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東京大空襲から接収へ(31) [千駄ヶ谷物語]

IMG_0990_1_1.JPG 久保田二郎、獅子文六が記す千駄ヶ谷も、戦争末期に大空襲に遭う。『東京大空襲~未公開写真は語る』を見ると、昭和19年(1944)11月27日空襲の原宿付近の被災写真が冒頭18頁に渡って掲載。婦人らのバケツリレー(消火作業)の原宿竹下口付近、現・原宿警察署の地にあった「海軍館」(海軍将校会館)破壊写真、瓦礫の中で拝礼する東郷神社神官の姿など。

 昭和20年2月19日には、代々木練兵場の高射砲によってB29が千駄ヶ谷5丁目に墜落の記録がネットにあった。そして3月10日の「下町大空襲」で死者8万余人。秋尾沙戸子著『ワシントンハイツ』第1章が「青山表参道の地獄絵図」。4月13日の「山の手空襲」を記している。渋谷~宮益坂~青山通りは一面焼け野原。「青山墓地に逃げろ」の合言葉も、逃げ切れぬ人々が表参道口の安田銀行(現みずほ銀行)前へ殺到。夜間で鉄扉閉鎖ゆえ焼死体が2階の窓まで重なったとか。著者の被災者取材で「参道はエントツみたいになって熱風が吹き抜けた」「青山通りと表参道の十字路が熱風のつむじ風、竜巻になった」。またネットには表参道口の石灯籠の銀行側は、今も黒ずんでいるとあった。

 3月15日に世田谷、目黒の死者850人。24日に品川、目黒、蒲田の死者559人。そして25日、未だ住宅が残る渋谷、青山、足立、荒川、王子、品川、大森、杉並、世田谷へ約470機のB29無差別爆撃。死者2258人。負傷者約8500人。都内全焼家屋165000戸。

 ここで永井荷風の罹災体験を日記から読み直してみる。3月9日:天候快晴。夜半空襲あり。翌暁4時わが「偏奇館」(麻布市兵衛町の26年間住み慣れた家)焼亡す。10日:代々木の杵屋宅へ行こうと地下鉄・青山一丁目より渋谷駅へ。駅は大混雑ゆえバスで代々木へ。昨夜を振り返って「猛火は殆東京市を灰になしたり。北は千住より南は芝、田町に及べり。浅草観音堂、五重塔、吉原遊郭焼亡。明治座に避難せしもの悉く焼死す」

 4月3日:夜半空襲。淀橋大久保辺火起る。4月13日:夜十時過空襲あり。明治神宮社殿炎上中。新宿大久保角筈の辺一帯火焔。角筈東大久保より戸山が原のあたり一帯に灰となりしが如く。5月25日、風爽やか。夜空襲。焼かれたる戸塚大久保新宿の町々を歩み代々木へ。ここも焼野。

 6月2日:東京脱出。「軍部の横暴なる今更憤慨するの愚の至りなれば(略)われらは唯その復讐として日本の国家に対して冷淡無関心なる態度を取ることなり」。この記述〝荷風らしさ〟として注目です。原爆投下から終戦へ。

 終戦と同時、昭和20年9月8日にGHQが各施設接収。代々木練兵場へ3000名の米兵が一夜にキャンプシティー設置。将校向け接収住宅は港区137戸、渋谷区125戸。次に千駄ヶ谷周辺の接収諸施設を記し、焼け跡にアメリカ文化がいかに浸透したかを振り返ってみる。

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獅子文六『娘と私』(30) [千駄ヶ谷物語]

IMG_0976_1.JPG 久保田二郎の次に獅子文六『娘と私』を読む。獅子文六は明治26年(1893)、横浜生まれ。大正11年(1922)に渡仏。フランス人・マリーと結婚。大正14年に帰国し、同年に長女巴絵(文中・麻理)誕生。昭和5年(1930)に妻マリーが病気になって母国に連れ戻して看病後に帰国。

 『娘と私』は、娘を男親一人で育てる悪戦苦闘から始まる。やがてフランスからマリー病死の報。娘の健康も芳しくない。そうした状況で幾度かの見合い。昭和9年(1934)に富永静子(文中・福永千鶴子)と結婚。新居を千駄ヶ谷に構えた。麻里と久保田二郎は1歳違い。久保田が軍隊コスプレで代々木練兵場を我が物顔で闊歩していて頃に、二人は会っていたかも~。

 その家は、鳩森八幡神社から坂を下った辺り。新妻の郷里女学校時代の同級生の夫が家扶をしている家族一族の持ち家だった。1年間も借り手なく、家賃40円をまけてくれた。場所は八幡社から南へ松岡洋右邸、林銑十郎邸と続いての南側。明大総長で「東京裁判」の弁護団長、「大逆事件」弁護の鵜沢聡明邸の北側。当時の地図を見ると獅子文六宅傍に川が流れ、さらに西側の千駄ヶ谷小の裏にも川が流れている。この2本の川は「原宿村分水」。少学校裏の川幅は5m。大雨で洪水もした。東側の獅子文六宅傍の川幅は3m。両川は神宮前3-28辺りで渋谷川に合流する。

 千駄ヶ谷をこう記していた。「徳川、松平などの大華族が住んでいるかと思うと、青山近くには貧民街があり~(中略)~山の手と下町風の混流がある。祭礼や盆には子供たちが騒ぎ回るのも下町風で~(略)駄菓子屋の問屋があるのも場末の千駄ヶ谷らしく面白い」

 そんな環境で、病弱の麻里も近所の子らと遊び回って元気溌剌。文六も千駄ヶ谷が気に入った。執筆仕事に疲れれば、パリのブーローニュ公園に似た外苑散歩が愉しい。

 「家主の子爵邸を除けば中流以下の小住宅が多い。昔、村落だった名残の近所の榎稲荷。わが家の裏手は広々とした田畑が広がる田舎風で、穀物でも干してないのが不思議なくらい。(中略)妻が鶏を飼って一層、田舎染みさせた」

 久保田二郎著が記す〝高級住宅地〟の実際は、徳川宗家邸周辺のことで、そこから少し離れれば、文六記述が実情、実景だろう。物事は幾作も眼を通さぬと真実に迫れない。そのうちに「地下鉄も開通して、青山まで歩けばその利用もできた」。驚き調べれば、浅草~新橋間開通が昭和9年、新橋~渋谷開通が昭和14年だった。

 昭和11年、麻里が雪の中をランドセルを背負って学校へ(多分、九段の白百合女学校)。ほどなくして戻ってきたので「どうした」と訊けば「悪い兵隊さんがいるので学校がお休み」、二・二九事件だった。

 貧乏文士・獅子文六だったが、次第に執筆仕事が増えて余裕が生まれた。西隣の間数の多い家に移る。そこは家主が自分用に建てた古風家屋。一家の生活も日本風スタイルへ。夕刊紙の連載小説『悦っちゃん』が決まって人気作家へ。麻里も16歳。

 家運は上昇も、時代は厳しくなった。支那事変で青山連隊の入営者激増。そして太平洋戦争へ。隣組、防空演習も活発化。神信心ない文六も、鳩森八幡神社で祈願する。「ぜひ日本を勝たして下さい」。文六50歳。娘18歳。そして姉の死。一家は亡姉が残した中野玄町へ移転すべく千駄ヶ谷を去った。

 なお文六57歳の時(昭和25年)、妻・静子が44歳で病死。翌年に三人目の妻に18歳年下で子爵・吉川重吉の娘・幸子を迎えた。幸子の姉(妹ではなく、たぶん姉)は「原田日記」の原田熊雄の妻。次回は千駄ヶ谷周辺を襲った東京大空襲について。

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戦前は高級住宅地:久保田二郎編(29) [千駄ヶ谷物語]

kubotajiro_1.jpg 千駄ヶ谷は、小生が学生の頃は〝連れ込み旅館街〟だったが、戦前までは〝高級住宅地〟だったらしい。その頃の千駄ヶ谷を描いた久保田二郎著『極楽島ただいま満員』と獅子文六著『娘と私』を読んでみる。

 まず久保田二郎著の同書は新宿図書館になく、都中央図書館は「多摩・都立収蔵庫」に1冊のみ。ここは頭の使い様、各区図書館の蔵書検索をすれば、文京区「水道端図書館」にあった。自転車で江戸川橋から石切橋へ。小日向の巻石通りを夏目漱石家の菩提寺・本法寺の前。静かで広い閲覧室で頁をひもといた。

 久保田二郎は大正15年(1926)生まれ。ドラムスで「レッド・ハット・ボーイズ」「グラマシー・シックス」参加後にジャズ評論家。「スイングジャーナル」編集長時代に、植草甚一を発掘。確かMJQを紹介した人じゃなかったか。小生最初の購入レコードが「MJQ/JANGO」だった。

 同書最初の章は「史上最大の兵隊ごっこ」で、当時の千駄ヶ谷を詳しく紹介。こう始まる。「僕の本籍地は東京都渋谷区千駄ヶ谷三丁目五二七番地だ」。少年時代ということは、昭和10年代初頭だろう。当時の地図を見れば、鳩森八幡神社に隣接の南西部一画(「徳川家達邸の変遷(15)」にアップの地図で同番地が確認出来る。久保田金四郎宅。『千駄ヶ谷昔話』には代議士で、白壁をめぐらせた大きな屋敷とあった) 

 「昭和20年5月の空襲で焼けたが、その家は五稜郭の戦いで有名は榎本武揚の屋敷だった」で、ちょっと驚いた。榎本武揚は五稜郭の戦い後に明治政府に仕えて逓信、外務、文部、農商務大臣を歴任する子爵になっている。大臣時代の屋敷だろう。

 「部屋数30ほど、かくれんぼをすれば女中五人、書生、運転手など総勢8、9名で家中を探しても見つからぬ広さ」で、久保田家も相当に裕福。それでいて大逆事件の幸徳秋水の弟子だったとも記していた。(久保田金四郎、そして榎本武揚についても、いずれ調べることになりそうですが、話を勧めます)

 続いて周辺の屋敷群を紹介。省略引用すると~「千駄ヶ谷駅は今でも同じ。左に東京都体育館で、ここは徳川宗家・家達公爵邸。道路を隔てた前が幣原喜重郎男爵邸(戦争放棄の第九条を決めた。似顔絵付き記事をリンクしておきます)」。さらに屋敷紹介が続く。

 「その裏手、今の津田スクール・オブ・ヴジネス辺りが鷹司公爵家。僕の家の横手が〝原田日記〟で有名な原田熊男男爵家、その先が現皇后陛下の親戚、二荒伯爵家、僕んちの裏手が京都の公家・若王子子爵家、その先が松岡外務大臣、その先が総理大臣もやった陸軍大将・林銑十郎邸~」。おや「東京裁判」がらみの人が多いようでございます。

 「当時の千駄ヶ谷に比すれば自由が丘、田園調布、成城なんぞ二流、三流のたかだか文化住宅地に過ぎず」とまで記していた。そんな時分の子供らの遊びは、軍隊コスプレで代々木練兵場の闊歩。親たちが大将、中将、公爵、侯爵らで、兵隊たちも手が出せずで我が物顔で遊んでいたらしい。

 同書は昭和51年(1976)刊で、表紙イラストは植草甚一。次に獅子文六の小説『娘と私』を読んでみる。

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外苑競技場で学徒出陣(28) [千駄ヶ谷物語]

kyougijyoreki2_1.jpg 昭和18年(1943)10月2日、勅令で在学徴集臨時特例が公布。全国の大学・高等学校、専門学校の文科系学生・生徒に許されていた徴兵猶予廃止で、同年12月に「学徒出陣」。それに先立つ10月21日、東京周辺77校参加の出陣学徒壮行会が「明治神宮外苑競技場」で行われた。

 髯と眼鏡の独裁者よろしく「その若き肉体、清新なる血潮、すべてこれ御国の大御宝なのである。そのいっさいを大君の御為に捧げ奉るは~」と高みから、死んで来いと叱咤激励するのは(半藤一利『歴史と戦争』より)〝夜郎自大〟の東条英機内閣総理大臣兼陸軍大臣だった(半藤一利『「東京裁判」を読む』より)。

 その2年前から大学繰上げ卒業での入隊も多く、それは特別操縦見習士官制度で応募すれば曹長(見習い士官。陸軍応募1万人、海軍応募5万人)になれるもので、「学徒出陣」は二等兵から。その徴兵検査は10月25日~11月5日。本籍地で身体検査ゆえに、上京組は帰郷して家族に会った。入隊者は推定5万人。

 東京本籍で陸軍入隊者は約2百人。品川から学徒列車で門司へ。釜山から極寒の会寧へ。古兵のイジメと寒さに耐えて2ヶ月で1等兵、上等兵へ。幹部候補生試験の合格者は、下士官教育で内地に戻ったらしい。海軍入隊者は、2等水兵で体罰に耐えつつも知的新兵で飛行科、兵科、主計課へ。

 戦前のジャズ史『ジャズで踊って』著者・瀬川昌久は帝大法学部政治科入学と同時に学徒出陣の第2陣で「後楽園球場」で壮行会。築地の海軍経理学校の半年後に、奈良県橿原に配属されて終戦。GHQ命令の海外日本将兵の復員作業に志願して、主計科士官として氷川丸に乗り込んだ。数千名の帰還作業に従事したが、数名のMPが乗り込んでいて、携帯ラジオから終日WVTRから流れるジャズを聴いていたと記していた。

 明治神宮外苑競技場は、終戦と同時に接収されて「ナイル・キニック・スタジアム」(千駄ヶ谷周辺のGHQ接収については後述)。なお平成5年に学徒出陣50周年に「出陣学徒壮行の地」碑が、旧国立陸上競技場・千駄ヶ谷入口に建てられたが、現在の工事で目下は「秩父宮ラグビー場」に移転中とか。門の外から覗いたが、どこに仮設置されているかわからなかった。次回は戦前の良き千駄ヶ谷時代を記した「スィングジャーナル」元編集長の久保田二郎著を読む。

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方丈記28:その後の鴨長明 [鶉衣・方丈記他]

edohoujyouki_1.jpg 鴨長明は建暦2年(1212)3月末、60歳で『方丈記』を著わした翌年に、鎌倉へ旅立っています。源頼朝の次男・実朝が12歳で征夷大将軍になり、藤原定家から和歌を学んだ。京の諸知識を教える人として長明に白羽の矢が立ったとか。

 「閑居にこだわるのも、また執着ではないか」。そう自戒しつつも、余命僅かと自覚しての鎌倉行。ゆえに実朝に仕える欲もなく、修行のつもりの旅。途中で大洪水にも遭ったりして、西行を意識しつつの旅だったのでは、と五味文彦は記しています。1200年代の鎌倉の記録を見ると、毎年のように大きな地震に襲われています。長明の人生は最初から最後まで災害と共に生きたようでもあります。帰郷後に『発心集』約百話を編集し、『方丈記』から4年後の健保4年(1216)64歳で死去。

<『方丈記』シリーズを終えて> 原本は「国会図書館デジタルコレクション」公開の明暦4年刊、山岡元隣『鴨長明方丈記』(長谷川市良兵衛開版)。くずし字の練習が主目的でしたので、深く読み切れていません。まして古文、和歌に疎く、解釈も不十分です。勉強不足や間違いは、随時追記訂正したく思っています。現代語訳は控えました。机上には「古語辞典」「俳句で楽しく文語文法」「旧かなと親しむ」がありますが、調べっ放しで完全に覚えるには至っていません。調べ知った言葉は、受験生のように「暗記カード」でも使って覚えきろうかとも思っています。

<筆写とくずし字について> 現在市販中の東京堂出版の児玉幸多編『くずし字解読辞典』ではなく、古本市で入手の近藤出版刊、児玉幸多編『漢字くずし字辞典』(近藤出版の使い易さについてはブログで報告済)が、今回の『方丈記』筆写ですっかり手に馴染みました。索引から数度で該当頁にピタリと辿り着く〝技〟が身につきました。

 老いて、新聞の頁も指先を舐めナメなのに、同辞書の紙質とも相性が良かったようです。検索から筆順調べなどの没投感も実に心地よく、時間を忘れるようでした。筆写は、多分に写経に似ているようにも思いました。

 30代からのワープロ、パソコン人生を経ての〝手書く〟復活。万年筆LAMYサファリ色違い4本。水彩筆も持ち始めました。筆写も筆ペンから習字筆へ。骨董市で入手の古硯も愛用で愉しかったです。

<参考書> 岩波文庫『方丈記』(市古貞次校注)、新潮社日本古典集成『方丈記・発心集』(三木紀人校注)、五味文彦著『鴨長明伝』(山川出版社)、笠間文庫『方丈記』(浅見和彦訳・注)、吉川幸太郎『論語』(朝日選書)、北村優季著『平安京の災害史』(吉川弘文館)、日本古典文学大系『方丈記 徒然草』(西尾實校注)、同『平安物語』(上下巻)、玄侑宗久著『無常という力』、久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫)、杉本秀太郎著『平家物語』(講談社学術文庫)他。

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大正13年竣工「明治神宮外苑競技場」(27) [千駄ヶ谷物語]

meijigaien_1.jpg 千駄ヶ谷といえば、やはり目玉は国立競技場だろう。後藤健生著『国立競技場の100年』(ミネルヴァ書房)、山口輝臣著『明治神宮の出現」(吉川弘文館)、蜷川壽恵著『学徒出陣』(吉川弘文館)を参考に、国立競技場の歴史をお勉強。

 明治天皇崩御が明治45年(1912)で、青山練兵場跡地に設けた仮設・葬場殿で大喪の儀。「天皇陵を東京に」の運動が盛り上がるも、埋葬は定め通り京都・伏見桃山陵へ。そこで東京市長や東京財界有志が、陵墓が不可なら東京に「明治天皇を祀る神社(内苑)+公園(外苑)」をというアイデアを思い付く。

 明治神宮内苑は「代々木の原」(22万坪)に国費で和風造営、外苑は「青山練兵場」跡に国民献金で洋風造営と決定。外苑の献金受付「明治神宮奉賛会」設立で徳川家達が会長就任。一気に予定額を越える624万円が集まったとか。

 「明治神宮外苑競技場」竣工は、大正13年(1924)10月。敷地は約1万坪。西側メインスタンド。他3面は芝生観客席で、収容数は3万5千人。日本初の大規模スタジアム。竣工直後から全国規模の「明治神宮競技大会」など日本スポーツの聖地へ。昭和4年(1929)に「日独対抗競技」。翌年に第9回「極東選手権大会」。

 スポーツ熱が盛り上がったが昭和6年に満州事変。昭和7年(1932)3月に「満州国」樹立。翌年に国連脱退。昭和11年(1936)の第11回ベルリン大会で有名なのが「前畑ガンバレ」連呼。第12回オリンピック東京開催(昭和15年・1940)が決定するも、昭和12年7月に日中戦争。戦火拡大でオリンピックどころではなく、東京開催を返上。昭和16年(1941)に第2次世界大戦。スポーツは「国防競技」に変わった。

 そして終戦。「政教分離」で〝神道〟が国から分離されて、内務省神社局管轄だった「明治神宮内苑」が「宗教法人・明治神宮」へ。外苑も「競技場」(文部省)の他はすべて時価半額で同宗教法人へ払い下げられた。

 かくして今も「聖徳記念絵画館」は明治天皇を描いた絵画館で、「明治記念館」には大日本帝国憲法草案を作った建物を保存。今の明治神宮球場も「宗教法人・明治神宮」。

 昭和14年の地図から当時の外苑の様子が伺えます。野球場南「青山の女子学習院」は東京大空襲で焼失後に秩父宮ラグビー場へ。女子学習院は新宿・戸山キャンパスへ。当時の競技場写真は、ネットの画像検索で「競技場絵葉書」を見ることができます。

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方丈記27:閑居への愛も執心か~ [鶉衣・方丈記他]

somosomoitigo_1.jpg 抑(そもそも)一期の月影かたふきて、余算山の端(は)にちかし(余命の端も近い)。忽に三途のやみにむかはん時、何のわざをか、かこ(託つ=歎く)たんとする。仏の人を教給ふおこりは(おこりは=始まりは。岩波文庫は〝趣は〟)、事にふれて執心なかれとや。今、草の庵を愛するも科(とが)とす。閑寂に着するも障(さわり)なるべし。いかが用なき楽しみをのべて、むなしくあたら時を過さん。しずかなるあかつき、此のことはり(理)をおもひつづけて、みづからこころにとひていはく、世をのがれて山林にまじはるは、心をおさめて道をとなはん(仏道修行をする)為也。しかるを、汝が姿は聖(ひじり)に似て、心はにごりにしめり。

 『方丈記』が評価される一つが、この「抑一期の~」の文にあると指摘する方が多い。つまり、隠棲の境地に達したかの後で「草庵を愛するのも、静かな生き方に心を休めるのも、執心ではないか。語っている姿は聖に似ているも、それゆえに心が濁っていると云えなくもない。その自戒は、こう続く。

 住家は則(すなはち)浄名居士(浄名=じょうみょう。インドで釈迦の教化を助けた長者。居士=寺に入らず家に居て仏門に入る男子)の跡をけがせりといへども、たもつところは(修行の結果は)、わづかに周sumikaha2_1.jpg梨槃特(しゅうりはんとく=釈迦の弟子で最も愚鈍だった人)が行にだにも及ばず。もしこれ貧賤の報のみづから悩ますか(前世の報いによる貧しさか)。将又(はたまた)、妄心のいたりてくるはせるか(心が汚れての狂いか)。其時、心、更に答ふることなし。ただ、傍に舌根をやとひて、不請の念仏、両三返を申してやみぬ(二三度唱えるにとどまった)時に、建暦の二とせ弥生の晦日(つごもり)頃、桑門(出家者)蓮胤(れんいん=長明の法名)、外山の庵にして、これをしるす。

 月かげは入山の端もつらかりき たえぬひかりを見るよしもかな

 最後の文章も難解。「不請の念仏=心に請い望まない念仏」。岩波文庫版では「不請阿弥陀仏」。五味文彦は「不請阿弥陀仏=不請の阿弥陀仏=阿弥陀仏に請わない。安易に頼らない」と言明していると記す。

 現職住職で作家の玄侑宗久は「一生懸命に唱えれば〝自力〟になってしまう。阿弥陀様に挨拶するように自然な調子で二三回唱えるだけでいいという親鸞の教えに近づいている」と解釈していた。

 最後の歌「月かげは入山の端もつらかりき たえぬひかりを見るよしもかな」は岩波文庫版にはない。「月の光陰が山の端に入る(消える)のは(寿命が絶るようで)辛いこと。絶えぬ光を見るすべがあればいいのになぁ」の意か。辞世歌。これにて『方丈記』おわり。最後に、その後の鴨長明さんについて。

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島田旭彦、広東料理店を潰す(26) [千駄ヶ谷物語]

mizukouzu_1.jpg 嵐山光三郎『おとこくらべ』の「りんごさくさく」に、白秋の同郷・同年の歌人・島田旭彦が千駄ヶ谷で広東料理店「楽々」を出していた、と記されていた。

 52歳の旭彦が(白秋も52.昭和11年ならば成城の白秋宅)訪ね来て、秘書の宮柊二が言う。「ガンジーです。酔っぱらっています」。旭彦は色浅黒く、容貌がガンジーに似ていた。内気だが酔うと始末におけない。旭彦が絡む。

 「最近、あんたらはうとの店になして来んとですか」。旭彦は深川区役所を辞めた退職金で1年前に千駄ヶ谷に「楽々」という広東料理の店を出した。白秋が案内状を書いてくれたが、歌人仲間は一向に来てくれないと文句を言う。

 白秋が「いま戒厳令下ど(2・26事件)。みんな料理店へ行く暇はなかとぞ。そいけん歌人協会の集まりもおいの自宅でやったとぞ。ガンジー、金に困っとっとやろう」と白秋は菊子(三番目の妻)を呼び、五十円を封筒に入れて渡した。

 嵐山光三郎著は、概ね以上の記述。広東料理店「楽々」については川本三郎『白秋望景』にも出てくるが、詳しくは『白秋全集36』が詳しい。島田旭彦は昭和11年11月22日に脳溢血で急死。白秋は荒川三河島の陋巷を訪ね、遺体に接した後に詠んだ「貧窮哀傷」47首について記している。つまり、旭彦が酔って白秋宅を訪ねて間もなくの死だった。

 「あはれさはあふるる涙とどまらず生国も歳も同じこの死びと」「外に遊ぶ末の弟娘が声きけば父死にたりとまだ知らざらし」「人は死に生きたる我は歩きゐて蛤をむく店を見透かす」。白秋は別れた女にもクールだが、友の死にもクールで無常観を詠む。そう云えば「サトウハチロー」も都内警察の留置場すべてを体験のワルで、女性関係もドロドロだったが(佐藤藍子『血脈』)、そういう奴が子供向けの純朴な歌を書く。

 その頃の白秋も糖尿病と腎臓病で視力を失いつつあった。白秋の終焉の家は阿佐ヶ谷で、旭彦急死の5年後の昭和17年、病の床で郷里・柳河(柳川)写真集『水の構図』序文を書き、その1ヶ月の11月2日に亡くなった。57歳だった。写真は同写真集に掲載されたサングラス姿の白秋。(国会図書館デジタルより)

 さて、旭彦の店「楽々」は千駄ヶ谷のどの辺にあったのだろうか。『白秋全集36』の「旭彦覚え書」に~昭和十年の秋、旭彦は千駄ヶ谷の八幡通りに広東料理「楽々」の招牌を掲げた。深川区役所の雇員を辞めた退職金の殆どがこの資金に吐き出された。初めは「おでんや」をはじめるつもりで造作もしたのであるが~(中略)人の甘言に乗せられて「楽々」の店を譲り受けた。主人は老酒の名も知らず、細君は「メニュー」を料理名と思っていた、と余りに無知。高給の広東人コックを雇って、半年経たずにつぶれてしまった~

 白秋は「楽々」のチラシ文も書いたと全文掲載。~名も苅る萱の千駄ヶ谷三丁目に、気も楽々と広東料理の灯をかゞげて、新に荒き波の潮に生を凌がむとする島田旭彦は~。以後は友を悼む文章が10頁に亘っていた。「楽々」は鳩森八幡神社から南西方向へ坂を下る商店街かなと推測するが、いかがだろうか。

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方丈記26:住まずして誰が悟らん [鶉衣・方丈記他]

ohkatawonozu_1.jpg 大かた世をのがれ身を捨てしより、うらみもなく、おそれもなし、命は天運にかませておしまづ、いとはづ(厭はず)身をば浮雲になずらへて(準ふ、疑ふ=準じる、片を並べて)、頼まずまだし(未だし=時期尚早)とせず。一期のたのしみはうたたねの枕の上にきはまり、生涯の望は折り折りの美景に残れり。(ここまでは岩波文庫版にない文章です) それ三界はただ心一つなり。心若安からずは、牛馬・七珍(乗り物の家畜・宝物)も由なく、宮殿望なし。今さびしき住ゐ、一間の庵、みづからこれを愛す。

 をのづから(たまたま)みやこに出ては、乞食となれることをはづといへども、かへりて爰に居る時は、他の俗塵に着することをあはれふ。もし人此いへることをうたがはば(云える事を疑えば)、魚鳥の分野(ありさま)を見よ。魚は水にあかず、うほ(魚)にあらざれば其心をしらず。鳥は林をねがふ。鳥にあらざれば其心をしらず。閑居の気味も又かくのごとし。住ずして誰かさとさん。

 ●三界(欲界=淫欲・食欲・色界)。●後半の文は、住まずして誰がわかろうか、と居直っている。『方丈記』次で終わりです。

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白秋と俊子のその後(25) [千駄ヶ谷物語]

hakusyue.jpg_1.jpg テーマは千駄ヶ谷。白秋がこの地を去れば、幾冊もの白秋関連書とも別れることになる。特定地域調べはロードムービーならぬ〝来ては去って行く人々〟を見る定点カメラのようです。

 そうとはわかっているも、白秋・俊子のその後を少しだけ追う。二人は市ヶ谷の未決監に収監され、弟・鐵雄が必死の奔走・金策でようやく示談で2週間後に釈放。示談金300円。鐵雄の保険会社月給15円。300円を手にした夫がニンマリするのもわかる。明治45年7月刊『桐の花』には情念の未練・苦悶の歌や散文が収録されている。

 「君かへす朝の敷石さくさくと雪と林檎の香のごとくふれ」「あだごころ君をたのみて身を滅し媚薬の風に吹かれけるかな」。そして囚人馬車「かなしきは人間のみち牢獄みち馬車の礫満(こいしみち)」。こんな事態に〝みち〟リフレインで遊んでいる。白秋、相当にしたたかです。「編笠をすこしかたむけよき君は紅き花に見入るなりけり」。惚れた人妻の腰と手に縄、編笠の囚人姿を見ている。次は獄中歌。「鳩よ鳩よをかしからずや囚人の〝三八七〟が涙ながせる」。白秋の囚人番号を詠っている。

 釈放された二人は、白秋の両親、弟・妹と共に東京脱出で三浦半島の三崎へ移住。陽光を浴びて再生を図る。「城ヶ島の女子うららに裸となり見れば陰(ほと)出しよく寝たるかも」。気分はゴーギャンです。

 しかし生計苦しく、家族らは東京へ戻り、二人はなんと!小笠原・父島へ渡る。同行は三崎で結核療養中だった姉妹二人。だが小笠原はよそ者には厳しかった。「聞いて極楽、住んで地獄」。四か月後に帰京して俊子と離婚。白秋の二番目の妻・章子も凄かったがここで終わる。荷風さんの「素人に手を出しちゃいけませんぜい」の声が聞こえます。

 絵は俊子と離婚後の大正3年(1914)刊の詩集『白金之獨楽』掲載の白秋画。手前に鶴、田畑で働く人々と富士山か。南海の沖に島が聳えて、ペンギンと魚が空を飛んでいる。〝気分はゴーギャン〟と言ったが、白秋の画才やはり凄い。(国会図書館デジタルより)

 次は白秋の同郷・同歳の島田旭彦が、千駄ヶ谷に広東料理店「楽々」を出して失敗した話。白秋は島田のガンジーのような風貌を「よく云えば男の藤陰静枝かな」と評したとか。静枝さんは、荷風の二番目の妻。

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方丈記25:独り気儘の自由 [鶉衣・方丈記他]

imaisyoku_1.jpg 今、一身を分ちて、二の用をなす。手のやつこ、足の乗物(手は召使、足は乗物)よくわが心にかなへり(適へり)。こころ又身のくるしみを知れらば、くるしむ時はやすめつ(つ=完了の助動詞)、まめなる(やる気のある)時はつかふ。つかふとても、たびたび過さず(無理せず)。ものうしとても、心をうごかつ事なし。いかに況や、つねにありき(歩き)、常に動くはこれ養生成べし。何ぞいたづらにやすみをらん(休んでいられようか)。人を苦しめ、人を悩ますは又罪業也。いかが(反語。どうして~あろうか)他の力をかるべき。

 鴨長明、いよいよ解脱の領域です。前項までが〝住宅論〟ならば、今度は〝身体論〟から〝物質・食糧論〟へ。

 衣食のたぐひ、又おなじ。藤の衣(藤や蔦などの皮で作った衣服)、麻のふすま(夜具)、うるに(得るに)したかひて、はだ(肌)人をかくし、野辺のつばな(茅花、ちばな、ちがや)、峯のこのみ(木の実)、命をつぐばかり也。人にまじはらざれば、姿を恥る悔もなし。かてともし(糧乏し)ければ、をろそかなれとも程味をあまくす(自分のおろそかの結果と思えば程甘んじる)。すべてかやうの事たのしく、富る人に対していふにはあらず。ただ我身一にとりて、昔と今とをたくらぶる(た=接頭語+較ぶる)也。

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白秋と俊子の家はどこ?(24) [千駄ヶ谷物語]

suzume.jpg_1.jpg 白秋が千駄ヶ谷原宿へ引っ越して来て、隣家人妻・俊子と深間になった。さて、どの辺に住んでいたのだろうか。

 現代日本文学全集『北原白秋・石川啄木集』巻末付録に、鈴木一郎・文「北原白秋と松下俊子」に住所が記されていた。「明治43年9月、白秋はそれ迄住んでいた牛込区新小川町34番地の仮寓から〝青山〟に居を移した。正確には府下千駄ヶ谷原宿85番地である」

 川本三郎『白秋望景』には「千駄ヶ谷原宿(現在の千駄ヶ谷駅近く)に引っ越しをした」。瀬戸内晴美の小説『ここ過ぎて』には「靑山原宿、正確には府下千駄ヶ谷原宿85番地」。作家らは同住所を記すも「千駄ヶ谷駅近く」「青山」「青山原宿」と微妙に異なり、誰もが場所を説明する文章を避けている。住所特定が出来なかったのではなかろうか。

 明治40年(1907)頃の住所を調べてみれば「東京府豊島郡千駄ヶ谷大字原宿」。明治42年地図では仙寿院の南側に「北原宿」「南原宿」あり。昭和12年の明治通り開通後の地図には「北原宿=原宿1丁目」「南原宿=原宿2丁目」、明治通り付近が「原宿3丁目」だが田畑ばかり。そして現在は原宿1~3丁目は「渋谷区神宮前」で「原宿」の名も消えている。

 かつて小生は藤田嗣治がパリ留学前の大久保の新婚旧居を特定したことがある。その資料は大正1年「東京市及接続郡部〝地籍地図〟」で、今回も同地図で探してみた。だが「千駄ヶ谷町大字原宿」は「字竹之下・北原宿」「字南原宿」「字石田」「字灰毛丸」と細分化されてい、「千駄ヶ谷原宿85番地」では特定出来なかった。

 作家らも同住所は記すも、場所の説明文を避けていた。文学者旧居巡りのサイトも多いが誰も手をつけていない。ひょっとして、この住所表記は正確ではなかったのではと推測される。まぁ、当時の地図を見れば「仙寿院」の南側が原宿一帯で、最寄り駅は「千駄ヶ谷駅」(明治37年8月開業)か「原宿駅」(明治39年10月開業)だろう。

 さて、二人の〝姦通〟経緯を簡単に記す。白秋は同地を五ヶ月後に去り、京橋区木挽町の土蔵「二葉館」二階一間に移転。そこは元待合で壁一面に描かれた春画を、いい加減な塗装で隠した部屋。ここが最初の情交場所か。白秋はここから飯田河岸、新富町、浅草と転々としつつ、明治45年5月に越前堀(お岩稲荷のそば。荷風さん関連で同地を訪ねたことがある)に移った時に、夫・長平から告訴。検察局より姦通罪で起訴。かくして二人は囚人馬車の乗せられて市ヶ谷未決監へ送られることになる。

 カットは白秋の二番目の妻・江口章子と過ごした極貧時代に〝雀を友〟として綴った雀観察の『雀の生活』(大正9年刊)の白秋自画。白秋は絵の才能もあり!と感じた。

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方丈記24:自分の為の家とは [鶉衣・方丈記他]

subeteyono_1.jpg すべて世の人の住家を作るならひ、かならずしも身のためにはせず。或は妻子・眷属(けんぞく=一族郎党)の為につくり、或は親昵(しんぢつ=親しい人、昵懇の人)、朋友のために作る。或は主君、師匠及び財宝、馬牛のためにさへこれを作る。我今、身の為にむすべり。人の為につくらず、故いかんとなれば、今の世のならひ。此身の有様。ともなふべき人もなく、たのむべき屋つこ(奴=使用人)もなし。たとひ、ひろくつくれり共、誰をやどし、誰をかすへん(据へん)

 今の言葉で云えば、究極のシンプルライフ、断捨離、ミニマリストの暮し。妙に現代の時流に合っているから面白い。

 それ(夫、そもそも)、人の友たる者は、とめるをたうとみ(富めるを尊み)、ねんごろ(外見上の親切)なるを先とす。かならずしも、情あると直成(すなおなる)とをば愛せず(人情ある者、素直な者を愛せず)。たゞ糸竹(弦管楽器)、花月を友とせんにはしかず。人の奴たるものは、賞罰のはなはだしきをかへりみ、恩のあつきをおもくす。更に、はごくみあはれふといへども、やすく静なるをばながはず(穏やかで静かであることなど願っていない)。

 ただ我身をやつことするにはしかず。もしすべきことあれば、則をのづから身をつかふ。たゆからずしもあらねど(弛からず=だるいわけではないが)、人をしたがへ、人をかへりみるよりはやすし。若ありくべきことあれば、みづかsorehitonotomo_1.jpgらあゆむ。苦しといへ共、馬・鞍・牛・車と心をなやますには似ず。

 今、都心在住者に、自家用車所有欲がない。車を持つ煩わしさ、経費を嫌っている。『方丈記』が著されたのが1212年。それから806年です。

 五味文彦は、これら長明の〝住宅論〟は、吉田兼好『徒然草』に受け継がれてゆくと記している。「家の作りやうは夏をむねとすべし~」。小生はまた、横井也有『鶉衣』にも引き継がれていると追記したい。也有翁は頭を剃っても「夏をむねとこそと思ひ定めて~」と『徒然草』を引用するほど。次回は長明の〝身体論〟へ。

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北原白秋、姦通罪で囚人馬車へ(23) [千駄ヶ谷物語]

kawahakusyu.jpg 千駄ヶ谷の与謝野夫妻「新詩社」が明治42年1月に千駄ヶ谷を後に、神田・東紅梅町へ去った翌年9月のこと。北原白秋が牛込区新小川町から千駄ヶ谷村大字原宿へ引っ越してきた。「新詩社」の件で千駄ヶ谷に馴染があったゆえだろう。

 以下、川本三郎『白秋望景』、西本秋夫『白秋論資料考~福島俊子と江口章子を中心に~』、藪田義雄『評伝 北原白秋』を参考にする。

 白秋は明治42年(1909)24歳の若さで処女詩集『邪宗門』刊。日露戦争勝利の近代日本ヤングジェネレーションの官能謳歌。2年後に第2詩集『思ひ出』刊。一躍、詩壇の寵児になった。

 さらなる飛躍を期して郊外住宅地・千駄ヶ谷へ移転。だが「好事魔多し」。隣家の人妻・俊子がなんともいい女だった。俊子22歳。前年に松下長平と結婚して長女を出産。短歌を愛し、斉藤茂吉にも師事。夫・長平は国民新聞社の写真部記者。嗜虐性が強く、俊子に生傷絶えず。加えて混血情婦もいた。それゆえの愁い含んだ眼差しで白秋を見つめる。すらりとした肢体、ぬけるような白い肌。坊ちゃん気質で世間知らずの白秋はイチコロだった。

 だが道ならぬ恋ゆえ、人妻ゆえ、姦通罪ゆえに、二人の恋心は抑えれば抑えるほどに燃え上がった。どうやら隣家主人・長平が仕込んだのかもしれない。時代の寵児へのやっかみ、脅せば金にもなろう。やがて思惑通り「姦通罪」で起訴。白秋と俊子は、出頭した裁判所から他の囚人らと共に囚人馬車に乗せられて市ヶ谷の未決監に送り込まれた。時代の寵児が、一転して姦通罪人。マスコミが喜ぶことよ。

 「小生は第八監十三室の〝三八七〟というナンバーに名を改められた」。2週間後、弟の北原鐵雄の必死の奔走で示談。相手は300円という大金をせしめてニヤリと笑ったとか。川本三郎著には松永伍一『北原白秋 その青春と風土』よりの引用で「僕に童貞を破らせたのは石川啄木だよ。浅草十二階の魔窟へひっぱって行かれてね」を紹介。白秋は、性の甘い深淵を覗き見たばかりだった。

 そんなことはどうでもいい。川本著には「千駄ヶ谷原宿に引っ越した」と記して、括弧括りで(現在の千駄ヶ谷駅近く)とした。さて、それは一体どの辺りだったか。(続く) 

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方丈記23:草庵、早や五年~ [鶉衣・方丈記他]

hodosemasi_1.jpgokatakototokoro_1.jpg 大かた此所に住初(すみそめ)し時は、白地(あからさま)とおもひしかと、今迄に五とせを経たり。仮の庵もやゝふる屋(岩波文庫は〝ふるさと〟)となりて、軒にはくち葉ふかく、土居苔むせり。

 をのずから事の便に都を聞ば、此山に籠ゐて後、やんごとなき人のかくれ給へるもあまた聞ゆ。まして其数ならぬたぐひ、尽くしてこれをしるべからず。たびたびの炎上にほろびたる家、又いくそばくそ。たゞかりの庵のみ、のど(長閑)けしくて恐れなし。

 ●白地=あからさま、にわかに、突然、ちょっとの間である、しばらく。●むせり=咽ぶ、噎ぶ。詰まらせる。●おのづから=たまたま、偶然。●やんごとな=やむごとなし=捨てて羽おけない、重大である、はなはだ尊い、別格である。●尽くしてこれしるべからず=知り尽くすことはできない。

 程せばしといへども、夜ふす床あり。昼居る座あり。一身をやどすに不足なし。がうな(やどかりの古名。岩波文庫は〝かむな〟)は、ちいさきかひをこのむ。これよく身をしるによりてなり。みさごは荒磯にゐる。すなはち人をおそるゝによりて也。我又かくのごとし。身をしり世をしれらば、願はず、ましらはず。たゞしづかなるを望とし、愁いなきを楽とす。

 ●ましらはず=ためらわず、不安の念なく。岩波版は〝わしらず〟で校注に「あくせくと奔走しないこと」とある。


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晶子と「おなか団子」(22) [千駄ヶ谷物語]

kimonoakiko.jpg 千駄ヶ谷の「与謝野寛と晶子」編の最後です。夫妻の長男・光氏(医学博士、公衆衛生関連の理事、会長など歴任)90歳の聞き書き『晶子と寛の思い出』には、こんな文もあった。

 「千駄ヶ谷に移って、有名な〝一夜百首会〟が行われた。十時で電車が止まっちゃうから、一晩に一人百首読んで、朝に帰るんです」

 これは「結び字、結字」を入れての作歌会。石川啄木「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きゆれて蟹とたはむる」は「蟹」を結字にした一夜百首会で詠まれた作とか。評伝では〝一夜百首会〟は中渋谷の明治36年頃から始まってい、当時は渋谷も千駄ヶ谷も終電は10時頃ゆえに、徹夜の歌詠み会が行われたのだろう。

 光さんは話をこう続ける。「百首会は長丁場で腹が減りますから、近衛4連隊の下、今は住宅公団のアパート裏あたり、今は暗渠になっている渋谷川沿いに〝おなか団子〟という団子屋さんへ行くんです。僕が三つか四つの頃で、母が団子をたくさん買って大きな袋に入れて、それを背負って帰るんです」

 小生が2年前春に、この周辺を自転車散歩した際には、未だ「都営霞ヶ丘アパート」群が建っていて、団地北東脇の小公園に「近衛歩兵第四連隊(青山練兵場)」の碑が建っていたのを覚えている。今は新国立競技場建設と同時にアパート群も碑も姿を消した。

 「おなか団子」は、千駄ヶ谷シリーズ最初に『江戸名所図会』の「仙寿院」紹介の際に「渋谷川に沿った道を多くの人が歩いていて、そこには明治元年まで〝お仲だんご〟あり。お仲さんは美人で広重も描いたとか」と記した。その「お仲だんご」が与謝野晶子の千駄ヶ谷時代にもあったと語られている。代替わりして存続していたか、同名を名乗った団子屋だったのだろうか。

 そして与謝野光著の最後はこう結ばれていた「やはり思い出すのは、貧乏ではあったが大勢の方々で活気があった千駄ヶ谷時代ですね。裏を返せば、うちの母にとっては、ずいぶん苦労の多い時だったということでしょうけど」 なお、与謝野光氏に関しては、GHQ命による米兵らの性のはけ口場設定と性病予防で後に再び登場です。写真は国会図書館「近代日本人の肖像」より。

 与謝野夫妻と交流のあった石川啄木や北原白秋の関連書を読めば、さらに当時の千駄ヶ谷の様子が記されていそう。手始めに川本三郎著『白秋望景』、嵐山光三郎著『おとこくらべ』を読めば、明治45年に「千駄ヶ谷大字原宿」に引っ越してきた北原白秋が、隣家の人妻・俊子さんと不義密通。姦通罪で囚人馬車に乗せられて市ヶ谷・未決監房へ運ばれたとあった。

 荷風さんが〝大逆事件〟関係者らを乗せた囚人馬車を自宅前で見て「文学者として何も出来ぬ己は、江戸の戯作者に身を落とす他にない」と自戒したのが明治43,44年だった。白秋と俊子さんも、囚人馬車に乗せられて市ヶ谷監獄へ向かって行く~。さっそく北原白秋・関連書を読むことになる。

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