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蓮朽ちて荷風の背中遠くなり [永井荷風関連]

IMG_5145_1.JPG 上野・不忍池の蓮の葉が枯れ朽ち、北風に揺れていた。荷風句に「枯蓮にちなむ男の散歩かな」あり。男はむろん荷風自身。

 永井壯吉は十六歳の時に下谷の帝国大学第二病院に入院し、付き添いの看護婦に初恋。彼女の名が「お蓮」さんで「蓮=荷」で「荷風」と号したは定説。しかし本人は随筆「十六七のころ」に ~東京で治療を受けてゐた医者は神田神保町に暢春医院の札を出してゐた馬島永徳という学士であった。暢春医院の庭には池があって、夏の末には紅白の蓮の花がさいてゐた~ とだけ書いている。

 永井壯吉が「荷風」と号したのは、広津柳浪の門人となり「文芸倶楽部」に『薄衣』を発表の際に「荷風・柳浪」合作名義としたのが最初らしい。(以上参考:秋庭太郎「考証永井荷風」、荷風全集(岩波書店)「第十一巻」「第十七巻」、中央公論「日本の文学/永井荷風」)

 先日、小冊子編集のお譲さん方の原稿が余りにお粗末で、かつ文末に絵文字があったりするので「せめて新聞を読んで見出し、リード文、本文の構成、原稿の書き方、4W1 Hくらいは勉強しろよ」と言えば、「新聞購読はしていません」。あぁ、迂闊なり。今の若い方々が文章に接するのは主にインターネットやメールらしいのだ。あたしも古い人間になってしまった。「荷風さん、日本はすっかり変わってしまったよ」。揺れる枯蓮に向かってつぶやいた。


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蚊を詠ひ風流ならぬ都かな [永井荷風関連]

noiebai1,jpg_1.jpg 昨日の新聞が、代々木公園のデング熱ウィルス媒体のヒトスジシマカはまだ生息中と報じていた。柵で仕切られただけで、かつ湿地も多い明治神宮にもいるだろうし、新宿中央公園にもいたから新宿御苑(19日夕の報道で検出確認)にもいそうだ。

 荷風さんの句には「蚊」が多い。ざっと拾ってみた。「蚊ばしらのくづるゝかたや路地の口」。玉ノ井の情景だろう。「蚊ばしら」でもう一句。「蚊ばしらを見てゐる中に月夜哉」。これまた玉ノ井をさまよっていた時の句か、霊岸島への月夜散歩でか。「路地の蚊に慣れて裸の涼かな」。馴染の女の許に通った宵に詠んだやら。

 『墨東奇談』に出て来るのは「残る蚊をかぞへる壁や雨のしみ」。大岡信が解説している。秋の蚊は弱々しく壁にはりつき、わびしい長屋の壁(亡友・唖々が親の許さぬ恋人と隠れ住んでいた長屋の壁)には、雨のシミがにじんで、古色蒼然となっている。荷風が好んで描いた市井隠逸の情景だと。

 次に自宅で詠んだと思われる「屑籠の中からも出て鳴く蚊かな」「蚊帳の穴むすびむすんで九月哉」「蚊帳つりて一人一ぷく煙草かな」。独り暮らしの寂しさで、蚊はお友達である。

 他に「昼の蚊や石灯籠の笠の下」「世を忍ぶ身にも是非なき蚊遣哉」「世をしのぶ乳母が在所の蚊遣かな」。今は「蚊」を詠めば、情緒どころかデング熱の恐怖が迫る。亜熱帯になった日本に、早く秋が訪れますように。写真は蚊が撮れなかったので蠅にした。荷風さんの〝冬の蠅〟は有名だ。


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荷風さん千疋屋でメジロ飼ふ [永井荷風関連]

mejiro191_1.jpg 過日、荷風の「七輪好き」調べで『断腸亭日乗』を読み直していたら、昭和二十四年十月十三日に以下の記述があり。荷風七十一歳である。

  

 …毎月寄贈の出版物を古本屋に売りて参千余円を得たれば午後銀座千疋屋に赴き一昨日見たり小禽(ことり)を買ふ。籠金八百拾円、小禽金弐千五百円。餌の稗(ひえ)五合にて金百円なり。

 

 ウム、フルーツパーラー「銀座千疋屋」で小鳥を買ったのか。そんなワケはなかろう。「千疋屋」へ行く途中での意かもしれない。さて、何鳥を買ったのだろうか。十月十五日の日乗に「目白も虫も鳴くこと頻(しきり)なり」。買ったのはメジロだろう。番(つがい)を購ったか。

 

今度は六月廿二日。「亀戸電車通精巧舎前に小鳥屋ありて餌も賣る由(よし)聞きつたへ夕方尋ね行きて稗と粟を購う。銀座千疋屋にて購ふよりは倍以上もやすし。」 なんとまぁ、本当に「千疋屋」で小鳥を売っていたことになる。終戦後はなんでもありだったのだろう。それ以後の日乗に、度々「午後亀戸小鳥屋にて稗を買ふ」が登場する。 

 

荷風さん、バッグにメジロの餌を忍ばせて、浅草の裸の踊り子らと遊んでいたらしい。この頃に、踊り子らと某所で幾度も秘戯ムービーを楽しんでいるが、昭和二十七年に文化勲章を受章。身辺がにわかに忙しくなったかで、以後に餌の購入記述はなし。荷風さんが亡くなったのは昭和三十四年四月で八十歳。メジロは何年生きたのだろうか。

 

今は野鳥保護で飼い鳥の多くは禁止されているが、子供時分は我が家でもカナリア、十姉妹、文鳥を飼ったと記憶している。「飼い鳥」は曲亭馬琴の時代も大ブームだった。『曲亭馬琴日記』にはカナリアをはじめの飼育記述が多く、小鳥を狙って出没する蛇と闘う記述もあり。そんな馬琴の飼い鳥を紹介したのが細川博昭著『大江戸飼い鳥草紙』(吉川弘文館)。とても面白い。


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永井荷風『来訪者』二青年その後(2) [永井荷風関連]

haruokafu_1.jpg 前回の続き。佐藤春夫『小説永井荷風』より、例の二青年記述の続きをひく。

 ・・・先生の諒解を得てから連れて行こうと思っているうちに、白井は勝手に先生に電話をして、これからカッフェーでお目にかかると言ってきた。(略)。先生は白井が気に入って、そのうち白井は木場貞(猪場)という相棒まで偏奇館へ引っぱり込んだ。二狡児は原稿の整理を名目に荷風の原稿を多く借り出し、また日乗の副本を作って置こうなどと荷風の手蹟を多く見てその筆蹟を学び、果は共謀して先生の偽筆を多く作って諸方に売り出した。

 驚くべき記述は続く。・・・(荷風が)いつぞや気紛れで書いた『四畳半襖の下張』という春本まがいの戯文の出版を企てているものがいるというのである。(略)。・・・日乗の間に挿み込んで置いたあの原稿は、荷風の推測どおり木場(猪場)が白井(平井)に教えずこっそり入手。木場はそのころ『一葉全集』の編集もしてい、一葉の偽書をもたくさん作って売っていた。(木場が作って売ろうとした)『四畳半・・・』は偽筆と見破られて、(今度は)秘密出版社に売り渡すことにした。

 また『濹東奇譚』には私家版「京屋本」と幻の「大洋本」もあるらしいことは多くの荷風関連書が書いている。その「大洋本」も実は木場(猪場)の仕業らしいのだ。

 加藤郁乎『俳人荷風』の<第二章『濹東奇譚』をめぐりて>は、俳句よりこの辺の書誌が主テーマ。『濹東奇譚』の私家本「京屋本」と「大洋本」には荷風撮影の玉ノ井写真と俳句が掲載されていて、両本ではそれが微妙に違っていると解説し「京屋本」の句を解説。私家本にお目にかかれぬ身には、なんとも苛立たしいことよ。

 この辺の加藤翁の記述は小門勝二『荷風本秘話』の引用ゆえ、同書を読みたく思えば、なんとラッキー、10月1日からの「穴八幡・早稲田古本市」で同書を入手。さらにラッキーは続き、「大洋本」の俳句を紹介・解説の伊庭心猿(猪場毅、木場貞)の<『濹東奇譚』 副題~荷風翁の発句>が青空文庫(著作権切れをネット公開)でヒットしたじゃないか。さっそくプリントアウトし、句に添えられた写真も諸書より幾点かを除いてほぼ推測。愉しみは続く・・・。


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永井荷風『来訪者』二青年その後(1) [永井荷風関連]

 越前堀(霊岸島)調べで、永井荷風『来訪者』再読。同作登場の二青年その後がかなり「注目」ゆえに以下をメモる。『来訪者』は昭和19年2月起稿で同年4月脱稿。昭和21年9月に表題『来訪者』で筑摩書房刊。その内容は・・・

 荷風さん60歳(昭和13年)の時に、34、5歳の二青年がよく訪ねて来た。下谷育ちで漢文雑著に精通の「木場」と、箱崎の商家生まれで英文小説を読む「白井」。荷風は二人に未発表原稿を渡したり、蔵書目録を依頼したりしたが、やがて音沙汰がなくなった。そんな或る日、30年も前に書いた自筆本が偽本として出てきた。彼らの仕業らしい。荷風は白井が蛇屋育ちの未亡人・常子と越前堀に隠れ暮していることを突き止めて訪ねて行く。

hiraiteiiti_1.jpg さて、この二青年のその後。草森紳一『荷風と永代橋』の最後は、こんな記述で終わっている。 ・・・『来訪者』は荷風を裏切った「白井」(平井程一、呈一)、「木場」(猪場毅)をモデルにした小説である。偽作事件で文壇入りの機を失った白井は、女とお岩稲荷の近くの越前堀に住んでいる。(略)。老いて衰えし荷風が「浅草がよい」に妄執する昭和三十三年あたりから、荷風の死んだ翌年にかけて『世界恐怖小説全集』なる異色の翻訳シリーズが東京創元社からつぎつぎに刊行される。世界の「闇」の夜明けである。レ・ファニュの『吸血鬼カーミラ』、ブラックウッドの『幽霊島』、アーサー・マッケンの『怪奇クラブ』等々。そのほとんどが平井程一(呈一)の手になるものばかり。片っ端からわくわくしながら読んだのが忘れられない。その翻訳文には、彼の作家魂がこもっていた。

 これら恐怖・怪奇小説集は多くの青年作家らに影響を与えたらしい。また「小泉八雲作品集12巻」も彼の手によるものらしい。日本文学研究資料叢書「永井荷風」に文学教授蓮執筆のなか、早稲田大学中退の肩書で平井呈一の骨のある格調ある「永井荷風論」が載っていた。

 この二青年は佐藤春夫も絡んでいる。佐藤春夫『小説永井荷風』にこうある。・・・わたくしが偏奇館の木戸ご免になったのをみて、わたくしを通じて偏奇館に近づき、先生を利用しようとする者が書肆や個人でも尠くなかった。白井(平井)も木場(猪場)もひと頃わたくしのところに出入りした文学青年(荷風は佐藤春夫門人と書いている)で、白井は編輯していた「日本橋」という雑誌の原稿を得たいからとわたくしに荷風先生への紹介状を求めた。(続く)


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荷風の中洲(5)「美しい町」 [永井荷風関連]

kawanakasu2_1.jpg 陳奮館主人『江戸の芸者』に書かれた「四季庵」は、窪俊満の浮世絵『中洲の四季庵の酒宴』に描かれている。若旦那と芸者の艶っぽい酒宴図。窪俊満は、ちなみに大田南畝の狂歌仲間。戯号は「南陀伽紫蘭」(なんだかしらん)、狂名は「一節千杖」(ひとふしのちつえ)、雑排名は「塩辛坊」。絵は山東京伝と同じく北尾重政門下。この浮世絵はボストン美術館浮世絵名品展の展示作らしく、題名のネット検索で簡単にお目にかかれる。

 話を今に戻して「新大橋」欄干から当時の中洲を眺めれば、首都高下の埋め立てられた箱崎川を甦らせば中洲だった景色が浮かんでこないでもない。そう云えば佐藤春夫『美しい町』の主人公らが夢見た舞台も、ここ「隅田川の中洲」だった。

 『美しい町』(「美しき町」表記も多い)は、素敵な建物設計に憧れる三人が、そんな家々で理想の町を創ろうと熱中する物語。彼らが選んだ地が司馬江漢の銅版画「東京中州之景」、つまり中洲だった。しかし司馬江漢の銅版画に「東京中州之景」なぁんてぇのは実際にないそうで、佐藤春夫が彼の「中洲夕涼」「三囲之景図」「江戸橋より中洲を望む」などから虚構「東京中州之景」を想い描いたらしい。佐藤春夫は、小説に中洲を図入り(写真下)で説明していた。

 また、どの資料を元にしたのかわからないが川本三郎『大正幻影』(ちくま文庫)の表紙イラスト(森英二郎)は実によく描かれている(写真上)。これは大正時代の中洲か・・・。同書で川村三郎は佐藤春夫『美しい町』、永井荷風『濹東奇譚』について、こんな分析をしている。

satonakazu_1.jpg ともに幻想小説。隅田川を渡って「むこう」と「こちら」。橋は「むこう」でも「こちら」でもない中間。中洲も同じで、しかも「川」でも「陸」でもない。そうした中間性の、不安定性を有したあいまいな領域は「夢見心地になるのが好きな人たちの淡い幻想を見る地点になる」と。

 その意では佐藤春夫の洋館、永井荷風の「偏奇館」もまた夢心地なる人が好きな隠れ家でもあると言及。この「淡い幻想性」は両氏に加え芥川龍之介、谷崎潤一郎も含めた大正作家の特性だと指摘している。しかし今なお隅田川(大川)には幻想に誘う魔力はあって、草森紳一は『荷風と永代橋』を著した(遊んだ)のもそれ故だろう。かくいふ小生も「中洲」を、また越前堀(霊岸島)でしばし楽しく遊ばせてもらった。

 追記:おぉ、これは偶然でしょうか、和歌山・新宮出身の佐藤春夫を除いて他は東京の人で司馬江漢、芥川龍之介、谷崎潤一郎は染井霊園の隣の「慈眼寺」で一緒に眠っている。ウチのバアさんが「巣鴨のお地蔵さんの塩大福が食いたいよぅ」ってんで、自転車で巣鴨へ走った際に「慈眼寺」で掃苔。永井荷風のお墓は雑司ヶ谷霊園で、運動不足の時の自転車散歩コース。


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荷風の中洲(4)淫らな島 [永井荷風関連]

nakazu1_1.jpg 草森紳一『荷風の永代橋』では昔の中洲をこう説明。・・・江戸のはじめの寛永のころは、この一帯は「ミツマタ」といわれ、月の名所だったが、明和に入って、その一部が埋めたてられ、浜町先に「三俣富永町」なる「夢の島」が、とつじょとして生れる。たちまち舟宿や料亭茶屋が「夢の島」に乱立し、近くの両国の客を奪う。吉原が焼けると、ここにもその仮宅がうまれた。

 説明はさらに続く。・・・当時、もっとも人気を呼んだのは、中洲を舟でひとまわりしながら、その中で売春婦と遊ぶこと、つまり「舟まんじゅう」(お千代舟)という陰売形式である。その栄華の夢も、けっこう続いて十九年。ついにお上によって閉鎖を命じられるに至る。(中略) ・・・もとの川洲に戻され、ふたたび埋めたてられたのが明治十九年。いったん消えていた富永町は「淫らな島」中洲町として甦える。あらたな埋め立ての際、浜町(菖蒲河岸)と地続きにせず、左に男橋女橋を架けて、かつての「夢の島」の感覚と情緒を残そうと工夫した。

 草森文の出典元はわからぬが、金刀比羅宮の碑文が表の歴史なら、これは裏の歴史だろう。こう記してひょいと本棚を見れば陳奮館主人『江戸の芸者』(中公文庫)あり。よくもまぁ、こんな本を持っていたもんだ。

 ・・・江戸の女芸者は、吉原の廓芸者と深川遊里の羽織芸者(辰巳の方向ゆえ辰巳芸者)と、中洲あたりの町芸者の三種類にわけることができる。(中略) そして「町芸者の中洲芸者」の章を読めば・・・安永・天明にかけて江戸の町芸者はふえてきた。その典型は中洲の芸者だろう。中洲芸者の群居した中洲は深川に比較すれば日本橋京橋により近かったので、一時はひどく繁昌した。

nakasukouen_1.jpg ・・・安永元年(1772)に馬込勘解由が埋立を願出で、六年に完成して中洲富永町という新地をつくった。この新地には料理茶屋が大川の眺望や船着の便からして十八軒もでき、四季庵がその規模もっとも大きく、大小それぞれ水辺の粋な茶屋としてよろこばれた。しかし安永の頃に、江戸市中で一ヶ所に料理茶屋が十八軒も集まったところはなく、中州は一躍江戸の狭斜の巷となった。(略)・・・他に船宿が集まり、夏場には出茶屋が九十三軒もできた。中洲は新しいだけに手軽で安直、芸者も転び芸者が多かった。(略) ・・・説明は寛政の改革、天保の改革、吉原全焼などを経て、中州が息を吹き返すまでの長い歴史を説明。

 写真上は明治40年の絵図。男橋、女橋、そして水天宮に続く土州橋がちゃんと描かれている。写真下は現・中洲公園。中洲先端で左が隅田川、右は箱崎川埋め立ての首都高。


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荷風の中洲(3)真砂座と葭町芸者 [永井荷風関連]

konpira1_1.jpg 中洲病院から中洲の歴史に関心が移った。中洲の金刀比羅宮(写真、ことひらぐう))境内に入ると、昭和61年建立の「中洲築立百周年記念碑」らしきがあり。裏の碑文にこうあった。

 「中洲は特別な歴史を有す。江戸時代の中洲は須磨明石に勝る江戸随一の納涼観月の名所であった。明和年間に築立され三股富永町として繁栄したが寛政年間には埋め戻された(寛政の改革だろう)。明治十九年、中州は再び築立されて旧日本橋中洲町となる。明治・大正・昭和時代を通し、大川端の地として小山内薫等多くの文化人が往来し、その作品の舞台となる。」

 おや、小山内薫が出てきたか。彼は二代目左団次と共に本格翻訳劇の自由劇場をおこし、荷風さんんも「三田文学」に同台本を掲載などで協力。共に左団次のブレーン。さっそく小山内薫「大川端」を近所の図書館より「現代日本文學全集」(筑摩書房)で読んでみた。

konpira2_1.jpg 物語は明治38年末。主人公・正雄は明治座でお酌(半玉)の「君太郎」にひとめ惚れ。学校卒業後に中洲の或芝居(真砂座)へ作家見習いに入った。「芝居の左側には銘酒屋のやうなものが幾軒も列んでゐた。白粉を眞白に塗った女が長火鉢の前に寝そべってゐたり(略)・・・芝居の右側には待合が列んでゐた。(略)・・・夜になると電話が方々でちりんちりんと鳴る。美しい女を載ママ)せた車(人力車)が、好い匂ひを振り撒きながら、頻に出たりはひったりする。」

 そうした「淫らな島・中洲」に山の手から通った。やがて若旦那に好かれて芸者遊び。島の突き当り「新布袋屋」で、念願の「君太郎」に逢う。待合に入り浸って「君太郎」を呼ぶ日々になるが手も握らねぇ。それで好いた腫れたじゃ前に進まぬ。そのうちに君太郎は一本になり旦那の子をはらむ。そんな按配で「小さと」「せつ子」と付き合うが、誰もが旦那持ちになったり自前の看板を出したり・・・。

 明治44年の新聞連載小説(君太郎篇のみ)で、読み進むもまどろっこいが、それでも当時の葭町の芸者、中洲の情緒は味わえた。そういえば、荷風さんは尋常中学時代に大川で泳いで、濡れた水着のまま真砂座を立見をしたと書いてあった。(随筆「夏の町」)

 葭町芸者と云えば「濱田屋」貞奴。某演歌歌手が貞奴テーマの演目を明治座・稽古場で繰り返す光景を幾度か覗いた。そう、男性某演歌歌手の劇場公演の芝居稽古場は築地本願寺だった。熊本出身、福井出身歌手だが芝居稽古はともに隅田川沿いってぇのがうれしい。


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荷風の中洲(2)中洲病院 [永井荷風関連]

kusamorikafu1_1.jpg 中洲病院(1)を記していて、4年前に読んだドカ弁級の分厚さ・重さを有した草森紳一『荷風と永代橋』(写真、青土社2004年刊)を思い出した。確か中洲病院の写真があったよなぁと。蔵書せぬ主義ゆえ、近在図書館を我が書庫と思ってい、あの本はあの図書館のこの本棚辺りと覚えている。さっそく幾度目かの同書借り出しと相成候。「あった、あった、中洲病院の詳細写真が」。(写真)。

 氏は古本書店発行の書目より「最新建築設計叢書」の小冊「中洲病院」を入手。昭和2年当時は斬新建築ゆえ専門誌も注目したのだろう。設計図に豊富な写真で、草森さんは小躍りの歓びよう。『荷風と永代橋』に4頁に渡って正面全景、待合室、エレベーター、手術室、日光浴室(サンルーム)、屋上庭園の写真、また同冊掲載文をも転載。まさに荷風さん記す「ホテル」のよう。

 正面全景も荷風さんスケッチも三階のようだが実際は地上四階、地下一階。玄関上の文字をルーペで見れば「NAKAZU HOSPITAL」。「中洲」は「なかず」。荷風さん、「お歌」もここに入院させている。

kusamorinakazu_1.jpg 病院長・大石貞夫は荷風さんより4歳下なれど、昭和10年1月に53歳で没。追悼句「福寿草梅より先にちりにけり」。主治医を亡くした自分を嘆いて「木枯に笠も剥かれし案山子かな」。 これは私にもわかる。両句ともに駄句。

 「断腸亭日乗」には大石病院長亡き後、中洲病院ではなく「土州橋」と記されるようになる。「土州橋」の位置は「goo」の地図で<古地図・日本橋・明治>でしっかり把握できる。中洲に架かるのは上流から「男橋」「女橋」。箱嵜町に架かるのが「土州橋」「永久橋」「汐留橋」。「土州橋」辺りが今は「東京シティターミナル」になっている。

 ここまで調べたら「越前堀」と同じく実際に行って見たくなる。今回は勝鬨橋を渡って佃島、中央大橋より越前堀(霊岸島)に入り、豊海橋から日本橋中洲へ。まずは「清洲橋」を途中まで行って、中洲に振り向いて荷風スケッチのような写真を撮った。(前回写真)。

 次に清洲橋を戻って首都高6号向島線(箱崎川埋め立て地)手前際に「金刀比羅宮\慈愛地蔵尊」を見つけた。中洲の歴史を語る何かがあるかと立ち寄れば、まずは玉垣が飛び込んできた。かつて華やかし時代を語る中洲の料亭・割烹の名がズラッ。ひと際「葭町芸妓芸妓組合」が目立っていた。


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荷風の中洲(1)そこは産科・婦人科 [永井荷風関連]

nakasugyouin_1.jpg 永井荷風の「越前堀」調べで遊んだら、その上流隣の「中洲」も知りたくなってきた。荷風さんは主治医・大石国手(国手は名医、医師への敬称)の中洲病院に性病検査、脚気注射、ホルモン注射、薬代支払とまぁ、毎週のように通っている。その帰りに浅草、玉ノ井、荒川放水路、越前堀(霊岸島)などへ足を延ばすことが多い。その意では荷風散策の出発点とも言えるかも。例えば昭和7年「中洲病院にて薬を求めた後、清洲橋をわたり、乗合自動車にて砂町終点に至る。」 いつもこんな按配だ。

 「大石君は中学校の頃余が亡弟貞次郎と同級なりき。余が始めて大石君の診察を受けたるは大正五年の夏なるべし。」 20年に渡る主治医関係。かくして「断腸亭日乗」には頻繁に中洲病院、大石医師、土州橋が登場。しかし悲しいかな「隅田川の中洲」がよくわからぬ。わからないと調べる楽しさに変わる。

 加藤郁乎「俳人荷風」を読んだことで、久し振りに「断腸亭日乗」をひもとけば中洲病院のスケッチを見つけて「おぉ」と釘付けになった。清洲橋脇の交番横の建物が「中洲病院」で隣が倉庫。その日記文は以下の通り。(写真上がスケッチ。写真下が現風景。マンションが並んでいる)

nakasubyouin1_1.jpg 昭和7年18日「晡下中洲に往く。いつもの如く清洲橋をわたり、萬年橋北詰の小道に入り、柾木稲荷を尋ねる~」。スケッチは隅田川対岸から中洲病院を描いたとわかる。

 中洲病院とは・・・。大石病院長・大石貞夫は大正3年に欧州留学から帰国して日本橋・鎧橋際に開院し、大正8年に中洲病院を開く。関東大震災で被災し、昭和2年に再建。同年5月18日の「日乗」にこう書かれている。

 「病院新築既に竣成す。五階つくりにてエレベーターにて昇降す、廊下廣く屋根の上に花壇を設く、萬事ホテルの如き体裁なり。」

 中洲病院は震災からいち早く復興し、こんなに立派な病院になった。繁盛病院だったに違いない。で、実は同病院は「産科・婦人科・女子泌尿器科」。荷風さんがせっせと通っていたのは、そういう病院なんだ。

 同年4月4日の日乗を読むと、中洲病院繁盛のワケがちょっとわかる。「正午中洲河岸に大石不鳴庵(俳号、なかずは中洲のもじり)を訪ふ。尿中の蛋白既に去れりと云ふ。中洲病院より深川清住町に渡るべき鐡橋の工事半成るを見る。」 清洲橋は翌年3月に開通。そして「かつての中洲」を説明。

 「往時中洲の河岸には酒亭軒を連ね又女橋のほとりには真砂座といふ小芝居あり、その横手の路地には矢場酩酊屋あり、白晝も怪しげなる女行人の袖を引きたり、震災後今日に至りては真砂座の跡もいづこなりしや尋ね難くなりぬ。」 そんな歴史を有する地で、そうした姐さん方や近くの葭町、柳橋の花柳界がらみの大繁盛と推測したが、いかがだろうか。


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荷風の越前堀(2) [永井荷風関連]

oiwainari1_1.jpg 今度は永井荷風「訪問者」の白井・常子の愛欲の隠れ家、お岩稲荷の横丁の煙草屋の二階らしき場所を探してみた。簾がさがって、植木鉢が並んで、三味線の音が聴こえそうなところ。

 同地は艶っぽい要素も有していたか。篠田鉱造「明治百話」より「明治の新橋芸妓」を読んでいたら、こんな記述があった。・・・芸者になりたくて「も」組の頭が「霊岸島」で、つまり「蒟蒻島」で芸妓屋をしていた。私は17歳一杯は「蒟蒻芸者」で、18歳から「新橋芸者」になったんです。「蒟蒻芸者」とはちょっとエロっぽい。

 「霊岸島(越前堀)」は「蒟蒻島」か。ネット調べをすれば「埋め立てが容易に固まらず、歩くと揺れたことから蒟蒻島。蒟蒻島には女郎屋だけではなく、引手茶屋もあって、わりあい高級な岡場所だった」とあった。

 しかし現在の新川一帯はビル街で自転車でぐるっと走るも、なかなか「お岩稲荷」が見つからぬ。尋ねても首を傾げる方が多く、地元の人も少ないのだろう。諦めずに走っているってぇと、まぁ、時代に取り残され感の「お岩稲荷」(写真)があった。正しくは「於岩稲荷田宮神社」。

 百数十坪ほどの苔むした緑の境内に小さな社。ここだけが荷風さんの時代と変わらぬ雰囲気で、なんだかうれしくなってきた。案内板に「社地は初代市川左団次の所有地であったと伝えられ、花柳界や歌舞伎関係などの人々の参拝で賑わいました」。また「お百度参り」の石塔側面に「大正三年 大阪浪花座興行記念 四代目市川右團次」と刻まれていた。初代左団次は市川小團次の養子で、実子は初代右團次。歌舞伎の家系は複雑でよくわからない。

oiwainari3_1.jpg 荷風は二代目左団次と昵懇の間柄。左団次から「お岩稲荷」について聞かなかったか。そしてお岩稲荷の隣の二階屋(写真下)を見れば「訪問者」に書かれた・・・簾がさがって、植木鉢が並んで、三味線の音が聴こえたりして、まんざらではない」の文章ぴったり。「訪問者」の位置記述とは若干異なるが、まぁ、こんな雰囲気の二階屋と思っていいだろう。顔をあげると空を遮るマンションとオフィスビル、佃の高層マンション群も意匠を凝らした中央大橋も見える。ここだけが昭和初期の雰囲気を遺していた。

 なお、荷風さんと二代目左団次については近藤富枝「荷風と左団次~交情蜜のごとし」に詳しい。二人の交情30年。昭和15年に左団次没で、荷風の追悼句は「つきぢ川涙に水もぬるむ夜や」 「行雁や月はしづみて夜半の鐘」。そして日乗の余白に「散りぎはゝ錦なりけり蔦紅葉」があったとか。同書は荷風没後50年の平成21年刊。今なお新たな荷風本が次々にでてうれしいですね。あたしも、もう少し荷風さんの足跡を追ってみましょう。


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荷風の越前堀(1) [永井荷風関連]

reiganjima1_1.jpg 昭和10年前後の永井荷風の霊岸島(越前堀)散策を読めば、やはり行ってみたくなる。荷風さんが越前堀を歩くには2コースあり。毎週のように通う中洲病院の帰りに「豊海橋」から入る場合と、銀座から出発して「南高橋」から入るコース。

 9月半ば。未だ真夏日ゆえ早朝6時に自転車を駆った。まずは銀座から歌舞伎座。建て替え急ピッチなり。そういえば荷風さん、二十歳の頃に歌舞伎座の立作者・櫻痴居士門弟として見習い約1年間。歌舞伎座に通っていた。その後も大正4年に築地に、大正6年に木挽町(銀座八丁目辺り)に借り住まい。銀座っ子だな。

 築地本願寺を左に、右に築地魚河岸を見れば勝鬨橋へ。荷風さんが歩いた頃に橋はなく(昭和15年完成)、その上流の佃大橋(昭和39年完成)もない。「わたし」があるのみ。

minamitakahasi_1.jpg 隅田川沿いに遡行すると湊町の「鉄砲洲稲荷神社」。その向かい辺りに鬼平こと長谷川平蔵が5~19歳頃に住んでいたとか。すでに埋立られて橋名標だけの「稲荷橋」があり、そこを右折で「南高橋」に至る。

 「断腸亭日乗」昭和9年6月26日。晴れてむしあつし。午後執筆。黄昏銀座に行き銀座食堂に夕食を食す。七時過満月、松坂屋の高き建物の横手に現はる。舊暦五月の望なるべし。歌舞伎座前より乗合自動車に乗り鉄砲洲稲荷の前にて車を降り、南高橋をわたり越前堀倉庫の前なる物揚場に至り石に腰かけて名月を観る。石川嶋の工場には燈火煌々と輝き業務繁栄の様子なり。水上に豆州大島行の汽船ニ三艘泛びたり。波止場の上には月を見て打語らふ男女二三人あり。岸につなぎたる荷船には頻に浪花節をかたる船頭の聲す。 ・・・面白いことに「南高橋」脇の史跡案内板に、この文が引かれていて「断腸亭日乗」昭和9年7月とあり。正しくは6月26日。どうしてこんなことを間違えるのだろう。

toyomihasi1_1.jpg ついでに中洲から入る「豊海橋」へ。案内板にまたも荷風「断腸亭日乗」より 「豊海橋鉄橋の間より斜に永代橋と佐賀町辺の燈火を見渡す景色、今宵は名月の光を得て白昼に見るよりも稍画趣あり、清々たる暮潮は月光をあびてきらきら輝き、橋下の石垣または繋がれたる運送船の舷を打つ水の音亦趣あり」。 こちらは年月の記なし。

 しゃれた散策用「隅田川テラス」を歩けば佃島の高層マンション群、そこへ伸びる中央大橋(平成5年完成)。もう荷風さんが歩いた越前堀の面影はすっかり失われていたが、この「南高橋」と「豊海橋」だけは荷風さんをしっかり記憶していた。(写真上は中央大橋から望む東京湾汽船の霊岸島発着場があった辺り。写真中は「南高橋」、写真下は「豊海橋」)


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加藤郁乎「俳人荷風」(7)枯葉、虫、雪 [永井荷風関連]

 加藤翁は「枯葉の記」「雪の日」に飛ぶが、こちらは各章を愉しむ。「浅草公園の興行物を見て」。昭和12年頃の浅草興行評。まず新舞踊の普及に驚いて浅草通いを始めたと記し、オペラ館の芝居は京伝黄表紙、南畝洒落本を読む興味に似て、花柳小説とも言ってよいだろう。しかし他座の芝居は大阪風のあくどい臭みがある。あたしも二十歳の頃に浅草通いをした。ビートたけしがフランス座に出る6、7年前のことだ。芝居がらみの句・・・「お花見は舞臺ですます役者哉」(昭和12年)、「夏芝居役者にまけぬ浴衣かな」(大正7年)。

m_kafuseika1_1[1].jpg 「冬の夜がたり」は7、8歳(明治19、20年)に、鹿鳴館衣装の西洋婦人が箱馬車で小石川金剛坂に母を訪ねて来た思い出。初めて見た外人。「門前の道路は箱馬車一台でも、その向きをかへるには容易ではない狭さで・・・」。ほんと、大変だったろうにと頷いた。写真は「荷風旧居跡」の金剛坂。

 次は「蟲の聲」。夏から秋への蟋蟀の鳴き声について。荷風句に「蟲の聲」が多い。「わが庵は古本紙屑蟲の聲」 「こほろぎや古本つみしまくらもと」 「蟲の音も今日が名残か後の月」(後の月:十三夜=新暦で10月中・下旬)。昭和24年になると「停電の夜はふけ易し虫の聲」。あたしも停電が多かった時分を覚えている。いつもは聴こえぬ電車の音、鐘の音、虫の音がふと聴こえたりして・・・。

 「雪の日」は、竹馬の友・井上唖々と向島・百花園から言問辺りまで戻ってきたところで雪になり、掛茶屋で一杯の思い出。唖々が「雪の日や飲まぬお方のふところ手」に、「酒飲まぬ人は案山子の雪見哉」。渡し舟が終わるも、蒸気船が七時まであると知って「舟なくば雪見がへりのころぶまで」 「舟足を借りておちつく雪見かな」。

 45歳で亡くなった唖々さんを偲んだ後は、冬になると余丁町の家に飛んで来る山鳩を見て「雪が降る」と言った母の思い出。江藤淳は「荷風散策」で、私の育った大久保百人町では山鳩を見たことがない。昭和10年代後半には、山鳩はもうこの辺りには来なくなっていたと書いた。そんなこたぁない。今でも新宿御苑に行けば眼にする。

 そして朝寐坊むらくの弟子時代。深川・常磐亭で大雪になり、下座の三味線の娘と支え合って歩き帰るも幾度も転び、蕎麦屋で大人ぶって燗酒を飲めば酔いが加わって娘の肩が頼り。二十歳の甘酸っぱい思い出に、当時はヴェルレーヌもじりの詩を詠んだとか。だが昭和19年・65歳になると「ふり足らぬ雪をかなしむ隠居かな」。

 『冬の蠅』の最後は「枯葉の記」。冒頭に江戸の富豪・細木香以が老いて木更津にかくれ住んだ時の句「おのれにも飽きた姿や破(やれ)芭蕉」。荷風さん、自宅流しから外の無花果の枯葉をみて「なんときたないのだろう」。芭蕉の葉がずたずたに裂かれた姿は泰然自若だが、自分は無花果の枯葉がお似合いと記す。 加藤翁はこの句から後に「長らへてわれもこの世を冬の蠅」が生まれた、で『冬の蠅』の章を終えた。


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加藤郁乎「俳人荷風」(6)嵐雪と荷風の西瓜 [永井荷風関連]

kafutamanoi2_1.jpg 「寺じまの記」は、ほぼ全編が玉ノ井ガイド。まず雷門前からバスに乗り、乗り降りする人々の観察、次々に変わる景色、玉ノ井車庫下車で「ぬけられます」の看板を次々縫って路地や建物、女たちの様子や事情の詳細見聞記。安岡章太郎「私の濹東奇譚」でも、玉ノ井への案内は同小説より「寺じまの記」の方が役立つと。写真は「断腸亭日乗」に書かれた荷風さんの玉ノ井地図メモ。マメな荷風さんです。

 「町中の月」は、銀座から始まる月見ウォーク。佃のわたし場から湊町へ、稲荷橋の河口は東京湾汽船会社の大島行き桟橋と待合所あり。稲荷橋欄干に身を寄せれば為永春水「春暁八幡佳年」(天保7年作)の若旦那と猪牙舟の船頭との月夜の会話を思い出すと、その一節を紹介。読んでいると同じコースで月見ウォークしたくなる。荷風さんの月見句・・・「枝刈りで柳すヾしき月見哉」 しかし東京大空襲直前の昭和19年になると「月も見ぬ世になり果てゝ十三夜」。

 「郊外」は三頁に満たぬ超小品。廣津柳浪「秋の色」の叙景文が引かれている。現在の早稲田鶴巻町の一帯は田圃で、関口のほとり、神田川、芭蕉庵辺りの長閑な景色。小生、そのちょい上流の高戸橋際に住んでいたこともあって身近なり。とは云え廣津柳浪の同作は明治35年頃の実景。さらにその33年後の昭和10年末の荷風が「もう、そのような景色は利根川、荒川上流まで行かなければなるまい」。ははっ、平成の今はどこまで遡れば、そんな景色が見えるのか。

 次が「西瓜」。冒頭に「持てあます西瓜ひとつやひとり者」。壱居獨棲の弁に加え、繁殖行為と避妊について得々と語っている。それはさておき、嵐山光三郎「悪党芭蕉」を読んでいたら嵐雪句「身ひとつもてあつかへる西瓜哉」があって、「あんれぇ、荷風さん、これをもじったな」。加藤翁は荷風句を「俳味諧謔の玄人好みの一句」と記すが、翁は確か飯島耕一との共著「江戸俳諧にしひがし」で、其角(江戸座)詳細を解説していた。嵐雪の同句に気付かなかったか。

 また、この荷風句は、川村三郎の亡き妻へのオマージュ「いまも、君を想う」冒頭に引かれていた。今はスーパーに行くってぇと、老人や晩婚お一人様のために八つ切りスイカも売っている。


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加藤郁乎「俳人荷風」(5)俳味の深さ [永井荷風関連]

housuiro3_1.jpg 『冬の蠅』次は「十六七のころ」。加藤翁は荷風の俳句初学をうかがわせて興味深い文章と記す。「荷風全集」第二十九巻の「俳句拾遺」掲載の二十四句はその頃の一級資料とし、そこから「流し呼ぶ揚屋の町の明け易し」をあげる。残念ながら小生の「荷風全集」は全二十八巻。その句は知らぬ。

 さらに昭和13年刊「おもかげ」は写真二十七葉掲載で、表題短篇「おもかげ」には吉原の夜景写真があり「よし原は人まだ寐ぬにけさの秋」が添えられていると紹介。これまた抱一の俳味をそのまま拝借したような句と記す。ふん、あたしの蔵書にはその写真もない。

 加藤翁は「十九の秋」「岡鬼太郎の花柳小説を讀む」を飛ばして、「鐘の音」「放水路」「寺じまの記」も俳句の話題がないと飛ばしている。そんなワケはなかろう。あたし流に続けてみる。

 「十九の春」は父の転勤に従って上海で暮した頃の思い出。支那人の生活にある強烈な色彩美について書き、父の漢詩で締める。異邦人感覚もまた俳味とみた。 「岡鬼太郎の花柳小説を讀む」は、芸妓の恋愛局面を描いたものは多いが、芸妓を主人公に描いたのは彼の花柳小説だけと評価。老いた芸妓の心に俳味あり。荷風句の芸妓がらみ句を拾う。「焼きもちの老妓に狎れて今朝の冬」(大正4年)、「つま弾や竹の出窓のほたる籠」(昭和17年)、「初かすみ引くや春着の裾模様」(昭和17年)は季重なりか。

 「鐘の聲」は今や騒音で聴こえぬ鐘の音だが、激しい木枯しがぱたっとやんだ一瞬にふと聴こえることがあると記し、今は昔に聴いた鐘の音とは違って、それは<忍辱と諦悟の道を説く静かな音>として聴こえてくると記す。深いねぇ~。ゆえに鐘の音の句も多い。「しみしみと一人はさむし鐘の音」(昭和13年)。東京大空襲の3年前、63歳の句は「粥を煮てしのぐ寒さや夜半の鐘」。 吉田精一「永井荷風」は、「おもかげ」の中の逸品は小説より随筆「鐘の音」(『冬の蠅』では「鐘の聲」)の重厚典雅な文章にとどめをさすであろうと書いていた。

m_kyouryukyou_1[1].jpg 次が「放水路」。大正3年から幾度も歩いた荒川放水路散策を振り返っている。昭和5年には深川から扇橋、釜屋堀を経て歩いた際に朽廃した小祠で「秋に添(そう)て行(ゆか)ばや末は小松川」の芭蕉翁の句碑を見つけた歓び。さらに今の自分の放水路散策は、河川の美観や寺社墳墓を訪ねるのではなく、<自分から造出す儚い空想に身を打沈めたいがため。これは寂莫を追及して止まぬ一種の欲情を禁じ得なくて>歩くのだと書く。これまた深い。「初潮や蘆の絶間を鉦の聲」(大正15年)。どこかで秋祭りでもあったのだろう。 「夏の雲わたし場遠き蘆間かな」(昭和7年)。50歳を越えた荷風さんが一生懸命に歩いている。

 写真上は、昭和7年2月に荷風さんがスケッチした放水路堤防端ノ図。そして今の荒川河口はこんな景色(写真下)になってしまった。手前が荒川、対岸が若洲海浜公園で、その向こうに恐竜橋こと東京ゲートブリッジ。


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加藤郁乎「俳人荷風」(4)衒気匠気なし [永井荷風関連]

 こんな調子で書いていたら、いつまで経っても終わりそうにない。まぁ、荷風好きの道楽ゆえ愉しみましょ。 『冬の蠅』次は「井戸の水」。井戸の思い出が、次第に井戸がらみ怪談になり、「下闇や何やらすごし倉の壁」で締められている。壁にお化けの影・・・の意だろうか。荷風さん、金剛坂の屋敷に住んでいた子供時分から井戸が怖い。加藤翁は「日和下駄」に幽霊屋敷巡りがあってもよかったと軽く流している。

 次は「深川の散歩」。荷風さんは昭和初期の清澄橋辺りの散歩から六間堀に沿った東森下の裏長屋に住んだ井上唖々の思い出を書いている。・・・彼の裏長屋に潜みかくれた姿は、江戸固有の俳人気質を傳承した眞の俳人として心から尊敬・・・と追慕。そして散歩の足は冬木町の弁天社(永代通りで隅田川を越えたら左の葛西橋通りに入ってすぐ左側)へ。ここに知十翁の句碑「名月や銭金いはぬ世が戀ひし」があると記す。

 加藤翁は高橋俊夫(優れた荷風書が何冊もある)が「荷風文学閑話」第五話で「荷風と岡野知十」の章を立てていると記す。あたしは国書刊行会「日本文学研究大成 永井荷風」収録の高橋俊夫「小説『来訪者』の詩情」を読んだ。高橋先生は「荷風の越前堀・お岩稲荷界隈(現・日比谷線「八丁堀」から新川二丁目へ)の景情を叙した一節を読むと<テーマがどうの、思想性がどうの、構成がどうのと、こちたき議論にのみ現を抜かしているような手合いには、荷風文学の醍醐味は風馬牛である>と痛快極まる言。荷風書にはそんな<手合い>の書も数あって、買ってから「ウヘェ~」もまま有り。先日もそんな古本を購ってしまった。高橋先生の文をもっと紹介したいが、まずは先を急ぐ。

 『冬の蠅』 次は「元八まん」。加藤翁はこれをも飛ばす。息切れしたか。あたしは荷風さんの「元八まん」が見たくて自転車を駆ったことがある。今はまぁ、住宅や倉庫ひしめく一画の、園児の賑やかな声満ちる場所に立派な「元富岡八幡宮」が再建されていた。

m_imadobasi_1[1].jpg 加藤翁は次の「里の今昔」でやっと筆をとる。荷風さんの書き出しは・・・昭和二年の冬、酉の市へ行った時、山谷堀(写真は山谷堀最下流の今戸橋)は既に埋められ、日本堤は丁度取崩し工事中だったと記し、初めて吉原に行った明治30年春を思い出す。江戸座の「はや悲し吉原いでゝ麥ばたけ」 「吉原へ矢先そろへて案山子かな」の実景を思い出すが、今は近世的都市の騒音と燈火とがこれら哀調を滅ばしてしまったと嘆いている。(今は一部がネオンと客引き賑やかな特殊浴場街になっている)。

 ここで加藤翁は、荷風さんが木村錦花(歌舞伎の研究家・狂言作者)の富子夫人の随筆集「浅草富士」へ頼まれた序文代わりに旧句十句を与えたと記し、その中の「西河岸にのこる夕日や窓の梅」 「里ちかき寺の小道や春の霜」を紹介。荷風句には風流を解する者に通ずればよしとする矜持が俳味になっていると言い切る。

 そう、加藤翁は荷風句をひとこと「衒気匠気なし」とも記している。衒う気持ち、句会を主宰する宗匠の臭さがないの意。テレビなんかで此れ見よがしの着物姿で登場する宗匠ら・・・。おっと、加藤翁も俳誌主宰とか。まさか若い時分に着流し姿で新宿あたりを呑み歩いてなんかいなかったよなぁ。


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加藤郁乎「俳人荷風」(3)『冬の蠅』の俳味 [永井荷風関連]

akigakafu_1.jpg 本題の加藤郁乎「俳人荷風」(岩波現代文庫、平成24年7月刊)に入る。第一章は<『冬の蠅』の俳味>。 『冬の蠅』は秋庭太郎著(写真)に「私家版は昭和十年四月に京屋印刷所で千部刷り、八月下旬に完売。百八十円の利益也」と書かれていた。加藤郁乎は「荷風全集」の『冬の蠅』には、私家版にない俳誌「不易」発表の「枯葉の記」「雪の日」が収められたと解説。(★余談:昨日、高田馬場・ビッグボックス古本市で秋庭太郎著の荷風本全4冊セットが6500円で売っていた。欲しかったが貧乏と本棚いっぱいなんで諦めた)

 以下、「荷風全書」の『冬の蠅』(随筆21篇収録)と加藤郁乎「俳人荷風」を併読しつつ記して行く。 加藤先生、まずこう絶賛する。・・・荷風随筆集のなかでも最も俳味に富む一本であろう。折ふし自他の句を引きながら友人、女、文学、四季の風物を述べて流麗淡々渋滞なき筆致。荷風の筆はこびは冴えわたる。回顧趣味のことごとくは巧まざる俳文に思えてくるから妙である。

 確か半藤一利「其角俳句と江戸の春」の最終章も「永井荷風と冬の蠅」だった。『冬の蠅』が其角句「憎まれてながらへる人冬の蠅」からとったこと、また其角句を下敷きにしただろう荷風句をピックアップして、「日和下駄」も其角が詠んだ江戸風情句を辿って歩いているようだとも指摘していた。加藤郁乎はその其角句は、正しくは「ながらふる人」と訂正。小生は早くも呆け始めているが、両翁は80代にして冴えている。

 『冬の蠅』第一章「断腸花」は、冒頭に籾山庭後が大正6年に詠んだ「心ありて庭に植ゑけり断腸花」が引かれている。加藤翁は、同句が詠まれた頃の荷風は慶応義塾大教授と「三田文学」編集を辞して籾山庭後、井上唖々と雑誌「文明」を発行、余丁町・断腸亭に戻った時期と解説するが、同句は籾山のち梓月(しげつ)の句集に、「文明」に見出せぬ不思議を記し、文末の荷風句「長雨や庭あれはてゝ草紅葉」には言及せず。

kasiku_1.jpg 『冬の蠅』第二章「枇杷の花」を飛ばして、次の「きのふの淵」をとりあげている。荷風さん、ここでは芸者・富松の思い出を書いている。明治42年に富松と逢って深間になり、荷風さんは左の二の腕内側に「こう命」と彫り、富松はどこに彫ったか「壮吉命」と彫り合った。だが富松は1年余で落籍されて二人の仲はジ・エンド。荷風さん「富松の奴、近眼だから文字が大きくて・・・」とこぼすことしきり。大正6年に富松が亡くなったと知り、谷中三崎町・玉蓮寺に香花と共に「晝顔の蔓もかしくとよまれけり」の句を手向けたと書いている。

 加藤翁、この句は江戸俳諧と見紛(みまご)うばかり。抱一(酒井抱一で、狂歌名は「尻焼猿人」)の吟と見做(みな)しても通じる佳句であると評し、「かしく」は確かに昼顔の蔓に似通っていると筆文字?(写真)を紹介。その説明と、「かしく」は「かしこ」の転で、女性(加藤翁は遊女がと記す)が手紙末尾に書いて敬意を表する語と知って、初めて句の意がわかった次第。「わかる」ってうれしいねぇ。


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加藤郁乎「俳人荷風」(2)巴里の「おもかげ」 [永井荷風関連]

omokage.jpg 本題の加藤郁乎「俳人荷風」(岩波現代文庫、今年7月刊)になかなか入れぬが、そもそも同書を得たのは角田房子、佐野眞一の「甘粕正彦」を読んでい、己が余りに満州、関東軍、朝鮮併合などに無知で、焦り慌てて新宿・紀伊国屋に走ってのこと。読書は古本か図書館本がメインで、滅多に新刊書店には行かぬが、上記関連本を探すなかで新刊「俳人荷風」に気が付いた。そんなワケで本題前に甘粕正彦が最期に読んだろう「おもかげ」が気になった次第・・・。

 さて、「おもかげ」は前回記した「浅草のおもかげ」の他に、「ふらんす物語」収録の巴里の「おもかげ」もあり。フランス暮しの経験ある甘粕には、こっちがふさわしいか。

 荷風さん、夢見るカルチエラタンに着いた夜、カフェに入った。隣へ座った女に「あなたは日本の方ぢゃ有りませんか」と話しかけられた。巴里には何歳かわからぬ化粧上手な女が多い。荷風さん、ちょいとカマをかけてみた。「あなたは大分日本人にお馴染みがあるとみえますが・・・」。彼女は某画家と夫婦のように暮した時期を懐かしがって「これがあの方から頂戴した指輪です」。二朱金が指輪に細工されていた。荷風さん、その某画家が十年ほど前に巴里留学をし、今は日本で大家然としていて彼が描いた「裸婦美人」を思い浮かべる。

 「別れた後は泣いてばかりでは生きて行けませんから、また前のような商売に出ました」。そして次々に出てくる巴里留学の日本人名。荷風さん、そうした彼らが日本に帰ると、強いて厳かな容態を作り、品位を保とうと務めている顔・顔を思い浮かべる。姐さんの名は「マリリン」。

 甘粕正彦は「おもかげ」を読んだ後に青酸カリで自決。54歳だった。それから67年後、今年5月に加藤郁乎さんが初の荷風俳句論の校正を終え、「あとがき」執筆中に心不全で亡くなった。83歳没。その加藤さんが同書でそれとなく教えてくれた。「君、当時、甘粕に『おもかげ』を渡したってことは、その表題がついた短編集のことだよ」。

 「濹東綺譚」刊の翌年、昭和13年に「おもかげ」が岩波書店より刊。秋庭太郎著「考證 永井荷風」をひもとけば、こう書かれていた。・・・これは短編小説「おもかげ」「女中のはなし」、歌劇脚本「葛飾情話」、小品文「鐘の音」「放水路」「寺じまの記」「町中の月」「郊外」、随筆「西瓜」「浅草公園の興行場を見て」、俳句「荷風百句」の諸篇を収め、写真版二十四葉、菊版二百四十七頁、著者装丁の貼函入の美本である。

 あぁ、ならば甘粕さんも「荷風百句」に眼を通したんだ。 それで「大ばくち 身ぐるみぬいで すってんてん」などという戯れ句を書き遺したか。して、その初版を見てみたいと検索すれば、2001年に初版本復刻「おもかげ」が出ていて、なんと定価7,770円とか。


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加藤郁乎「俳人荷風」(1)浅草の「おもかげ」 [永井荷風関連]

kafuhaiku1_1.jpg 本題は加藤郁乎「俳人荷風」だが、まずは甘粕正彦が最期に読んだろう荷風「おもかげ」から入る。甘粕正彦が満映理事室で青酸カリで自決した時に、机上の「濹東奇譚」に遺書三通が挟まれていた。自殺前日に「何か軽い読み物を」と求め、スタッフが荷風「おもかげ」を渡した。甘粕の最後の読書が永井荷風だったとは、なんとなく愉快なり。そんなワケで、本題に入る前に、ちょいと荷風「おもかげ」から。えぇ、本番前の前戯ってこと。

 「おもかげ」は21頁ほどの小品。その内容を知る人も少なかろう。久々に本棚の奥から「荷風全集・第九巻」を引っ張りだして再読。物語は吉原・門外で客待ちの辻自動車・運転手の豊さんのモノローグ。

 豊さん、大使館の二号さんがお得意だった時分に、そこの小間使い・おのぶさんに惚れて所帯を持った。間もなく新宿の洋食屋で食った牡蠣フライが当たって、おのぶさんだけがあっけなく逝った。おのぶさんが恋しくてたまらねぇ。そんな折、浅草の歌劇館の踊り子に、おのぶさんそっくりの女を見つけた。歌劇館通いが始まった。踊り子の名は萩野露子。

 そんな或る日、歌劇館に向かう途中で「豊ちゃん」の呼び声。年増のお妾さん・玉枝さんぢゃないか。女給時分に酔い潰れた彼女をよく送っていったもの。誘われるまま家に上がるも口説かれそうで、踊り子に夢中なんだと打ち明けて外に出た。

 するってぇと小走りに走る露子さんがいるぢゃないか。無我夢中で追いかけた。喫茶店に入って踊り子仲間と談笑する露子さんをうっとり見つつコーヒーを手にすると、袖口に血がつき腕時計がない。ズボンを探れば財布もない。掏摸にやられた。「車に戻ってお金を持ってきます」と店を出たが、玉枝さんちが近い。玉枝は婆やに金を払いに行かせて、結局は炬燵で差しつ差されつ。深間、いや旦那の眼を盗むツバメになってしまった。

 しかし露子さんが忘れられぬ。やがて劇場プログラムから露子の名が消えた。半年後、松戸を流していて彼女の踊り子仲間を乗せた。露子さんは舞台で血を吐き、相当に悪いそうな。「彼女をを恋人にしていたら、おのぶと同じ哀しい別れになったに違いない。俺はつくづく女に縁がないなぁ」。そう思うと、むやみに女を買い散らすようになってしまった・・・、そう述懐したところで、吉原の空は暗いも東の空がうっすら明るくなってきたで終わっている。

 甘粕正彦は青酸カリで自決する前夜に、ほんとうにこんな「おもかげ」を読んだのかしら。


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荷風記す南畝の也有ウズラかな [永井荷風関連]

 ブログ更新せぬも、日々六百程の頁ビュー有り。昨日、二年も前の<揃い踏む南畝荷風のウズラかな>が読まれていて、ちょっとうれしかった。横井也有翁の俳文「鶉衣」を、大田南畝が編・刊していて(共に江戸時代の話)、これを南畝好き荷風さんが言及せぬわけがないと書いた。ネット調べをしたら、それなりに荷風文の引用紹介があるも、どれも出典が記されていない。孫引きなのか。全集を調べたら「雨瀟瀟(しょうしょう)」の中程にあった。その二年前のブログで「その部分を後日に引用紹介する」と記したままだったので、二年越しになったが、改めて無学の私流に( )にひらがな、意味を加えて引用紹介です。

 まずその前に「雨瀟瀟」についてと、以下文に至る経緯を紹介。・・・同作は荷風四十二歳正月脱稿。荷風さんは渡米時代の旧友で、今は某社取締役の彩牋堂なる戯号を有するヨウさんと親交を深めていた。ヨウさんが木挽町で薗八節を習っていて、荷風も共に通い出していた。ヨウさんは色気ではなく、芸を仕込むのも道楽と十九の芸者「小半」を囲った。妾宅の土地探しや普請にも立ち会った荷風さんは、その新築完成祝に「彩牋堂の記」を書くことを引き受けた。それを書こうと思ったのも、平素「鶉衣」の名文を慕う余りに出たもの・・・と也有「鶉衣」の素晴らしさを記したのが以下の文。 

 ・・・鶉衣に収拾せられた也有(横井)の文は既に蜀山人(大田南畝)の嘆賞措(お)かざりし處今更後人の推賞を俟(ま)つに及ばぬものであるが、わたしは反復朗讀する毎に案(机の意だろう)を拍(う)つて此文こそ日本の文明滅びざるかぎり日本の言語に漢字の用あるかぎり千年の後と雖(いえど)も必ず日本文の模範となるべきものとなすのである。其の故(わけ)は何かといふに鶉衣の思想文章ほど複雑にして薀蓄(うんちく)深く典故(てんこ:故事)によるもの多きはない。其れにも係はらず読過(読破)其調(そのしらべ)の清明流暢なる實にわが古今の文學中その類例を見ざるもの。和漢古典のあらゆる文辭(文書の言葉)は鶉衣を織成す緯(い:横糸)と成り元禄以後の俗體はその經(けい:縦糸)をなしこれを彩るに也有一家の文藻(文才)と獨自の奇才とを以(もつ)てす。渾成(一つにまとめあげること)完璧の語こゝに至るを得て始て許さるべきものであろう。


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荷風と八重が出逢ふ前 [永井荷風関連]

yaeji3_1.jpg 永井荷風は大正元年(明治45年)、33歳で親が決めたヨネと結婚。片や巴屋八重次(後の藤間静枝)と深間で、大正3年にヨネと離婚し、市川左団次夫妻の媒酌で八重次と結婚。しかし翌4年に離婚。以来、独身を貫いた。

 塩浦彰著「荷風と静枝」をはじめ八重について記述した書は多いが、江見水蔭「明治文壇史」には荷風に出逢う前の八重が描かれている。明治35年秋、二回目の洋行から帰朝した川上音二郎が、江見に明治座「オセロ」の脚本を超破格千円でオファー。江見との打ち合わせで、シェークスピア「オセロ」を、なんと!日清戦争後日本領とした台湾を舞台に、オセロが台湾植民地総督として赴任する劇に翻案。

 脚本を正味五日で脱稿した江見は、翌36年1月末から川上らが住む茅ヶ崎での本読み稽古に参加した。その際の江見になにかと寄り添う娘がいて「二人は怪しい」の噂が立ち、川上音二郎・貞奴も信じた。江見の釈明は通用せず、彼はありのままを小説化した「霙」を、同年12月の「太陽」に発表。その「霙」がネット公開されてい、実名は変えられているが大筋はこうだ。

 ・・・「オセロ」の茅ヶ崎での本読み稽古に老女優・初代市川九女八(くめはち)の付け人の娘が、海岸を散歩する江見に寄り添って来て身の上話しをする。彼女は新潟で文学芸妓として名高かった庄内屋の八重。大尽爺さんの世話になったおかげで学問をさせてもらった。江見の小説も読んでいた。その娘が改めて夫の候補にしたのが軍人と会社員。会社員に身を任せたが本妻がいた。女の操がもうめちゃめちゃで尼にでもなる心で女優になりたいと訴える。江見が帰京する列車にまで追いかけて同行する。同年春の明治座舞台。軍人の真心を見抜けずまた妾の身になったことを天から罰せられているように花売り少女に扮した彼女がいた。芸名は内田静枝・・・という内容。

 そして約6年後、荷風と出逢う数年前の明治43年3月3日の「国民新聞」に八重は「女優の懺悔」(七)にこんな文章を発表した。「・・・江見先生が慕はしくなり稽古の間間は勿論暇さへあれば先生の側を離れず種々の事をお聞き申したり又咄もする様になりましたすると一座の俳優達が妾の仕打を見て妙に感ずり妾と江見先生と何だか可笑しいといふ様な噂を立てたのですご迷惑なのは江見先生でした」。江見は後にこの静枝文章を引用紹介。

 この頃の永井荷風は慶応義塾の文科教授になってい、同年の秋に新橋の芸妓巴屋八重次に逢った。荷風はこの「女優の懺悔」を読んでいたと推測されるがいかかだろうか。また後の荷風本の八重紹介の記述は、概ねこの「明治文壇史」「霙」、そして八重の「女優の懺悔」が出典と思われる。

 (追記1)嵐山光三郎「美沙、消えた」の「あとがき」に、七冊の手写本「我楽多文庫」は最初に早稲田大学教授本間久雄氏の所有であったが、つぎに勝本清一郎氏の所有となった。(略)。勝本氏は、山田順子との関係で世間に名をとどろかせた。順子は竹久夢二のモデルとして同棲したのち五十五歳の徳田秋声と同棲し、秋声はその顛末をせつせつと小説に書いた。順子は秋声にあきると若い慶大生のもとへ走り、半年間同棲した。その慶大生は勝本清一郎である。勝本氏は順子の前は日本舞踊師匠藤間静枝の若い愛人であった。

(追記2)荷風さんも竹久夢二も共に雑司ヶ谷墓地で眠っている。両人は知らんだろうが、互いの墓の間を「順子と八重」が踊っているような気がしないでもない・・・。


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梅雨晴れに箕輪迷ひて浄閑寺 [永井荷風関連]

kafubungakuhi2_1.jpg 小チャリ(14㌅自転車)を駆って、新目白通りから安藤坂を上って春日通り、三筋二丁目を左折で菊屋橋から浅草へ走った。浅草寺界隈をまわって吉原へと思っていたが方向を見失った。三ノ輪の道路標識を見てならば浄閑寺へ。数回訪ねていたから様子は承知の介で、永井荷風文学碑(写真)へ。過去ブログですでに写真アップゆえ、今回は刻まれた詩「震災」を改めて吟味してみた。まずは全文を引用。行変えを/で棒打ちにする。

 今の世のわかき人々/われに今の世と/また来る時代の藝術を。/われは明治の児ならずや。/その文化歴史となりて葬られし時/わが青春の夢もまた消えにけり。/團菊はしをれて櫻癡は散りにき。/一葉落ちて紅葉は枯れ/緑雨の聲も亦絶えたりき。/圓朝も去れり紫朝も去れり。/わが感激の泉とくに枯れたり。/われは明治の兒なりけり。/或年大地俄にゆらめき/火は都を燬きぬ。/柳村先生既になく/鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。/江戸文化の名殘烟となりぬ。/明治の文化また灰とはなりぬ。/今の世のわかき人々/我にな語りそ今の世と/また来る時代の藝術を。/くもりし眼鏡ふくとても/われ今何をか見得べき。/われは明治の兒ならずや。/去りし明治の世の兒ならずや

kafubungakuhi1_1.jpg(私注)★「震災」は大正12年の関東大震災。清閑寺の荷風碑の前には安政2年の大震災で亡くなった吉原の遊女800名をはじめ昭和33年の新吉原廃止までに投げ込まれた2000名もの遊女の「新吉原総霊塔」がある。その意では震災がらみ。★教養ないもんで今まで「な・・・そ」がわからなかったんで勉強。「な・・・そ」は禁止を表す。~しないでください。わたしに問うなかれ・・・。「さすらいの旅をな泣きそ」(「船の上」)、「ゆめゆめ後をな見たまひそ」(「狼」)など荷風さん「な・・・そ」を多用している。★「われは明治の兒ならずや」=反語的強調表現=私は明治の兒ではないか、明治という時代の兒なのだ。★「團菊」は九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎★「櫻癡」は福地桜痴。明治のジャーナリスト、劇作家。源一郎、八十吉。荷風さんは二十歳の頃に彼の門下生として歌舞伎座の座付作者見習いで1年ほど過ごし、彼が「日出国新聞社」の主筆となった時も半年ほど記者として勤めていた。★「一葉」は樋口一葉★「紅葉」は尾崎紅葉★「緑雨」は斉藤緑雨★「圓朝」は三遊亭圓朝★「紫朝」は新内の柳家紫朝。碑文には間違って「紫蝶」と刻まれている。★「柳村先生」は上田敏★「鴎外漁史」は森鴎外。★「震災」は「明治の兒」から「明治の子」になり、最後に「震災」に改題された。「震災」が収められた詩集「偏奇館吟草」は昭和18年編で、昭和22年刊。

 磯田光一「永井荷風」は序章を「震災」引用で始め、最終章も「震災」引用で締めくくっている。その意で同詩はもっと注目されていいように思う。江戸・明治の文化の消滅への懐古の想いと悲痛な断念。永井荷風は日本の近代化ともいうべき「個人」(個人主義のエゴイスト、ストイシズム)」を最も鋭く肉体化しながら、同時に時代の変転が置き去りにした文明の残像を最も強く保守しようとした。永井壮吉ではなく「荷風散人」という仮構、十字架を貫いて生きたと分析していた。。難しいが、無学のあたしにもよくわかる。


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夏の夜に草藁棄つる隅田川 [永井荷風関連]

eitaibasi.jpg 写真は永代橋から望む佃島の「大川端リバーシティ21」。8棟余の高層マンションが屹立して、誰もが撮ってみたくなる風景。だが自動車やバイク走行中にそう思っても、橋の上では駐車しずらくて撮ること叶わぬ。それが自転車だと撮れるんですね。この光景は90年代に出現。佃島を散策すると江戸風情と高層ビルの面白い絵になる。

 昭和3年8月、荷風さんは「お歌」を伴ってここから3日に亘って草藁を棄てている。最初は24日で新大橋から捨てたが拾われて失敗。25日夜に永代橋から引汐で流れる芥塵のなかに脚本や浄瑠璃の草藁を投棄。28日夜に子供時分に記した漢詩や旅行記などを投棄。31日には手紙類を投棄。荷風さん、人に見られたくないものをいっぱい書いていて、最初は庭で燃やしていたが怪しまれたのでこんな仕儀に相成候。荷風さんにとってシュレッターは夢の機械だったに違いない。

etaibasitree_1.jpg 荷風さんが永代橋を通るすべての日をピックアップして草森紳一が5㌢もあるぶ厚い「荷風の永代橋」(読むのに眼より手が痛くなった)を著した。中国文学科卒の草森さんは荷風と漢詩人の父との確執をそうとうに掘り下げていた。荷風さんもカメラ爺だったが、門仲在住・草森さんも永代橋の写真を5百枚余も撮っていたとか。永代橋から高層マンション群の反対、上流に眼をやれば東京スカイツリーが聳えていた。共に最近の景色なり。

 この永代橋は文化4年(1807)の深川八幡宮祭礼の日、群衆の重みに耐えきれずに崩落し、千人余の水死者を出した。大田南畝はこの未曾有の惨事の目撃談を聞き集めた「夢の浮橋」を著している。この時、南畝は59歳で、30歳の「お香」を妾にしていた。

 一方、荷風さんの「お歌」は…尽きせぬ戯れのやりつづけも、誰憚らぬかくれ家「壺中庵」でしけこんだ仲。その後「お歌」は荷風パパに麹町三番町に待合を作ってもらった。荷風さん、鋸で覗き穴を作って他人の密会を覗いていたこともある。余計なことを記した。


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梅雨曇り荷風気取って元八まん [永井荷風関連]

motohatiman1_1.jpg 昨日、ふと思い立ち荷風さんの「元八まん」を自転車で訪ねた。永代通りを葛西へ。葛西臨海公園への鳥撮りにバイクで通って慣れた道。バイク疾走に比し、こぎこぎして見る景色はちょっと別なり。隅田川を越え、“もうひとつの墨田川”こと荒川放水路手前を左折。高層住宅や工場などに囲まれ、隣接した幼稚園の子らの賑やかな声満ちて元八まん(富賀岡八幡宮)があった。荷風さんが人影もない枯蘆のなかで半ば朽廃した「元八まん」を発見したのは昭和7年12月だった。

 随筆「元八まん」にこうある。・・・わたくしが砂町の南端に残ってゐる元八幡宮の古祠を枯蘆のなかにたづね当てたのは全く偶然であった。(中略)。初て荒川放水路の堤防らしい土手を望んだ時、その辺の養魚池に臨んだ番小屋のやうな・・・(略)・・・ふと枯蘆の中に枯れた松の大木が二三本立ってゐるのが目についた。近寄って見ると、松の枯木は広い池の中に立ってゐて、其の木陰に半ば朽廃した神社と、灌木に蔽はれた築山がある。庭は随分ひろいやうで、まだ枯れずにゐる松の木立が枯蘆の茂った彼方の空に聳えてゐる。垣根はないが低い土手と溝とがあるので、路の此方から境内へは這入れない。わたくしは小笹の茂った低い土手を廻って、漸く道を求め、古松の立ってゐる鳥居の方へ出たが、其時冬の日は全く暮れきって、軒の傾いた禰宜の家の破障子に薄暗い火影がさし、歩く足元はもう暗くなってゐた。わたくしは朽廃した社殿の軒に辛くも「元富岡八幡宮」といふ文字だけを読み得たばかり。

fijiduka1_1.jpg 荷風さん、「江戸名所図会」などで知っていた「これが、あの元八まん」と発見した喜びでこの随筆を書いた。こうしめくくっている。・・・その後一年ほどたってから再び元八まんの祠を尋ねると、古い社殿はいつの間にか新しいものに建替へられ、夕闇にすかし見た境内の廃趣は過半なくなってゐた。世相の急変は啻(ただ)に繁華な町のみでなく、この辺鄙に在っても亦免れないのである。

 そして79年後の今、冒頭で記した通り「元八まん」は高層住宅や工場に囲まれるように建っていた。荷風が記した築山は富士塚で、荷風が訊ねた翌年、昭和8年に水害で形が崩れ、昭和30年の写真が史跡看板に載っていた。今は溶岩で形造られた立派な富士塚。当時の閑寂とした風景は「江戸名所図会」や広重の「名所江戸百景」の「砂むら元八まん」、そして荷風さんの「断腸亭日乗」(昭和7年1月8日)のスケッチで偲ぶだけとなった。

 新大久保から荒川放水路(清砂大橋)まで往復約29㎞。帰りは飯田橋辺りで脚に乳酸が溜まった。14㌅自転車ではちょっときつい。都内散策用にクロスバイク、いやママチャリでも買おうかしら。


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半藤一利「其角俳句と江戸の春」 [永井荷風関連]

kikakuhon_1.jpg あらっ、こんな本があったとは。図書館には事前に借りたい本をリストアップして行くが、目的定めず本棚を眺め歩いて同書に出逢い小躍りした。著者の「永井荷風の昭和」「荷風さんの戦後」を読んでいるが、同書は江戸っ子が親しんだ其角の有名句を四季に分けて解説、というか江戸の暮しを記しているが、「其角ばなしの章」最終章が「永井荷風と冬の蠅」。

 まずは同書引用で其角の紹介。「宝井其角または母方の姓をとって榎本其角(1661~1707年)。生粋の江戸っ子。14、5歳で芭蕉に師事し、芭蕉に<門人に其角、嵐雪あり>といわしめる蕉門十哲の筆頭俳人」。これにあたしが追記すれば、俳人に関西系が多いも、粋が信条の江戸っ子で酒が好き、女好き、吉原好き。まっ、不良俳人だな。

 さて「永井荷風と冬の蠅」。荷風さんは其角が好きだったに違いないと「日和下駄」「断腸亭日乗」「荷風俳句」から其角がらみを拾い集めている。(あたしもそうやって遊んだことがある)。以下引用。「永井荷風の随筆集に“冬の蠅”がある。その序に“憎まれてながらへる人冬の蠅”という普子(其角)の句をおもひ浮かべて、この書に名をつく・・・(中略)。それはもう楽しいくらいに荷風さんは其角への思い入れを作品のとことどころに織り込んでいる。つまり<冬の蠅>同士の深い愛情で二人は結ばれている」

 そして其角俳句を下敷きにした荷風句を拾っている。例えば其角の吉原句「京町の猫通ひけり揚屋町」から、荷風は「色町や真昼しづかに猫の恋」。また「日和下駄」は其角が読んだ江戸風情の句を辿るように歩いていると指摘。最後に著者は、荷風は最晩年の昭和31年11月29日、白金・上行寺に其角墓に詣でている・・・で締めくくっている。なお、今は同寺は伊勢原市に移転。平凡社、2006年刊。

★追記:其角については今泉準一著「其角と芭蕉と」がお薦め。流し読みなので、もう一度熟読したい。これ内緒だが大久保図書館にある。


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石原都知事と永井荷風の“天罰” [永井荷風関連]

「書かでもの記」+「写さでもの記」(2)

 石原慎太郎の都知事4選が決まった。氏は3.15に「我欲に走った日本人に天罰が下った」という意の発言をした。間髪を入れず宮城県の村井知事が「塗炭の苦しみを味わっている被災者がいることを常に考え、おもんばかった発言をしていただきたい」と不快感。石原知事は即、謝罪した。

 この“天罰”、どこかで読んだ記憶があるぞ。そう、永井荷風が大正12年の関東大震災の約一ヶ月後の「断腸亭日乗」で、こう記していた。・・・帝都荒廃の光景哀れといふも愚かなり。されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、いはゆる山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず。近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は“天罰”なりといふべし。(中略) 外観をのみ修飾して百年の計をなさざる国家の末路は即かくの如し。自業自得“天罰”覿面といふべきのみ。

 永井荷風は「世間一般の奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざり有様」もそうだが、帝都の表面だけ西洋風にした明治・大正の都市建築とその行政に“天罰”が下ったと記したのだ。アメリカ、フランス留学から帰国したばかりで、西洋の重厚な都市建築のなかで暮らしてきた荷風ならではの記。

 さて、首都の長ながら「民に天罰が下った」と吐いた4期継続の石原都知事は“天罰”下らぬ東京を作ってくれるだろうや。


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神田川晡下の桜の艶きて [永井荷風関連]

kanndagawa1_1.jpg 晡は「ひぐれ・ホ」。晡下は申の刻、午後4時。荷風さんは独り者だから、この時刻になると外食がてら街に繰り出す。「断腸亭日乗」には連日「晡下、銀座」「晡下、浅草」の記述あり。

 荷風さんを気取ったわけではなく、野暮用で「晡下、神田川」の桜狩と相成候。「桜は陽が当たっていなきゃ輝かねぇ」と思っていたが、夕陽の逆光桜もそれなりに風情あり。寒さ続きにやっと吹き込んだ南風のせいもあるか、晡下の桜はどこか艶かしい。

「おまいさん、アレもお撮りよ」とかかぁ。見ればコンクリート護岸壁に蔦の揺れで白くこすれた跡。蔦の長さで半円大小の妙。撮ってから、対岸を水平に、もう少し強い風を待ち、もっとスローなシャッターで…と思ったが、そこまで写真に執着する気もなく、まぁ、いいかと思ったのが下の写真。

kanndagawa2_1.jpg


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荷風さん震災日記で嘘を書き [永井荷風関連]

 東日本大震災に被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。下らぬブログゆえ、11日より更新を控えてきたが東京でも「計画停電」や「買占め」、さらには「放射能」や「静岡東部地震」でなにやらヒステリックな呈。駄文も必要かと更新です。

 11日はかかぁの趣味、アンティーク食器を収めた飾り棚が倒れぬよう押さえていたが、そこから見えるあたしの部屋では本箱の上に並べた荷風全集と関連本が次々落下。どれもが厚い函入り本で落下衝撃の凄いこと。その他いろいろ落下で足の踏み場もない。その荷風さん、大正12年9月1日の関東大震災をどう過ごしたのだろう。落ちた全集をひもとけば、当日は麻布の偏奇館を飛び出て表通りの山形ホテルで昼食・夕食。その3日後に仲たがいした弟宅に居る母を訪ねて大久保を訪ねている。その番地がなんとあたしんチ辺り…。荷風さん、日記には母を訪ねて無事を確認。母方の鷲津家が上野に避難と聞き、消息を尋ねて上野に行った。その際に初めて弟の妻を見たとあっさり記している。実はこれが嘘八だってぇんだ。

 松本哉「荷風極楽」によると、荷風さんは大久保の家の門を叩くも警戒した家人が門を開けず、7時間(ホントかいなぁ)も叩き続けて、隣人の紳士風だからの忠告でやっと門を開けたとか。そこで母が心配する鷲津家の消息を尋ねて上野へ行くことになる。荷風さん、麻布から大久保、7時間も門を叩き、その上で上野まで行くことになる。ひとりで行くのは嫌だと弟の嫁を同行。上野まで行ったが鷲津家の消息はつかめず。疲労困憊の風体に自警団に尋問されて弟の妻に助けられ、さらには弟の妻に背負ってもらうなどのていたらくでやっと大久保に戻ったとか。荷風さん、仲たがいの弟の妻に背負われたなど日記に書くワケがない。日記をこうしめている。「弟の妻と言語を交えるなど非常の際なればやむ事をえざりしなり」。日記もブログも嘘が多いてぇはなし。あぁ、ブログ更新を控えてきたが、また駄文なり。 


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真銅正宏「永井荷風・ジャンルの彩り」 [永井荷風関連]

madokafu2_1.jpg 先日記した持田叙子「永井荷風の生活革命」が若い世代?の女性が、その感性で軽く著したものとすれば、その対極で精査分析の荷風論を展開したのが真銅正宏「永井荷風・ジャンルの彩り」(世界思想社刊)。持田より3歳若い40代末の書。同志社大教授。永井荷風は次々に若い世代を虜にして面白いことよ。

 まず荷風の多ジャンルの側面考察から、その文学性を探る…と書き出す。劇評、翻訳、短編・長編小説、戯曲脚本、日記、芸術論…荷風のこれら多ジャンル模索は、自らの文学概念を作品化して行く文学営為なりと記す。ここから初期作品群の和製漢文体(漢文に遣われていた青年・荷風が次第に漢文を効果的に遣い出す過程を紹介)。ルビ付文体(右ルビ、左ルビなどの時代変遷を紹介)。そして荷風の言文一致(若い荷風の落語家に弟子入りも真面目な文学修行だった…の説を紹介)。荷風ならではの対話体に歌舞伎科白との類似を指摘。ここから各論で人情小説、ゾライズム、訳詩、花柳小説、散策記、随筆的小説、掃墓の美学、墨東綺譚、日記は文学かなど。

 無学な老人ゆえ理屈臭い同書を精読とは参らぬが、なんとか読了。荷風好きということは、その旧仮名・旧漢字、漢文出典の漢字たち、漢文っぽい文体に親しんでいるワケで、とりわけ「文体論」が面白かった。


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持田叙子「永井荷風の生活革命」 [永井荷風関連]

motidakafu1_1.jpg 昨今の荷風ブームで毛色変りの荷風本あり。雪村と若冲の美術本を借りに図書館へ行ったら、そんな荷風本が眼に入った。その一冊が持田叙子「永井荷風の生活革命」。講義をまとめたとか。安易な本だなぁ~と思いつつひもとけば句読点が変。話し言葉のもどし文かと思ったが、書き下ろし文も同じ。蓮っ葉な文体だなぁ~と思いつつ読んだら引き込まれた。以下、その文体を大げさに真似して備忘録。

 第一章「女性の自立の物語」。荷風が付き合うのは。“玄人・商売女”で当時の自立した女たち。八重次とは芸術家同士の結婚。荷風は“新しい女・女性の自立”を書き続けた。常に。…おぉ、そんな見方がありかと。持田先生、するってぇ~と花柳界は新しい女性の先端だったんだね。

 第二章「個と孤の生活詩」。荷風のシンプルライフはウィリアム・モリスの生活芸術思想による。と説く。おぉ、ここでモリスが出てきたか。モリスを最初に紹介は社会主義者・堺利彦。彼の発行「家庭雑誌」はモリスの家庭生活啓蒙。荷風の若き時代の親友・西村渚山。彼がその編集を引き継いだ。モリス~堺~西村~荷風の系譜。あの偏奇館の質素なイギリスのコテージ風もかくありと。

 第三章「荷風の庭」。荷風の庭や小鳥好きに焦点。それは権力の及ばぬ私生活、個的空間の確立。持田先生、ウチの親爺も庭作り、盆栽が好き。荷風さんとおんなじだったのかなぁ。第四章「老いと死の意識」では荷風のやつし・老い好みは侵略・軍国主義が突出した天皇制国家の画一化によってスポイルされた文化の掘り起こし。柳田国男が山人を、荷風は江戸芸術を掘り起こして抵抗した。柳田~鴎外~荷風つながり。

 一日で読了。軽い本。だがその視点はユニークで説得力もあって面白い。荷風さん、面白い女性評論家を生んだようだ。(2009年・岩波書店刊)


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