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ヒトラー9:独裁の恐怖が始まった [政経お勉強]

jinsyusennsou_1.jpg 以下、リチャード・ベッセル著『ナチスの戦争』(大山晶訳・中公新書)を参考にする。1934年8月、ヒンデンブルク大統領死去で、ヒトラーは大統領制を廃止し、自らが総統となり「ワイマール共和国」が「ドイツ第三帝国」(俗称)になった。ヒトラーはまず経済対策で高速道路網(アウトバーン)整備、国民車(フルクスワーゲン)製造を展開した。

 それらナチス経済施策の目的は、あくまでも「侵略戦争が可能な再軍備と軍事組織」。1935年に徴兵制度を復活。1936年、大恐慌から立ち直って、ヴェルサイユ条約の制約解除に併せて非武装地帯ラインラント(ドイツ西部ライン川沿岸、フランスに隣接)に進駐して再武装開始。「4ヶ年計画(4年以内に戦闘可能へ~)の覚書。

 1936年、ベルリン・オリンピックが終わると、ゲーリング率いる空軍が迅速な成長を遂げ、海軍はフランスと同等規模になり、陸軍は260万人で1/3が自動車部隊と戦車部隊へ。同時にアーリア人種繁殖に産めや殖やせの政策、比して疾患子防止法(断種法)政策。アーリア人とユダヤ人との結婚・性交渉・生殖禁止。

 若者は少年向け「ヒトラー・ユーゲント」(昭和13年に30名程が来日。8月には伊豆大島へ1行28名が来島。併せて東京少年団も来島で、その中に後にル・コルビュジエ師事の建築課・吉阪隆正少年もいた。小生ブログより)。女子はドイツ女子同盟へ入会を強制。そして他の民は労働奉仕団、軍隊、労働者戦線(2,000万人)へ。

autobahn_1.jpg ヒトラーの戦争理念は「人民の保護と維持、そのためには既存領地内での自給自足は不可能ゆえに、新たな土地が必要~」で、まずはチェコスロヴァキアとオーストリア併合を目指した。

 1938年、ヒトラーが軍の総̪帥権、ゲーリングが経済政策のトップ、リッベントロップが外務大臣、ヒムラーが5万6千人の親衛隊隊長とバイエルン強制収容所、ドイツ全域の政治警察、プロイセン機密国家警察(ゲシュタポ)の各長官に収まった。

 同年、ドイツ・ユダヤ人30万人がドイツを脱出。ドイツ軍がオーストリア侵攻。ウィーンのユダヤ人の財産没収。この施策がドイツ全域で展開。翌年にチェコに侵攻して両国を併合。そしてポーランド侵攻で、英仏がドイツに宣戦布告。第二次世界大戦へ突入した。

 ヒトラーは政権掌握6周年の1939年1月の国会演説で以下を語った。「もしヨーロッパ内外で国際的に活躍するユダヤ人資本家が諸国を再び戦争に突入させることに成功しても、その結果起るのは世界のボルシェヴィキ(多数化)でもユダヤ人の勝利でもなく、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅だ」。ヒトラー、ナチスの戦争が人種闘争であることの明言だった。

 そrではヒトラーの「反ユダヤ人思想」とは? 気が滅入るテーマだが、ここは我慢して理解しておく必要がありそうです。次回にその辺をお勉強する。アウトバーン写真は、昭和13年刊『伸びゆく独逸』、国会図書館デジタルコレクションより。

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