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方丈記22:草庵の夜しづかなれば [鶉衣・方丈記他]

mosiyoru_1.jpghojyozu.jpg_1.jpg 日野山の草庵の様子、暮しぶりの記述が続くので、江戸本『方丈記之抄』に挿入された絵を紹介です。

 もし、夜しづかなれば、窓の月に古(故)人をしのび、猿の声に袖をうるほす。草むらの蛍は、とをく真木の嶋のかがり火にまがひ、暁の雨は、をのづから木の葉吹嵐に似たり。山鳥のほろほろと鳴を聞て、父か母かとうたがひ、峯のかぜぎの近くなれたるにつけても、世にとをさかる程をしる。或は埋火(うづみび)をかきをこして、老のね覚(寝覚)の友とす。おそろしき山ならねど、ふくろうの声をあはれむにつけても、山中の景気、折につけても尽ることなし。いはんや、ふかくおもひ、深くしれ覧(らん)人の為には、これにしてもかぎるべからず。

 「窓の月に故人をしのび、猿の声に袖をうるほす」は『和漢朗詠集』から。窓からの光に旧友や故人をしのば、猿の声が彼らの泣き声にも思えて涙があふれる~そんな意だろう。

 ●真木の嶋=槙島(宇治川と巨椋池の間にあった洲。かがり火をたいて氷魚をとる)。●かせぎ=鹿の古名。●かきおこして=掻き熾す? ●景気=気配、景色(けいしょく、けしき、風景)。

 最後の「いはんや、ふかくおもひ、深くしれ覧人の為には、これにしてもかぎるばからず」の現代文訳は「いうまでもなく、深く考え、知識深き人には、これだけに限らないはずである」

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四角関係、キラ星の文人らが(21) [千駄ヶ谷物語]

yosanohon1_1.jpg 明治37年(1904)に山川登美子、増田雅子が日本女子大に入った翌年1月、登美子、雅子、晶子の合著『恋衣』刊。さっそく千駄ヶ谷で新年会を兼ねた『恋衣』出版記念会が行われた。開業間もない「千駄ヶ谷駅」に降り立つは登美子、雅子。そして錚々たる文人27人ほど。

 盛岡から上京の19歳石川啄木は、新詩社を紹介してくれた先輩・金田一京助にこう報告したとか。「一昨日は新詩社の新年会。めづらしく上田敏、蒲原有明、石井柏亭などの面々出席。女子大学より〝恋衣〟の山川登美子、増田雅子のお二人見え候~」

 鉄幹に晶子、登美子、雅子のめくるめく性愛を読みたい方は、その道の小説家・渡辺淳一『君も雛罌栗われも雛罌栗』でお楽しみ下さい。女性らの嫉妬の火花はさておき、与謝野光『晶子と寛の思い出』の「千駄ヶ谷時代」は、こう続く。

 「千駄ヶ谷時代っていうのは、まだランプなんです。だから朝ね、母を中心にランプ掃除をやるの。僕も手伝ったけど子供にはたいへんだった」。ネットで当時の電化状況を調べてみた。

 ●明治38年9月、日露戦争終結。兵士・武器・弾薬輸送に大変だったので甲武鉄道を国有化。●明治40年(1907)に東京鉄道が千駄ヶ谷、渋谷町、品川町、目黒村などに電灯・電力供給を開始。●戦勝景気で電気事業も好況。水力電力も加わって電燈料金半減。電燈が石油ランプを駆逐。

 啄木が最初の訪問から3年後の春の与謝野家を再訪しての日記に「お馴染みの四畳半の書斎は、机の本棚も火鉢も座布団も三年前と変わりはなかったが(中略)~少なからず驚かされたのは、電灯のついて居る事だ。月一円で却って経済だからと主人は説明したが、然しこれはどうしても此四畳半幅の人と物と趣味とに不調和であった。此不調和はやがて此人の詩に現はれて居ると思った」

 ランプ生活が電灯に変わったが、鉄幹編集の『明星』と彼の詩には、啄木日記からも伺えるように、早くも時代に色褪せてきた。明治41年正月、同人の吉井勇、北原白秋、木下杢太郎、長田幹彦ら7名が退会。晶子は「朝の雨さびしうなりぬ紫のからかささして七人去れば」と詠った。

 その後に窪田空穂、相馬御風らも退会。啄木が5月に訪問した日記には「今の新詩社、与謝野家は晶子女史の筆一本で支えられている」。『明星』最盛期5千部から9百部に落ち込んで、明治41年11月の百号で終刊。「わが雛はみな鳥となり飛び去んぬうつろの籠のさびしきかなや」。

 明治42年1月、与謝野夫妻は千駄ヶ谷を後に、神田駿河台ニコライ堂近くの東紅梅町へ去って行った。

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方丈記21:方丈暮らしの充実 [鶉衣・方丈記他]

matafumoto2_1.jpg 日野山、方丈庵生活の充実記が続きます。

 又麓に一の柴の庵あり。則(すなわち)此山守が居るところ也。かしこに小童有。時々来て相訪ふ。もしつれづれなる時は、これを友としてあそびありく(遊び歩く)。かれは十六歳、われは六十。其齢事の外なれど、心をなぐさむる事は、これ同じ。或はつ花を抜き、岩なしを取る。又ぬかごをもり、芹をつむ。或はすそはの田井に至りて、落穂をひろひて、ほぐみ(穂組)をつくる。若日うららかなれば、嶺によぢ上りて遥に故郷の空を望み、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師(これも地名)を見る。勝地は主なければ、心をなぐさむる障なし。あゆみ煩なく、志とをくいたる時は、これより峯つゞき、すみ山を越、笠取を過て、石間にまうで、石山をおがむ。若は又栗津の原を分て、蝉丸翁が跡をとふらひ、田上川をわたりて、猿丸太夫が墓をたづぬ、帰るさには、折につけつゝ、桜をかり、紅葉をもとめ、蕨を折、木のみをひろひて、且は仏に奉り、且は家づと(みやげ)にす。

 岩波文庫版では「かれは十歳、これは六十」。江戸本は「かれは十六歳、われは六十」。どちらが正しいのでしょうか。長明のアウトドア暮しが、実に楽しそうです。ここからは植物のお勉強。

 ●つ花=茅花、イネ科の多年草。細い鞘に花穂を包む。この花穂が茅花。初夏にこの鞘をほどき銀色の穂がなびく。茅花の中の穂は僅かな甘みがあって、子らが食べる。●岩梨=ツツジ科。果実は緑色=赤褐色の果皮に包まれて、梨のような甘さがある。●ぬかご=むかご、自然薯の茎にできる実。

 草摘みを愉しめば、嶺に登って故郷を望み、かつ先輩歌人らの足跡に思いを馳せる。●すそはの田井=山裾をめぐる田。●勝地=景勝地。●すみ山=宇治市炭山。他に地名いろいろ。●石山=岩間寺。●蝉丸翁=琴をよくした翁。●猿丸太夫田風=三十六歌仙の一人。

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与謝野夫妻の千駄ヶ谷(20) [千駄ヶ谷物語]

myoujyo.jpg_1.jpg 明治37年8月21日に甲武鉄道「千駄ヶ谷駅」開業。同年11月3日に与謝野鉄幹・晶子が「新詩社&明星」共々、千駄ヶ谷村字大通549へ引っ越して来た。現・北参道駅から鳩森八幡神社へ至る、今も〝大通り〟の名を冠する商店街の郵便局近く。現・千駄ヶ谷1-23。「東京新詩社跡」の史跡柱が立っている。

 夫妻の長男・与謝野光『明子と寛の思い出』(思文閣出版)に「千駄ヶ谷時代」の項あり。「明治書院がたくさん借家を造ったんです。で、その借家に移った」。そして、こう続く。「駅からかなり遠かった。今の津田塾のあたりです。今の駅からだと近いけど、その頃は信濃町の駅からでしたからね。今は南の方に出口がありますけれども、北の方にあったんです。それで、よけいにたいへんでした」

 氏の90歳の聞き書きゆえ、多少の記憶違いはあろう。この辺を検証すれば、資料では間違いなく「千駄ヶ谷駅」開業後の移転。ちなみに「信濃町駅」開業は明治27年(1894)。千駄ヶ谷辺りから軍用「青山停車場」へ引き込み線あり。「千駄ヶ谷駅」開業当初の乗降客は1日250人程だったとか。

 与謝野夫妻の足跡を要約してみる。逸見久美著『評伝与謝野寛晶子(明治編)』、青井史著『与謝野鉄幹』、野田宇太郎著『改稿東京文学散歩』他を参考にする。

tekansi.jpg_1.jpg 鉄幹、明治32年(1899)に浅田信子との間に女児を設けるも40余日で死去。信子と別れて林滝野と同棲し「東京新詩社」設立。明治33年4月『明星』第1号発行。発行所は麹町区上六番。発行人・編集人は林滝野。鉄幹が林家の養子に入る約束、かつ資金も林家。金子薫園、佐々木信綱、正岡子規、高浜虚子、河東碧悟桐、島崎藤村、泉鏡花、広津柳浪など錚々たる執筆陣。

 同年、鉄幹は岡山で鳳晶子、山川登美子と会う。滝野との間に男子誕生。明治34年(1901)1月、晶子と京都で遊ぶ。3月、詩歌散文集『鉄幹子』刊。「妻をめとらば才たけて、顔うるはしくなさけある~」の〝人を恋うる歌〟収録。

 『明星』は67頁雑誌に急成長で、歌壇の中心になる。子規派と鉄幹派は平行線で、3月に匿名『文壇照魔鏡』刊。鉄幹は「強姦をし、放火をし、妻を売り、無銭飲食をした」と誹謗。滝野は子供を連れて帰郷。5月に渋谷村中渋谷へ移転。6月、晶子が鉄幹宅へ身を寄せ、8月『みだれ髪』刊。「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」。10月、晶子・鉄幹挙式。

 明治35年、長男・光誕生。明治37年、鉄幹・晶子『毒草』刊。晶子『明星』に「君死にたまふこと勿れ~」発表。渋谷時代の彼らの住家を見た明治書院社主・三樹一平は日記に「あまりなるあばら屋で驚くの外なしと語り合ひ、さて千駄ヶ谷の地にふさはしき詩堂建てまゐらせむと申さるゝなり」と記す。かくしての千駄ヶ谷移転。

 挿絵は『鉄幹子』巻末の「明星」広告とカット。絵は藤原武二のアンフォンス・ミュシャ(アール・ヌーヴォー中心画家)の模倣図だろう。国会図書館デジタルコレクションより。

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方丈記20:自然と独居の愉しさ [鶉衣・方丈記他]

sonotokoro_1.jpg 方丈の説明、その暮しが記されます。

 其所のさまをいはば(云はば=云ってみれば)みなみにかけひ(南に掛樋)あり。岩をたゝみて(畳む、いじめて? 岩波版は〝岩を立てて〟)水をためたり、林軒(はやしのき。岩波版は〝林の木〟)近ければ、爪木(つまぎ=薪にする小枝)を拾ふにともし(乏し)からず。名を外山(岩波版は〝音羽山〟)といふ。正木のかづら(ツタマサキ)、跡をうづめり。谷しげけれど西は晴たり。観念のたより(山の人的形象?)なきにしもあらず。春は藤波を見る。紫雲のごとくして、西の方に匂ふ。夏は時鳥(岩波版は〝郭公〟)をきく。かたらふごとに(鳴くたびに)しで(死出)の山路をちぎる(冥土の山路の道案内を約束する)。秋は日くらしの声みみにみちて、空蝉(うつせみ=現世)の世をかなしむと聞ゆ。冬は雪を憐む。つもりきゆるさま、罰障にたとへつべし。もし念仏ものうく、読経まめならざる時は、みぢからやすみ、みぢからおこたる。さまたくる人もなく、又恥べき人もなし。

 「罪障にたとへつげく=罪障の山に=罪の山に〝例へつげく=たとえることができよう〟。江戸版は古本(岩波版)に逆らうように、様々に言葉を変えています。

 殊更に無言をせざれども、ひとりをれば、口業をおさめつべし。かkotosarani_1.jpgならず禁戒を守としもなけれ共、境界なければ、何に付てかやぶらん。若跡の白波に身をよする(我が身を較べる)朝には、岡の屋に行かふ舟をながめて、満沙弥が風情をぬすみ、もし桂の風ばちをならす夕には、潯陽(じんやう)の江を思ひおもひやりて、源都督のながれをならふ。もしあまり興あれば、しばしば松のひびき秋風の楽をたくへ、水の音に流泉の曲をあやつる。芸はこれつたなければ、人の耳を悦ばしめんとにもあらず。ひとりしらべ、ひとり詠じて、みづから心をやしなう斗也。

 「口業をおさめつべし=三業のひとつ、妄語、悪口を納むることになろう」。「境界=けいかい(地所の境)」だが「きょうがい=境遇」。ここでは俗悪にまみれた境遇。●岡の屋=宇治の岡屋。●満沙弥=飛鳥~奈良の歌人。出家して、その歌に無常観あり。●桂や潯陽は中国。この文章は漢詩的散文です。「秋風の楽をたくへ」の〝たくへ=たぐふ=添わせる〟。●源都督=源経信。大納言、平安中期の歌人。

 

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徳川邸から与謝野鉄幹・晶子へ(19) [千駄ヶ谷物語]

tokyotaiikukan_1.jpg 家達は昭和13年(1938)ロンドンで開催の赤十字国際会議へ日本赤十字社長として出席すべく米国~カナダ経由で旅立った。ロッキー山脈越えの車中で心臓発作。カナダの病院に入院後に帰国。昭和15年(1940)6月に亡くなった。息子・家正(外交官)が公爵家を襲爵し、貴族院議員になった。

 家正は、天璋院(篤姫、明治16年没)の〝島津家から嫁をもらうように〟の遺言通り、29代藩主・島津忠義の九女・正子と結婚。昭和18年(1943)6月、東京都が紀元2600年事業の一つ「武道館」敷地として家達邸に着目。家正と交渉して譲渡成立。壁に囲まれた本邸敷地1万2千余坪。徳川宗家は東郷神社傍の渋谷区原宿3丁目(1万坪の元三井財閥総帥・團琢磨家跡)へ去って行った。

 徳川邸は都・民生局所管となって「葵館」。鍛錬道場、また出征兵宿舎になった。空襲時は宿泊中の兵士らによって焼夷弾の火が消された。終戦後は進駐軍の将校クラブ「マッジ・ホール」になる。(「マッジ・ホール」については赤坂真理『東京プリズン』に登場するので後述したい)

 接収期間は昭和20年(1945)12月~昭和27年(1952)5月。返還年の末、体育館建設で木造建築物を除去、鉄筋コンクリート造りの洋館2階建ては位置を移動して、翌年10月に東京体育館着工。昭和29年(1954)落成。昭和32年5月、屋内水泳場建設で遺されたいた洋館も解体。徳川邸は完全に姿を消した(東京体育館HPより)。この際、日本間の大広間「鶴の間」は鶴見の総持寺の客殿へ、他にも移築された部分があるらしい。

 昭和61年(1986)、老朽化で閉鎖。槙文彦設計で平成2年(1990)に現・東京体育館として全面改築。以後、幾度かのリニューアルが行われ、今年7月から2020年の東京オリンピックに向けての改修工事が始まるらしい。カットは現在の東京体育館図で、この全敷地が徳川宗家新邸だった。

 これにて千駄ヶ谷の徳川家関連を終えるが、他に明治・大正時代の千駄ヶ谷に特筆すべきことはなかっただろうか~。徳川家達が貴族院議長になったのが明治36年12月。その翌年37年8月21日に甲武鉄道「千駄ヶ谷駅」開業。それに併せたのだろうか、同年11月3日に与謝野鉄幹・晶子が「東京新詩社&明星」共々、渋谷から千駄ヶ谷へ引っ越してきた。約5年間の千駄ヶ谷暮し。その時期はちょうど永井荷風のアメリカ・フランス時代。与謝野鉄幹・晶子夫妻にとって、この時期の「新詩社・明星」はどうだったのだろうか。『明星』が最も輝き、そして凋落した激動期。次回から与謝野夫妻の「千駄ヶ谷物語」です。

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方丈記19:日野山に方丈の庵 [鶉衣・方丈記他]

kokoni60no_1.jpg 爰に六十(むそぢ)の露きえがた(消え方=消えかけるころ)にをよびて、更に末葉のやどり(晩年の住居)をむすべること有。いはば狩人(岩波文庫版は〝旅人〟)の一夜の宿を作り、老たるかいこの眉(蚕の繭)をいとなむがごとし。これを中頃のすみかになずらふ(準ふ・疑ふ=較べる)れば、又、百分の一にも及ばず。とかくいふ程に齢はとしとしにかたぶき(衰え)、すみかは折々にせばし(狭し)。其家の有様よのつねならず。ひろさはわづかに方丈。たかさは七尺がうち也。所をおもひさだめざるがゆへに、地をしめて作らず。土居をくみ、打おほひをふきて、つぎめごとにかけがねをかけたり。もし心にかなはぬことあらば、やすく外へ移さんが為也。其改め造る時いくばくの煩か有。つむ所わづかに二両也。車の力をむくふる外は更に用途いらず。

 いよいよ方丈の庵の説明です。「爰」に馴染なく毎回戸惑う。=ここに、エン、オン、ひく、かえる。(爰許=ここもと)。高さ七尺=2mほど。広さは五畳ほど。しかも組み立て式で、二両あれば移動運搬可能。

 いま、日野山の奥に跡をかくして、南に仮の日がくしをさimahinoyamano_1.jpgし出して、竹のすのこをしき、其西に閼伽棚(あかだな=仏に供える物を置く棚)を作り、中には西の垣に添て阿弥陀の畫像を安置し奉りて、落日を請(うけ)て眉間の光とす。彼帳のとびらに普賢ならびに不動の像をかけたり。北の障子の上にちいさきたなをかまへて、くろき皮籠三四合を置。すなはち和歌、管弦、往生要集ごときの抄物(抜き書きしたもの)をいれたり。傍に箏、琵琶をのをの一張をたつ。いはゆるおりごと(折琴)、つぎ琵琶これ也。

 ●眉間の光=仏の眉間の白毫から放つ光。 

 東にそへえてわらびのほとろ(蕨の穂の伸び過ぎてほうけたもの)をしき、つかなみ(束並み=藁を畳の広さに編んだ敷物)を敷て、夜の床とす。東の垣に窓をあけて、爰にふつくゑ(文机)をつくり出せり。枕のかたに、すびつ(炭櫃)あり。これを柴折くぶるよすが(手段)とす。庵の北に少地をしめ、あばらなるひめ垣をかこひて園とす。則(すなはち)諸(もろもろ)の薬草を載(うへ)たり。仮の庵の有様かくのごとし。

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徳川家達の「鶏姦と妾同伴」事件(18) [千駄ヶ谷物語]

rokumeikan.jpg 徳川家達が貴族院議員ならば、佐野眞一著は『枢密院議長の日記』。日記を書くことに生涯を捧げた男・倉富勇三郎。実に297冊の日記帳を遺した。執筆期間は大正8年から昭和19年までの26年間。

 倉富議長は「書いて書いて書きまくった」が、残念ながら判読不能のミミズ文字で解読者なし。佐野眞一はスタッフ5名による読書会を5年間も続けて、やっと大正10年、11年分を解読。その第一級資料の中に「柳田国男との宿縁」と「徳川家達の秘め事」の項あり。家達と柳田国男の確執は前回に記したので、今回は〝秘め事〟のほう~。

 「実名をあげたとびっきりのスキャンダルは、大正十一年二月七日の日記に出てくる。俎上にあがっているのは、公爵にして従一位勲位、貴族院議長、ワシントン軍縮会議首席全権大使、日本赤十字社社長などの要職を歴任した徳川宗家十六代当主の徳川家達である」

gicyounonikki_1.jpg こんな書き出しで「宮内大臣・牧野伸顕が倉富にこう語った」と会話文で記されていると紹介。要約すると、徳川は華族会館(元鹿鳴館)に宿泊する多々なり。四五年目前(大正6、7年)のことなりし様なり。会館の給仕を〝鶏姦〟し、其事が度重なって給仕より荒立てられて、一万円を出金して落着したることあり。然るに本人は左程之を悪事と思わず、改むる模様なし。先年、徳川を学習院(男女の)総裁と為すの内儀を定めたる処、松浦某が強硬に反対し〝若し之を遂行するならば鶏姦の事実を訐く〟とまで主張したる為め、終り其儘に為りたりとのことなり。此事は自分より当時の宮内大臣波多野敬直に問ひたるに、〝事実なり〟と云へり。徳川頼輪抔(など)も〝兄は恥を知らずで、今尚公職を執り隠退の考なきには困る〟と云ひたることあり」

 まぁ、家達公はいつどこで、男同士で愛するなんてことを覚えたのでしょうか。それにしても〝鶏姦〟とは凄い言葉です。今でも男好きの男たちは、そんな言葉を使っているのでしょうか。当時の1万円って、1円=2千円とすれば2千万円になるのかなぁ。

 一方、同著では『中央公論』(明治44年4月号)が徳川家達の人物論を特集していて、錚々たる顔ぶれが執筆で「家達はいつも〝威望堂々〟として〝品行厳正〟な人物」という内容だったとフォローされていた。

 樋口雄彦著には宮内省総裁・木戸幸一の日記に「困ったものだ」との記述があると紹介されていた。それは昭和8年から翌年にかけての渡欧に女性を同行したることが新聞沙汰になったとある。前述の牧野伸顕の日記にも「家達公、洋行に妾を携帯したる由に、関係者が徳川家の浮沈に関わるスキャンダルに発展するのではと膝痛して、その女性だけを先に帰国させるようにした」の記述があると紹介されていた。

 他人の日記は怖いですねぇ。そして決して有名人になってはいけません。写真は鶏姦の舞台となった華族会館・元鹿鳴館(国会図書館「写真の中の明治・大正」より)と佐野眞一著『枢密院議長の日記』。

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方丈記18:大原移住の理由 [鶉衣・方丈記他]

cyoumeizou.jpg_1.jpg 『方丈記』が大原隠棲に入ったので、前回に続き長明の人生を探る。参考は五味文彦『鴨長明伝』。

 長明は河原近くに家を建てると同時に、俊恵に師事して歌の道に精進。師の後継者に認められつつあった。長明没時期に成立と思われる歌論集『無名抄』には、全編に俊恵の教えが記されているとか。

 文治3年(1187)、院宣による藤原俊成選集『千載和歌集』に長明の一首が入った。健久2年(1191)の「六条若宮歌会」に出詠。この時、すでに俊恵は亡く、翌年に後白河法皇も没。

 政治が鎌倉の将軍頼朝と京・九条兼実の両輪で展開し、九条家が文化拠点になる。建久9年(1197)、後鳥羽院政の開始。翌年に頼朝没。この間に九条家の浮沈あるも、正治2年(1200)になると九条家復活。『石清水若宮歌会』へ長明も復帰。建仁元年(1201)に「和歌所」設置で、毎月の歌会開催。長明は「和歌所の寄人」に選出されてトップランナーへ。

 彼は寂蓮や定家にも学び、さらに腕と地位を固めるが、建仁3年(1203)頃から朝廷の歌会活動が消えた。五味著には、この頃に大原隠棲して、建永元年(1206)春頃に出家、ではないかと推測されていた。

 大原隠棲は、こんな理由もあってだろうと記す。上皇が長明の「昼夜奉公怠らず」に報い、下鴨社の摂社・河合社で空席になった禰宜(かつて父親がそうだったように)に就かせようとしたが、下鴨の祐兼が猛反対。上皇は、ならば他社を官社に格上げし、その禰宜に就かせようとした。これを長明が辞したことによるだろうと推測。

 『方丈記』の ~すべてあらぬ世を念じ過しつゝ、心をやなませることは三十余年なり。其間、折々のたがひめに、をのづからみじかき運をさとりぬ。すなはち五十の春をむかえて、家を出て世をそむけり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし、身に官禄あらず、何に付てか執(しう)をとゞめん。空しく大原山の雲にいくそばくの春秋をかへぬる。

 禰宜になれると喜んだ自分が恥ずかしい、それが叶わず、今度は別社の禰宜の座を~という上皇の心遣いにいたたまれない、という思いがあったのだろうと推測。長明の隠棲については、家長日記の「けちえんなる心」を〝未練で頑なになった心〟と解釈する向きが多いので、小生もこれを辞書で引けば「=掲焉、結縁」両意あり。結縁なる心=仏道に入る縁を結ぶ、の意が正しいのではないかと思った。

 隠棲した長明だが『新古今和歌集』に10首が入った。その一首が「秋かぜのいたりいたらぬ袖はあらじ ただわれからの露のゆふくれ」。挿絵は同歌挿入の「新古今集入り肖像画」(国会図書館デジタルコレクションより)。次回から『方丈記』筆写に戻ります。

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徳川家達と柳田国男の確執(17) [千駄ヶ谷物語]

IMG_0916_1.JPG 徳川家達調べで「柳田国男との確執」なる記述に出会って、ちょっと驚いた。柳田国男と云えば民俗学者で、大著『柳田国男全集』一部を小生も蔵書。

 彼はそもそも農務官僚で、大正3年から退職する大正8年(1919)12月まで徳川家達の下で貴族院書記官長。家達との確執で退職し、それによって偉大な民俗学者誕生、いや日本民俗学が確立とか。

 家達の貴族院議員時代は前述通り、日本激動の明治36年12月~昭和8年。これに重なる柳田国男の書記官長時代を探ってみる。参考は前述の樋口雄彦著に、佐野眞一『枢密院議長の日記』を加える。

 二人が同じ職場になる前の柳田は、明治42年に遠野を含む東北旅行。大正2年に「郷土研究」刊。すでに民俗学に足を踏み込んでいた。本業より民俗学に情熱を注いでいたこと、家達にその理解がなかったこと、はたまた別の問題があったかで、家達は執拗に柳田の転出裏工作を展開したらしい。柳田は面と向かって言わず裏工作の家達に憤慨して、二人の仲はこじれにこじれた。

 家達は旧幕臣官僚に止まらず、裏工作に首相・原敬や西園寺公望まで巻き込んだから、二人の確執は周知の事態になった。結局は家達が柳田に謝罪し、柳田が辞職した。

 樋口著には、ここまで二人の仲がこじれたのには「家達の〝私行〟」ゆえという説、柳田が家達系静岡人らが興した〝報復運動〟へ違和感を持っていたという説も紹介。真相は定かではないも、結果的に二人の確執、柳田の官庁辞職によって「日本民俗学」が確立へ至ったことに間違いはない。

 小生、ここまで調べるまで迂闊にも、柳田国男が〝新宿在住〟とは知らなかった。さっそく市ヶ谷加賀町2-4-13の旧居跡を訪ねてみた。現・大妻女子大加賀寮の地に、岩手県遠野市設置の立派な史跡案内板があった。柳田は同地に明治34年(1901)から27年間在住。『遠野物語』の話者・佐々木喜善が早大在学中で、毎日のように柳田邸を訪れて〝遠野の話〟を語ったゆえ案内板には両者の在住地図が表示、さらには九百九十坪の柳田邸図面、『遠野物語』初版本、若き柳田の写真までが紹介されていた。(写真は同史跡案内板より)

 さて〝家達の私行〟とは何だったのだろう。これが女性問題のみならず、男色(鶏姦)も盛んだったとか。佐野眞一のノンフィクション好きの小生は、佐野眞一著『枢密院議長の日記』を読んでみた。

 メモ:4月10日、新宿でツバメ初認。早かった。桜も葉桜。

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徳川家達の業績(16) [千駄ヶ谷物語]

iesatogiin_1.jpg 家達のイギリス留学は、ロンドン郊外の半分私塾のイートン・カレッジ。明治15年(1882)10月、19歳で帰国。帰国翌月、天璋院采配による近衛忠房の長女・泰子と結婚。明治17年、長男・家正誕生。同年の華族令で公爵になる。

 明治20年(1887)秋、明治天皇が徳川家達邸に行幸。皇族や徳川一門、さらに勝海舟、山岡鉄舟、明治政府閣僚らも陪席。行幸の際の建物が「日香苑」として保存。明治23年(1890)、帝国議会開設と同時に貴族院議員(公爵・侯釈は満25歳で貴族院終身議員になる)。

 明治29年(1896)、文部大臣就任を打診されるも〝経験浅く〟と辞退。勝海舟「良い心がけだ」と褒めた。明治31年(1898)、東京市長に勧められるも辞退。勝海舟「そんな事は人に任せなさい」。明治32年、勝海舟没。明治36年12月から昭和8年(1933)まで貴族院議長。

 大正2年(1913)、徳川慶喜没。徳川家の上野寛永寺ではなく、谷中の墓地は神式で正室と多くの子を産んだ側室二人と共に眠っている。家達は常々「慶喜は徳川家を滅ぼした人、私は徳川家を立てた人」と言っていた。生前の勝海舟は両者にかなり神経を使っていたらしい。

 さて、家達の貴族院議長時代は、激動の時代だった。日露戦争(明治37年)、伊藤博文が中国で暗殺死(同42年)、大逆事件(同43年)、柳田国男「郷土研究」発行(大正2年)、第一次世界大戦(同3年)、関東大震災(同12年)、満州事変(昭和6年)、国連脱退(同8年)~

 家達の働き振りはどうだったか。「政治家にあらずして無色透明。何の政団にも当たり障りなく理想的議長の態度」。貴族院議長として適任だったらしい。各議員の姓名・経歴・性格まで知悉し、かつ勉強家。威厳も身に付けていたらしい。

 かくして大正3年(家達51歳)に、門閥のない中正の人ということで首相に白羽の矢が立つも「その器にあらず」と辞退し、大熊重信内閣が成立。

 相当に〝デキた人物〟と思われるが、そんな人は滅多にいない。家達にも幾つかのスキャンダルがあったらしい。柳田国男との確執、議員会館の給仕との〝鶏姦事件〟、渡欧に〝妾同伴の困ったもんだ事件〟など。その辺は佐野眞一『枢密院議長の日記』にも詳しいとかで、さっそく同書も読んでみた。写真は国会図書館「近代日本人の肖像」より貴族院議長の徳川家達。

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方丈記17:歌人・長明の人生 [鶉衣・方丈記他]

kamo.jpg_1.jpg 『方丈記』は第一段が序、第二段が体験した災害の数々、そして第三段が日野山に〝方丈の庵〟を結ぶまで。ここで養和の大飢餓・大地震当時の「歌人・鴨長明」の状況を把握しておきたい。参考は五味文彦『鴨長明伝』。

 養和2年、30歳。大飢餓~大地震の頃に、どんな理由でか祖母の家に住めなくなった。河原近くに十分の一程ほどの家を建てた。同時期の下賀茂社記録には、長明はすでに禰宜継承の流れから外れた下位役職。歌人として生きる他にない。上賀茂神社の歌人・賀茂重保の企画による『月詣和歌集』が養和飢餓の年に成立で、長明の4首が入った。

 その一首が「住み詫びぬいざさはこえむ死出の山 さてだに親のあとをふむやと」。無教養の小生は、分解しないと解釈できない。●住み侘びぬ=生きて行くのが辛い、嫌になった。●いざさは=いざ(さぁ)+さは(然は、そうならば)。●死出の山=死者が越える冥土の山。●さてだに=さて(そのまま、その状況で)+だに(せめて~だけでも)。●やむやと=や(詠嘆)+と(変化の結果)。(父のように、禰宜になる道はすでになく、生きて行くのが嫌になってしまった。そうならば(父のように)死出の山を越えて行こうか~。

 小生、俳句は少し勉強も、和歌への興味希薄。理由は(1)貴族中心。(2)恋歌が多い。(3)歴史的に遡るのはせいぜい江戸まで~等々。自分のことより本題へ戻ろう。

 長明は自分の家を構えると同時に、俊恵(しゅんえ、法師)に師事して本格的な歌の修行に入った。文治3年(1187)院宣(後白河院の命)による藤原俊成の選集『千載和歌集』に一首が入る。「思ひあまりうちぬる宵の幻も 浪路を分けてゆき通ひけり」。恋歌だな。

 琵琶の師・有安は長明に常々こう忠告していたそうな。「所々にへつらひありき、人にならされ」るゆえ〝歌詠み〟になるなと。今流に言えば、狭い貴族の歌人サークルに入れば〝忖度〟する生き方が身についてしまうよ、という忠告だろう。だが長明は『千載和歌集』に載ったことで、琵琶の継承者にならず、歌人の道を選んだ。挿絵は国会図書館デジタルコレクション「肖像」(明治13年刊)より鴨長明の肖像。

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徳川家達邸の変遷(15) [千駄ヶ谷物語]

meijitokugawa1_1.jpg 千駄ヶ谷の明治43年地図(上)を見る。徳川邸はJR線路から鳩森八幡神社まで、西は現・国立能楽堂辺り、西は渋谷川(現・外苑西通り)までの広大敷地。保科著には、こう記されていた。

 「(東京体育館)あそこはね、茶畑だったのよ。段々になってね、点々とお百姓さんの家があって。その下の川に観音橋があった。旧邸南が八幡様で、その向こうに南邸、里様(徳川慶喜4男・厚夫人)がいらっしゃった」

 徳川旧邸は「まだ遠慮があって」平屋建ての質素な家屋。天璋院、本寿院、実成院と所帯が多く、継ぎ足しで広がっていたとか。そして大正6年の地図が面白い。徳川邸はふたつ。以下、保科著を要約。

 「元の徳川邸は増築を重ねて住みにくい屋敷だった。大正3年に工事を始め、大正6年末に新邸が落成。敷地は1万数千坪。人造石壁90余間、中央に花崗岩の柱の檜扉の表門。砂利を踏んで中央の植え込みを回って洋館玄関まで約半町。御殿建坪900坪に附属家。庭の一部に総檜白木造り・銅葺の15坪ほどの東照宮(神殿)。江戸城紅葉山にあった家康の等身大木像を安置。以後、毎年正月に旧幕臣と子弟が集い、家康命日の9月17日にも園遊会が開催された」

taisyotokugawa_1.jpg 大正15年(下)地図には縮小された旧邸が認められる。これは明治20年に明治天皇が行幸された際の家を「日香苑」として保存していたもの。大正14年(1925)9月未明の不審火で旧邸母屋焼失。放火犯は翌年逮捕で懲役15年の判決。被差別者らの運動組織・全九州水平社委員長らが「いわれなき差別の原因は徳川幕府の歴史的責任」と主張し、直談判すべくも面会出来ず。抗議文にも未回答ゆえ、同志らがピストル、刀を用意で逮捕。そんな放火背景があったらしい。

 家達一家は旧邸に残された「日香苑」を建て増して仮寓し、西洋館の落成を待ったとか。そして昭和18年(1943)、東京都が紀元2600年事業一つ「武道館」建設敷地として徳川邸に着目。長子・家正との交渉で譲渡が成立。徳川宗家は渋谷区原宿3丁目(東郷神社側)へ移住。

 なお同地譲渡後は戦争で「武道館」建設は中断。戦争中は出征兵宿舎に。戦後は接収されて将校クラブ「マッジ・ホール」になる。同ホールに関しては、赤坂真理『東京プリズン』登場で後述予定。次はイギリス留学から戻った徳川家達について。

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方丈記16:30で家を建て、50で隠棲 [鶉衣・方丈記他]

wagamititikata_1.jpg ここから自身の〝家遍歴〟が記される。

 わが身、父方の祖母の家を伝へて久しく彼所(かのところ)にすむ。その後縁かれ、身おとろへて、しのぶかたがたしげかりしかは、つゐに跡とむること得ずして三十餘にして、更に我心と一の庵を結ぶ。是を有し住居になすらふるに十分が一なり。たゞ居屋ばかりをかまへて、はかばかしくは屋を作るに及ばず。わづかについひぢをつくりけりといへ共、門たつるにたつき(費用)なし。竹を柱として車やどりとせり。雪ふり風吹ごとに、あやうからずもあらず。所は河原ちかければ、水の難ふかく、白波の恐もさはがし。すべてあらぬ世を念じ過しつゝ、心をなやませることは三十餘年なり。

 〝父方の祖母の家〟が、いまひとつ理解できなかったが、玄侑宗久『無常という力』に、こう説明されていた。~当時は妻間婚(つままこん)で旦那が通ってくる形で、女性が家を持っていた。これで納得です。しかし30年余を経て、なにがあったか、祖母の家を出ることになって、その十分の一の家を建てた。建てた場所は鴨川の河原近く。内乱や飢餓が襲えば、死体が捨てられたりの地だ。

 「しのびかたがたしけかりしかど」がややこしい。●偲び(懐かしむ)方々(あれやこれや)しけかり(茂し=多い、いっぱいの連用形sonoaidaoriori_1.jpg=しげかり)しか(過去〝ぎ〟の已然形+と)。「~かりしかど」はよく出てくる。丸暗記がよろしいようです。この意は「思い出があれこれ多かった」。続く文●つねに跡とむること=常に跡泊むる事。岩波文庫版は「つひに屋とどむる事」になっている。●なすらふる=準ふる、疑ふる=比較するには。

 其間、折り折りのたがひめに、をのづからみじかき運をさとりぬ。すなはち五十の春をむかへて、家を出世をそむけり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすが(縁、ゆかり)もなし。身に官禄あらず、何に付けか執(しう)をとゞめん。空しく大原山の雲にいくそばくの春秋をかへぬる。

 ●たがひめに=不本意なこと、意に反すること。●いくそばく=数多く。河原の側に建てた家に50歳の春を迎えるまでくらして、大原に隠棲したと記している。次回は『方丈記』から離れて、長明の歌人としての歩みを探ってみたい。

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勝海舟と天璋院とクララ(14) [千駄ヶ谷物語]

15saiiesato_1.jpg 徳川家達についての続きです。徳川宗家となった家達は、駿河府中城主(70万石の殿様)になった。明治元年に〝五稜郭討伐〟を命じられるも幼過ぎて免除されて駿河に戻った。和宮も明治2年に京へ戻った。同年の「版籍奉還」で静岡藩知事。明治4年の「廃藩置県」で東京へ。

 保科著にこう記されていた。「天璋院は千代田城開城後、いったん一橋家に落ち着いたが、築地の一橋下屋敷、青山の紀州邸、尾州下屋敷の戸山邸(小生自宅前の現・戸山公園)と替わり、(明治5年に)赤坂の福吉町の旧相良越前守邸に移った。ここで静岡から戻った家達と暮すことになる」

 家達は、華族の身分と家禄を得て赤坂暮し。家従6名を残して全免職。樋口著には、同邸購入代金3800両と『勝海舟全集』にありと紹介。小生、この辺は少し詳しい。2011年の弊ブログ「勝海舟旧居巡り」で赤坂氷川町の勝海舟邸を訪ねている。勝は土地売買が自由になった明治5年に、大旗本から2500坪の邸を土地500両、改修500両で終の棲家にした。

 当時の地図もブログアップゆえ、改めて見れば勝が買った柴田邸の北側隣接地が「相良越前守」。元人吉藩主=相良氏ゆえ、ここが家達邸だろう。勝邸と同時期購入で、購入金額も勝が記録ということから、勝の手配と推測して間違いない。

 同屋敷で母代わりの天璋院(篤姫、第13代将軍家定の正室)の他、本寿院m_sibatatei.jpg(家定の実母)、実成院(紀州藩主から14代将軍家茂の実母、和宮の姑)らが家達を迎え育てた。また勝邸敷地内にはホイットニー家も居住。主人ウイリアムは一橋大の前身「商法講習所」から津田仙が設立「銀座簿記夜学校」教師。再来日途中のロンドンで病没し、アンナ夫人が一家を率いて日本に戻った。

 同夫人は49歳で病没。これも「青山外人墓地シリーズ」で、勝の墓誌で眠るアンナ夫人の墓を紹介済。また明治19年、医学を修めた息子が再来日して赤坂病院を開設。娘クララは勝の三男・梅太郎と結婚した。『クララの日記』には明治10年に家達邸に招かれた時のことが記されているそうな。侍のお辞儀で迎えられ、客間はテーブルにブリュッセル絨毯。美しい庭園。老婦人3人が住む家には28人の侍女と~。

 家達はそうした環境で、天璋院の薫風(多分に勝の忠告を受けつつと推測)を受けて勉学。かくして明治10年(1877)に赤坂から千駄ヶ谷へ移住。この時、家達14歳、千駄ヶ谷旧邸で暮す間もなく、イギリス留学へ旅立った。写真は赤坂邸に移った頃だろう幼少・徳川家達(国会図書館「近代日本人の肖像」より)。

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