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ヒトラー5:栄次郎の失速、ヒトラーの躍進 [政経お勉強]

kakumeinokoro_1.jpg ヒトラーの野戦病院退所からクーデター失敗までを、林信吾『青山栄次郎伝』ではどう記されているか~

 1919年9月、ヒトラーは野戦病院退所後に、ミュンヘンで行われていた「ドイツ労働者党」の集会に参加。党主アントン・ドレクスラーが彼の弁舌に感心して入党を勧め、ヒトラー7番目の党員登録。栄次郎はこの頃のポスター「退役軍人は半額、ユダヤ人は入場禁止」の文言を覚えているとか。

 1920年2月、同党は「国家社会主義ドイツ労働者党」と改称し、ヒトラーが党首就任。25項の党要綱も設定で、第1項「わが党は全ドイツ人がドイツ主義のもとで結集することを求める」。第2項「わが党はヴェルサイユ条約の撤廃を要求」など。この要綱は「ポピュリズム(大衆迎合主義)+排他主義」の見本になりそうです。またこの時に、鉤十字マーク(寺院マーク卍とは逆回り)も制定とか。

 同時期に退役軍人レーム指揮下の突撃隊(S.A)誕生。当時の右翼左翼集会は互いに殴り込みが常態化でその対策。右手を突き出す「ハイル・ヒトラー」敬礼もこの頃から。

 1922~1923年、ドイツにインフレが襲う。世情の不安は、反乱を起こす好機になる。1923年11月、ヒトラー武装蜂起。ナチス党員16名が射殺され、100名余が負傷で失敗。ヒトラーは反逆罪。禁固刑5年も実際は8ヶ月半で出所。1927年まで公衆での演説禁止。

 ヒトラー出所後の共和国は、「新マルク発行+米国援助」でインフレから脱却で、平和と繁栄への途上。この時期に登場したのが栄次郎の「パン・ヨーロッパ」構想だった。1929年9月の国連総会終了後に、翌年総会の議題へなりそうな盛り上がり。

kagijyuji_1.jpg だが10月、米国ウォール街・証券取引所で突然の株価大暴落。その大恐慌が欧州も襲った。「パン・ヨーロッパ」運動は断ち切れ、逆にヒトラーが躍進する。1930年の総選挙でナチス107議席。1932年の選挙では608議席中230議席を獲得で、議会第1党に踊り出た。ヒトラーが各地へ飛行機で降り立ち、夜間の松明行列などの演出

 (選挙PR史上でも注目展開。この飛行機から降り立ち+演説の手法は、今もトランプに受け継がれているし、集団マスゲームなどは今も北朝鮮の得意技)

 1932年、ヒトラーは大統領選出馬前になってドイツ国籍を取得。だが第一次大戦の英雄ヒンデンブルク将軍の得票数50%に及ばない。1933年1月に首相就任。2月の国会議事堂放火事件。これを共産主義者の仕業にでっち上げて共産主義を追い詰める。3月、ヒトラーへの全権委任法の可決で、立法権を議会から名実ともにヒトラー独裁になる。

 こうなると、ヒトラー忠誠で働いて来た側近らに欲が出る。入閣人事を巡って嫉妬交じりの激しい闘争が展開する。「長いナイフの夜」と称された親衛隊(S.S)が突撃隊(S.A)200名余を粛清する残虐な事件も起こった。再びイアン・カーショー「ヒトラーはヒトラーによって説明できない」。ヒトラーは時代、社会変化、側近ら~さまざまな環境変化・要素が反応し合って成り立っているの意だろう。

 写真上はクーデター失敗の頃の若きヒトラーと突撃隊。写真下はナチの鉤十字マーク。(共に国会図書館デジタルコレクションより。戦前の日本発行のナチ関係書は、ヒトラー賞讃の紹介になっている)

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