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ヒトラー8:『青山栄次郎伝』最終回 [政経お勉強]

IMG_4489_1.JPG 1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、英仏がドイツに宣戦布告。第二次世界大戦が始まった。一般のドイツ人が戦果に関心を寄せる陰で、ナチスはユダヤ人を強制収容所へ送って大量虐殺。

 栄次郎夫妻はスイスからパリに移っていたが、1940年6月のドイツ軍パリ無血入都で、夫妻はポルトガル経由でアメリカに亡命した。ニューヨーク大学を拠点に講演活動。「ヒトラーとスターリン、二人のどちらも勝者にしてはいけない。戦後のヨーロッパは平和に総合されるべきだ」と訴えた。

 1941年12月7日、真珠湾攻撃。栄次郎は同年8月27日に母・光子の訃報を受け取った。1945年4月30日、ヒトラーがソ連軍包囲下のベルリンで自決。5月7日、ドイツ無条件乞降伏。

 ヒトラーの故郷オーストリア北部にソ連が進駐し、ヒトラーと血縁関係にある者は連行されたまま帰ってこず。光子を看取って「光子の財産を相続」するはずのオルガも、難民となって米国占領下のドイツ(西独)に遁れ、その後に米国に移住。光子の長男ハンス(光太郎)は、ロンスペルク城・土地・森林を相続して最後の城主になっていたが、最初の妻goebbels_1.jpgがユダヤ人商人の娘ゆえ、妻を守るためにナチスに迎合せざるを得ずで、チェコにおける親ナチス派とみなされて逮捕。城、家財、美術品、蔵書のすべてが持ち去られた。現在もチェコスロバキアに管理されているらしい。

 1945年、栄次郎はニューヨーク大教授になるも、翌年に6年暮らしたニューヨークを去った。欧州へ戻る大西洋航海中に、英国前首相チャーチルから電報を受け取った。パリで娘婿サンディス(保守党議員で戦後の政界で活躍)と会ってもらいたい旨の内容。

 1951年春、妻イダがジュネーブで他界。チャーチルの栄次郎「パン・ヨーロッパ」賛同は、ソ連の脅威から西ヨーロッパ結束を求めたものだったが、「パン・ヨーロッパ」の真の賛同者はド・ゴール中心のロンドンで活動していたフランス亡命政府の人達で、彼らによって運動が推進された。

 1950年、フランス外相シューマンが従来の確執を超えて石炭・鉄鋼生産の共同管理を呼びかけた「シャーマン宣言」。その2年後にさらに進化して「ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)」へ、さらに1958年の「EEC(欧州経済共同体)」、そして「EU」へ至る。

hatoyama_1.jpg 1950年10月、栄次郎が初来日し「第1回鹿島平和賞」を受賞。昭和天皇に謁見。鳩山一郎夫人にも会った。鳩山一郎は公職追放期間中に栄次郎著作を英文で読んで感銘。「友愛が伴わなければ、自由は無政府状態の混乱を招き、平等は暴政を招く」をテーマにした翻訳『自由と人生』を1953年に出版。自身の政治理念を「友愛」にした。

 以上で林信吾『青山栄次郎伝』終章紹介を終わるが、ここまで辿ったら、気が進まないけれどもヒトラーの第二次世界大戦、ユダヤ人の虐殺についてもお勉強しなければいけないでしょう。

 写真はもう一度、林信吾『青山栄次郎伝』の表紙をアップ。写真中は当時のナチス宣伝相ゲッベルス、写真下は「友愛」の鳩山一郎(共に国会図書館デジタルコレクションより)

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