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千駄ヶ谷周辺のGHQ接収(32) [千駄ヶ谷物語]

palace_1.jpg 終戦翌月の昭和20年(1945)9月18日、明治神宮外苑はGHQ接収で「メイジパーク」となって米将兵運動場になった。野球場が「ステートサイド・パーク」で内野に芝生が張られた。競技場が「ナイル・キニック・スタジアム」(ナイル・キニックはアメリカン・フットボールの名選手名)。共に照明塔新設でナイトゲーム可能に。神宮プールは「白人専用プール」、相撲場が「メイジボール」でボクシング場。中央広場にはテニスコート、ソフトボール場などで「神宮レクリエーション・フィールド」、日本青年館は「メイジ・ホテル」。そして徳川宗家邸が将校クラブ「マッジ・ホール」へ。他には現・原宿警察署の地にあった「海軍館」(海軍将校会館)も接収。将校家族用に現・明治通り沿いのBSテレビ朝日の地に建っていた和洋折衷の池田侯爵(鳥取藩主)邸の一部、その向かいの團琢磨邸跡のドイツ大使・武者小路金共(実篤の兄)の洋館も接収。

 「ステートサイド・パーク」は米軍優先ながら、戦後初の6大学野球OB戦、早慶戦、大相撲夏場所(国技館接収のため)、プロ野球初の日本選手権試合なども行われた。また「ナイル・キニック・スタジアム」では早慶サッカー定期戦をはじめ陸上競技も行われた。「プール」ではトビウオ・古橋広之進選手が活躍。そして昭和27年(1952)に接収解除。

 「代々木練兵場(代々木の原)」(92.4万平米)は合衆国空軍兵と家族のための団地「ワシントンハイツ」へ。兵舎と家族住居827戸に学校、教会、商店、将校クラブなど。昭和27年(1952)のサンフランシスコ条約で日本占領終了も、今度は安保条約で〝在日米軍〟となって引き続き駐留。全面返還されたのが昭和36年(1961)11月で、その後の東京オリンピック選手村・競技場用地になった。

 千駄ヶ谷の西側が「ワシントンハイツ」ならば、東側の現・国立劇場や最高裁判所辺りの2万坪が「パレスハイツ」(写真。国会図書館デジタルのモージャー氏撮影より)もあった。同ハイツ返還は昭和33年(1900)11月。そして青山霊園東側、現・国立美術館の地にあった旧陸軍第一歩兵師団第三連隊(麻布三連隊。2.26事件で多くの反乱将校が所属)、第一連隊(現・東京ミッドタウン)も接収。現在のその一部「赤坂プレスセンター」の名で「星条旗新聞社」、ヘリポート、米陸軍宿舎「ハーディー・バラックス」は接収されたまま。

 GHQはかく千駄ヶ谷周辺の多数施設接収だが、同時に「神道指令」(国家神道の廃止、政教分離)。国立競技場を除く「明治神宮内苑・外苑」が国から離れて「宗教法人・明治神宮」へ。さらに現在は、外苑北側・信濃町は「創価学会の街」と化していて、北参道際には「神社本庁」(日本会議の主団体)があり、代々木に共産党の本拠地。

 いかなる宗教団体、政治団体にも属さぬ小生は、この辺を散策する度に胸底に戸惑いを覚えざるをえない。それら真ん中に位置する千駄ヶ谷は、なんともスリリングな町とも云えます。次は赤坂真理小説『東京プリズン』を読む。

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