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こころはいつもギャルソンヌ(43) [千駄ヶ谷物語]

mikabon_1.jpg ここはやはり藤原美智子『こころはいつもギャルソンヌ』を読んでみたい。同書は渋谷中央図書館にあり。第1章「焼け跡に立ち上がる」に、青山「ミカ・シスターズ」のことが記されていた。まずは著者が「ワシントンハイツ」に出入りするまでの経緯概要~

 藤原美智子は大正4年1月19日広島生まれ。「子供の頃、大八車に野菜を積んで売りに来ていた農家に誘われて遊びに行ったら、ピアノがあり、タイプライターを叩いたので驚いたことがある」。海外移住・留学が盛んだった広島。それは「ミカ・シスターズ」店舗設計・西村久二の父らの紀州と同じ。大逆事件で処刑された大石誠之助が西村伊作と作った「太平洋食堂」も、今のカフェのようだった。

 美智子は県立高等女学校卒後、昭和7年(1932)上京。教師養成の東京女子高等師範学校(お茶の水女子大)へ。入学年が上海事変、翌年が国連脱退。皇室史観の授業に失望して、学校をさぼって文学書に親しんだ。「日本工房」(名取洋之助代表)の写真、デザインワークに惹かれた。

 昭和10年(1935)、クラスの卒業アルバム制作委員になると、お金もないのに同社へ長談判。ボランティアで事務所の掃除。カメラマン応募に火の玉小僧みたいな土門拳が面接を受けに来た。卒業アルバムのクレジットは撮影:名取洋之助、土門拳。装丁:山名文夫。編集:熊田五郎。

 小生の社会人最初がグラフィック・デザイナーゆえ、「日本工房」への憧れがあった。美智子は女高師卒後の義務で、広島から鈍行3時間の城下町の県立女学校教師へ。「坊ちゃん」的日々を耐えて帰京。今度は社団法人「外政協会」勤務。元・国連協会だが脱退後に名を変えた協会で、軍国主義の世にあってリベラリストが集う隠れ家のようだったとか。

 昭和20年(1945)、広島に原爆投下。父が石灯籠の下敷きで死亡。母は行方不明。妹・和子を連れて東京へ。再び学校へ。アメリカ佐官級カップルを招いた懇親パーティーの日本側女性として同校が美智子を推薦。パーティーが重なるうちにアメリカ人家庭に招かれたり、相談相手になったり。そこで彼女らがドレス仕立ての人を求めているのを知って、縫製得意の和子と組んでワシントンハイツ内を走り回ることになる。

 余りの忙しさに「そうだ、店を構えればいいんだ」。昭和25年(1950)、焼け野原の青山1丁目交差点近くに7坪の物件を35万円で契約。店舗設計・西村久二、ロゴデザイン・大智浩。ここから推測するに、彼女は再び「日本工房」関係ルートの友人に応援を頼んだような気がする。実はその辺の若者らの交流詳細が読みたかったのだが、同書には〝友人〟とだけしか記されていなかった。

 ともあれ、同店は「スタイル誌」の〝ミカ特集〟などで大人気。彼女は既製服事業へ乗り出して大成功と経営挫折から、大手のアドバイザーなどで活躍。青山・原宿のファンション街化のそもそもに広島原爆、「日本工房」スタッフ、西村伊作(文化学院)系の交流などがあったことを知っただけで了とする他はない。写真は『こころはいつもギャルソンヌ』の口絵。次回からはGHQから広がった性風俗について~。

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