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参考資料一覧(59) [千駄ヶ谷物語]

 以下「千駄ヶ谷物語」(全58回)の参考資料一覧です。

<江戸資料>『江戸名所図会』、『絵本江戸土産』、『江戸切絵図』。

<徳川家達関連> 保科順子『花葵=徳川邸おもいで話』(毎日新聞社)、樋口雄彦『第十六代徳川家達~その後の徳川家と近代日本』(祥伝社新書)、佐野眞一『枢密院議長の日記』(講談社現代新書)、赤坂真理『東京プリズン』(河出書房新社)と『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書)。

<戦前の千駄ヶ谷関係書> 獅子文六全集・第六巻『娘と私』収録(朝日新聞社)、久保田二郎『極楽島ただいま満員』(晶文社)、『千駄ヶ谷昔話』(渋谷区教育委員会)、家城定子『原宿の思い出』(講談社出版サービスセンター)、雨宮央樹『原宿わんぱく物語』(鳥影社)。

<与謝野晶子・寛関係> 与謝野光『晶子と寛の思い出』(思心閣出版)、逸見久美『新版評伝与謝野寛明子 明治編』(八木書店)、青井史『与謝野鉄幹』(深夜叢書社)、渡辺淳一『君も雛罌栗われも雛罌栗』(下巻、文芸春秋)。

<北原白秋関係> 川本三郎『白秋望景』(新書館)、『白秋全集36』(岩波書店)、瀬戸内晴美『ここ過ぎて~白秋と三人の妻』(新潮社)、現代日本文学大系『北原白秋 石川啄木集』(筑摩書房)、西本秋夫『白秋論資料考』(新生社)、藪田義雄『評伝 北原白秋』、嵐山光三郎『おとこくらべ』(ちくま文庫)

<国立競技場関係> 後藤健正『国立競技場の100年』(ミネルヴァ書房)、山口輝臣『明治神宮の出現』(吉川弘文館)、蜷川壽恵『学徒出陣』(吉川弘文館)。

<天皇関係> 笠原英彦『明治天皇』(中公新書)、村上重良『国家神道』(岩波新書)、古川隆久『昭和天皇』(中公新書)

<東京大空襲関係> 『東京大空襲~未公開写真は語る』(新潮社)、竹内正浩『空から見る戦後の東京』(実業之日本社)、石川光陽『東京大空襲の全記録』(岩波書店)。

<ワシントンハイツ関係> 秋尾沙戸子『ワシントンハイツ』(新潮社)、山本一力『ワシントンハイツの旋風』(講談社)、瀬川昌久『ジャズで踊って』(清流出版)、小川孝夫『証言で綴る日本のジャズ』(駒草出版)、車谷譲『進駐軍クラブから歌謡曲へ』(みすず書房)、藤原美智子『こころはいつもギャルソンヌ』(グラフ社)。

<東京裁判関係> 半藤一利『歴史と戦争』(幻冬舎新書)、半藤一利・保坂正康・井上亮『「東京裁判」を読む』(日系ビジネス人文庫)。

<連れ込み旅館関係> 梶山俊之『朝は死んでいた』、『新修渋谷区史』(下巻・昭和41年刊)、朝日新聞縮刷版(昭和32年2月・3月分)、昭和32年3月参議院会議録、川本三郎『いまむかし東京町歩き』(毎日新聞社)、野村敏雄『新宿っ子夜話』『新宿裏町三代記』(靑蛙房)、なべおさみ『やくざと芸能と』(webサイト)。

<その他> 藤原佑好『江利チエミ 波乱の生涯』(五月書房)、田中康夫『なんとなくクリスタル』『33年後のクリスタル』、村上春樹『風の音を聴け』他。

●参考させていただいたwebサイト多数です。ありがとうございました。

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軽い気持ちで始めたが~(58) [千駄ヶ谷物語]

kokuritusaisyo_1.jpg 家から「新宿伊勢丹」往復約4千歩のウォーキング。某日、伊勢丹を越えて北参道を左折。右を見れば「国立能楽堂」で、そこを越えたら「東京体育館」、眼前に建設中「国立競技場」があった。「鳩森八幡神社」やお寺も散在で下町風情もあり。

 初めて迷い込んだ千駄ヶ谷。興味を抱き、図書館で千駄ヶ谷関連書を探すもナシ。地域本の幾冊かに数頁紹介程度。ならば自分で調べてみましょ、と始めた「千駄ヶ谷シリーズ」です。

 まずは「江戸名所図会」「絵本江戸土産」から。徳川は慶喜で終わり思っていたら、徳川宗家を継いだ家達が、千駄ヶ谷の広大な地を所有。家達に勝海舟、天璋院(篤姫)、さらには柳田国男も絡んでいた。与謝野晶子・寛夫妻が渋谷から越してきた。彼らが去ると北原白秋が来て、隣の人妻との姦通罪で囚人馬車へ。

 ジャズ評論家・久保田二郎が「当時の千駄ヶ谷は高級住宅地。自由が丘や田園調布なんぞは二流、三流の住宅地」と記し、子供時分の思い出を書いていた。獅子文六も戦前の千駄ヶ谷暮しを小説にしていた。富国強兵の無理・破綻。外苑競技場で学徒出陣壮行会。大空襲で焼け野原になった。

kokutitux_1.jpg 終戦同時にGHQが外苑接収。家達邸は将校クラブ。すると母親が同邸出入りで東京裁判下訳をしていたという小説『東京プリズン』に出会った。千駄ヶ谷の邸宅調べをすれば、東京裁判関係者多し。「原田日記」の原田熊雄も住んでいて、改めて「東京裁判」関連書を読むに至る。

 与謝野夫妻の千駄ヶ谷時代の思い出を記した長男・光氏が、後に米軍将校用・白人用・黒人用の性処理場選定と性病予防にあたっていたで、腰抜かすほど驚いた。「ワシントンハイツ」の影響を探れば、そこから青山・原宿がファッションの街になる発端も伺え、一方、千駄ヶ谷は〝連れ込み旅館街〟になった。

 ブランド、ファッションの時代になると、千駄ヶ谷は「裏・青山原宿」的地域特性を有し、軽佻浮薄のブランド青年・田中康夫が千駄ヶ谷辺りを舞台にした小説を書いた。

 千駄ヶ谷に立ち、周囲を見渡せば、南にファッションの青山。原宿は今や外国・地方観光客の街になり、北の信濃町は創価学会の街と化し、北参道に神社本庁(日本会議)、そして共産党本部。かくして半年間も千駄ヶ谷で遊んでしまった。

 国立競技場も小生が初めて迷い込んだ時の状態(写真上)から、今は骨格完成(写真下)。今後は木で被う工事になるのでしょう。2020年オリンピックまで同地区への関心は続きましょうし、小生にもまだ興味あるテーマがありそうも、ひとまずお休みです。次回は参考資料一覧です。

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明治の帝と平和憲法と~(57) [千駄ヶ谷物語]

 前回の続き。「竹下事件」の直後、明治15年に「軍人勅語」。続いて「教育勅語」から「大日本帝国憲法」へ。熊さん「まぁ、あっという間に絶対君主制、天皇は現人神。長屋の俺んちにも御真影が飾られた」。ハっつぁん「学校の奉納殿って知ってっか。御真影と教育勅語が奉納だ。〝国家神道〟の凄まじき浸透~」

 明治27年に日清戦争。明治37年に日露戦争。ロシアを破って世界の列強入り。熊・ハっつぁん「みんなで提灯行列に行ったなぁ。日本中が有頂天で、それまで培ってきた〝心〟を失った」。国を挙げて「富国強兵」。お上に逆らえば〝大逆罪〟で即死刑。熊さん「ちょっと難し気な本を読む、仲間と集えば、すぐに引っ張られる怖ぇ~時代になった」

 明治45年、明治天皇崩御で「明治神宮内苑・外苑」誕生。徳富蘇峰が「京都中心の皇室主義が、明治神宮誕生で〝東京遷都〟が完成~と言ったとか。「表参道ヒルズ」隣接「神宮前小学校」(オフィシャルHP)掲載校歌は~ ♪めいじのみかど とこしえに しずまりせまる おおみやの もりのみどりの したたりうけし まなびやよ~

 〝明治の帝〟時代に国家神道浸透。そして〝昭和の帝〟時代に太平洋戦争突入。熊さん・ハっつぁんの父や兄が戦地で滅茶苦茶な命令で次々に命を落としていった。そして大空襲と原爆。終戦と同時にGHQ命令で各学校の「奉安殿」取り壊し。「政教分離」で国立競技場を除いた明治神宮内苑・外苑が「宗教法人・明治神宮」所轄へ。昭和22年5月、日本国憲法(平和憲法)施行。

 明治通り沿い「千駄ヶ谷小学校」は、昭和13年に〝教育勅語〟讃美の校歌制定も、平和憲法で新校歌誕生。今は政治色考慮でか同校オフィシャルHPに校歌掲載はないが、卒業生らがネット公開しているのを参考にすると~

 ♪世界の国に先駆けて、戦争棄てた憲法の こころ忘れずとりもって 平和の日本の民となる 民主日本の民ごころ 平和日本の民ごころ~ らしい。

 もう一度記す。外苑北側は「創価学会」の街と化した信濃町。こぞって与党追従だ。北参道に「神社本庁」(日本会議)、その代々木側に「共産党本部」。それらに囲まれているのが千駄ヶ谷。熊さん「なんだかスッキリしねぇな」。ハっつぁん「それらを呑み込んで生きてきたのが日本かな」。熊さん「そう云えばちょっと哲学的だが、今はそのバランスが崩れ、刺々しくなって呑み込めなくなってきた」。ハっつぁん「世界中で独裁者が増えてきて、なんだが日本もそんな気配じゃねぇか。強行採決でやりたい放題」

 千駄ヶ谷を歩いていると、やっぱり考え込んでしまう。スッキリせぬが「千駄ヶ谷シリーズ」をそろそろ終わりにしたい。

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多価値の狭間で~(56) [千駄ヶ谷物語]

sindo_1.jpg 千駄ヶ谷は明治神宮内苑と外苑の狭間の街。内苑には貴重な自然〝神宮の森〟が育まれ、外苑の公園やスポーツ施設もうれしい。だが国立競技場を除く内苑・外苑は「宗教法人・明治神宮」所轄らしい。

 去る5月19日、「明治神宮・仮殿遷座祭」が報じられた。これは2020年の鎮座100年に向けた改修工事に先立つ遷座儀式。新聞では「ご神体が~」だけの記述、また明確に「明治天皇と昭憲皇太后の御神体が~」と各紙記述が違っていた。

 かつては学校、役所、さらに各家庭に御真影が奉られたゆえ、明治天皇崩御での盛り上がりは理解できるも、昭和~平成生まれの人々にとって「ご神体=御真影」への意識は薄かろう。反・民主主義の「大日本帝国憲法」の暗く重い歴史もある。

 特定の宗教団体や政党に属さぬ小生だが、集合住宅〈マンション〉在住ゆえに在住者は多彩。選挙になれば「創価学会員」から「公明党」投票を請われる。商店街役員からは「自民党」への投票を請われる。近くの団地では、公明党と共産党の熾烈な戦いが展開する。

jinjyahoncyo_1.jpg 外苑の北側、信濃町は「創価学会の街」と化している。北参道際には「神社本庁」(写真左)がある。すなわち「日本会議」で、現内閣との繋がりは濃密。首相と「日本会議」の共通惹句は「美しい日本」。首相夫人も幼稚園児の「教育勅語」暗唱に感動して名誉校長になったとか。国家神道復帰を目指すのか。目下は一強独裁気味で、どんな法律でも強行採決。薄気味悪いことよ。さらに「神社本庁」から徒歩数分の明治通り沿いに「共産党本部」(写真下)。千駄ヶ谷に立って、周囲を見わたせばかくの如し。頭がクラクラしてしまう。

 山口輝臣著『明治神宮の出現』に加え、村上重良著『国家神道』、笠原英彦著『明治天皇』を改めて読み直し、小生流(長屋の熊さん的)解釈で考え直してみたい。

 江戸っ子庶民・熊さんの〝お上〟と云えば、265年の永きに亘て徳川様だった。「京都ってぇ西の方に〝天皇様〟がいらっしゃるなんざぁ知らなかったなぁ」。ハっつぁん「だが、神社にはお詣りするぜ。氏神様だから。森羅万象、八百万神(やおよろずのかみ)、神仏習合もある」。

kyousanto_1.jpg 幕末になると ♪宮さん宮さんお馬の前に~ あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ、知らないか~ の歌が聞こえてきた。熊さん・ハっつぁん「知らねぇなぁ~」。歌はさら続く。♪薩長土肥の連隊が音に聞こし関東武士どっちへ逃げた~

 魚河岸の鯔背な連中は「奴らに日本橋を渡らせちゃならねぇ」てんで身構えた。侠客・新門辰五郎も手下を集結させた。だが〝無血開城〟。天皇が江戸城に入って、東京市中に祝い酒が振るまわれ「五箇条の御誓文」。まぁ、大筋は民主主義だ。熊さん、何だかよく分からないが〝人間誰もが平等〟になったと喜んだ。

 明治元年。神仏分離令と廃仏稀釈。ハっつぁん「お寺さんが威張り過ぎていたから、まぁいいかぁ」。貧しき農村青年らが官軍へ。西南戦争で多数戦死。だが為政者らは私腹を肥やし放蕩三昧。平民出身兵らは〝なんだか変だなぁ〟。待遇改善で立ち上れば53名銃殺「竹下事件」。すかさず「軍人勅語」から「大日本帝国憲法」へ。熊さん・八っつぁん共に「あれっ、人間平等ってぇのはウソ」だと気付き出した。長くなったので、ここで区切る。

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ネイティブ僅少「ネオ東京人」の街(55) [千駄ヶ谷物語]

 「ワシントンハイツ」内で新聞配達をし、後に時代小説家になった山本一力は高知出身。「千駄ヶ谷」でジャズ喫茶「ピーター・キャット」経営で『風の歌を聴け』を書いた村上春樹は京都伏見出身。「ポパイ」青少年の〝性〟を描いた『なんとなくクリスタル』の田中康夫は高校卒業まで長野県育ち。原宿・青山に憧れた。

 「あぁ、東京ネイティブがいない」と再認識した。今はテレビを観ても出演者の多くが、特に芸人(お笑い、歌手、俳優)のほとんどが地方出身のような気がする。かつて池波正太郎がテレビ〝鬼平〟キャスティングに、江戸弁(東京弁)が喋れる俳優で固めたそうだが今では無理なのだろう。(標準語=東京弁と思っている方が多い)

 伊豆大島の老人らが憩う湯に浸かっていたら「テレビはもう観ないよ。東京の人が出ていないもん」と呟くのを聞いたことがある。離島や地方町村は人口流出入が僅少ゆえにネイティブが多い。結果的に高齢少子化で〝限界町村〟へ向いつつある。

 小生の小・中学校は1クラス50名余で1学年10組ほど。溢れるほどいた同級生らは、どこへ消えちまったやら。団塊世代の何割かは近郊住宅地へ引っ越した。小生の姉・弟も浦安在住。逆に昭和30~50年代の経済成長期には集団就職列車あり。豊かになれば若者らはこぞって東京の大学を目指し、そのまま東京で生活のケースも多い。

 さて、Webサイト「東洋経済」にソニー・ミュージックエンタテインメント創立者・丸山茂雄氏のインタビューが目に入った。氏が「東京生まれの人でスタイリストを職業にしている人はいない、が俺の昔からの持論。いささか野暮ったい人たち、かっこうよくなりたい人たちが目指すような職業なんじゃないかな」。

 これはまぁ、ファッション関係全般に言えそうで、ファッション系専門学校入学者の多くが地方出身らしい。試みに某デパートの「日本が誇る十人のスタイリスト~」の企画にアップされた男性スタイリスト10名を調べたら、全員が地方出身だった。女性スタイリストには、出身地を記さぬ方が多い。

 レコード会社のことは少しだけ知っているので記す。テイチク元社長・飯田久彦氏に取材すれば「あたしの父は白木屋の呉服部出身で~」。〝あたし〟と言った。すこしシャイな東京人。目ン玉マーク・レコード会社社長時代の羽佐間重彰氏に同社PRペーパーの毎新年号に中島みゆきと対談していただいたが、氏はベランメェ調の東京っ子。音楽事業者は東京人が多いらしい。

 そこで千駄ヶ谷です。かつて軍人・侯爵・政界人の邸宅が多かった同地は、空襲で彼らが去り、復興期に〝連れ込み旅館〟事業者が流入。そして「ポパイ」「J・J」などによるブランド、ファッションブームで原宿・青山に脚光を浴びれば、千駄ヶ谷はその関係者が住まう「裏・原宿青山」的地域特性を帯びてきたような気がする。そして前述通りファッション系に憧れるのは地方出身の方が多く〝千駄ヶ谷ネィティブ〟は寺院関係者はじめ僅少かなと推測する。

 時代は、さらに進んでいる。わかりやすく地方出身芸人の東京移住者を例にしよう。彼らの子らは当然のこと東京生まれ。〝新・東京人=二世タレント 〟として世に出てきた。東京移住者の子供らを「ネオ東京人」と仮称しよう。東京ネイティブには違和感ある在京TVキー局ワイドショーの「ミヤネ屋」(関西制作)、「ゴゴスマ」(名古屋制作)も「ネオ東京人」には違和感なく成立する状況。新たな時代になっているなぁと思う。そこで懸念するのは「ネオ東京人」の根に〝江戸〟意識が薄かろうということ。(以上、データなし推測で記した)

 ええっ、小生在住の大久保? 「ネオ東京人」どころか「東南アジアの街」に見事に化して過疎、シャッター通りとは無縁。歩けぬほどに混雑繁華な商店街になっている。そこに満ちるは韓国語、中国語。他の東南アジア系言葉も多い。彼らのしゃべる声の大きなことよ。「あぁ、日本語の国へ行きたぁ~い」と思う日々であります。

 いや、今の原宿・竹下通りはもっと凄い。海外と地方観光客ばかりで、東京生まれの人はいそうもない。

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村上春樹と田中康夫(54) [千駄ヶ谷物語]

kazenouta.jpg_1.jpg 小生、村上春樹にも興味なく未読。図書館で彼の著作を立ち読みし、田中康夫『なんとなくクリスタル』と『33年後のクリスタル』を借りた。

 立ち読みで定かではないが、村上春樹の幾編かに〝ターンテーブルの~〟の書き出しがあって、田中康夫を読めば「目覚めたばかりだから〝ターンテーブル〟を載せるのも、なんとなく億劫な気がして~」の書き出し。両者デビュー作は1年違い。当時は〝ターンテーブル〟が流行っていたらしい。

 村上春樹は、昭和24年(1949)京都伏見生まれ。やや遅いジャズ世代で、早大在学中に国分寺でジャズ喫茶「ピーター・キャット」開店。卒業後に同店を千駄ヶ谷へ移転。昭和54年(1979)に明治神宮球場の野球観戦後に小説が書きたくなって『風の歌を聴け』でデビュー。

 田中康夫は、昭和31年(1956)生まれ。8歳から高卒まで長野県暮し。駿台予備校で1浪後に一橋大へ。キャンパスは東京近郊。雑誌「ポパイ」紹介のブランド、ファッション信奉ゆえに憧れは原宿・青山。所属サークル「一橋マーキュリー」資金で神宮前のマンションを借りた事件で留年停学。その時に書いたのが『なんとなくクリスタル』。

 小説主人公・由利は昭和34年(1959)生まれ。帰国子女で中2から高卒まで神戸。大学(青山学院らしい)入学当初は赤堤のコーポラスで、深沢の自宅暮しの淳一と出会って、神宮前4丁目(例の事件の表参道裏側)のマンションで同棲中。

nantonaku.jpg_1.jpg 彼女の愛読書は「J・J」。モデル収入あり。淳一は大学5年生でフュージョン系バンドのキーボード。目下は3rdアルバムの地方キャンぺーン中。由利の所属モデル事務所は「鳩森八幡神社」近くの、デザイン事務所やプロダクションなどが雑居するマンション。(田中は「一橋マーキュリー」表紙デザインを受け取りに同マンションへ行った際に小説モデル・由利に逢ったらしい)

 由利は昨晩、江美子と「ポパイ少年、J・Jガール」が集う六本木のディスコで遊んだ。江美子は「東郷女子学生会館」(明治通り沿いの現・セコム本社)暮し。共立女子大らしき2年生で、昨夜はディスコで逢った大学生とラブ・アフェアー(肉体関係)。由利は翌日になってから、昨夜の立教大2年生と六本木デート。結局、六本木7丁目のマンション風ラブホテルでセックス。下手ではないが、幾度も高圧電流が流れる淳一のセックスの方がいいと再認識。

 淳一、帰京。やはり淳一とのセックスがいい。淳一が浮気を語る弁で「一口坂にあるスタジオで、あるポップス歌手のレコーディングに参加して~」。で、思わず笑った。あたしは、その目ン玉マークのスタジオの音楽会社の仕事をずっとしてきた。田中康夫は目ン玉マークのテレビ局と石油会社の内定をもらったとか。

 同小説を読むと「ポパイ少年とJ・Jガール」のお気に入りが原宿・青山で、千駄ヶ谷は〝裏・原宿青山〟的な位置づけ。表に関連する事務所や関係者が多く住む地域となっている。同小説巻末の〝注〟に「千駄ヶ谷:渋谷区北東部にある地名。囲われた女性の住み率が高いことは、意外な事実」と記していた。

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若者文化・新宿~オイルショック(53) [千駄ヶ谷物語]

sinjyku2.jpg アメリカが「ワシントンハイツ」返還の旨を表明した昭和36年(1961)、同国は「軍事顧問団」の名でベトナム参戦。年々兵力増加。昭和40年には18万4300人を投入。

 昭和43年(1968)、虐殺事件から米国内で反戦運動。同年の日本は「新宿騒乱」。翌年、アメリカ「ウッドストック・フェス」。日本では「安田講堂事件」「新宿西口広場・反戦フォークゲリラ」。東大駒場祭ポスターに「止めてくれるな、おっかさん」。若者はカウンターカルチャー。お父さんは頑張ってGNP世界2位。

 1960年代末は「新宿の時代」。小生、社会人1年目はデザイナー。新宿西口広場の若者を、東口でシンナー吸う若者らを縫っての出勤。途中で「新宿プレイマップ」を買っていたかもしれない。後年、演歌の山本譲二に上京時を訊けば、彼でさえ「まずは新宿東口。そこで二日間を過ごした」

 「新宿風月堂」で首振りつつジャズを聴き、諏訪優のギンズバーク翻訳本などを読む。やがてヒッピーのジミーが我が部屋に転がり込んで来た。ある日、帰宅すると文学全集とジミーの姿が消えていた。近所の古本屋に小生の本がズラッと並んでいた。幾らで売れたやら、彼は元気にやっているだろうか。

 新宿で飲んでいると、ベトナムからの帰還兵だろう疲れた青年兵士らと幾度も逢った。杉本真人唄う『センチメンタル・ゲイ・ブルース』の世界。新宿2丁目のゲイの物語。♪女を知った三日後にGIジョーに抱かれた~

popeye.jpg_1.jpg 社会人3年目にPR会社へ転職。社長プロデュースのパピリオン見学に大阪万博へ。山本一力は、旅行会社転職で万博客の宿不足にラブホテル活用案で大活躍とか。そして数年後にオイルショック。

 若者文化も元気を失った。すでに「イージー・ライダー」のバイクの若者も南部で銃弾に倒れている。小生のフリー人生は滑り出し好調も、オイルショックで仕事を失った。数年を経た昭和50年(1975)、ベトナム戦争終結の年、中島みゆき『アザミ嬢のララバイ』『時代』のレコード会社向け分厚いプロモート計画書を書いていた。♪まわるまわるよ時代はまわる~。

 すでにカウンターカルチャーの拠点・新宿の時代は終わって、女性誌「an・an」「JJ」に次ぎ、昭和51年(1976)「ポパイ」「Hot-Dog PRESS」創刊。ブランド、ファッションの時代へ。そのマニュアル通りに生きた代表が田中康夫だろう。長野県松本から東大受験失敗で駿台へ。「ポパイ」創刊年に一橋大入学。キャンパスが中央線郊外だったことに我慢ができなかったか、所属サークル「一橋マーキュリー」資金で神宮前にマンションを借りた事件で停学留年。その時に書いたのが「ポパイ少年・JJガール」主人公の『なんとなくクリスタル』(昭和55年)とか。

 以上、昭和36年~55年の約20年の時代表層を一気にまとめた。田中康夫への興味なく未読ゆえ、38年後に読んでみることにした。千駄ヶ谷が「裏・青山原宿」的に出てくるらしい。写真は〝新宿〟の冠がとれた「プレイマップ」(復刻電子書籍が出ている)と、今も発行の「ポパイ」最新号。

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米軍去り、オリンピック(52) [千駄ヶ谷物語]

tokyo1964.jpg_1.jpg 昭和32年(1957)4月に千駄ヶ谷、代々木、原宿が〝文教地区〟指定。これは翌年のアジア競技大会・東京開催と、昭和39年(1964)東京オリンピック決定も影響したらしい。

 昭和35年は60年安保。小生、附属高校入学。不良中学からゆえか、先輩らに地下室に連れ込まれて殴られた。キャンパスでは大学生らが物騒な(釘出し)プラカードを作っていた。高校生も大学生も荒れていた。

 高2で大人の山岳会に入った。アメ横の放出服が右翼っぽかったかで「オトヤ」と呼ばれた。同年の17歳〝山口二矢〟の浅沼稲次郎刺殺が由来らしい。

 6月15日、安保デモで東大生・樺美智子さん死亡。60年安保は全国的に盛り上がった。アメリカ文化への憧れ一辺倒からの大ギアチェンジ。そんな日本人の怒りを見てか、はたまた同国が「軍事顧問団」の名でベトナム参戦したかで、昭和36年に「ワシントンハイツ」代替地用意と移転費用80億円で全返還を表明。

 同ハイツはオリンピック選手村へ。現・調布飛行場や味の素スタジアム辺りの元米軍水耕農園(人糞を使わぬ野菜作り)跡に新「カントウ村」を建設で、昭和37年11月からワシントンハイツ部分返還開始で、翌年12月に全返還。

 ハイツ敷地は二分され、南側に国立代々木競技場、国際放送センター(NHK)、渋谷公会堂(CCレモンホール)を建設。北側が選手村。木造舎250棟、独身宿舎14棟を修繕して選手村・役員宿舎へ。新たに食堂3、共同浴場4、練習場を新設。米軍家族用の劇場は「オリンピック劇場」、PXは「ショッピングセンター」。

 昭和39年10月9日までに93ヶ国が順次入村。男子5900人、女子1000名。会期は9日から15日間。現在は代々木公園にオランダ選手仕様の1棟が記念に残され、独身兵舎跡はオリンピック記念青少年総合センター。

 写真はオリンピック開催3年前の第1号ポスター。亀倉雄策デザイン。なんと自信に満ちた堂々たるデザインよ。原爆とB29で焦土と化した日本。進駐軍、復興、そして朝鮮戦争特需を機に、力強く高度経済成長へ邁進の日本が象徴されているようです。比して2020年のポスターの精彩なきこと。

 あたしは、オリンピックがうるせぇ~てんで東京脱出して伊豆へ逃げた。貧乏学生で金乏しく、海岸沿いの百合の根を掘り起こして食い、混浴の村の銭湯へ入った。共に東京脱出した友は、後にカメラマンになって福生ハウスで暮した。

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江利チエミの千駄ヶ谷(51) [千駄ヶ谷物語]

tiemi_1.jpg 千駄ヶ谷3丁目に〝チエミ御殿〟があった。藤原佑好『江利チエミ 波乱の生涯』(五月書房)を読んでみた。

 江利チエミ、本名・久保智恵美。父・益雄は福岡生まれ。18歳で上京し、柳家三亀松の都々逸の相三味線やピアノ伴奏(小生、三亀松が好きで、カセットで都々逸集を拵えたことあり)。母は入谷生まれの浅草軽演劇の女優・谷崎歳子。夫妻に3人の兄が生まれ、昭和12年(1937)1月、智恵美誕生。

 戦後、父は三亀松と喧嘩別れで極貧生活。細々と進駐軍クラブでピアノ伴奏。某日、GIらが集う料亭でチエミが歌って大喝采。それを機に、小5から父と全国キャンプ巡り。昭和26年(1951)14歳、有楽座で初舞台。歌い方が同じだと笠置シズ子がクレーム。同年6月、母病没。その9日後にキングで『テネシー・ワルツ』レコーディング。一躍大スター。昭和28年に渡米、ロスの日本劇場で4日間、ハワイ国際劇場で公演。

 昭和31年(1956)に千駄ヶ谷へ。会報誌に記された〝ちえみ御殿〟説明文。「25年前に某伯爵(徳大寺侯爵?)が建て、その後に外人が長い間住んで荒れていたのを3ヶ月半の改修で新洋館へ。室内は天然色映画セットのようにカラフル。シャンデリア、応接間2、食堂、台所、風呂場、トイレ。2階は日本間と私の部屋2つと寝室他。3階は兄の部屋、客間など。外に蔵、物置と犬小屋、ベランダと広い庭、鉄扉とガレージ。家の真後ろが山手線で、向こうが明治神宮」。

 その頃に6歳上の新人俳優・高倉健と共演。恋に発展。健さん、チエミ御殿でプロポーズ。昭和34年に帝国ホテルで挙式。瀬田の新居完成までチエミ御殿2階暮し。瀬田の新婚生活は、両者共に芸能活動が忙しい。健さんはヤクザ路線、チエミはトップ人気独走。千駄ヶ谷で暮す父が、多紀子さんと再婚。

 昭和37年、亡き母・歳子の異父子A子が現る。結婚10年目に瀬田の健・チエミ邸が火災。健さん、役作りに家を長期留守にするなど、少しづつ二人の間に溝。そんな某日、チエミの貯金通帳残高ゼロ。A子が全財産を遣い込み、千駄ヶ谷邸も抵当。数億円の借財。(林真理子『テネシーワルツ』はA子の歪んだ羨望憎悪を書いているとか)。A子、横領罪で3年の刑。

 チエミは健さんに迷惑が及ばぬよう離婚。がむしゃらに働いて、千駄ヶ谷邸抵当はじめ借財全返済。昭和53年頃、父と多紀子の子・益己が高校生時代にエレキ熱中。近所に住む加藤登紀子が「(音は)遠慮しなくていいわよ」と言ったとか。

 そして昭和57年(1982)2月、チエミは高輪ヒルズの自宅で脳出血~吐出物で窒息死。45歳だった。今〝チエミ御殿〟跡はマンションが建っているらしい。彼女の『さのさ』『木遣くずし』『奴さん』を聞くと、柳家三亀松の粋、浅草、江戸の風情が浮かんでくる。チエミさんには、瀬田や高輪ヒルズや千駄ヶ谷よりも。下町がお似合いだったような気もする。

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『ワシントンハイツの旋風』(50) [千駄ヶ谷物語]

itirikihon.jpg 山本一力さんのテレビ出演を拝見すると、無理して〝江戸っ子ぶって〟いるような物言いが気になって、彼の時代小説を読む気にならないのですが、自伝的現代小説『ワシントンハイツの旋風』(2003年刊)を読んでみた。

 氏は昭和23年(1948)高知市生まれ。昭和37年に、ひと足早く上京した母と妹の落ち着き先へ。そこが代々木八幡駅近く「読売新聞」富ヶ谷専売所。配達員15名が2段ベッド暮し。先輩らは〝集団就職世代〟だろうか。「賄いのおばさんの息子」と紹介され、翌日から新聞配達をしつつ区立上原中学へ通った。

 妹がワシントンハイツを案内する。「真っ白に塗られたフェンスの先には、小高い丘が連なっており、その丘も緑の芝生におおわれていた。平屋の家が、その丘のなかに点在している。日曜日の午前中の陽を浴びて、芝生はこどもたちがキャッチボールを楽しんでいた。走っている車は、大型のアメリカ車。幌を外したオープンカーも何台か見えた」

 同僚の紹介で米国在住少女と文通。英語習得目的でハイツ内の英字新聞70部配達を希望。学校では目立たぬ少年も「赤い缶コーラ」を見せると注目を浴びた。都立世田谷工業高校(小田急・成城学園駅下車)へ。高1の7月、ハイツの東京オリンピック選手村建設工事開始で、ハイツ内の新聞配達は終わった。

 高校2年、失恋。彼女の母が自宅でピアノ教室。悔しさに奮起して代々木上原のピアノ教室へ通う。先生は16歳上の人妻。やがて二人は〝連れ込み宿〟で性を貪る。同書には新宿南口の旅館とあるも、その辺は林夫美子が大正11年頃に1日30銭で泊まった昔の旭町の木賃宿街。人妻利用の〝連れ込み宿〟なら、南口から新宿御苑・千駄ヶ谷門寄り、鳩森小学校辺りの旅館が相応しい。

 昭和41年(1966)、高校卒業後に「〇無線」に就職。人妻が手続き・支払いを済ませたT大近くのアパートが愛欲部屋になる。その後「銀座ヤマハ」(山野楽器かも)陳列ピアノを弾き、その演奏に併せ弾いた2歳上の銀行員とも〝連れ込み宿〟へ。人妻から仕込まれた性で、処女の銀行員はメロメロ。彼女の勧めで旅行会社へ就職。高度成長期の象徴・大阪万博の宿泊所不足に、ラブホテル利用を提案などで活躍。そして次の女性へ。

 代々木八幡やワシントンハイツで中・高時代を過ごした少年の性遍歴、四国の少年の一旗揚げるまでの成り上がり物語のようでした。次は千駄ヶ谷3丁目の豪邸に住んだ「江利チエミ評伝」を読んでみます。街々の歴史は共通でも、そこを通過する人も人生も、実にさまざまです。

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連れ込み旅館が消えた日は?(49) [千駄ヶ谷物語]

imamukasi_1.jpg 次に「代々木山谷」生まれの川本三郎『いまむかし東京町歩き』を読む。「千駄ヶ谷」項のリードに、鮎川哲也『憎悪の化石』を引用。「戦前は上品な邸宅街として知られたこのあたりは、いわゆる温泉旅館というものがたくさん建って、いまでは千駄ヶ谷と聞くと連れ込み宿を連想するほどになったことだった」

 そして本文。「中央線の千駄ヶ谷~代々木駅と、山手線の原宿~代々木駅間、この二つの線路を二辺とする三角形は、昭和30年代には連れ込み旅館(いまふうにいえばラブホテル)が多いところだった」。そしてこう続く。

 「当時、新宿の映画館のプログラムのうしろにはよくこの旅館街の広告が載っていた。いま手元にあるものを見ると〝千駄ヶ谷、原宿の森に、静もる閑雅清楚な優良旅館〟〝新宿からハイヤーで五、六分で参ります〟の惹句があって地図が添えられて、十軒ほどの旅館が紹介されている」

 「戦前は〝上品な邸宅街〟だったところが、戦後は〝連れ込み宿〟の町に変わってしまう。戦争が町を変えた。世代交代もあったろう」。そして最後に~「現在はもう旅館はない。直木賞作家、木内昇の『茗荷谷の猫』(平成20年)の終章は、東京オリンピック直前の千駄ヶ谷が舞台だが、主人公の青年の目にはおしゃれな古いスペインタイルの家は入っても、連れ込み旅館にはもう気付かない」

 さて、千駄ヶ谷の〝連れ込み旅館〟は昭和39年のオリンピック前の環境浄化運動~文教地区指定ですっかり姿を消したと思っていたが、映画評論家で横浜国立大大学院教授の梅本洋一氏(2013年、60歳没)のサイト「nobody mag」に、こんな記述が残されていた。

 氏がオリンピック翌年の昭和40年(1965)に東郷神社裏の公務員宿舎「東郷台住宅」に引っ越してきて、外苑中学編入の頃の思い出。「鳩森神社の側に住んでいたTくんの家は〝温泉マーク〟で、朝はベッドメイクをしてから学校に来るのでいつも遅刻だ。Tくんの家の近くには、Tくんの家と同じ〝連れ込み宿〟がたくさんあった」。そんな光景は、いつ頃まで続いていたのだろうか。

 山本一力の自伝的現代小説『ワシントンハイツの旋風』を読むと、高校2年(昭和40年頃)にして16歳年上の人妻と〝連れ込み旅館〟で愛欲を貪ったらしい。やはり千駄ヶ谷の〝連れ込み旅館〟は生き残っていたのだろう。

 小生には自慢する〝性体験〟もなく、千駄ヶ谷にも無縁・無関心だったが、山本一力氏は小田急線・代々木八幡で暮し、ワシントンハイツ内新聞配達をしていたとか。小生の高校時代は、放課後に代々木八幡駅前の級友某の屋根裏に屯ったり、部活ランニングコースがハイツ沿いだったこともあって、同小説を読んでみたくなった。

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連れ込み旅館街の記憶(48) [千駄ヶ谷物語]

hoterukanban_1.jpg 鳩森八幡神社隣の「将棋会館」ブログに、こんな思い出話が載っていた。同会館が東中野から千駄ヶ谷に移転してきた昭和36年(1961)頃は「(この辺は)都内でも有数の連れ込み旅館街で、その頃の古い建物を旅館と思って、二人連れが入ってきたことがあった」と。

 東京オリンピックの2年前、昭和37年当時の千駄ヶ谷〝連れ込み旅館街〟について、梶山季之が『朝は死んでいた』(文芸春秋新社刊)で、概ね次のように書いていた。

 「代々木・千駄ヶ谷といえば、体育館や野球場のある神宮外苑所在地としてよりも、むしろ〝温泉マーク〟の代名詞として、東京のサラリーマン達には親しまれている。現在では、この界隈に数百軒の旅館がひしめき、お客の争奪戦をくりひろげている。各室バス、トイレ付きは常識で、なかにはホテルに較べて遜色のない豪華な施設をもった旅館もある。冷暖房はもちろん、室内にはテレビから電気冷蔵庫まであり、百円硬貨を入れるとチリ紙、衛生サック、強精剤がワンセットになって転がり出す器械まで置いているところも決して珍しくない。いわばデラックスな情事が、その密室の中で楽しめるようになっているのだ。しかも客は夜ばかりではなく、朝のうちから訪れてくる傾向にあるそうだから〝温泉マーク〟は大繁盛である。午前中にやってくるのは人妻と学生(後で記すが、山本一力の自伝的小説に、高校生の時に16歳年上の人妻と連れ込み宿を利用していたことが書かれている)、歌手とか映画俳優といったカップルだそうだ。〝昼下がりの情事〟を楽しむのは重役と秘書。若い高校生たち。夕方から午後十時頃まではBGとサラリーマン、商店主と女事務員~~」

 なべおさみ著『やくざと芸能と』にも、こんな記述があった。「家を出た19歳(昭和33年頃か)の私が部屋を借りた場所は千駄ヶ谷でした。ここは隣接する代々木、原宿と肩を並べた日本最高級連れ込み宿ホテル地帯でした。公務員の初任給が9200円の時代に、1泊1万円の部屋が幾らでもあるのです。その一画の四畳半でラジオの構成台本なんかを書いていると、旅館の玄関がチリリンと鳴って~」

 昭和30年代の日本人の欲望は、どうかしていたような気がする。小生は東京オリンピック期間は東京脱出して伊豆で遊んだ。3年後に社会人。デザイナーとして制作会社に2年間勤務後、昭和44年にPR会社へ転職した。入社直前に梶山季之が『チャスラフスカを盗め』を発表。キレ者社長率いるPRマンらが、大手広告代理店らを相手に、東京オリンピックの名花=ベラ・チャフラフスカ再来日時にCM代理権をトリッキーな展開で獲得した物語。小生は同社を2年後に退社で、以後はフリー人生。梶山季之に憧れたわけじゃないが、某週刊誌の某アンカーマンのデータマンを短期間だけ勤めたこともあった。

 写真は昔の〝連れ込み旅館街〟だった頃の名残だろう、鳩森八幡神社近くに営業を辞めたホテル看板が一つだけ〝何かを主張するように〟遺されている。

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鳩森小学校周辺の実態(47) [千駄ヶ谷物語]

IMG_1076_1.JPG 次に朝日新聞縮刷版で、昭和32年(1957)2月22日の「温泉マークから子供を守ろう/浄化に父兄ら立上る/千駄ヶ谷鳩森小/衆院委でも実態調査」見出しの記事を見つけた。

 「鳩森小」は度々記すが、鳩森八幡神社そばではなく、新宿御苑の千駄ヶ谷門の前辺り。記事のリード文の概ねの内容~

 3月20日の衆院文教委で取り上げられた同小学校の環境調査のため21日午後、文部省2名、都教育庁の3氏が同校を訪ね、関係者から実情を聞いた。温泉マークの旅館32軒(別に建築中2軒)に取り囲まれ、昨年11月には正門も閉鎖。いまPTA代表が環境浄化に立ち上っている。この日も婦人たちはエプロンにタスキ姿で、立ち並ぶ旅館地域に浄化運動のビラを貼り、代表は原宿署を訪れて実情をうったえた。

 写真は同小学校付近でビラを貼るPTAの母親たち。本文で校長による説明が紹介されていた。「放課後の児童の教育が危なくなっている。この一帯は昼間の〝休憩〟が多く、ゲイシャ、女給などをつれてかくれ遊びをする中年が多く、あけすけな態度を平気で見せる。夜になるとマンボ族が交代して現われ、外苑通りに抜ける国鉄ガード下がとくにひどい」

 校長は説明後に二階角の3年1組の教室に案内する。窓のすぐ前に旅館の部屋が接している。4月の売春法実施を前に、新宿の靑線地帯がこの辺に流れこんでくる恐れがあると危惧する。

 次に国会資料。昭和32年3月5日参議院会議録がネットでヒットした。「第026回国会、文教委員会第8号」に「日本こどもを守る会」副会長で社会評論家・神崎清、鳩森小学校PTA会長が参考人で出席し、概ねこう述べていた。神崎清氏は小生も読んだ『実録 幸徳秋水』の著者だろう。

 「千駄ヶ谷は第二の玉ノ井である。千駄ヶ谷というとニヤリと変な顔をされる。千駄ヶ谷、原宿、代々木で114軒のこの種の旅館〝さかさくらげ〟がある。この温泉マークは組合の申し合わせで鳩森小周辺は撤去されているが、ほとんどがアベック旅館。千駄ヶ谷のアベック旅館は二千円から高級なのが三千円。女性を連れたアメリカ兵利用は鳩森、千駄ヶ谷のアベック旅館利用だったが、現在は減ってアメリカ兵利用は5、6件で~」

 「鳩森小学校」の通学区域は、新宿御苑・千駄ヶ谷門まえの千駄ヶ谷5丁目、東京体育館や鳩森八幡神社辺りの千駄ヶ谷1丁目、北参道までの千駄ヶ谷4丁目。

 さて〝連れ込み旅館街〟の当時の地図や写真は~。戦前の店舗名入り詳細地図はあっても、当時の記録は一切なし。嫌な過去は隠蔽したいのが人情。いま話題の「将棋会館」サイトの将棋ペンクラブの思い出記に、こんな文があった。

 「昭和36年(1961)に東中野から千駄ヶ谷に移って来た当時は、都内でも有数の連れ込み旅館街で、当時の古い建物を旅館だと思って二人連れが間違えて入ってきたことがあった」。当時は鳩森八幡神社周辺も〝連れ込み旅館街〟だったと推測される。また近くに当時を偲ばす「ホテル看板」がひとつ~。次に〝読み物〟から当時の様子を探ってみる。

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ハイツの独身兵舎問題(46) [千駄ヶ谷物語]

heisei1nen.jpg_1.jpg 駐留米兵の性の、巷への拡散例として昭和28年の代々木山谷の米兵相手のホテル検挙を挙げた。そんな折にワシントンハイツ内に「独身兵士宿舎建設」計画が物議をかもした。

 これは、かねてより渋谷区に小中学校が少なく、同ハイツ参宮橋寄りの地を払い下げてもらっての学校建設計画が期待されていた矢先のこと。同宿舎によって更なる風紀の乱れを危惧した父兄(山谷小、代々木小)や神宮崇敬婦人会らが立ち上った。それが「代々木基地反対運動」。

 神宮崇敬婦人会・会長は鷹司綏子さん(徳川家達次女)。夫の明治神宮・宮司の鷹司信輔氏は以前から「明治神宮内苑・外苑に米兵使用済避妊具が捨てられている」と苦言。しかし周辺住民の反対運動空しく、昭和30年(1955)に14棟の米兵独身宿舎が竣工・入居。

 上記を紹介する秋尾沙戸子著には、こんなデータも記されていた。代々木、千駄ヶ谷、原宿辺りの連れ込み旅館は昭和22年に数軒、26年に60軒、28年に75軒、昭和32年には102軒。米兵相手の売春婦検挙も比例増加。だが、この急増は当然の推測として、日本人同士の〝連れ込み宿〟急増が含まれよう。

 ここで昭和41年刊「新修渋谷区史(下巻)」をひもといた。昭和32年2月の「文教地区指定の要望書」が掲載されていた。概要は次の通り。「最近区内に温泉マークの旅館、ホテルが急増し、その数は246軒に及び、そのうちの約半数の100軒が千駄ヶ谷、代々木、原宿近くに集結。該当地区には鳩森小学校、山谷小学校、代々木小学校、神宮前小学校、千駄ヶ谷小学校、外苑中学校があり、これら学校は旅館、ホテルに取り囲まれる状態であり、鳩森小学校の如きは真ん前に旅館建設で正門を閉じざるを得ぬ状況」と現状を訴えて「学校周辺を第1種文教地区、その他を第2種文教地区に指定すべく特段の処置を講ぜられる様お願い申し上げます」

 その結果。昭和32年4月に文教地区指定が決定。これには昭和33年(1958)年のアジア競技大会、翌年に5年後の東京オリンピック開催決定も反映したと考えられる。写真は国土交通省公開のワシントンハイツ写真。参宮橋寄りに独身宿舎兵14棟がはっきりと写っている。次は千駄ヶ谷4丁目「鳩森小学校」の環境浄化運動について。

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米兵の性が巷に拡散(45) [千駄ヶ谷物語]

IMG_1074_1.JPG 秋尾沙戸子『ワシントンハイツ』に、昭和28年(1953)の「時事新報」記事が紹介されていた。

 「代々木署では20日午前6時、警視庁保安課の協力で渋谷区代々木山谷125ホテル・パリーこと〇〇(31)宅を急襲、住所不定無職〇〇(20)ら16名を売春現行で、〇〇を場所提供の疑いで検挙した。調べによれば同ホテルは1ヶ月ほど前から新築開業し、19の豪華な部屋をもち駐留軍相手の連れ込み専門で外部から室内のみだらな行為が丸見えなので、地元PTAなどから非難があがっていた」(同書は実名)

 同番地は新宿南口「文化服装学院」の裏側。「代々木小学校」(平成27年閉校)から西南側裏を流れる「原宿村分水」越しに見えたホテル窓の痴態と想像した。同地区には「山谷小学校」もある。年代から朝鮮戦争(昭和25年~28年・1953)帰りの帰還兵の〝性〟と推測した。

 小生は昨年、岸田劉生「切通之写生」現場と旧居巡りで、同地域をポタリングした。劉生は新婚所帯の妻実家・西大久保(新宿・鬼王神社辺り)から、代々木山谷117番(検挙ホテルは125番地)へ移転。大正4年頃に有名な「切通之写生」など一連の〝赤土風景〟を描いた。つまり郊外から振興住宅地化へ関東ローム層掘り起こしの工事現場風景。急速に都市化される様相が描かれたことになる。

 大正前、明治時代の同地区は畑の中にぽつんぽつんと一軒家。明治39年に田山花袋が移転してきて、終焉の地とした。当時は「文章世界」編集主任。激務後に閑静な自宅に戻って『蒲団』や東京変遷の様子を記録した『東京三十年』などを執筆。昭和5年没だが、その後の代々木山谷に米兵相手の連れ込みホテルが建ち始めるとは想像も出来なっただろう。

 また「山谷小学校」近くには日本画の菱田春草、「春の小川」作詞の高野辰之も在住。西参道の向こう側(現・代々木4丁目)には散歩の達人・川本三郎が生まれている。1歳の時に内務官僚の父が広島赴任中に原爆で死亡。川本は杉並育ちになった。

 米兵らの〝性〟はさらに拡大浸食。秋尾著には「代々木基地反対住民運動」詳細も記されていた。反対運動参加者の声として「山谷はかつて陸軍将校の屋敷町でした(ワシントンハイツ前の代々木練兵場関係だろう)。文士も画家も住んでいた(前述通り)。山谷小学校は〝山の手の学習院〟とまで言われ、PTAや卒業生には社会意識の高い方が多かった。代々木基地反対運動を始めたのも、そうした山谷の婦人会の皆さんです」。

 上記説明の手描き地図を描いたが、文字が小さ過ぎた。クリックして下さい。次は「代々木基地反対運動」とは~。

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