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ヒトラー2:青山栄次郎とヒトラー [政経お勉強]

IMG_4489_1.JPG 林信吾著『青山栄次郎伝~EUの礎を築いた男』は、今まで読んできた木村毅、松本清張、シュミット村木眞寿美による〝光子本〟と違って、栄次郎(リヒャルト)とヒトラーの対比をテーマに書かれていた。

 2016年12月、日本記者クラブで講演された東京大学大学院教授・石田勇治による「ヒトラーとは何だったのか」(YouTube)では、いま世界各地で起っている<ポピュリズム(大衆迎合主義)+排他主義>が、ヒトラー時代を想起されると語り出し、麻生財務大臣の「あの手口を真似たら~」発言、ユダヤ人でアメリカ亡命のアインシュタインが相対性理論から原爆を示唆し、ドイツに原爆を落とすはずも日本に落とされたと語っていた。

 アインシュタインに限らずヒトラー独裁から他国への亡命者は多数。このブログでも「カンディンスキー及びバウハウス」について記した。カンディンスキーはヒトラー政権誕生で美術学校「バウハウス」閉鎖で、スイス経由でフランスに亡命。ナチ占領下のパリで亡くなった。だが多くのバウハウス教師陣はアメリカへ亡命し、シカゴ「バウハウス」からそのデザイン理論を世界に普及した。このブログのフォントも、バウハウスから生まれた「フーツラ系、ユニバース系」だろう。

 アメリカへの亡命者の中には、光子の次男・栄次郎(リヒャルト)夫妻もいた。ヒトラーもリヒャルト共にドイツ系オーストリア人で、ヒトラーは栄次郎の5歳上。リヒャルトの『パン・ヨーロッパ(ヨーロッパ合衆国構想。後のEU)』初版は1923年だが、彼の父=光子の夫ハインリッヒは、母国ボヘミア地方ロンスパルク城に戻ると外交官を辞めて城主&プラハ大の学生になり、その卒業論文が『ユダヤ人排斥主義の本質』だった。1896年頃と思われるが、いち早く人種論的反ユダヤ主義を批判していたそうな。

boumei_1.jpg 林信吾著には、同論文は「アーリア人種、ユダヤ人種は存在せず。言語や宗教を異にするグループが存在するだけで、ロシアで迫害されている東方ユダヤ人解決策としてユダヤ国家建設をパレスチナにするのは適切ではない」と主張していると紹介。

 さて栄次郎はそんな父を12歳で亡くしたが、ヒトラーは14歳で父を亡くした。ヒトラーの祖父は粉ひき職人で、父は靴職人から「オーストリア・ハンガリー帝国」の大蔵省守衛から官吏として臨時上級事務官まで昇進。58歳から恩給生活で、息子も自分と同じく〝堅気の職〟を頑なに勧めた。反抗・怠惰・生意気な息子ヒトラーは、それに抵抗してよく殴られていたとか。

 父没後のヒトラーは五つの学校、留年一回後に画家志望へ。1907年、18歳でウィーン造形美術学校一般絵画科の受験に失敗。この時に建築科を勧められて、2度目の受験も失敗。その試験中に母を癌で亡くした。かかりつけ医のユダヤ人博士は往診80回余も、その料金はきわめて良心的で、ヒトラーは「感謝を忘れない」と誓ったとか。

 当時のウィーン人口は約200万人で、14万人がユダヤ人。市内弁護士の約半数、開業医の75%がユダヤ人。多民族国家にあって裕福層にユダヤ人が多く、生活苦にあえぐ労働者階級の一部がユダヤ人に反感を抱いていたとか。光子の夫の博士論文『ユダヤ人排斥主義の本質』を書いたのも、そんな背景があってのことだろう。

 光子の次男リヒャルトはウィーン大へ入学後に、母の年齢に近い14歳年上の33歳で、リルケも絶賛の欧州3大女優イダ・ローラントと恋仲になった。二人が結婚の約束を交わしているのを光子が知ったのは第一次世界大戦勃発後のこと。栄次郎とヒトラーの人生は政治的に真逆ながら、時代の同じ情況に影響されつつ歩んで行く。写真はアインシュタイン(国会図書館デジタルより)とカンディンスキーの小生の下手な似顔絵。

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