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マイセンの二級印ぞ桜雨 [デミタス&飾り皿]

upmeissen1_1.jpg 先日、日本橋の三井記念美術館で開催の「デミタス コスモス」展を観に行った。「デミタス」は仏語で半分の意の〝demi〟+カップの〝tasse〟=demitasse(半分のカップ)で、濃いコーヒーを飲む器。なぜに、そのアンティーク蒐集展を観に行ったかといえば、実は我が貧乏隠居所に似つかわしくない立派なガラス張り食器ケースがあって、「デミタス&飾り皿」が収まっているんだ。それらは小生が稼いでいた時分に、女房がヘソクリでセッセと買い込んでいたものらしい。

 かくして我が家では地震がくれば、まずその食器棚を押さえることになっている。「デミタス」は15セット程あって、それら磁器の知識、鑑賞眼が皆無ゆえに、同展覧会で多少の勉強をしてみようと思い立ったワケ。まぁ、女房孝行です。

souken1_1.jpg 帰宅後に、その食器棚からまず最初に手に取ったのが「マイセン」のバックスタンプ(窯印。この言葉も今回初めて知った)がついた「デミタス」。同展覧会のカタログより「マイセン」の頁をひもとき、手にした「デミタス」を「上絵金彩花と男女図の交互構成カップ&ソーサー」と題し、その優美な曲線を愛でた。

 さて、肝心のバックスタンプをじっくりと調べる。「双剣」で間違いなくマイセン製と判断。さらに双剣マーク下方先端に点で〝ボタン剣〟なり。他に点や文字もなく、これは1800~1910年製と判断した。うむ、ちょっと高額なり!とほくそ笑んだが、そうは問屋が卸さなかった。マイセンのバックマーク説明をさらに読め込めば「1980年までの二級品には、マイセンマークに重なるように二本の切れ込み線が入っている」の記述があるではないか。

 まぁ、我が家のマイセン「デミダス」には、微かに双剣マークに二本の刻み線がある。写真では分かり難いが手でさすってみると良くわかる。どうやら二級品(瑕物)を掴まされたらしい。かかぁにそう言えば「いいのよ。眺めていて〝まぁ、きれい。こんな磁器を作っていた時代があったんだ〟と楽しんでいるだけだから」。そうは言うが落胆は隠せぬので、こう慰めた。「うん、〝ボタン剣〟ゆえに105年前の製品には間違いない。明治か江戸時代の作。歴史と美しさは充分に楽しめるよ」。こんな調子で我が家のデミタス&飾り皿をひとつ一つ調べて行くことにした。


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志ん生の独り稽古や崖の春 [新宿発ポタリング]

edohyakusuwanodai_1_1.jpg 谷中の「夕焼けだんだん」の雑踏を右に見上げつつ直進し、ややすると静かな急坂があった。自転車を押して上れば、ここが日暮里・富士見坂。振り返るも曇天で富士山は見えず。坂の上は諏訪台。左へ諏訪神社から道灌山。向こうの崖下は隅田川までの低地が広がる。ここは半島状ミニ台地になっているのだろう。前回のブログで『鶉衣』の「飛鳥山賦」を記したが、この細長い台地は「飛鳥山」まで続いている。

 江戸時代は「諏訪台」も「飛鳥山」でも北東側の崖下に向かって「土器(かわら)投げ」が興じられたとか。遠く筑波山や日光の山々も見えたそうだが、今は「まなじりさはる(目に障る)物なく」とは参らず、崖下沿いに山手線、京浜東北線・京成線が走り、田畑ではなく密集した街並みが広がっている。

 絵は広重「名所江戸百景」の「日暮里(ひくらしのさと)諏訪の台」。同「飛鳥山」とほぼ同じ構図(景色)だが、絵中央に急坂を登ってくる人が描かれている。この坂は「地蔵坂」で、今はJR西日暮里駅に下って行く。山々の向こうに朱色があるが、北東ゆえ夕陽は見えぬはず。とは言え早朝でもなさそうだがら、夕陽の照り返しだろうか。

 この地に立つと、あたしは「志ん生」が崖下の景色を見ながら落語の独り稽古をしている姿を想う。酒と博打と吉原通いで貧乏から脱せぬ「志ん生」だったが、彼の妻が「諏訪台で独り稽古を何時間もしている姿をよく見ました。落語だけは真剣でした」と述懐する文章を読んだ記憶がある。今ではどんな本だったかも思い出せぬが、妙にその文章だけを覚えている。

iwanobori_1.jpg 帰宅後に結城昌治『志ん生一代』に眼を通してみた。こんな一文があった。~弟子に稽古をつけるときは別だが、人前で稽古をするのは相変わらず照れくさくて出来ない。といって自分ひとりの部屋がないので。稽古はいつも谷中の諏訪神社の境内へいってやった。

 うむ、「志ん生」がここで落語の独り稽古をやっていたのは間違いなかろう。あたしは「志ん生」と「志ん朝」(CD全集を持っている)好きで、彼ら没後の落語にはなかなか興味が持てない。今、諏訪台崖下の線路向こうのスポーツジムのビル壁面にフリークライミングの人形が取りついていた。

 「江戸名所百景」~「志ん生の独り稽古」~そして現在の景色。ここに立つと約160年ほどの時間の流れが感じられる。


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鶉衣18:飛鳥山賦‐酒宴可の花見 [鶉衣・方丈記他]

asukahissya_1.jpg けふはこの事かの事にさはる(障る)事あり、あすは飛鳥山(あす・飛鳥山の語呂)の花みんみんと(見よう見ようと?)、心に過ぐる(上代語。過ぎる)日数もやゝ弥生(やゝ・弥生の語呂)の廿日あまり(新暦で五月上旬)、尋ねし花は名残なくちりて、染めかはる若葉の其色としもなきも(新緑の季節の感だが)、春を惜しむ遊人は我のみにあらず、爰に酒のみ、かしこ(彼処)にうたひて、此夕暮に帰るさわするゝも、中々心ふかきかた(深いおもむき)におもひなさる。「ちり残る茶屋はまだあり花のもと」

 山下千里のまなじりさはる(目に障る)物なくを、らうらうと霞みわたれる田野村落の詠(なが)めえならず、きせるをくゆらすこと暫時あり。「雲雀より田打へ遠し山の上」

 「飛鳥山賦」の「賦」は古代中国の韻文の一つ。叙情的要素より羅列的に描写する文体。「えならず=副詞(え)+四段動詞(成る)の未然形+打消しの助動詞(ず)=並大抵ではない、普通ではない」。「雲雀より田打へ遠し山の上」は、山の上では空で鳴くヒバリより田を耕す姿の方が遠くに見えるよの意。

asukayama1_1.jpg 絵は広重「名所江戸百景」の飛鳥山。上野の花見は酒が御法度だったので、庶民は飛鳥山で酒宴したそうな。さて、也有は尾張藩用人の父を継いだ後、二十九歳で江戸勤番。六代藩主・継友没から七代の宗春に仕えた。だが宗春は将軍・吉宗の倹約施策に逆らって、真逆の「温知政要」で華美・享楽を展開。よって元文四年(1739)に吉宗に隠居謹慎させられた。最初は尾張藩中屋敷(現・上智大)に謹慎で、新藩主は宗勝へ。也有がこの文を記したのは寛保元年(1741)、四十歳。波乱万丈の尾張藩の江戸勤番はさぞ大変だったろう。冒頭の〝この事かの事さはる事あり~〟に愚痴を言いたい心情が吐露されている。かくして花見の時期を逸しての飛鳥山。それでも楽しかったと健気なことを記している。


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大島町も「消滅可能性町」 [週末大島暮し]

ohsimazennkei_1.jpg 3月22日の新聞に、4月の統一地方選では「消滅可能性都市」とされる多くの自治体で選挙が行われる、との一文があった。そこで「消滅可能性都市」を知るべく、同データ発表の「日本創生会議」のサイトを拝見した。

 平成26(2014)年5月8日発表のデータが公開されていた。「人口移動が収束しない場合に、2040年に若年女性が50%以上減少する人口1万人未満の市区町村が全国で523=これを消滅可能性市町村」。気になる大島町も予想通り?ランクインされていた。

 消滅可能性のある市区町村=東京都大島町のデータだけを以下に記す。2010年の総人口=8,461人/うち20~39歳女性631人。2040年予測の総人口=5.556人/20~39歳女性443人。2010年から2040年の若年女性人口変化率=マイナス33.2%。人口移動が収束しない場合の若年女性人口変化率=マイナス55.2%。うむ、確かに大島では若い女性は少なく、赤ちゃんを見る機会が少ないし、ご高齢者がとても多い。

 このデータは何年か前から発表されてい、消滅可能性自治体になった「豊島区」は衝撃を受けて、女性在住者獲得と活発化を促す施策を模索していた。今月22日のテレビを観ていたら、若い母親らに提案を求めて「出産前の育児支援」「女性の起業」など〝消滅可能性都市からの脱却〟に22億円、50事業の展開を早くも決定と報じていた。

 さて、大島町はデータが発表されてから、若い女性の在住者促進に何らかの施策を打っているだろうか。いや、端から東京都頼りゆえに「消滅可能性市町村」といわれても問題意識も持たぬような気がしないでもない。

 時に島に滞在するあたしらも老人だが、島はご高齢者が多い。昔から若者は高校卒業と同時に島を出て行き、若い母親と赤ん坊は滅多に見ない。あたしらは島に行けばロッジから出歩かずに静かに暮らすだけだが、それでも前回の島滞在中に、三人の新たな移住者にお目にかかった。全員男性だった。これからは島に行って若い女性を見たら〝神々しく〟思い、赤ん坊を見たら〝宝物〟と思うに違いない。


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春めきて街に溢るる女体かな [新宿発ポタリング]

hana.jpgkinndaibijyutu.jpg 自転車で街を走っていると、銅像を眼にすることが多い。概ね明治維新の薩長出身の軍人さんが多く、江戸ッ子はあまりいい気がしない。

 女性の裸体像も多い。ハワイか南米のビキニ姿の女性らが闊歩する国ならまだしも、未だ外套も脱げぬ季節の公共の場で、いきなり裸体像に出逢うとドキッとしてしまう。

 最初に紹介は、皇居ランナーに交って自転車で走っていたら、道路向こうの東京国立近代美術館の前庭にアクロバチックな女体像が驚かせてくれた。調べたら「ヤゲン財団コレクション」のマーク・クインさんの作品らしい。ご高齢のご夫人が口をあんぐり開けて見惚れていた。

 谷中の朝倉彫塑館屋上の、跪き空を見上げる豊満な女体ブロンズ像を見た。谷中墓地に隣接していて死と命の対比に感心してしまった。もう一つは野暮用で時に下りる田端駅「ふれあい橋」の、眼にも眩しい黄金の女体像「華」。芸術ゆえ観るに恥ずかしがらなくてもいいのだろうが〝どこ見てんのよぅ〟と言われそうで、つい俯いて通り過ぎる。

asakuraonna_1.jpg むろん男性の裸体像も多い。皇居は半蔵門沿の公園に裸体群像がある。何故に東京に裸体像が多いのだろうか。裸体の絵や写真は、概ね書籍や美術館に収まっている。イタリアのルネッサンス彫刻でもないのに、東京の公共の場での裸体像の多さに、何か訳があるのだろうか。

 谷中墓地に「川上音二郎」碑がある。その上にあった全身ブロンズ像は戦争中に供出されたとか。ゆえに当然ながら戦前、戦中には街中に裸体像があるワケもなく、これは戦後になってからなのだろう。戦後の解放感、自由謳歌ゆえか。

 裸の世界なら銭湯、公衆浴場がある。ここに女体像があってもおかしくないが、ここには何故か富士山が描かれている。ゲージュツは展示を含めて奥が深いのかもしれない。


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鶉衣17:煙草説‐神龍の働き [鶉衣・方丈記他]

tabako3_1.jpgそも(いかにも、本当に)煙草の徳も、むかしより人かぞへ古(ふる)して、今さらいふもくどければ、かの愛蓮(中国栄代の周さんが〝蓮は花の君子〟と言った愛蓮説)にならひて此類の品定せむに、酒は富貴なる者なり、茶は隠逸なる者なり、たばこはさしづめ君子の番にあたりて、用る時は一座に雲を起し、しりぞく時は袖のうちに隠る。こゝに神龍の働きありといふべし(いやはや、えらく煙草を持ち上げたものだ)。

下戸と妖物(ばけもの)は世にすたれて、下戸は猶少からず、今や稀なるたばこぎらひにして、野にも吸ひ山にも吸へば、たばこ入の風流、日々にさかんで、きせるの物ずきとしどし(年々)にあたらしくて、若輩の目を迷はせども、楠が金剛山の壁書をみて思ふに(楠正成が壁に武具の使い方を書いたそうで、それに習って~)、たばこははさがね(乾燥しない)を専とし、きせるはよく通り、灰吹はころばぬを最上とこそ。さらば色みえでうつろふ花の人心にも(移ろいやすい人の心だが)、畢竟(結局)そのものゝ本情・実情をうしなはざれとなり。

 あたしの子供時分には「羅宇(らう、らお)屋」が蒸気装置を組み込んだリヤカーを「ピー」という音を発しつつ曳いて来た。祖母は死ぬまで煙管党だった。刻み煙草は「ききょう」。亡くなった後も、家には祖母の煙管があって、いつかそっと自分の抽斗に仕舞い込んだ。はて、何処へ行ってしまったか。「羅宇屋」を知っている最後の世代だろう。

kiseru1_1.jpg 絵は浮世絵に描かれた煙草盆。竹の円筒状が「灰吹(はいふき)」。吸い終わったら灰吹にポンッと叩き捨てるか、プッと吹いて落とす。丸い容器は「火入」だろう。火種が入っている。これらをセットした煙草盆は手提げ型、桶型、箪笥型、さらには蒔絵が施されたものと様々。横井也有はここまで煙草を愛したが82歳の長寿だった。肺がん、禁煙が騒がれたのは平成10年以降じゃないだろうか。


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鶉衣16:煙草説‐江戸情緒たっぷり [鶉衣・方丈記他]

kiserue_1.jpg やごとなき(やむごとなし=捨ててはおけぬ、別格な)座敷に、綟子張(もぢばり=麻糸をもじって荒く織った布=綟織を張って漆を塗ったもの)の煙草盆をあたま数に引きわたしたるより(人数分の煙草盆を渡されるより)、路次(露地)の待合に吸口包みたるは(煙管の吸口を袖口で包み拭くのは)、にくからぬ風流なれど、さすがに辞儀合(じきあい=挨拶などを交わす)に手間も取るべし、只木がらしの松陰に駕立てて、継ぎせる(繋ぎ合せて用いる携帯用煙管)取りまはせば、茶屋の嬶(かか)のさし心得て、鮑がら(鮑の殻)に藁火もりてさし出したる、一瓠千金(いっこせんきん)のたとへも此時をいふにや。また雲雀など空のどかに、行先の渡場とひながら、畑打(はたうち)のきせるにがん首さしあわせて(煙管の雁首を交わし合って火をもらう)一ぷく吸付けたる心こそ、漂母(へうぼ、ひょうぼ=洗濯する老婆)が飯の情よりうれしさはまさらめ。

tabako2_1.jpg 煙管の江戸情緒が眼に浮かぶようです。「綟張」「畑打」「辞儀合」「漂母」「鮑殻」などすべて「広辞苑」に載っている。「一瓠千金」はネット検索で「千金一瓠」があった。「瓠=カク、コ、ひさご、ふくべ、ひょうたん。瓢箪で作った容器」。船が沈した時にはコレが千金の値になる意らしい。転じてつまらない物でも役に立つ。文脈から「何でもないことのようだが、素晴らしいことだ」と訳すのがいいか。

 絵は煙管(キセル)。左から「火皿」、雁首並べて待っていろの「雁首」「羅宇」「吸口」。徳川宗春は吉宗にさからって、派手な衣装で長さ二間の長煙管をくゆらせたとか。本当かいなぁ。


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鶉衣15:煙草説‐琴・詩・酒より優る [鶉衣・方丈記他]

tabako1_1.jpg 夜道の旅のねぶたき(眠たき)とて、腰に茶瓶も提(さ)られず、秋の寝覚の淋しきとて、棚の餅にも手のとゞかねば、只この煙草の友となるこそ琴・詩・酒に三ツにもまさるべけれ。揬(て扁+突=くど=竈=かまど、へっつい)のもえ杭をさがしたるは、宰予(さいよ=孔子の門人)が昼ねの目ざましにて、行灯に首延したるは小侍従の待宵の小侍従ならむ。達磨は九年の壁にむかひて、炭団の重宝を悟り、西行は柳陰にしばし火打の光を楽しむ。

 「論語」引用・もじりが多いので、中国古典選『論語』(上下、吉川幸次郎著)の古本を購った。「宰予が昼寝の目ざましにて」は「公治長五」にあり。「宰予昼寝 子曰 朽木不可雕也 糞土之牆 不可杇也~」。宰予は昼寝ばかりしている。孔子は朽ちた木に彫刻はできぬ、悪い土で壁は塗れぬように、彼を叱ってもしょうがない。まぁ、そんな意のことが書かれているそうな。徂徠は「昼日中から女とねている」と解釈したそうな。昼寝から眼めてへっついの燃えさしで煙草の火をつけた、なぁ~んてことは書かれていなかった。

 「待宵の小侍従」は「平家物語」の「蔵人伝」の行灯に首延したる、からとか。背が低い女房(奥向きの女性)ゆえに〝小侍従〟の名がついたそうな。あたしは哀しいかな「論語」も「平家物語」も頭に入っていないから、読みつつニヤリと味わう妙には至らぬ。「達磨」が本当に炭団で煙草の火をつけたかも知らない。いや、これは「だるま葉」が代表的〝葉たばこ〟のことだろう。「西行法師」は旅をしながら酒と煙草をこよなく愛したとは容易に想像できる。次を読む。

kiseru2_1.jpg されば出女(宿場の客引き女)の長ぎせるは、夕ぐれの柱にもたれて、口紅兀(はが)さじと吸ひたる、少しは心づかひすらんを。船頭の短ぎせるは、舳先に匍匐(はらばひ)で有明の月を詠(なが)めながら、大海へ吸がら投げたるよ、いかに心のはれやかならむ。

 あたしはチェーンスモーカーだった。一日に四十本余。だが一度の禁煙でスパッと止められた。コツを教えよう。吸いたいと思うのは「ニコチンスキー」という奴が囁いてくるからで(と擬人化して)、そいつと闘えばいい。負けず嫌いな人は、簡単に〝彼〟との闘いに勝てる。


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東電とレンガ高架橋の狭間で [政経お勉強]

toukyoudenryoku_1.jpg 自転車で新橋辺りを走っていたら、ガードマン(警官?)らが厳しく警護する建物があった。何だろう。「東京電力本社」だった。日本列島に人が住めない汚染地域を作った。そして同本社裏に古色蒼然「レンガアーチ高架橋」が有楽町~東京駅へ続いていた。

 このレンガ高架橋は明治時代の竣工。関東大震災(大正12年)、東京大空襲(昭和19・20年)を経て今なお現役。「レンガアーチ高架橋」は中央線のお茶の水~神田~東京駅にもある。東北線や上越線、京浜東北線が秋葉原を経て東京駅へ。昔はここに「万世橋駅」があった。東京駅と同じ辰野金吾設計。そして今日(3月14日)は「上野東京ライン」の開業。上野を経て東電本社裏・新橋辺りの「アーチ高架橋」の上を疾走して行く。

koukakyou1_1.jpg レンガ建造物を見ると明治・大正を振り返らずにはいられない。明治維新からの「富国強兵」で日本は大帝国日本へ。日清戦争が明治29・30年(1894~95)で、日露戦争が明治37・38年(1904~5)。そして東京駅周辺の「レンガアーチ高架橋」竣工が明治42・43年(1909~10)。大正3年(1914)に東京駅開業。さらに続ければ昭和6年(1931)に満州事変。昭和16年(1941)、太平洋戦争に突入。

 今回は右派系リーダーの一人だろう渡部昇一の本を読んでみる。~日本は石油を止められで開戦に踏み切った。米国に戻ったマッカーサーは「日本は原料供給を断たれて戦争に踏み込んだ。(侵略ではなく)自衛のためだった」と言った。ゆえに占領軍の「軍事裁判」は間違いで、靖国参拝が問題になろうはずがなく、むしろ宗教干渉だ。占領軍が作った憲法もおかしい。まして日本の今までの平和は憲法第九条のお蔭ではなく、米国の軍事力の傘の下でこそ。(渡部氏の本は多数あるも、同じ事ばかりが書かれている)

 そうした理論?の影響だろうか、「さぁ、今こそ〝戦後レジームからの脱却〟。あの頃の〝美しい日本〟を取り戻せ」と叫ぶ政治家がいる。隣国は異常な高予算で軍備増強しまくっている。米国に頼るばかりではなく日本も自立して軍隊・軍備の抑止力を持つ。憲法改定と集団的自衛権の行使。軍備増強。そして資源に困らぬよう原子力発展を怠らぬ、抑止力になるなら核も開発しようと言っている。

 自由民主党の衆参議員409名のうち289名が右翼系組織「神道政治連盟」と「日本会議」の国会議員懇談会メンバーとか。あの〝美しい国へ〟ってぇのは「日本会議」の惹句にあり。江戸好きのあたしは〝美しい国=江戸〟と思っていたが、列強国を目指していた日本のことらしい。そうした考えの頂点に立つのが現内閣。絶対多数でやりたい放題。国会でも平気で自衛隊を「我が軍」と言っている。異議を唱える人には完全無視。場合によっては会おうともしない。あたしは「東電」と「レンガアーチ高架橋」の間に挟まれて、しばし動けなくなってしまった。


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鶉衣14:断酒辨‐花の留守せん下戸ひとり [鶉衣・方丈記他]

dansyu2_1.jpggekohitori_1.jpg けふより春の蝶の酔心をわすれ、秋のもみぢも茶の下にたきて(白楽天の~林間に酒を煖めて紅葉を焼き~のもじり。酒ではなく茶を紅葉で焚き)、長く下戸の楽しみに老を待つべし。さもあれ(然も有れ=結果はどうあれ)此誓ひ、みたらし川に御禊(みそぎ)もせねば、たとへ八仙の一座なりとて(中国の酒豪八文人の座であっても)、まねかば(招かれれば)柳の青眼に交り(柳は青の縁語。白眼に比した青眼=親しみの目つきで交わい)、吸物さかなは人よりもあらして(諺:下戸の肴荒らし)、おなじ酔郷(酔中の趣)に遊ぶべくじは(「べし」の連用形。~すれば)、いざ松の尾の山がらすも月にはもとのうかれ仲まと思ふべし。(山カラスも月の夜の浮かれた仲間と思うだろう)。花あらば花の留守せん下戸ひとり

 同句のような絵が、重長版「絵本江戸土産」に見つけた。これは今も昔も同じ〝場所取り〟の光景かも。さて、小生も若い時分は連日飲み歩いていた。新宿には交際費で落とすツケの店が数軒。そんな某日、事務所から出て、まず自動販売機のビールを煽るとジーンとアルコールが染み渡る〝えらい快感〟。「あぁ、これが酒飲みの身体・心境か」と思ったもの。

 かくして酒の失敗数知れず。今は酒が飲めなくなったが、そろそろ花見の季節。今は下戸には有難い「ノンアルコール」もあって、飲んだフリで酒席のバカ話に付き合うも容易になった。

 4年前の3月11日です。新宿御苑の寒桜にメジロの戯れる景を愉しんで帰宅後、あの大地震に襲われた。アンティークを収めた食器棚を押さえつつ、自分の部屋の本棚から書籍が次々に落下するのを見ていた。


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鶉衣13:断酒辨‐下戸となりて [鶉衣・方丈記他]

dansyu1_1.jpg 小生のこと。何年か前に飲んだ後で気分が悪くなった。しばし酒を控えていたら、飲めなくなっていた。内臓が悪いのかしら。四十年余、酒は欠かさなかったが、なんだ!飲まずにいられるじゃないか。誰もが己の酒歴を振り返りながら也有「断酒辨」を読むのだろう。

 もとより季杜(りと=唐の李白と杜甫。共に酒飲みとか)が酒腹(しゅちょう=酒を飲める腸)もなければ、上戸の目には下戸なりといへども、下戸なる人には上戸ともいはれて、酒に剛臆の座をわかてば(ごうおく=剛勇と臆病の座。分けて座らせたことがあった)、おのづからのむ人かたにかずまへられて(数まふ=数えられて)、南郭が竿(う)をふきけるほども(南郭は竿=彼は竿・笙は吹けぬが、三百人の奏者のなかに交って吹く真似を装ったの故事。飲めぬのに飲めるように装って)、思へば四十の年にもちかし。

 されば(然れば、そうだから)衆人みな酒臭しと、世に鼻覆ひたる心はしらず。まして五十にして非を知りしかと(中国の故事。五十にして四十九年の非を知り)、かしこきためしにはたぐひも似ず(賢き通例の類に似ず)。

 近き比いたましう(痛ましい、ここでは苦しいか)酒のあたりけるまゝに、藻にすむ虫(甲殻類で〝割唐〟なる虫がいるらしい=われから=我から)と思ひたつ事ありて、誠に一月の飲をたてば、身はなら柴(楢柴=楢の枝=馴れにひっかけた)の木下戸(生下戸=全く酒の飲めない人)となりて、花のあした月の夕べ、かくてもあられるものをと(かくしてそうあってみれば)、はじめて夢のさめし心ぞする。(もう少し続くが、次へ)

dansyunoe_1.jpg 現代文に訳さずとも、知らぬ言葉調べをし、繰り返し読めば意が伝わってくる。「身はなら柴の木下戸となりて」は拾遺集の「手枕の隙間の風も寒がりき身はならはしの物にそ有ける」からとか。

 なお「上戸・下戸」は飛鳥時代後期からの律令制で「大戸・上戸・中戸・下戸」なる身分があって、婚礼の席などでその順で酒の量が決められていたそうな。もっとも飲めぬ身分が下戸だったとか。


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「くずし字辞典」新伴侶をむかえ [くずし字入門]

kuzusijijiten_1.jpg 江戸文学、古文書を読むようになって、辞書が五冊に増えた。貧乏隠居ゆえン万円の辞書は不要で、数千円の使い勝手の良い机上版・普及版になる。最初に購ったのは柏書房『かな用例字典』(4,700円)だが、これはすぐ挫折して本棚奥で埃をかぶっていた。

 新宿歴史博物館の「古文書」講座に出席。古文書入門書を数冊購入し、併せて東京堂出版『くずし字解読辞典』(普及版)を買った。同辞典はすっかり手に馴染んだ感がある。要領も覚え、当初より相当早く該当文字に辿りつけるようになっている。

 そのうちに異体字の難儀さに柏書房『異体字解読辞典』を求めた。また古本市で東陽出版『くずし字解読字典』を見つけた。大判なので滅多にひも解かぬが、これは書道系で「草書体の書き順」付きで、筆を持ちつつ調べたりする。

 先日、古本屋で近藤出版社『漢字くずし字辞典』を購った。これは東京堂出版と同じく「児玉幸多編」だが、編集・構成がまったく違っていた。例えば「心」をひけば東京堂出版はさまざまなくずし字が七頁あちこちに散載だが、近藤出版社版は同じ頁にまとまって掲載されている。七頁を見なければならぬところ、片や一頁を見ればいい。これは便利だ。

 また東京堂出版の辞書は、実に不備が多い。例えば今は『鶉衣』を筆写・解読していて「柱」をひもとけば、こんな単語が東京堂出版は「はしら・チュウ」の音訓索引にない。ならば「木へん」で探してもない。「柱」が欠落している。辞典にあるまじき杜撰さ。一方、近藤出版社版は「はしら」でくずし方さまざま四文字が載っていた。

 次に「口紅兀(はが)さじと吸ひたる」の色っぽい文章の「兀」を調べる。「はがす・はげる」で両辞書をひくもない。「漢字辞典」で「兀=コツ、ゴツ、ゴチ」。「兀兀=ゴツゴツ」と知って、「コツ」で東京堂出版版を引くがなし。だが近藤出版社版にはちゃんと載っていた。くずし字は四パターン掲載。訓で「あしきる、あやうい」とある。「綟子張の煙草盆」の「綟=ライ・レイ・もじ」だが、これも東京堂には載っていなくて、近藤さんには載っている。あぁ、こりゃダメだ。そんな不備、杜撰、使い勝手の悪い辞典を手垢がつくほど使ってきた。

 両署共に児玉幸多編。なぜだろう。調べてみると近藤出版社の同辞典は昭和45年(1970)初版で、普及版や増補がなされるも平成3年(1991)に倒産。版元が東京堂出版に移ったらしい。「くずし字辞典」にも思わぬドラマが秘められていた。かくして今は、残念ながら書店で入手できるのは東京堂出版のみで、平成25年・新装17版が発売中。

 辞書は、確かさと使い勝手が第一。偶然ながら非常に貴重な近藤出版社版を入手したことになる。するってぇと、すっかり手に馴染んだ辞典から新辞書へ移ることになる。不備、杜撰も使い込んだ東京堂出版の辞書と去るのは、なんだか古女房と別れるような寂しさがある。一方、新たに出逢った辞書をひも解けば、その度に新鮮さ、トキメキが湧く。「新しい伴侶っていいなぁ~」と思わずつぶやいてしまう。この台詞がかかぁの耳に入ったらひと悶着必至ゆえ要注意。

 追記:しかし「くずし字」の形は無限。辞書によって蒐集に多少の違いがある。近藤さんで不満足を覚えたら、元の東京堂出版辞典をひもとくことになる。「くずし字辞典」は何冊もあった方が万全ってことだろうか。


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島へ往く艇見て求むハンバノリ [新宿発ポタリング]

syukkou1_1.jpg 「おまいさん、はんばご飯を作るから、ちょいと竹芝桟橋まで走っておくれよ」「合点だ」ってんで自転車に乗る。新宿から半蔵門、お濠沿いに下れば日比谷通りで、右に走って増上寺辺りを左折で浜松町先の竹芝桟橋へ。

 なんだかんだと理由をつけては自転車を駆る。竹芝桟橋の伊豆諸島お土産売り場には伊豆大島産はなく八丈島産「はんばのり」が千二百円で売っていた。大島では数千円のも売っている。かかぁは島の料理上手主婦から伝授された美味しい「はんばご飯」を作ってくれる。「はんばのり」は「幅海苔」の方言だろう。冬の厳しい西風と波にさらされた磯で育つ。それを引っ掻き採って乾燥させたもの。

 「はんばのり」と「明日葉」を購ってから、竹芝桟橋の屋上デッキへ。眼下で大島へ向かうジェットフォイル艇が岸壁を離れるところだった。島の「椿まつり」は賑わっていようか。まだ西風は強いだろうか。我がロッジは吹き飛ばされていないだろうか、と思いつつ船を見送った。

toukyoeki1_1.jpg 帰路は旧東京中央郵便局の「キッテ」屋上庭園へ。ここから東京駅が眼下に見える。「キッテ」には東京大が明治10年から蒐集の学術標本の常設展示+企画展示の〝ちょっと変な博物館=インターメディアテク〟がある。変というのは東大ゆえだろう、説明文がよくわからぬ。三行読んだら、もう先を読む気がせぬ。展示物も極小文字で顔を近づけても読み取れぬ。結局、何が何だかわからない〝変な博物館〟。誠に不思議な空間で、逆に何度も行ってみたくなる。無料です。

 自転車は、かくも愉しい寄り道と新発見を与えてくれる。次はどこを走りましょうか。この日は曇天ゆえ写真も冴えぬ。


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鶉衣12:借物の辨‐女房の貸し借り [鶉衣・方丈記他]

 karimono4_1.jpgなべて世にある人の衣服・調度をはじめて、人なみならねば恥かしとて、そのためにかねをかりて世上の恥はつくらふ(繕う)らめど、人の物をかりてかへさぬを恥と思はざるは、たゞ傾城(遊女)の客にむかひて、飯くふ口もとを恥かしがれど、うそつく口は恥ぢざるにおなじ。

 かくいへる我も借らぬにてはなし。かす人だに(だって、でさえ)あらば、誰とてもかり(仮り・借り)のうき世に、金銀・道具はいふに及ばす。かり親・かり養子も勝手次第にて、女房ばかりはかりひきのならぬ世のおきてこそ有がたきためしなれ。かる人の手によごれけり金銀花

 ★「らめど」は推量「らむ」の已然形「らめ」+ど「が」=~ているだろうが。★いきなり遊女の比喩で驚いた。遊女は飯食う口を恥ずかしがっていても、嘘をつくのは恥ずかしがらないと言っている。吉宗の緊縮政策に逆らって宗春は尾張に遊郭もつくったが、用人だった也有もそれに奔走されたや。

 ★仮養子で思い付くのは曲亭馬琴。確か嫡男で医者の宗拍が病死し、孫を武士にすべく同心の御家人株を百三十両で買って信濃町に移住。孫が元服するまで遠縁の青年を仮養子にした。解約に際してはそれなりのお金をむしり取られていたような。

suikazura1_1.jpg ★「かりひき」は、校注で稿本(手書き本)に「借り引き」とあり「貸し借りすること」とあった。「女房の貸し借り」なら谷崎潤一郎と佐藤春夫の「細君(千代子夫人)譲渡事件」を思い出す。千代子夫人もしたたかで第三の男がいたそうな。

 ★「かる人の手によごれけり金銀花」の句は「「借る:刈る」をかけて、刈る(借る)人によって金銀(金銀花)も汚れようの意。金銀花は吸葛(すいかずら)忍冬(にんどう)の花。季は夏。蔦状の半常緑で他の木に絡みつき。初夏に白、後に淡黄色に変わる唇形の花を咲かせる。小さな、こんな花らしい。機会があれば見て撮ってみたい。


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