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鶉衣9:借物の辨‐玉ともちるなり [鶉衣・方丈記他]

karimono1_1.jpg 大田南畝が『鶉衣』に関心を寄せるきっかけとなった「借物の辨」を読む。 久かたの(月の枕詞)月だに(でさえ)日の光をかりて照れば、露また月の光をかりて、つらぬきとめぬ玉ともちるなり。

 ”つらぬきとめぬ玉ぞちりける〟は百人一首の文家朝康の下の句。貫き通して止めぬ玉が、真珠か数珠かのように散る。ここまでの意は、月でさえ日の光を借りて照る。露も月の光を借りて輝いて玉と散る。

 むかし何某のみことの、このかみのつりばりをかり給ひしより(山彦が海彦に釣り針をお借りしたが)、まして人代に及んで(人の世になって)、一切の道具を借るに、借すものもたがひなれど、砥(といし)の挽臼のといへるたぐひは(云える類は)、借すたびに背ひきく(低く)、鰹ぶしはかりられて、痩せてもどるこそあはれなれ(心が痛む)。

 (だが)金銀ばかりは得(利子)つきて戻れば、もと(元=はじまり、おこり)かる(借る=借りる)事のかたきにはあらぬを(敵ではないのに)、かへす事のかたきより、今は借る事だに(でさえ)たやすからず。(続きは次回へ)

 大田南畝は、この也有『鶉衣』を世に出した前年に吉原・松原家の新造・三保崎を身請けして妻妾同居した。下級武士・御徒歩組の身で吉原の遊女を身請けできる金があるわけもなく、誰かがお金の援助をしたらしい。それは当時の文人らのパトロンで勘定組頭・土方宗次郎だろうと揶揄されている。その土方は田沼意次に代わって老中になった松平定信の最初の粛清で横領罪で斬首される。天明9年=寛政元年で。定信の「寛政の改革」はここから始まっている。

tuyu1_1.jpg 大田南畝は松平定信が老中になると、身の危険を察知して狂歌仲間と絶縁。学問吟味に挑戦する。そんなこともあって南畝には「借物の辨」に痛感するところ大だったと推測される。

 古くは「貸す」を「借す」とも表記された。写真は「月の光を借りて貫き止めぬ玉」の図。


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