蔵『牛込文書』21通の内①~⑦が江戸氏関係のもの。牛込を領地にしていた江戸氏と大胡氏の間に姻戚関係が出来て、江戸氏の牛込所有地を大胡氏が継承したと説明されていた。この辺はすでに紹介の新宿歴史博物館研究員・矢島希彦氏による『牛込流江戸氏と牛込氏』にも詳しく、また両家の姻戚関係は今回借りた『大胡系牛込氏の研究』にも詳細説明されていた。

 次の主テーマは「牛込城について」。昭和61年の1年間、会員全員で調査した結果が報告されていた。小生が芳賀著から推測して現地図に乱暴に赤線で囲った「牛込城」概域を、同誌より詳細・訂正すると、善国寺裏辺りに「大手門」。神楽坂商店街の向う側まで「曲輪地」が広がっていた。西側の曲輪地は現「愛日小学校」辺りまで広がっていて、牛込濠辺りは現・東京理科大や旧日仏学院など濠沿いの平地から少し坂を上った台地からが城域と図解で説明されていた。

 また牛込氏のその後は、牛込勝重が家康にお目見えを許され1,100石取りの旗本になった。屋敷は小日向牛天神下に与えられた。牛込城址地は江戸城に近い地で重視され、譜代家臣の屋敷地、寺社地になった。3代重悉は長崎奉行。第13代重行は維新時に将軍に従って遠州浜松へ。その後は田町へ。詳細はぜひ同誌をお読み下さい。

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牛込氏5)牛込城の地「光照寺」 [牛込シリーズ]

kosyoji_1.jpg 「牛込城」があった地「光照寺」へ。もう少し寄り道する。「江戸切絵図」を見ると「毘沙門天・善國寺」先の両側が「肴町」(現・神楽坂5丁目)。牛込城の城下町だった名残りの町名。そして毘沙門天の向い側の奥に「行元寺(ぎょうがんじ)」(今は「寺内公園」)があった。

 芳賀著では「行元寺」も牛込氏建立では~と推測していた。その地は「肴町・兵庫町」の人の菩提寺で、昔の赤城神社の別当寺。早稲田駅近く「宗参寺」を建立するまでは牛込氏の菩提寺でもあったのでは~と推測していた。小田原城の落城時に北条氏直の「北の方」が「行元寺」へ逃亡して来たのも、北条氏と牛込氏の関係が深かったことを物語っていると記す。

 また江戸時代になると「赤城神社」と同じく「行元寺」辺りは岡場所のひとつ「山猫=寺社境内に出没する娼婦」発祥地になる。『牛込区史』に「こっそりとして山猫は人を喰い」なる川柳が紹介とか。(★『牛込区史』も読みたいが新宿区図書館の通常利用は7月1日から。6月1日から「ステップ2」なのに、何でそんなに遅いのだろうか?)

kiriezuhoi_1.jpg さて本題「牛込城址」へ。「江戸名所図会・牛込城址」の説明は短文。「藁店(地蔵坂)の上の方が其旧地なりと云伝ふ。天文の頃、牛込宮内少輔勝行(牛込勝行)、此に住たりし城塁の址なりといへり」。「光照寺」訪問時はコロナで閉門中。「グーグルマップ3D」で侵入した。

 本堂前に「牛込城址」の史跡看板あり。~照光寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。塀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推測される。説明文は続く~

 牛込氏は、赤城山の麓上野國(群馬県)勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とする。天文24年(1555)重行の子の勝行は、姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近も含め領有したが、天正18年(1590)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取壊された。「光照寺」は増上寺の末寺で、正保2年(1645)に神田から移転してきた。光照寺には新宿区登録文化財「諸国旅人供養碑」「便々館湖鯉鮒の墓」(新宿西口「常円寺」にある彼の狂歌碑は紹介済)などがある。

kosyojiura_1.jpg 牛込城について芳賀著には、~詳細不明だが口碑によれば、今も地名に残る牛込濠際の「市谷船河原町」~副都心線「牛込神楽坂駅」南の「南藏院」~大久保通り~神楽坂で囲まれた地域としている。いわゆる城郭ではなく牛込氏の居館中心の中世の城で、江戸城の出城の呈。大手門は神楽坂、裏門は南藏院に通じる十字路辺り。居館は「光照寺境内の本堂跡辺り」と推定。詳細不明は家康に遠慮して城を取り壊し、史料も遺さなかったためだろうと記していた。

 また光照寺の向いに最近まで「日本出版クラブ」があったが、その地は明和2年(1764)に幕府命で天文方・佐々木文次郎(大田南畝と同じ御徒勝の頭)が建てた「新暦調御用屋敷(天文台)」跡だった。昔の同地眺望の良さが伺える。牛込氏、さぞご満悦で江戸を眼下に見渡していたと想像できる。

 「光照寺」に隣接する地が江戸時代は「牛込仲御徒町」(現・中町)で、弊ブログでお馴染みの大田南畝(蜀山人)が1749年に生まれている。小生は彼の『江戸生艶気蒲焼』原文筆写までしているも、迂闊にも彼がこんな狂歌を残していたとは知らなかった。「こどもらよ笑はば笑へ藁店のここはどうしよう光照寺」。坂道がぬかるんでいたか、はたまた酔っていたかで藁店(地蔵坂)で転んだ姿を子供らに見られてとまどいの心を詠ったのだろう。

 写真上は閉門中の「光照寺」。写真中は「牛込氏(0)」でアップの「江戸切絵図」で示した「牛込城」地域。写真下が「光照寺」裏側から撮ったもの。図書館が再開したら『大胡系牛込氏の研究』と『牛込氏と牛込城』を読んで紹介したく思っています。

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牛込氏4)「赤城の丘」の思い出 [牛込シリーズ]

akagikitagake_1.jpg 「赤城神社」から「光照寺」へ。ちょっと寄り道をする。野田宇太郎著『改稿東京文学散歩』の「牛込界隈」から面白い箇所を拾い書きする。

 ~嘗ては廣津柳浪が住み、柳浪に入門した若い日の永井荷風などもしばしば通ったに違いない小路にはいり、旧通寺町の神楽坂六丁目に出て、その北側の赤城神社へ歩いた。このあたりは神社を中心にして赤城元町の名が今も残っている。★荷風『夏すがた』(大正3年・35歳)は発売同時に発禁。妾宅を毘沙門天裏に構えて色事の日々。荷風さん、若い頃から〝覗き好き〟だった。

 (野田氏が20年前・昭和26年に書いた「赤城の丘」文章を振り返って)~赤城神社と彫られた御影石の大きな石碑は戦火に焼けて中途から折れたまま。大きな石灯籠も火のためにぼろぼろに痛んでゐる。長い参道は昔をしのばせるが、この丘に聳えた、往昔の鬱蒼たる樹立はすっかり坊主になって、神殿の横の有名な銀杏の古木は、途中から折れてなくなり、黒々と焼け焦げた腹の中を見せてゐる。

 (そして昭和46年の再訪で)~大きな標石が新しくなakagikitakaidan_1.jpgっているほかは、石灯籠も戦火に痛んだままだし、境内の西側が相変わらず展望台になって明るく市街の上に開けているのも、わたしの記憶通りと云ってよい。★現代のモダンな神社と対比すると面白い。

 (こんな記述もあった)~招忠碑の前から急な石段(写真中)が丘の下の赤城下町につづいている。その石段上の崖(写真上)に面した空地は、明治38年に坪内逍遥は易風会と名付けた脚本朗読や俗曲の研究会をひらき、自作『妹山背山』を試演した「清風亭」という貸席があった。※その貸席が明治末に江戸川際「長生館」になり、逍遥の許を去った島村抱月や松井須磨子が、大正2年に同館で芸術座を起こす打ち合わせを密かに行った。二人が横寺町に設立した芸術倶楽部や人気演目の説明。そして同倶楽部二階で抱月がスペイン風邪で急逝、2ヶ月後に同館物置小屋で松井須磨子が後追い自殺した経緯を紹介。

 この牛込氏テーマが、東京女子医大創始者・吉岡彌生~もう一人の彌生(草間彌生美術館)~その道路反対側の多門院で松井須磨子のお墓を見たことから始まったゆえ、ご両人の足跡も気になる。

 (「白秋と〝物理学校裏〟」からは) ~大通りから南へ分れた登り坂の道は、以前は江戸以来の通称で「藁店」(写真下が現・藁店)と呼ばれていた。その坂に神楽坂キネマというセカンド・ランの洋画専門の映画館があったのも昭和のはじめのなつかしい思い出である。

waradane_1.jpg ここで野口冨士男『私のなかの東京』で補足する。~藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の「和良店亭」という小さな寄席があった。映画館の「牛込館」はその二、三軒さきの坂上にあって徳川夢声など人気弁士を擁して人気があった、と記している。★大正10年頃の「牛込館」は帝国劇場の内装。震災に遭ったかで明治には平屋の「牛込館」へ。★寄席は時代にとって「牛込藁店亭~和良店亭~藁店笑楽亭」などと名を変えている。

 さて、藁店(地蔵坂)をのぼって「牛込城」があったという「光照寺」へ行ってみましょう。

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牛込氏3)赤城神社 [牛込シリーズ]

akagijinjyae_1.jpg 鶴巻町「元赤城神社」から赤城元町「赤城神社」へ。そこは平成22年(2010)に三井不動産系住宅分譲会社+隈研吾設計で、境内に分譲マンション建設。現代風に様変わり。ここは勧請当時の「牛込氏」がテーマゆえ、まずは例によって『江戸名所図会』から。

 赤城明神社 牛込の鎮守にして、別当は天台宗東覚寺と号す。祭神上野國赤城山と同神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云。往古、大胡氏深く此御神を崇敬し、始は領地に勧請して、近戸明神と称す。其子孫重泰(しげやす)当國に移りて牛込に住せり。又大胡を改めて牛込を氏とし、其居住の地は牛込わら店の辺なり。先に弁す。祖先の志を継て此御神をここに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり。当社始て勧請の地は目白の下、関口領の田の中にあり。今も少しばかりの木立ありて、是を赤城の森とよべり。

akagijinjya_1.jpg ※「江戸名所図会」には大きな別当寺「天台宗東覚寺」が描かれているが、今「東覚寺」はどこにあるや。※近戸明神=赤城山の麓の大胡神社が近戸明神と呼ばれていた。※「わら店」は現・毘沙門天脇から登る「地蔵坂」にあった藁店のこと。その先の「光照寺」辺りに「牛込城」があった。※目白の下、関口領の田の中=元赤城神社・田島森。

 そしてモダンな現・赤城神社の由緒説明は~ 後伏見帝の正安二年九月、上野国赤城山なる赤城神社の分霊を今の早稲田鶴巻町の森中に小祠を勧請。其後百六十余年を経て寛正元年太田道灌持資が牛込毫へ遷座。其後大胡宮内少輔重行が神威を尊び今の地に、始めて「赤城大明神」と称えるようになった。かくて天和三年幕府は命じて江戸大社の列に加え、牛込の総鎮守となる。

 ※「正安2年(1300)」がまた出て来た。宿題です。※寛正元年は1460年。太田道灌の江戸城築城が長禄元年(1457)。その後に多数神社を江戸城周辺に勧請し、赤城神社遷座もその頃に行われた。

 芳賀著より補足する。大胡氏が現在地に天城神社を移した弘治元年(1555・天文24年)は、重行の子・勝行が北条氏康の重鎮家臣となり、正月に宮内少輔の官位をもらい、姓を牛込氏に改めて牛込から赤坂、桜田、日比谷辺りまでも領していた。また勝行の子・勝重の妻に、江戸城の遠山綱景の娘を迎えていた。

 そして天正18年(1590)、江戸城が徳川家康に明け渡され、関東が家康領となり、牛込氏も徳川の家来になった。家康江戸入城に際しては牛込七ヶ村が川崎までお出迎え。その後で牛込城が廃城へ。牛込氏は一旗本になった。

 芳賀著は最後に~ 牛込氏について不明な点が多いのは、徳川に遠慮して史料を処分したため、かつ為政者も黙殺したせいかも知れないと記していた。次は「牛込城」があった地「光照寺」へ行ってみる。

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牛込氏2)元赤城神社と田島森碑 [牛込シリーズ]

motoakagijinjya_1.jpg まずは当時の歴史把握から~。「応仁の乱」を経て「東山文化」を創った足利義政・没が1490年。その後に戦国時代へ突入。

 関東では1457年に太田道灌が江戸城を築城。1486年に道灌が、内山上杉と扇谷上杉の対決で謀殺される。翌年から18年に及ぶ両上杉の戦い「長亨の乱」。上杉衰退で、北条早雲が1493~5年に伊豆や小田原を、1516年には相模を平定。早雲を継いだ北条氏綱が、反北条勢を打破して関東を掌握した。

 牛込氏は扇谷上杉側だったが、氏綱の江戸城攻め(1524)では北条氏に従った。『東京都の歴史』年譜に、1526年(大永4年)、北条氏綱が比々谷村の陣夫等を免除し、牛込助五郎に充(あ)て行う、とあり。つまり比々谷村(日比谷村)は北条氏の臣・江戸衆の牛込助五郎(=大胡・牛込重行)所領を意味している。1573年に室町幕府滅亡。

 では大胡(牛込)氏の牛込移住は何時だったか? 現・鶴巻町に大胡氏が故郷・赤城山中腹の赤城神社を勧請した「元赤城神社と田島森碑」がある。「江戸名所図会」の「赤城明神旧地」にこう記されていた。田畔小川に傍(そふ)てあり。大胡氏初て赤城明神を勧請せし地なり。故に祭礼の日は神輿を此地に渡しまいらす。

 同神社「田島森碑」(写真の左石碑)には~ この宮處は古へ「田島の森」と云ひ、又、椚の大樹ありしを以て「椚の森」とも称へ。赤城元町にある「赤城神社」の旧址跡にて、今より六百三十一年前、後伏見天皇の正安二年といふに創めて赤城の大神を濟ひ鎮め奉りし處なれば、元赤城神社と称へ奉りき。そも牛込の地は北條氏菅領地たりし頃、牛込氏の領地なりしか。同氏は上野國赤城山の麓なる大胡の里より移り来しかは素より赤城の大神を尊び奉れり~(以下略)大胡氏が赤城山中腹の天城神社をここに勧請したと記されていた。

 芳賀著には~ 宗参寺の地が大胡氏最初の居住地。その北にある鶴巻町は「ツル=水路のある低地・原野+牧(巻)」で鶴巻町。水路のある低地原野の牧場の意で、大胡氏が管理していて、田島森に牧場守護の郷土・赤城神社をこの地に勧請と記しているが「正安2年(1300年)」(鎌倉時代)にクエッション。これは「赤城神社」現説明文にも「正安2年(1300)に上野國赤城山の麓から牛込に移した大胡彦太郎重治により牛込早稲田の田島村に創建された」と記されているが、これも年代的に合わない。牛込重行の出生は寛正6年(1465)。重行より前の世代と言っても、時代の隔たりが大き過ぎる。※ここは調べ直しが必要かも。

route2_1.jpg では当時の牧場管理とは? 「元赤城神社」には「江戸・東京の農業 神崎の牛牧」なる説明看板もある。~文武天皇(701~704)の時代、現在の東京中心には国営牧場が何か所もありました。大宝元年(701)の大宝律令で全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇室の牛馬を潤沢にするため天皇の意思により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置されました。ここ元赤城神社一帯にも官牧が設けられました。このような事から早稲田から戸山にかけた一帯は、牛の放牧場でしたので「牛が多く集まる」と言う意味の牛込と呼ばれるようになりました。(中略)明治19年の資料によると牛込区の新小川町、神楽坂、白銀町、箪笥町、矢来町、若松町、市ヶ谷加賀町、市ヶ谷仲之町、市ヶ谷本村町にはたくさんの乳牛が飼われていました。(平成9年度JA東京グループ 農業協同組合法施行五十周年記念事業)※神崎とは?

 大胡・牛込氏は戦国武将であると同時に、牛飼いのボスでもあったらしい。芳賀著には、大胡氏は室町時代初期には牛込に移住していたのだろう。大胡での牧場管理経験があって、牛込の牧場管理・経営の任を関東管領足利氏、または執事・上杉氏の命で牛込に来たと思われる。その頃は宗参寺の弁天町、牛込、戸塚辺りまでを支配していたと推測している。

 牛込氏は室町時代(戦国時代前)のカウボーイのボスだったと思うと面白さが増す。宗参寺~元赤城神社~天城神社~牛込城があった現・光照寺を訪ねるルート図を添える。次は「赤城神社」へ向かう。

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牛込氏1)宗参寺の墓を掃苔 [牛込シリーズ]

sousanjisanmon_1.jpg 「祖心尼」から時代を遡って、「牛込氏」のお勉強です。我家から東方面は地名に「牛込」を冠する町名、駅名、学校、警察署、消防署、郵便局など多数。ウィキペディアに「牛込」冠名一覧あり。数えたら69もあった。

 今まではただ、昔々に牧畜が盛んだった地ゆえ~と思っていたが「牛込氏の牛込城があって、日比谷辺りも領していた」と知れば、お勉強しないワケにはいかない。

 東西線「早稲田駅」から早稲田通りを少し東へ行くと右側に「宗参寺」あり。嘉永年間の切絵図を見れば、「済松寺」と同じく、昔はもっと広かったことがわかる。山門に「牛込氏墓」「山鹿素行墓」の石柱。墓所に入ると「牛込家累代之墓」「大胡家之墓」そして慰霊塔と史跡案内板があった。

usigomesihaka2_1.jpg 牛込氏については、新宿図書館に『大胡系牛込氏の研究』(牛込博康著)、『牛込氏と牛込城』(新宿区郷土研究会)があるも、目下はコロナで閉館中。蔵書の芳賀善次郎著『新宿の散歩道』『東京都の歴史』、そしてpdfからプリントした『牛込流江戸氏と牛込氏』(矢島有希彦・新宿歴史博物館研究員)を参考に牛込氏調べです。まずは「宗参寺」の史跡説明文から。

 牛込氏は室町時代中期以来江戸牛込の地に居住した豪族で、宗参寺の開祖である。出自については「牛込氏系図」に藤原秀郷の後裔で上州大胡(おおご)の住人であったとしているが定かではない。しかし「江戸氏牛込氏文書」(東京都指定有形文化財)によれば、大永6年(1526)にはすでに牛込に定住していたことが確認されている。

 小田原北条氏に属し、はじめ大胡とも牛込とも名乗っていたが天文24年(1555)には北条氏から宮内少輔(くないしょうゆう)の官位を与えられるとともに、本名を牛込とすることを認められた。領地として牛込郷、日比谷郷などを有していたが、天正18年(1590)の北条氏滅亡後は徳川家に仕えた。(平成10年建設 東京都教育委員会)

 これに芳賀著で補足すれば~ 同寺は神楽坂の坂上近く「袋町」の牛込城(現・光照寺の地)の城主・牛込勝行が、父・重行(法号・宗参)死去(78歳)の翌年、天文13年(1544)に建てた。牛込氏先祖は、赤城山麓の上野国(群馬県)勢多郡大胡町の大胡城の城主・大胡氏。

 「寛政重修諸家請」には大胡重行の牛込移住は北条氏康の招きで~とあり、また「日本城郭全集」では天文6年(1537)前後に移住と推定されている。しかし勧請した赤城神社は応永9年(1402)にはあったゆえ、同社を勧請した大胡氏は室町時代初期には牛込に移住していたと思われると記していた。当時の歴史からお勉強し直してみましょう。(続く)

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牛込氏0)神楽坂で「リングワンダリンク」 [牛込シリーズ]

kiriezuhoi_1.jpg 調べごとで「神楽坂近辺」を歩いた。その日は気が急いていたか、体調が悪かったか~。何度も同じ所を回り、逆方向に歩いたりのミス繰り返しで、己に憮然とした。

 新型コロナに感染すると「味覚・臭覚障害」が出るらしい。近くに24名クラスター発生の「東京新宿メディカルセンター」(旧厚生年金病院。理事長は感染対策専門家会議副座長の尾身茂氏)がある。あたしに「三半規管障害」が出たのかと思った。

 後日よくよく考えれば出掛ける前に、西が上の嘉永年間「江戸切絵図」(写真上。外濠が左)を、北が上の通常地図(真北=経線が指す上。※磁北は約7°西寄り。写真中。外濠が右)を頭に叩き込んでいた。だがjyukuusigome1_1.jpg南が上の現地街路マップ(自分の立ち位置方位で表示。写真下。外濠が上)があり、さらに同地は「神楽坂商店街」がメインで坂上が上、坂下が下で描かれた垂直ガイド図が至る所に貼られていた。

 方位バラバラの各地図によって、方向感覚が狂ったらしい。地図の魔に幻惑されたらしい~とわかった。「こんなこともあるんだなぁ」と改めて思った。加えて大江戸線「牛込神楽坂駅」初下車も影響していただろうし、他の何よりも身体が覚え込んでいた地図がある。

 さて、この地図の赤線で囲った地域が、昔々あった「牛込城」だろう範囲で、家マークが牛込氏館があっただろう現「光照寺」(天保4年・1645に神田から移転)です。

 徳川家康が江戸に乗り込んで来る(天正18年・1590)まで、牛usigomejyo6_1.jpg込氏がここから眼下の赤坂・桜田・日比谷辺りまでを領していたとか。同地から反対側を見れば、今も「赤城神社」北面は崖上で、眼下に神田川~小日向までが一望で、そこもまた牛込氏が治めていたと推測すると、さぞ痛快だったのではと想像した。

 面白そうなので、牛込氏をちょっとお勉強したくなってきたので、まずは「宗参寺の牛込氏墓」から掃苔することにした。(続く) 

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「済松寺」以前。祖心尼の人脈。 [牛込シリーズ]

yamagahaka_1.jpg 芳賀善次郎著『新宿の散歩道』には「済松寺」の記述僅少。それも「鳳凰の池」中心の説明。同寺記述は~ 三代将軍家光が慶安元年(1648)に建立させた大寺である。「江戸名所図会」によると初期の領地は中里町、天神町、榎町にわたる広大な地域に広がっていて、建物もたくさんあった。建物は戦災にあい、境内の鳳凰の池も戦後は縮小された。

 以上で「祖心尼」の記述もない。だが「済松寺」以前の同地記述は散在していた。それを拾って時系順に組立てると~ この一帯は元・九州豊後のキリシタン大名・大友宗麟の子孫が住んだ大友屋敷跡。宗麟の子・義統(よしむね)は朝鮮征伐で戦線離脱。豊後没収で監禁された。子の義乗(よしのり)は家康に仕え、秀吉死後に恩赦。徳川秀忠の近侍となって筑波郡内3千石と「牛込に屋敷300石」を与えられた。

 義乗はキリシタンで36歳没。子の義親も27歳で死去。子がなく大友家は断絶。その後に大奥側近の御祐筆「大橋隆慶」が同地を含め牛込30町余を拝領。天保2年(1645)没で、翌年に「済松寺・祖心尼」に与えられた。

akibayui.jpg ついでに「祖心尼」経歴も多数サイト参考に簡単まとめ。天正16年(1588)に伊勢国岩手城(三重県)の城主・牧村利貞の娘として誕生。俗名「おなあ」。父が朝鮮出兵で戦死。父が懇意の縁で加賀藩・前田家に引き取られ、後の3代藩主・利常と幼少期を共に過ごす。長じて小松城主・前田家に嫁ぎ二児を授かるも離縁される。

 幼児を抱え、父が生前建立の京都・妙心寺の雑華院へ。同寺住職が叔父の一宙禅師。同じ妙心寺内の寿聖院に出家していた石田三成・長男がいて、両者から禅を学ぶ。その後、三成次女の夫・岡重政の縁結びで会津藩蒲生家重臣・町野幸和と再婚(岡も同家家臣)。娘「おたあ」を産むも、蒲生家は跡継ぎなくお家取り潰し。

 浪人となった夫と江戸へ。町野家に仕えていた山鹿家も随行。当時6歳の山鹿素行がいた。素行は林羅山に学び、祖心尼は叔母「春日局」の補佐役へ。祖心尼の娘が岡吉右衛門と結婚して後の「お振の方」を産む。「お振」が春日局養女となって大奥入り。家光側室になって産んだ「千代姫」が、尾張徳川2代目光友に嫁いだ。

 由比正雪は牛込城跡に道場を構えていたが、同地が正保2年(1645)に「光照寺」となり、済松寺境内の地を借りて移った。そこは済松寺から東榎町~天神町の約5千坪に10数棟。江戸川橋通りと早稲田通り交差点近くに「正雪物見の松」が大正時代まであり、大日本印刷榎工場の南東部が正雪学問所庭先の「正雪桜」が昭和5年まであった。慶安2年(1649)の花見宴で「丸橋忠弥」と陰謀を誓い合ったとか。「慶安の変」で「済松寺」のお咎めは寺領400坪没収で済んだとか。

 写真上は「宗参寺(早稲田)の山鹿素行墓」。写真下は「秋葉神社(矢来町)境内右の正雪地蔵尊」。なお丸橋忠弥墓は豊島区高田の「金乗院(目白不動)」にある。

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戸山荘のそもそも「済松寺・祖心尼」 [牛込シリーズ]

saisyouji1_1.jpg 「草間彌生美術館」前の外苑東通りと早稲田通りの「弁天町交差点」近くに、高い塀で囲まれた広い「済松寺(さいしょうじ)」がある。徳川3代将軍家光が祖心尼(そしんに)のために建てた臨済宗の大禅院。

 祖心尼は、弊ブログに登場の「尾張藩下屋敷=戸山荘」のそもそもに関係している。「戸山荘」は祖心尼が家光から拝領した広大地の一部、4万6千坪を尾張藩2代藩主・徳川光友に譲った(寛文9年・1669)ことから造園開始。その2年後に光友は幕府から8万5千坪を拝領するなどで計13万6千坪の大庭園になった。

 祖心尼は、なぜに家光から広大な拝領地を賜り、なぜその1部を尾張・光友に譲ったか。祖心尼は家光の乳母で大奥実力者・春日局の補助役から大奥実力者へ。祖心尼の娘「おたあ」が産んだ「お振の方=自証院」が家光側室になって「千代姫」を産み、千代姫が光友の正室になったことによるのだろう。

saisyojoe_1.jpg さて『江戸名所図会』から「蔭涼山済松寺」を読んでみる。~同所榎町にあり。京師(京都)妙心寺派の禅崫にして、本尊釈迦如来を安す。開山は心印正傳禅師、開基は素心尼(祖心尼の別称)なり。此尼は牧野兵部少輔政玄の女(小生注:牧村兵部利貞の娘)にして春日局と共に大将軍家昵近の侍女なり。当寺に御仏殿あり。芳心院(家光側室。現在は八王子にある)御別当を務む(此寺は芳心尼の開創なり)。御仏殿の前の池を鳳凰池と号く。霊亀水にて芳心院の池にありて、寛永の頃は御茶の水に掬さしめなふとなり。開山塔は養育院、是を預る。すべて僧坊六経堂鐘楼庫裏浴室等巍々然として、軒を連ね輪煥たり~。

saisyoji2_1.jpg 嘉永4年の切絵図を見ると、現在はかなり縮小されている。ちなみに荷風『日和下駄』(大正4年)に~牛込弁天町辺は道路取りひろげのために近ごろ全く面目を異にしたが~と記されている。

 家光公拝領から宝暦の大火、明治維新の廃仏稀釈(それで別当寺移転か)、大正4年頃の道路整備、昭和20年の大空襲~。その都度に再建・改築、敷地売却などで今日へ至るのだろう。今はコロナで閉門中。かつ中庭は非公開とか。だが現・駐車場から奥を伺えば深い森と「鳳凰池」がある雰囲気。谷を掘って山の趣を演出しての池らしい。

 荷風はまた「弁天町の裏の弁財天の裏通りに小流れあり。そこ根来橋という名を見つけ、江戸切絵図(大久保世山高田之図)に根来組同心屋敷のあったことを知る。歴史上の大発見でもしたように、わけもなくむやみと嬉しくなるのである」と記している。それは今も切絵図をひも解く者にも同じ気持ちが味わえる。

 なお祖心尼は山鹿素行、石田三成の遺児ら、由比正雪、加賀の前田家、京都妙心寺などと関係していて、歴史好きには興味尽きぬ存在らしい。目下小生は村松友視の「謎の人物・由井正雪。彼をそそのかす妖艶な女・素心尼~」なる帯コピーが踊る小説『由比正雪』読書中。

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