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ヒトラー11:第二次世界大戦(イ) [政経お勉強]

jinsyusennsou_1.jpg 第ニ次世界大戦を振り返るのは、日本も当事国で、かつ親世代ゆえに辛い~。『ナチスの戦争』(リチャード・ベッセン著、中公新書)、『アードルフ・ヒトラー:独裁者の人生行路』(トマス・ザントキューラー著)を参考に、簡単に時系列で振り返ってみる。

 1939年9月1日、ヒトラーは軍服姿で国会に登場し「ポーランドと開戦」を告知。数週間で同国を征服(ポーランド軍犠牲者10万人、捕虜100万人)。ドイツの勝利を伺って同月17日にソ連が参戦してポーランド東半分を制圧(独ソが秘密裏で決めていて、両国でポーランドを分割。ドイツは西プロイセン、ポーランド西部を併合し、ポーランド人とユダヤ人を追放。ソ連領になった地域のドイツ系民族を代わりに移住させた。

 1940年4月、デンマークとノルウェーへ侵攻。デンマークは翌日降伏。ノルウェーは6月10日に降伏。5月にオランダを数日で制圧し、5月18日に中立国ベルギーが降伏。6月14日にパリ入都。22日にフランスが停戦調停。フランス北部と西部海岸をドイツが占領支配。ヒトラーの特別列車でのベルリン凱旋に、数十万人が大熱狂。

 1941年4月、ムッソリーニの苦戦に加勢してイタリア・ハンガリー軍と共にユーゴスラヴィアとギリシャへ侵攻。約2週間でユーゴスラヴィア降伏。月末にギリシャ降伏。それに先立つ1940年11月、ソ連の独ソ関係協議で、ソ連がスカンジナビアとバルカン半島への関心を表明したことで、ヒトラーは対ソ戦を決意。

 1941年6月22日、ドイツ側360万の兵士+3350両の走行車がスターリン率いるソ連軍を攻撃。共産主義者への憎悪から、戦時国際法を無視した〝絶滅戦争〟。降伏した約570万人のソ連兵に食事・宿舎も与えず330万人が死亡とか。だがソ連も頑張ってドイツ兵17万人余が戦死、62万人負傷、3万人行方不明。

 同年9月19日、ウクライナのキエフを占領し、モスクワ・クレムリンの塔が見える地まで攻め込んだ12月初旬、ドイツ軍の補給が絶えた。加えて-37度の極寒。赤軍反撃でドイツ軍が退却。だが前線後方でソ連軍領内のユダヤ人約200万人を虐殺。ドイツ軍が不利になるとパルチザン、レジスタンス活動が次第に活発化。数万人だったパルチザンが、この頃には約12万人へ増加。

 1941年、日本の真珠湾攻撃で、米国ルーズベルトが日本へ戦線布告(米国の日系人強制収容所へ12万人が送られ、その後に労働力不足の中西部都市に送り込まれた)。ドイツも米国へ宣戦布告。1942年、ドイツは南部部隊をカスピ海沿岸のソ連の石油油田を奪うべく攻撃させ、北部部隊を工業都市スターリングラードへ攻撃させた。二兎を追った欲張った作戦が失敗。1943年1月末にスターリングラードでドイツ軍降伏。また英米軍が北アフリカを占領。1943年5月、ドイツ・イタリア軍がチュニスで降伏。ムッソリーニ失脚~逮捕。

 1944年6月6日、連合軍がフランス・ノルマンディー上陸。22日、ソ連がドイツへの大規模攻撃「ツィタデレ作戦」。90万兵士+2700戦車VSソ連兵130万+3400両戦車の闘いでドイツ敗北。ゲッベルが老人・子供をも巻き込んだ「国民総力戦」を訴えるも、国民は大本営を信じるより、己がどう生き延びるかを考え出していた。ヒトラー式敬礼の拒否、さらには幾つかのヒトラー暗殺計画(失敗するが)も起ってきた。

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