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俳人らの「季語」説明集(2) [暮らしの手帖]

mejirosakura1_1.jpg●久保田至誠著『滅びゆく季語~自然環境変化と歳時記』:温暖化による地球環境変化、それに伴う歳時や動植物の変化、生物多様性の喪失、絶滅危惧種の増加などで「季語が滅亡の危機」を迎えていると警告。絶滅が危惧される動植物などを詠んだ五十句などを紹介。嘆いているだけでは意味がない。俳句界は自然保護、温暖化防止などに取り組んでいるのだろうか。

●目下テレビで人気の毒舌俳人・夏井いつき著で『絶滅寸前季語辞典』が二冊あった。未読だが、こう思う。東京暮しのあたしはマンション住まいで子供を育ててきた。節分になれば、自分が子供時分に父の大声張り上げた「鬼はぁ~外、福は内ぃ~」の豆蒔きを思い出しつつ、あたしもマンション内でそうやっては来たが、近所から豆まきの声が聞こえてこなかった。かくして歳時は次々に滅び行く。ちなみに生活関連の歳時記をひもとけば、あれもこれも今は遥か昔の懐かしい歳時ばかり。息子と孫は果たして「七草粥」を食べただろうか。

●飯田龍太著『俳句は初心』:「季題」は和歌・連歌などで古来からの伝承的美意識に支えられてきた季節の題。「季語」は季節の言葉。明治以降は「季題・季語」の区別があいまいとなり、歳時記でも分類されず「季題・季語」と一括りになった。「季題・季語」は江戸末期に約五千。明治・大正に入るとその約三倍になった。

●高橋睦郎『私自身のための俳句入門』:俳句が俳句として生き残る道は中心に季を置き、季の本質をさぐりつづけることにしかない。中心を季以外に移す方向は無限で雲散霧消させてしまう結果にしかまるまい。

●「俳句研究」編集部『俳句実作の基礎用語』:森無黄『季題の用法』では季題と本意は継承されたが、大須賀乙字『季語』では約束ごととは無縁の季語が一般的になった。現代俳句では季題の本意の約束が薄れて「季題・季語」の区別はつけ難い。

 この辺でやめよう。当初の疑問「メジロの季」は夏か、三夏か、秋か、春か?は、馬琴が括った秋で納得したいが、はたして「メジロに本意」はあるや?。なぜに「梅、椿、桜にメジロ」は破棄されたかの答えは見い出せなかった。間もなく〝寒桜にメジロが群れる季節〟になります。


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俳人らの「季語」説明集(1) [暮らしの手帖]

harusame2_1.jpg メジロの季の疑問から、俳句のややこしい領域へ首を突っ込んでしまった。切り上げる前に、俳人らの著作で「季語」がどう説明されているかを私流咀嚼・解釈をもって集めてみた。

●中村草田男『俳句入門』:和歌(短歌)は貴族遊技色中心の連歌へ。連歌が庶民主流になって俳諧の連句へ。その最初の句が「発句」で、そこから幾人も続くゆえ「発句」にイメージ提示の「季題」を入れた。発句が独立して「俳句」になった。「千鳥」は一年中いるも有名和歌によって冬の季題になった。それらが季節特定できないゆえに「歳時記」が誕生。昔の歳時記は旧暦に基づいたが、今は新暦で新季題も追加されている。日本人は季節美と自然美に感動する詩人的素質があり、季題は季節的美感と象徴文学的な共通符牒効果をもたらす。

●金子兜太『俳句入門』:季語は「旧暦」を使うから現生活とズレが生じる。日本の古来からの季節感や美意識は旧暦に基づいている。(早くも両者の間で俳句と新暦・旧暦の捉え方が違う)

●安倍筲人『俳句』:俳句は短型ゆえ凝縮した言葉となり、そこに自己を表現する。それを「言葉のどんづまり性」という。季語は季節の共有、凝縮性を有して「作品に現実感」と作者のアリバイをもたらす。

●長谷川櫂『一億人の季語入門』:季語には「本意」があり、その本意の上に成り立つ。「春雨」の本意は「降るともなく上がるともなく、音もなく降り続く」。それら季語の本意に日本人の想いがある。季語は想像力の賜物で、季語の世界を「季語の宇宙」という。

★「春雨の本意」の引用元は服部土芳『三冊子』(安永五年・1776年刊)らしい。同著は早大古典籍データで公開されてい、現代訳は岩波書店『連歌論集 俳論集』に収められている。両著で「くずし字+俳句」の両勉強ができそう。まずは『三冊子』の「春雨の本意」の部分を筆写してみた。~「春雨ハをやみなく(小止み無く=少しも止むことなく)いつまでもふりつゞくやうにする三月をいふ。二月末よりも用る也。正月二月はじめを春の雨と也。五月を五月雨と云。晴間なきやうに云もの也。六月夕立、七月にもかゝるべし。九月露時雨也。十月時雨、其後を雪みぞれなどいひ来る也。急雨は三四月の間に有こころへ也。

 ちなみに2002年刊「歳時記」の「春雨」の項をひもとく。その特性(本意)が気象学的分析をも加えてより詳細に説明されていた。「季語の本意は歳時記に詳しい」そんな簡単な説明の方がわかり易かった。(続く)


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メジロから「季語の誕生」へ [暮らしの手帖]

mejirokigo1_1.jpg メジロの季の疑問から、「季語」ってなに?と思い始めた。そこでまずは宮坂静生『季語の誕生』を読む。以下は私流解釈で記す。

 まず「はじめに」。こんな記述あり。北海道の俳句作家より、実景と歳時記の季が符合せずに悩むとの便り。著者は子規が同様の質問を盛岡の俳人から受け、こう答えたと引用する。「少しも差支なし。盛岡の人は盛岡の実景を詠むが第一なり」。また芭蕉の「松の事は松にならへ、竹の事は竹にならへ」(そのものを見つめよ)を紹介。

 地域によって当然ながら季節のズレがある。さらに年中見られる「月」の季が秋に〝決められている〟そうな。これは『金葉和歌集』(平安後期、1124年)による。縄文時代~生産・生殖~月のもの(月経)~秋の収穫祭~で「月が秋」になったのだろうと考察される。このやや重い原初的〝月の本意〟が、時代を経て芭蕉の軽さによって〝普通の月〟に取り戻されたとも。だが今も〝月の季は秋〟。

 同和歌集で「早蕨(さわらび)」も春の季に〝決められ〟ているとか。『古今和歌集』の「煙たち もゆとも見えぬ 草の葉を 誰かわらびと なづけ初めけむ」(真静法師)。この歌は「萌え(燃ゆ)」「蕨(藁火)」の掛詞がポイント。蕨の実体から離れた掛詞(言葉遊び)から蕨の季が春と決められた。著者は六月初旬に妙高高原で蕨狩をした際の感動を記し、自分の蕨の実景は六月だったと記す。

 和歌(短歌)には掛詞(かけことば)が多い。同音異義語遊び。人を待つ⇒松虫、歌を聞⇒菊などの言葉遊び。小生には和歌・短歌の知識はまったくないが本歌(古歌)を自分流に変える〝本歌取〟や、狂歌のシャレにも、この言葉遊びは続いている。かくして実体と離れた季題・季語も生まれた。

 そのために「歳時記」が誕生したが、今は旧暦と新暦が混合し、生活様式も変わり、歳時は次々に消滅し、動植物の絶滅危惧種も増えて「季語大混乱」状態。メジロの季の疑問から俳句の面倒くさい領域に入ってしまったようで、俳句趣味ではない小生はここらで退散。最後に俳句入門書などから「季語」を説明する記述を幾つか拾って終える。(続く)


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馬琴「俳諧歳時記」八月を読む [暮らしの手帖]

basyohatigatu1_1.jpgbakin8gatu2_1.jpg 馬琴の享和三年刊『俳諧歳時記』八月(新暦九月中旬~)を読む。~「八月」葉月とは葉落月(はおちづき)の略也といへり。或は初月をよみて初来(はつき)とす。鴈の初て来た頭ころなるよしいへり。又は「はつき」は八月之八の字を「は」の音にとむは常のことなりと此節にしたがふべし。(たどたどしく読んだが間違っているかも)

 ~葉月は葉落月の略。初月は鴈が来る初めの月で初来(はつき)。又は八月の八を「は」と読むは常で「はづき=葉月」と説明。同月記述末にあげられた野鳥は38種。鳥好き、異体字に関心あるゆえにこれも筆写した。

 ~贗(雁の異体字。かり、がん)、鴻(ひしくひ、菱喰、カモ科)、雁書(かりのふみ、がんしょ、雁の使い、手紙、書簡、雁信)、雁金(かりがね、マガンに似ている)、二季鳥(ふたきとり、にきどり、雁の異名、秋に来て春に帰る二季節の鳥)、可多糸鳥(かたいととり、片糸鳥、雁の別称)、稲負鳥(いなおふせとり、稲刈りの時に来る鳥、実体は不明)、色鳥(秋に来る色の美しい小鳥)、渡り鳥、鴗(そにどり、かわせみ、翡翠)、啄木鳥、鵯(ひよどり)、鶫(つぐみ)、猿子鳥(ましこ)、桑鳲(まめうまし、いかるか、豆甘、イカルの異名)、椋鳥、鶲(ひたき)、鴰(ひがら)、山雀、四十雀、五十雀、小雀、頬赤(ほあか、ほおあか)、繍眼児(めじろ、シュウガンジ)~ まだまだ続くが筆写参照。

 馬琴は一時、百羽もの飼い鳥をし、三百種網羅の鳥図鑑『禽鏡』(きんきょう。絵は娘婿の渥美覚重)を天保五年(1834、馬琴68歳)に出版している。実際に繍眼児(めじろ)も飼っていただろうし、果樹を植え池も作るなどした凝った庭に、メジロも遊びに来ていたかもしれない。ここは野鳥に詳しい馬琴を信じて「メジロ=八月」、つまり旧暦・秋の季語(新暦九月)に納得したい。確かに「熟柿にメジロ」も眼にする。では「梅・桜・椿とメジロ」の春のイメージはなぜに捨てられたか。

 改めて「季語とは」を、宮坂静生『季語の誕生』でお勉強してみる。(続く)


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馬琴「俳諧歳時記」=メジロは秋 [暮らしの手帖]

saijiki3_1.jpg 駄句遊びをしていると「季語」に〝ひっかかる〟ことがある。花鳥は自分の眼で見て撮っている(実景)ゆえに、「歳時記」の季とずれることまま也。机上の歳時記(大岡信監修、遊子館刊、写真)では〝メジロの季は夏〟で腑に落ちぬ。

 あたしはブログ・タイトル欄を「五七五」にしているだけで、とても〝俳句趣味〟とは言えぬレベル。初めて〝季語って何だ〟と、ネット巡りをしてみた。寛永13年(1636)刊の野々口立圃『はなひ草』で590の季題を網羅。慶安元年(1648)に北村季吟『山の井』で1300語を収録。享和3年(1803)に曲亭馬琴『俳諧歳時記』が2600の季語を網羅。「季題」なる言葉は明治36年(1903)に森無黄が初めて使い、「季語」は明治41年(1908)に大須賀乙字が初めて使ったとあった。なぁ~んだ、えらく最近のことじゃないか。

 ここで早大「古典籍総合データベース」にアクセスすれば『俳諧歳時記 春、夏、秋、冬、雑之部』曲亭主人纂輯2冊がヒットした。享和3年(1803)刊。「春之部」正月、二月、三月。「夏之部」四月、五月、六月。「秋之部」七月、八月、九月。「冬之部」十月、十一月、十二月。「秋之部」八月に「繍眼児(メジロ)」があった。

mejirosisyuup_1.jpg 机上の歳時記は「春」が立春の二月四日頃~立夏前日。「夏」が立夏の五月六日頃~立秋前日。「秋」が立秋の八月八日頃~立冬前日。「冬」が立冬の十一月七日頃~立春前日。それでメジロは夏の季。

 以上から旧暦・新暦のズレに気付く。旧暦は新暦より約一ヶ月遅い。馬琴『俳諧歳時記・秋之部』は享和三年八月一日からだから、新暦変換すれば九月十六日。つまり馬琴は新暦九月中旬期にメジロを括った。

 メジロの季が夏または秋と言われるのは、この旧暦・新暦の混乱からきているのではないかと推測するがいかがだろうか。いや「メジロ・三夏」とする歳時記もある。旧暦4・5・6月=初夏・仲夏・晩夏。う~ん、どうも定まらぬが、馬琴がメジロを「秋之部」八月、つまり九月中旬頃としたのが最も納得できる。実際に「熟柿にメジロ」はよく眼にもする。

 しかしあたしにとってのメジロは「梅にメジロ」「桜にメジロ」「椿にメジロ」で春のイメージが強い。ちなみに年中見られる「月」は何故か秋の季。俳句の季語は相当に「緩く」また「訳あり」と踏んだ。★追記/金子兜太『俳句入門』:俳句の季節は「旧暦」を使います。中村草田男『俳句入門』:今の「歳時記」は新暦で編まれており、新しい社会の行事が新季語として取り入れてあって便利です。★えぇえい、いってぇどっちだ!

 メジロは「繍眼児(シュウガンジ、メジロ)」の表記。これはメジロの眼の周りが白の絹糸で刺繍をされているようだからとか(アップ写真参照)。次に実際に馬琴『俳諧歳時記・秋之部・八月』を読んでみる。(続く)


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夏の季「メジロ」師走に遊び来る [暮らしの手帖]

mejiro281_1.jpg 昨年12月25日から新宿・大久保の自宅マンション7階ベランダにメジロが遊びに来ている。ここにメジロが遊び来るようになって6年目。例年1、2月に来て、寒桜が咲く頃まで通って来る。昨年は1月9日に来て、春までメジロ堪能と思いきや、隣のマンション大規模工事のせいだろう、数日で姿を消した。

 そして年末からメジロが連日遊びに来ている。部屋の中からガラス窓越しに撮ったのがこの写真。可愛いでしょ。正月にはすっかり慣れて、2㍍ほどに近づいても逃げもせず。花の少ない時期にベランダのローズマリーが咲いているから通って来たのだろうが、それでは蜜が少なかろうとミカンの半切れを刺し、「冬にメジロ」が我が家の風物に定着している。

 改めてメジロの季語を確認すれば、まぁ「夏」または「秋」とあり。ふに落ちない。夏の季と説明の歳時記本に載せられた絵は北斎の「梅とメジロ」。またメジロと云えば「桜とメジロ」「椿とメジロ」もお馴染みで、「夏=メジロ」は眼にしたことがない。何故にメジロの季語は夏、または秋なのだろうか。ネットには繁殖期の夏にさえずるからの記述もあったが、メジロの繁殖は4月末、5月頃だろう。

 原発は安全ではなく、先生と呼ばれる方々や警察・司法関係の方の犯罪も目立つ。かくも時代は概念を変えるのに季語が普遍、不変でいいのだろうか。図書館で久保田至誠著『滅びゆく季語~自然環境変化と歳時記』を手にするも「自然環境の変化、実体との乖離」がテーマ。絶滅危惧種になった動植物などの句が紹介されてい、これでは何故に「メジロ=夏・秋」かの解明に役立ちそうもない。今年のブログ最初は思いも寄らず「メジロの季語」追及から始めることに相成候。(続く)


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営みを天地に広げ都市の暮れ [暮らしの手帖]

parktower_1_1.jpg 未だ見ぬものは見たい。東京タワー、東京スカイツリーにも上っていないが、高層ビルから年末の東京夜景を見たくなった。近くの都庁展望室に再び上った。

 夕陽が沈んだ西に丹沢山系、その奥に富士山。そこからやや南、南西方向は手前から都庁第二庁舎、新宿パークタワー、東京オペラシティ(写真上)。さらに南東方向は東京ミッドタウンタワー、東京タワー、湾岸地区まで高層ビルがひしめいていた(写真下)。北東を向けば下町に東京スカイツリー。

 東京は天へ、地へ伸びている。この展望室は45階で202㍍。遥か下、コンクリートで固められた地底深くには幾重にも入り組んだ地下鉄が走っている。戸建て住宅が次々に消滅し、超高層ビルが増えて人々が呑み込まれて行く。

yakei1_1.jpg 小生の子供時分は小さいながら庭のある戸建て住宅だったが、いつの間にビル、マンション住まい(今は7階在住)。息子や孫らは12階在住で端から〝中空生活者〟でデジタル世代。

 来年の東京はどう変貌して行くのだろうか。また日本はどうなってしまうのだろうか。皆さま、良いお年をお迎え下さい。


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アメ横の師走を知るや都鳥 [暮らしの手帖]

yurikamome1_1.jpg 野暮用で「田端」へ。するってぇと、かかぁが「おまいさん、ちょいと足を伸ばしてアメ横で〝ホタテの干物〟を買ってきておくれよぅ」。用事を終え、新宿とは逆方向の山手線で「上野」下車。アメ横へ行く前に上野公園~不忍池を歩いた。多くの冬鳥が群れていた。

 アメ横へ足を踏み込むってぇと、そこは歩くも難儀な師走の大賑わい。雑踏をかき分けつつ、不忍池で優雅に飛び交っていたユリカモメらは、この大混雑は知らねぇだろうなぁと「アメ横の師走を知るや都鳥」とつぶやいた。

 在原業平はユリカモメをミヤコドリと詠んだ。鳥類学上の和名「ミヤコドリ」はモダンな黒白ツートンで、赤い眼・脚・長ぁ~い嘴を持って干潟(三番瀬など)で群れている。

 「嘴と足と赤きといひし業平の昔おもほゆる都鳥かも」。子規はこう詠ったが、さてどちらの都鳥を詠ったのだろうか。大岡信監修の歳時記には元禄八年刊の「頭書増補訓蒙図彙(かしらがきぞうほきんもうづゐ)」に描かれた鳥類学上のミヤコドリを載せているが、紹介される俳句・短歌の都鳥は、すべてがユリカモメを詠っていた。


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職を辞し浮沈もなしぞ酉の市 [暮らしの手帖]

toronoiti_1.jpg 小春日和の昨日「久しぶりに新宿御苑をお散歩しましょ」ってことで、まずは明治通りを歩いた。途中の「花園神社」が「酉の市(今年は二の酉まで)」で賑わっていた。「イヨォ~、シャンシャンシャン~」。あちこちで三本締め手拍子の盛り上がり。

 「酉の市」は商売繁盛を願う熊手を売る露天商が軒を連ねる。あたしは数年前に会社をたたんだ。イヤでしょうがなかった経理~確定申告、税務署通いからの解放。今は売上に心煩うこともなく、つくづくと「隠居っていいなぁ」。

 現役中は忙しさに読書もままならず。今は読めば読むほどに己の無知を恥じ、新たな興味が湧く。本は新宿の図書館九館。それに疲れたら自転車散歩。貧しく慎ましく、それでヨシと「シャンシャンシャン~」。御苑のベンチで紅葉を愉しみつつ、伊勢丹地下で購ったお弁当をいただいた。


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名も知らぬ婆と見上げる欠けた月 [暮らしの手帖]

gessyoku2_1.jpg 昨日の皆既月蝕。近所の道路っぺたで見知らぬ婆さんと世間話をしながら月蝕を楽しんだ。皆既に至る直前に南からの雲で覆われ、乱反射で「赤銅色」に照る月蝕は見られず。

 自分のブログ・アクセスを見たら、2011年12月10日の月蝕を記した頁が閲覧されていた。「冴える月欠ける節理の寒さ哉」なる駄句を添え「次の皆既月蝕は2014年10月8日、それまで生きているだろうか」と記していた。

 特別な写真が撮れたワケでもなく、今日はブログをお休みと思っていたが「2014年10月8日まで生きているかどうか」と記していたので、「大病もせず、無事に生きてい、名も知らぬ婆さんと月蝕を楽しんだ」ことをアップしておくことにした。次の皆既月蝕は2015年4月4日。


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十五夜も灼くる陽を借りなほ妖し [暮らしの手帖]

supermoon_1.jpg 九月も最後です。昨日、秋の蝉が悲しく数回啼いた。幾羽ものヒヨドリがやって来た。都会の僅かな緑で夏から秋への交代シーン。それにしても日本の夏は亜熱帯化した。熱中症の危険、熱帯系毒蜘蛛、デング熱媒体の蚊、予想外の自然災害多発。加えて犯罪の凶悪化、あたしは老人貧困破綻か。まさにサバイバルのこの頃です。

 パソコン「ピクチャー」に、まだ暑かった九月九日の満月写真が残っていた。当日は月の楕円軌道が地球に最も接近する満月「スーパームーン」。その前日が中秋の名月・十五夜だった。夜の「スーパームーン」は白く大きく輝いていたが、六時頃に昇り始めた月は、妙に赤く妖しかった。

 その満月写真に駄句を添え、パソコン内保存の夏の写真を削除して、気分も生活も秋モードに切り替える。月写真右下部に横切ったジェット機後部が写っていた。シャッターチャンスに遅いのは歳のせいだろうか。


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メス入れて老の眼が見る秋の街 [暮らしの手帖]

IMG_5952_1.JPG 八年前に右目の白内障手術を受けたが、左眼も次第に悪化した。夜になると、街のネオンや車のヘッドライトが眩しく拡散する。かくして八月末に左眼も白内障手術に相成った。

 最寄りの眼科の紹介状を携え、新宿は歌舞伎町とラブホテル街の狭間に建つ「大久保病院」へ通った。執刀は青年医師。手術室に約二十分間。術後は一泊ながら初入院で、病院で一夜を過ごした。

 片目眼帯のまま、病室備えの文庫本より、藤原伊織『テロリストのパラソル』を読んだ。新宿中央公園の爆弾爆破事件に、東大全共闘出身のアル中バーテンダーが挑む。小説に「大久保病院」も出てきた。主人公が働いていたバーも、若き日に事務所を設けた辺り。新宿舞台の小説は、新宿在住者には妙に身近な感がする。

 翌朝の検診後、眼帯を外して人工レンズになった眼で初めて観るは、十五階病室から眼下に広がるラブホテル街と歓楽の歌舞伎町だった。

 長らへてクリアーな視力を復活させてくれた眼科手術。八年前の右目白内障手術に当たっての不安は、曽野綾子の手術記を読んだりしたものだが、今は同世代の老人の誰もがと云うほどに、同手術を気軽に受けている。

 『馬琴日記』には、眼鏡誂えの苦労、失明後の苦労が記されている。江戸時代の長生き老人らを描いた絵を見ると、丸く太く黒い枠の眼鏡が描かれていたりする。昔の老人らの眼の苦しみ・辛さに、思いを馳せた。


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二重虹二度現れて~ [暮らしの手帖]

akaniji1_1.jpgsiromiji2_1.jpg 台風一過の昨夕、最初は白い太陽を浴びて二重虹(写真右)が、数分で消えて、今度は赤い夕陽を浴びて橙色の二重虹(ふたえにじ)が現れた。

 事件、災害、政治~嫌なことばかり。良い事がありますように。


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スーパー9、路線6、図書館3 [暮らしの手帖]

 土曜日朝刊に、スーパーマーケットのチラシが七店。徒歩圏内のスーパーを指折れば九店舗。先日、若松町「ライフ」へ初めて行った。広く食品大充実。二階は日用品売り場。ついでに若松町「マルダイ」ヘ。店員介入なしの清算マシーンに驚いた。徒歩数分で「三徳」「生協」だが、散歩も兼ねるゆえに他七店に足を運ぶ。さらに言えば魚は小田急ハルク地下「北辰」、野菜は朝採れ「地産マルシェ・小滝橋店」へ自転車を駆る。

 交通面は、徒歩数分で副都心線・大江戸線の「東新宿」駅。戸山公園を縦断して東西線「早稲田」駅。大久保通りで山の手線「新大久保」駅と中央線「大久保」駅。西武線は「高田馬場」。明治通りと大久保通りに都バスも走っている。

 あたしには食や足より重要は書籍で、徒歩十分圏内に「新宿中央図書館」「戸山図書館」「大久保図書館」。蔵書せぬ主義ゆえ、三図書館が自分の書棚と思って活用している。

 それだけ人口密度が濃い。住宅ビルは空に伸びる。大都市集中化と地方市町村の過疎化。地方に「買い物難民」がいれば、都心の昼時は「ランチ難民」「カフェ難民」がいる。

 みんな東京に集まる。テレビ・キー局で働く人、出演する人のほとんどが地方出身者で、紙媒体も同じだろう。芸人成功者は東京一等地の豪邸暮らしで、成り上がり途上の芸人らがテレビに出まくっている。下町のオバさんがテレビのインタビューに応えて言った。「あたしゃもぅテレビは観ないよぅ。だって今は東京の人が出ていないもん」。東京集中化で人が街が組織が日本が、急速に変わって行く。

 下町の祭りで、江戸っ子が神輿を担いでいた。まだ東京っ子、江戸っ子が多そうだが、下町にも高層ビルが建ち続き、やがては新宿辺りと同じになろう。東京生まれより、地方出身者が多くなり、少子化も止まらない。東南アジアの皆さまが大声で闊歩し、我がマンションも半分が外国の方。商店街スピーカーも異国語。副都心は早やコスモポリタン、経済はグローバル。

 失われゆく江戸の面影に、恋しさが募る。さぁ、明日は下町に江戸を探しに行こっ。


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長らへて又新たなる老い眼鏡 [暮らしの手帖]

megane2_1.jpg 眼鏡のコーティング膜がボロボロで、眼鏡を新調した。フレームが二万三千円、レンズが一万六千円。高いが、ひと頃から比べると、ずいぶん安くなった。検眼をすると、度数を下げてより良く見えた。「うひっ、眼が良くなっている」 右目は白内障手術済で無調整人工レンズになっているが、眼球全体が遠視方向に向かって近眼が少し直っているらしい。老いてフィジカルが良くなるとは、なんだかうれしい。

 没にした眼鏡は、二〇〇七年の白内障手術後に作ったもの。五万円を超えただろうか。使用レンズが決定した後で、ド近眼の渦巻きレンズを薄くするに従って、加えてUVカットだ、傷が付きにくい、埃が付きにくい処理などのオプションを選ぶ度に、値がドンドンと上る。眼鏡屋は油断ならねぇ。

 その後に白内障手術後の経緯と眼鏡の按配が悪く、二〇〇九年にパソコン・ディスプレイと手元用の遠近レンズ、つまり「デスクワーク用眼鏡」を作った。これは手持ちのサングラス・フレームにレンズを嵌めてもらって三万円。眼鏡屋は「仕事用眼鏡も新調しましょう」と云うが、酷くなる一方の左目の白内障手術の方が先のように思っている。

 もっと長らへば、眼も歯も〇〇も共に意識スイッチで自在変化する人工化・・・そんな時代が来るかもしれない。


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Windows 8.1と荷風と [暮らしの手帖]

newhp_1.JPG パソコンを新調した。HP製でWindows8.1搭載。在来機内容を新機へ移植するは難しく、息子の手を煩わせた。満足に操作できぬのに新パソコンの隠居爺は、息子には「冬の蠅」だろう。

荷風句に「長らへて~冬の蠅」があったはずとネット検索すれば、自分の記事がヒットした。記事題名が「新パソコン長らへて冬の蠅」。同記事は201010月に「HP製パソコン+三菱20インチモニター」の新体制になった時のもの。約3年半で買い替え。次の買い替えまで生きていられましょうか。

上記記事であたしは、荷風句「長らへてわれもこの世を冬の蠅」を、子規句「うとましや世にながらへて冬の蠅」のもじりと記していた。もう一件ヒットの記事では、…荷風句は其角句「憎まれてながらへる人冬の蠅」が下敷き…と記す半藤一利『其角俳句と江戸の春』の記述を紹介し、加藤郁乎『俳人荷風』の…正しくは「ながらふる人」だろう、の記述も紹介していた。

 それはさておき「Windows7」から「Windows8.1」へ馴染むは、隠居爺には辛い。ついでにプリンターも新調したが、新パソコンとプリンター接続に四苦八苦。さて「8.1」は便利になったのかしら。まず「フォト機能」。今まではキヤノンの画像ソフトばかりだったが、「8.1」の機能で「色・露出・効果」などにトライしてみた。

 

自然光で複写撮影をよくするが、天候次第で絵が青味がかる場合が多い。これをキヤノン・ソフトの「明るさ・コントラスト」などで調整していたが、「8.1」では「露出の調整」「色の調整」「傾きの調整」「詳細の調整」がコントロールバーで変化を見ながら行える。特に「傾きの調整」は画に方眼が現れ、コントロールバーで微細調整ができるのがうれしい。従来は撮影時にファインダーより水平に気を付けていても微妙に傾いていたりするが、この機能でお好みに調整できる。これからは多少アバウトに撮っても大丈夫になった。また「修整」機能で、この写真のモニター下にあったメモをクチュクチュと消してみた。そんなわけで「8.1」の映像ソフトをいじるのが楽しみです。


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犬の眼にわれ堕ち行くや好々爺 [暮らしの手帖]

oto1_1.jpg 共稼ぎ若夫婦の許で暮らしていたコッカースパニエル。若夫婦に待望の子が産まれ、彼らの愛犬をしばし預かることになった。今まで日々淋しく留守番を強いられていた犬が、始終家にいる隠居のあたしから片時も離れぬ。

 

 週末のみではなく毎朝夕の散歩が日課になった。犬の野生とばかりに公園の山坂を小走りする。雪降れば処女雪を疾走す。あたしは椅子に胡坐でパソコンに向かうが、その胡坐にも座り込む。満足にパソコン遊びもできず、くずし字の筆も持てぬ。寝るも同じ布団の上だ。

かくしてあたしは我を失い自分の生活を捨て、犬の友と化した。孫の相手より先に、犬相手の好々爺に成り下がってしまった。


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コゲラ見て隠居暮らしの走馬灯 [暮らしの手帖]

110kogera1_1.jpg 最初にコゲラを撮った時は、本当に感動した。確か秦野・権現山だった。「あんなもんが珍しいんか。そこらに居るじゃないか」と鼻の先で笑われた。コゲラとは云えキツツキ。珍しいじゃないか。だが鳥撮りを始めれば、確かに彼方此方で眼にし、別に珍しい存在ではなくなった。

 

 同じく東京生まれのかかぁに、新宿御苑のコゲラを見せに行った。閉園まぎわの夕間暮れ。もう誰もいなくなった公園のあたしたちの頭上の木々で、コゲラらが飛び交っていた。あたしらは天を仰きつつ、彼らを追ってグルグルグルと回り続けていた。

郊外電車に乗って鳥撮り遠征へと早朝に家を出た。なんと大久保の自宅マンション前の街路樹にコゲラがいたではないか。自宅前でバッグからカメラを取り出してしまった

間違えると死ぬまでワーカホリックで、近所にコゲラがいることも知らぬまま人生を終えるところだった。改めて、のんびり暮しの隠居になって良かったと思う。コゲラを見ると、コゲラを見たあの場所あの時の情景が次々に浮かんでくる。


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へっつい考9:宵越しの銭は持たねぇ [暮らしの手帖]

fukagawahettui2_1.jpg 『馬琴日記』には、江戸中の火事が詳細に記録されている。馬琴は物語作家。つまりは「居職」なのに、彼の耳には江戸中の火事の火元、類焼状況が瞬時に届いている。「火事」は江戸で別格扱い。情報伝達のシステムが庶民の間にもしっかり構築されていたと想像される。ちなみに神田明神下同朋町在住時の文政十一年正月の日記をひく。

 

「今夜九時、浅草花川戸辺より出火、頗延焼ニ及ぶ。右出火中、山崎丁辺出火、大風烈(はげしい)中、飛火所々ニ燃付、広徳寺前・三味線堀・三筋町・鳥越・蔵前・天王橋・天文台辺まで延焼。天明前火鎮ル」その四日後の日記。「一昨夜九時前、青山辺出火。至暁、火鎮る。夜五時前、小石川三百坂下出火。暫ニして鎮る」。青山と小石川の火事が記録されている。

 

 『馬琴日記』から火事記録をピックアップすれば、貴重な「江戸の火事データ」がまとめられよう。江戸に火事が多いのは、日本家屋ゆえ。また百万人都市・大江戸の七割の町民が九尺二間3坪の、また5坪の長屋に住んでい、猫の額ほどの土間の「へっつい」で煮炊きをしていたことも挙げられよう。写真の「へっつい」に薪の炎が燃え上がる図を想像していただきたい。これで火事にならぬワケがない。

 

 馬琴には、大田南畝の妻妾同衾を含め「人生の三楽は読書の好色と飲酒」といそぶいたような「粋人」の味わいはない。山東京伝のように最初も二度目の妻も遊郭上がりという「不良気」もない。頑固な家父長、堅実・倹約、勧善懲悪一筋の物語で「つまらん男よ」とも揶揄されているが、江戸の火事を全記録した点では、江戸文化の根源に触れていると言っていいのかもしれない。

 

 「火事とケンカは江戸の華」だが、火事になれば材木屋は大儲けし、大工も左官屋も瓦屋も指物師はじめの多くの職人らがそれで潤ったのも事実。江戸庶民の逞しさよ。しかし、失う物も大きい。「地震、雷、火事、親爺」。この言葉には、地震や雷に比して火事は親爺級の怖さ…という解釈もあるとか。

 

 江戸の放火は、馬で市中ひきまわし後に「火あぶり刑」。だが失火については、住宅事情から寛大にならざるを得なかった。失火の火元は焼失程度によって十日から三十日の「押込」(幽閉)程度で、焼失範囲が広いと家主、地主なども同罪の連帯責任。町火消制度も江戸ならではのものだろう。

 

 「江戸っ子の生まれそこない金を貯め」。江戸っ子は「宵越しの銭は持たねぇ」。江戸の粋・意気・鯔背をはじめの江戸文化の源に、裏長屋の「へっつい」ありと睨んだ。詰めが甘いが、この辺を一応の結論として「へっつい考」を閉じ、気が向いたらまた追加する。


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へっつい考8:荷風の七輪 [暮らしの手帖]

stove1_1.jpg 裏長屋の「へっつい」に薪が燃える図を想えば「よくもまぁ、火事にならないで…」と心配せずにはいられぬ。あたしも伊豆大島ロッジで、二十余年も薪ストーブを愉しんできた。しかし冬の強い西風が直接ロッジを襲い(防風林が伐採されて)、吹き飛ばされるかの恐怖。そんな強風下での薪ストーブ使用が怖くて「冬の島暮し」を止めた。

 

晩秋や早春に、待っていましたとばかりに島暮し。だが時に冬と同じく強い西風に襲われる。大気乾燥で未だ冬木立。そんな時は火の用心で熾火の控えめな薪ストーブになる。まぁそんなこんだで薪ストーブを盛大に燃せるのは雨天のみか。「寒もどし熾火加減の肴かな」。

 

 火は好きだ。高校時代は山岳会で野営、三十代でちょっと変な「野営ダイビング」教室、40代後半からの薪ストーブ。さらに振り返れば幼き頃より「火」あり。母が茶道師匠で、畳に「炉」が切ってあり、季節が変われば「風炉」になった。茶道用の炭(菊炭)や白い枝炭(貝粉を塗る)。そして当時はどこの家には火鉢、炬燵あり。火箸、灰ならし、五徳、十能、火消壺、火熾し器。豆炭はアンカや置炬燵に、炭は掘り炬燵や火鉢で使っていたかに覚えている。

 

そう、大島の地は弥生遺跡跡。稲作せぬ弥生人らの火を囲んだ生活も浮かぶ。火は恐怖と癒しあり。文明で文化でもあり。永井荷風も火が好きだったとみた。『断腸亭日乗』に麻布・偏奇館が東京大空襲で炎上する数ヵ月前のこと。興味深げに石油缶の煮炊きをスケッチしている。「くずし字」混じりの文は…石油鑵またバケツの古き物のところどころに風入の穴を穿(うが)ちて飯をたく。竹頭木屑(ちくとうぼくせつ)を集めて燃すなり。谷町裏長屋にて見るところを描くなり。

 

kafumaki2_1.jpg荷風さん、石油鑵の竈を他人事のように書いているが、十日前の日記に「晝の中は掃塵炊飯にいそがし。炭もガスも思ふやうに使ふこと能(あた)はざれば板塀の古板蜜柑箱のこはれしなどを燃して炭の代りとす。案外に時間を要すなり。朝十一時頃に起出で飯をたきて食し終れば一時過なり」。竹頭木屑の飯炊は自身の姿でもあった。

 

炭もなく、水や電気のライフラインも止まった生活が戦後も続き、市川に移転後はすっかり七輪愛好者になっていた。「雑誌二冊で結構飯が炊けます」(秋庭太郎著『考證永井荷風』)で、部屋の中に七輪を持ち込んで火を熾す。岩垣顕著『荷風片手に東京・市川散歩』を見たら、小西茂也宅に間借りした際の、畳の部屋内で七輪のまわりに食材をずらっと並べて料理する荷風さんの写真が載っていた。部屋ん中で煮炊きし、こっそり書いた妖し原稿をも燃やしたのだろう。周りの人々を「火事にならぬか」とヤキモキさせていた。

 

 

 火はいい。裏長屋の熊さん・八っつあんも、悩みを胸に秘めた晩などチロチロと燃えるへっついの炎を見つめて心を癒した時もあろう。(次回で終わる)


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へっつい考7:馬琴と薪 [暮らしの手帖]

kazaminenryouten1_1.jpg 次は『曲亭馬琴日記』第一巻より「薪」の記述を拾う。

<文政十年正月五日> 野田や又兵衛より薪差越候へ共(さしこしそうらえども=送ってよこしたけれども)、旧冬よりいたし方甚不宜(はなはだよろしからず)ニ付、返シ遣(つかわ)す。依之(これによって)、予、白川やへ罷越(まかりこし)、堅木若干可差越(さしこすべく=送らせるべく)旨、申付おく。其後、野田やより、勧解(和解の意)いひ訳ニ来ル。来客中ニ付、此旨承り置、後刻、告之。其後、予、白川やに罷越、薪注文申付。昼頃、堅木八足持来。今日わり人不来ニ付、八足ハわり候て、明日昼前迄二差越候様、申付遣ス。

 

 …野田屋又兵衛より薪が送られてきたが、昨年の薪も良くなかったので送り返した。白川屋に薪の注文をした。野田屋が言い訳にきたが、来客中だったのでその旨を聞いておいた。その後、白川屋が八束持って来た。薪割り人足がいないので、明日昼までにすべてを届けるように言ったと記してある。当時は薪割り人足がいたらしい。あたしも薪割り二十年のキャリア。江戸時代に戻れば薪割職人で食ってゆけそう。次にこんな記述をひろう。

 

<文政十年六月十一日> 清右衛門来ル。火地炉三百五十銅ニてかひ取よし。申之。しつくいつけさせ、上張候様申付。<文政十年六月十五日> 夕方、清右衛門方より、火地炉出来、人足ニもたせ来ル。…おぉ、馬琴さん火地炉を350銅(朱と同じ)で買ったらしい。「地炉」は地上または床に作った炉、囲炉裏か竈か。どんな物を拵えてもらったのだろうか。興味湧きます。

 

 何で読んだか、江戸には1200軒ほどの炭薪問屋があったそうな。今ではホームセンターでバーベキュー用の薪・炭を売っているが、どっこい日本橋浜町「明治座」前に戦前からの薪炭問屋「風見燃料店」が頑張っている。時にマスコミ登場で、昨年1125日の「東京新聞」にも5段記事で紹介されていた。同記事によると昭和9年に三ノ輪で創業。その後、現在地の隣に移転。戦災で現在地に移ったとか。終戦後は薪や炭は生活必需品。復興と共の大繁盛。ガスや灯油が安く出回って同業者は次々廃業。薪や炭を買うのはせんべえ屋、煮豆など。

1970年代に暖炉付き住宅が登場して、薪が少し売れ出した。そして今は都内に彼方此方に出来た石窯を置いたビザ屋出現で、一手に需要を担っているそうな。年商三億円のうち、薪は一億円とか。あたしも大島ロッジの薪がなくなった時などは、ここで買って宅急便で島に送ろうかとさえ思ってしまう。

  

 子規句「薪をわるいもうと一人冬籠」。芭蕉句「消炭に薪割る音がをのの奥」。おまけに拙句「薪作り巡る季節に想い馳せ」。それにしても、あの裏長屋の竃で薪を燃やすに、火事の怖さがヒシと伝わる。(続く)


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へっつい考6:馬琴と炭 [暮らしの手帖]

bakinsiseki1_1.jpg 塩原太助の炭屋独立から約150年後の江戸「炭」事情を、『曲亭馬琴日記』(中央公論社2009年刊)から伺う。四巻までが文政九年十一年から嘉永二年五月までの日記で、第五巻が詳細索引。一巻より炭の記述をひく。

 

<文政十年六月十九日> 堅炭の粉多く有之候二付、お百、炭団製之、数十出来。…馬琴の妻・お百が炭粉が多くあったので炭団を作ったとある。北斎漫画に「炭団づくり」の絵あり。そこからお百の姿も浮んでくる。

 

 <文政十年八月廿五日> 杉浦老母申越候は、会所に炭置候由。即刻、日傭を雇、取ニ遣シ候所、最早売切候由にて、空手ニて帰り来、日傭賃少々遣之。…炭などの必需品は炭問屋だけではなく、町会所も関わっていたことがわかる。

 

 <文政十年十二月十五日> 過日、伊兵衛、寒中為見舞罷越候節(かんちゅうのためみまいまかりこしそうろうせつ)、炭之事約束被遊候ニ付(すみのことやくそくあそばされそうろうにつき)、当九日、本湊丁(町)松本三郎治、炭一駄八俵来ル。右代金弐両四匁弐分八厘、今日、取ニ来ル。御払被遣候(おはらいつかわされそうろう)。尤、松本三郎治請取書、笹屋より持参、取置。

 

bakinniki2_1.jpg 「一駄」とは馬一頭に積める荷物の分量。八俵とは左右に三俵づつ背に二俵か。いや馬が荷車を牽いてきたか。料金は二両四匁弐分八厘。さぁ、金勘定に疎い頭ゆえどうしよう。江戸時代後期は1両=約5万円=銀150匁=銭10貫文。二両四匁=3004匁+二分八厘。細かい処は省略で現代物価で約10万円、1俵=12500円か。

 

 ちなみに裏長屋の一ヶ月店賃(家賃)が五百文(約12500円)から八百文(約20000円)。庶民の1日の稼ぎは居職350文、出職410文。1日の稼ぎは現代物価で約10000円。ここから炭1俵は出職1日の稼ぎと判断していいか。 また年末には「歳暮為祝儀、桜炭弐俵」とか「歳暮炭代として金壱朱被遣之」等のやり取りもあり。江戸時代の燃料で安かった順は<炭団→薪→炭>だろうか。

 

炭は冬の季語。枝炭、消炭、助炭、炭売、炭頭、炭竈、炭俵、炭斗(すみとり)、炭焼、花炭、炭火、石炭、当り炭、起炭、駱駝炭、炭荷、固炭、獣炭、白炭、炭手前、飾炭、管炭、輪炭、胴炭、点炭…。円朝「塩原多助一代記」に炭言葉を羅列の面白い「序詞」がある。

 

好きな炭の句を幾つかあげる。一茶「炭もはや俵の底ぞ三ケの月」。島田青峰「眼伏せて炭ついでゐる無言かな」。蕪村「炭うりに鏡見せたる女かな」。日野草城「見てをれば心たのしき炭火かな」。加藤重吾「炭売のをのがつまこそ黒からめ」。次は「薪」について(続く)


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へっつい考5:塩原多助の「計り炭」 [暮らしの手帖]

tasuketadon_1.jpg 大空襲後の東京の燃料事情は、江戸の裏長屋と似たようなもの。ガス復旧までは、江戸の熊さんと同じく拾った木屑を七輪で燃やしての煮炊き。しかし熊さんに米はあるも、東京っ子は日々「すいとん(水団)」だった。熊さんは炭の粉を団子にした「炭団(たどん)」も作りまた買ったろうが、明治以後は石炭の粉を固めた「豆炭・練炭」が主になった。祖母が台所外で「七輪+練炭」でよく煮物をしていたのを覚えている。

 

「炭団」と云えば塩原多(太)助になる。ネット上には「塩原太助が炭の粉に海藻をつなぎとして丸く団子にした炭団を普及」とあり、それを売り歩くと「多助どん、たぁどん、たどん(炭団)」になったとあった。

 

本当かいな。これらの出典元は探せぬ。「百科事典」「大辞林」をひけば、炭の粉を固めた「獣炭」は平安時代からで、「たどん」は鎌倉時代から庶民の燃料として使用されたとある。塩原太助以前から炭団も炭団句もあり。『芭蕉七部集』(1732年)に尾張商人・高橋羽笠(うりつ)句に「萱家まばらに炭団つく臼」。他に上田鬼貫句に「雪の降夜握ればあつき炭団哉」。蕪村句に「炭団法師火桶の窓から窺ひけり」などがあった。

 

そんな江戸の燃料事情が多少でもわかればと『円朝全集』(岩波書店刊)「塩原多助一代記」(明治11年初演、明治18年に速記本行)を読んでみた。ここにも「多助が炭団を発明した」なんてことは書かれていない。炭がらみ記述をひろってみた。

 

多助は「青の別れ」の後に江戸に出て、進退窮まって昌平橋で身投げをしようする所を、神田佐久間町河岸の炭問屋山口善右衛門に助けられた。恩義を感じて給金なしで働く。奉公11年目は明和8年(1771)で31歳。独立祝儀と貯めたお金で計三百両。そのまま預け置き、25両をもらって本所相生町で店を持った。まずは奉公10年の間に拾い集めた粉炭の「計り炭」商売から。文章が面白いのでひく。

 

…貧乏人には壱俵買は不自由な訳で。中々一俵は買へねへもんでがんすから。冬季などは困つて睾丸(きんたま)火鉢の中へ消炭抔(など)を入れ。プウプウと吹いて慄(ふる)へながら一夜あかすものが多い世の中で。裏店や。何かで難儀して居て一俵買が出来ねへで困つて居るものが有りやんすから。其様な人に味噌漉に一杯。高いか知りやせんが。七文か九文に売りやんせば大(でか)く益になり。買ふ人も寒さを凌げるから助かりやすゆゑ。是を創(はじ)めたら屹度繁昌しべいと思ひやす。

 

つまり粉炭(粉ではなく欠けた炭)を籠に入れ「計り炭はようがんすか。味噌漉に一杯五文と七文でがんす」と歩きながら売った。速記本の画は梅蝶楼国峯。絵にはちゃんと味噌漉の笊も描かれている。まぁ、他に諸々あって商売大繁盛。巨財築いて「本所に過ぎたるものが二つあり津軽屋敷と炭屋塩原」とまで言われた。私財投じて「塩原橋」(墨田橋下流左岸の竪川の隅田川より二つ目の橋。両国回向院裏)も架けたとか。次は『曲亭馬琴日記』から江戸の燃料事情を探してみる。(続く)


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へっつい考4:長屋の朝 [暮らしの手帖]

futatuhettui2_1.jpg「へっつい」の使用状況はどうだったか。中江克己著『見取り図で読み解く~江戸の暮らし』より引用する。余談だが、若い時分に氏の取材チームで短期間働いたことがあって当時が懐かしい。

 

 …長屋の朝は明六つ(午前六時)、路地口の木戸が開いてはじまるが、多くの人はすぐ朝食の支度をする。一日分の飯を炊き、木製の飯櫃にいれておくが、朝食は暖かい飯に味噌汁、漬物というのが一般的。納豆があれば、いいいほうだった。昼は残りの飯と味噌汁。夜は野菜の煮物、焼き魚、煮物屋の惣菜。または屋台で済ませた…と書かれていた。これは中江著に限らず、江戸暮らし本の多くにそう書かれている。これも出典元は『守貞漫稿』だろうか。

 

 さて煮物、焼き魚、惣菜作りは「七輪」でも可だが、飯炊きはやはり「へっつい」だろう。コツは「始めちょろちょろ中ぱっぱ赤子なくとも蓋取るな」。これまた高校時代に社会人山岳会メンバーだったゆえに、焚火で飯盒飯のコツも身についている。

 

山登り当時の火付けは「マッチ」だった。ネット調べをすれば「マッチ」量産は明治前期で、国産100円ライターの普及品「チルチルミチル」が出回ったのは昭和50年(1975)頃。その間はずっとマッチが主役。また余談だが、小雨降る河原の野営で、あたしはマッチ2本で火を熾し、その技が自慢だったことも思い出す。しかし今は「マッチ」をとんと見ぬ。我が家からも姿を消した。ところが先日5日の新聞に「マッチ人気再燃」の記事。使い捨てライターの着火レバーが重くなるのを嫌った高齢者、災害備蓄、アウトドアブームが要因で出荷量がプラスに転じたとか。

 

本題に戻る。裏長屋「へっつい」の付け火はどうしたか。火付け道具は「火口箱(ほくちばこ)」に収まっていた。「火打石(石英などの硬い石)」「火打鉄(鋼鉄片)」そして「付木」。火花を発して「火口(ほくち)=ガマの穂綿や草の茎など」へ移し、カンナで削ったような薄い板の先に硫黄を塗った「付木」に着火。そして粗朶から薪へ…。

 

長屋ゆえ、そんな面倒くさいことをせずに気軽に隣へ火種を貰いにも行ったかもしれない。火力を増すには「火吹竹」を使う。朝餉が終わって残った薪(炭)は「火鉢」「長火鉢」「消壺」へ。灰は同じく竹製「とこまさらえ」で掃除だろう。(続く)


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へっつい考3:へっつい幽霊と左官職人 [暮らしの手帖]

hitotihettui_1.jpg へっついと言えば、落語「へっつい幽霊」が浮かぶ。あたしは志ん朝ファンゆえ、彼の「へっつい幽霊」を記す。ちくま文庫の『志ん朝の落語5』の解説に、もとは上方噺で、その趣きを残していたのは三代目桂三木助と六代目三遊亭圓生だった、とある。若旦那と熊さんとへっつい幽霊がからむが、志ん朝のは短縮した噺になっている。元は上方噺だから、この噺と浅草「へっつい横町」を結びつけるのは間違いだろう。志ん朝の短縮版をさらに短縮してみよう。

 

 「こりゃ、いい竃だ。買った」「ただでお譲りします。その代り、後で気に入らねぇってんで、お戻しになっちゃいやですよ」ってぇことで、その竃を据えた丑三つ時、薪もくべないのに、竃から幽霊が出やがった。「怖かねぇぞ。何んで出やがった」「あのぅ、相談が…」「幽霊が相談だと」「あたしは左官職人で博打がでぇ好きだった。首が回らなくなって、これが最後の博打。そしたら二百五十両も勝っちゃった。竃をこさえて二百両を埋め込んだ。残り五十両あるから毎晩呑んだ。そんな或る日、酔い潰れてドブん中に頭ァ突っ込んで死んじまった」「で、二百両が気になって化けて出たか」「えぇ、幽霊になって手に力が入ぇらねぇんで、この竃を壊して金を出していただきた」「いいよ、その代り山分けだよ」。バンバン!「やっ、ほんとに金が出てきた。さぁ、おめぇが百両、俺が百両だ」「それを賭けませんか」「おぉ、そこまで博打が好きか。よし、コロコロっと。半で俺の勝ち。二百両いただきだ」「もう一度勝負を」「てやんでぇ、てめぇには、もう金はねぇ」「いえ、あっしも幽霊。足は出さねぇ」。

 

 ここから、竃作りは左官職人の仕事とわかる。ケヤキの台はむろん大工仕事。竃と台の間に平瓦を敷いたらしい。竃が壊れると、長屋仲間や出入りの左官職人が直したが、「へっつい直し」の掛け声の流しもあったそうな。これにはワルがいて、直してから法外な金を要求したとか。今も庶民が庶民を騙す情けねぇワルがいる。★「とか」「らしい」表現は、証拠文献に至っていないゆえで、わかれば後日に訂正。(続く)


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へっつい考2:『守貞漫稿』の竃 [暮らしの手帖]

hettuiinnsatu1_1.jpg喜田川守貞著『守貞漫稿』は、天保8年から30年間に及んで江戸文化を京都・大阪と比較しつつ絵入りで解説された全35巻の類書(百科事典)。復刻版が1981年に東京堂出版より刊。そこから「竃」の項を探した。

 

まずは『京坂竈之図』(図は俗字=くにがまえの中にムと面で、その略字)を読む。手書きの「漢字+カタカナ」文。読むも難儀だが解読を試みた。

 竈ヲ俗ニ「ヘツイ」ト云。又訛テ「ヘッツイ」ト云也。図ノ如キヲ「三ツヘッツイ」ト云。竈口三アル故也。家内人数三五口ノ家、大略(たいりゃく)用テ(カタカナのくずし字のテ)、多人数ノ家ニハ、竈口五口七口九口等アリ。五ツヘッツイ七ツヘッツイト云也。竈土色黄也、黒ヌリ無て、又銅竈ヲ用ヒズ。又京坂ノ竈ハ場ヲ間ニ、床ヲ背ニス。江戸ハ反也。又図の如ク鉄漿壺(てっしょうつぼ=おはぐろの液の壺?)ノ坐アルコト(コト=カタカナの合字)必ズトセズ。不潔〇者亦多有て。又竈口ノ前及ビ竈底等平瓦ヲ敷ク。竈口ノ周リモ亦瓦ヲ用リ、又竈臺多クハ杉材也。

 京坂と江戸の竈の大きな違いは、京坂が床向きで、江戸は床に腰かけて壁向きに設置。また江戸の竃は黒塗りが多く、鉄漿壺もなし。

 

 次に『江戸竈図』 俗ニヘッツイト云。銅竈ヲ銅壺ト云。江戸ノ竈ハ、必ズ場ヲ背ニ床ヲ前ニス。人数ニ三人ノ者、専ラニツ竈ト云、火口ニ所。下図ノ如シ。六七人家内人数ノ家ニモ用テアリ。多人数ト雖(いえど)モ、竈口大略三ツ竈也。(以下略)。

 

hettuiinsatu2_1.jpgそして文章のみの説明。…前図ノ如ク石台竈アリ。多クハ槻台(槻=き、つき。けやき種。ツキダイ、キダイ。図にケヤキとあるからケヤキダイと読んでいいのか)也。又極小戸ハ下図ノ如ク全ク土製竈ヲ用ヒ、多クハ銅壺ヲ土竈ニ交ヘ製ス。上図ノ者ハ大釜ノ所。土竈一口其他銅壺二口アリ。此図ノ銅壺三ケヲ合テ二口ヲ備フ。此中銅壺ヲ分銅ト云。(略) 銅壺ニハ水一盃ニ盛ル。竈ノ焚ク火気ニテ壺中ノ水モ湯トナル。〇水及び諸具及び衣服洗濯等、此湯用也。鍋釜を掛る口の四隅に小口を設け、柄〇を以て台中の湯を汲む備ふ。又土竈を交えず全竈銅壺の者あり。是を惣銅壺と云。

以下略だが、江戸の長屋は狭いので竈を失くして七輪を用いるの意が書かれていた。江戸の暮しを紹介する多くの書の出典元が、同著と推測される。(続く)


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へっつい考1:裏長屋の竈 [暮らしの手帖]

hettui6_1.jpg 伊豆大島で薪ストーブを愉しむゆえに「囲炉裏」や「竈(へっつい)」にも関心あり。生田緑地の「日本民家園」、小金井公園内の「江戸東京たてもの園」、伊豆大島「郷土資料館」などの<古民家の囲炉裏・竈>を見てきたが、江戸は裏長屋の「竃」も気になる。過日、天保5年(1834)の大火事「かわら版」を筆写して、なおさら気になってしようがない。

 

自転車で「深川江戸資料館」へ。ここには天保年間(18321844)の深川佐賀町の表長屋、裏長屋が再現されている。裏長屋は九尺二間(間口九尺約2.7㍍)、奥行二間約3.6㍍)の3坪、または5坪。「ぼて振りの政助」「木場の木挽き職人・大吉」は三坪の4畳半。妻子持ちの「つき米屋職人・秀次」や「三味線お師匠さん」の部屋は5坪か。この竃で薪をメラメラ燃やせば、火事にならぬわけがなかろうに…。

 

写真撮影可で、各部屋の「竃」を撮らせてもらった。粘土を固めた炉周りが、なんと木製ではないか。火が直接あたる部分に銅板が覆ってあるだけ。竈は一つと二連のもの。さらに表長屋の船宿「相模屋」は料理も供したか、全銅板で覆った工芸品のように立派な二つ炉の竃だった。

funayadohettui1_1.jpg同館ガイドさんに「煙はどうしたんの」と訊ねれば、軒下の「無双窓」を教えてくれた。三寸(約9センチ)巾の板の二枚重ねの開閉で風を出し入れ。またひさし屋根に縄で開閉の天窓(煙り出し穴)もあり。竃の上には鍋と釜。脇に水瓶、水桶、流し台(どぶ溝あり)、七輪、火吹竹など。部屋が狭いために上り框に腰かけての作業だろう。

 

これら竈については『守貞漫稿』に詳しいとか。江戸後期の生活記録風の全30巻。それを3冊に収めた復刻書あり。また江戸暮らしを克明に記した『馬琴日記』に炭や薪についての記録があるかもしらん。まずは『守貞漫稿』をひもといてみる。(続く)


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凶暴な猛暑のけふも日暮かな [暮らしの手帖]

aretanki2_1.jpg 連日の猛暑。ゲリラ豪雨あり、竜巻あり。もう日本の夏に風情情緒なく、その苛酷さに耐えるだけになってしまった。熱中症警戒・危険報でお年寄りは外出を控えるように、とテレビが言う。冷房装置の部屋でジッと籠るばかり。それでもどうにか秋風らしきが忍び来てホッっ。

 今夏、かかぁもあたしも体力がなくなったか、幾つかの病気をした。それらも完治し、秋風に誘われて久し振りに3時間ほど自転車を駆った。写真は某日の、いかにも荒々しい猛暑日の夕暮れ。


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あけましておめでとうございます。 [暮らしの手帖]

asahis_1.jpg 大晦日のこと。かかぁが正月料理にちょいと飾る葉っぱが欲しいってんで、戸山公園を歩きました。そしたら「ウソの番」を見ました。「ウソ」は富士山の五合目・奥庭荘で撮ったことがありますが、新宿の自宅前公園で見て、ちょっと興奮しました。「ウソ」はソメイヨシノの蕾を食っていました。

 いつもブログで嘘を記しています。「ウソ」は「鷽替え」です。「ウソ」を見て、嘘や嫌なことをチャラにして、心新たなスタートです。

 年末に一年を振り返る記をと思っていましたが、読書三昧で逸しました。昨年は25期続いた法人会社を清算しました。若い時分に勢いで作った会社ですが、老いて微塵も残らぬ最後のパワーを絞って税理士、司法書士探しからの尻拭い作業。これで帳簿の嘘とも決算期の煩わしさからも解放。名実ともに隠居です。身をきれいにし、家族に迷惑をかけぬよう「死に仕度」でもあります。

 パソコン奥の壁に貼った昨年の図書館貸出票を剥がし数えれば、ちょうど百冊でした。まぁ、よく読んだなぁと思います。隠居して暇ゆえの読書ですが、今年はどんな本(世界)に夢中になれましょうや。本を読めば、その舞台に自転車を駆りました。耄碌したが自転車用筋力だけは逞しくなっています。

 今年も本を読み、自転車を駆るブログになりそうです。月平均のページビュー25,000ほどで累計81万。無視されるでもなく、人気があるでもなく、この「ほどほど」がいいと思っています。当初は野鳥写真中心で始まったブログですが、次第に変化して、どうなって行くかは成り行き任せ。今年もよろしくお願い致します。


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太陽の巡る位置こぞ頼りにて [暮らしの手帖]

yoake3_1.jpg 「天変地異」続き。人の模範たる役人、政治家、教師、警官が今は「悪い人」の代表に堕ちてしまった。いったい何を信じたらいいのだろう。

 冬の間、部屋の中に細長く伸びていた日向が、一気に巾広くなった。ブログのページビュー記録を見たら、東京スカイツリーに朝日が絡む写真が閲覧されていて「アッツ」と気が付いた。吾が家から見て、東京スカイツリーに昇る朝日が絡むのは4月5日前後と9月10日前後だった。天変地異、天候不順、そして人の心がいくら変わろうと、これまた「不変」だろう。

 何もかも狂い出した世に、やはり「不易」は頼もしい。と改めて思った。<太陽の巡る位置こぞ頼りにて>


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