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版画「牛込揚場丁」をペン+水彩で [スケッチ・美術系]

usugomeageba1_1.jpg 先日、新宿御苑でお会いした水彩画家さんの教えを忘れぬよう絵の練習。本来は野外でイーゼル・スケッチだが、恥ずかしい+無精=机上レッスンと相成候。題材は也有『鶉衣』の「隅田川涼賦」で牛込から隅田川へ出る文を読んだばかりなので、広重の団扇絵「どんどんの図(牛込揚場丁)」(現・神楽坂下と飯田橋辺り)をペン+水彩で興じてみた。

 まず鉛筆で舟の、滝の、家並みの各アタリ(点を付ける程度)をとった。次に0.3㎜ボールペンを動かしつつ形を決めて行く。そして透明水彩絵具(買ったゾ~)で着色。広重の版画は水や空が鮮やかなプルシャンブルーで濃淡のメリハリ効いている。

 濃い色で描き出せば、かかぁが飛んで来て「おまいさん、御苑の先生は二日経ってからジワッと浮き出てく超微細な中間色が水彩の魅力と言ったじゃないか。もっと・もっと薄くぅ~」と言う。濃淡メリハリの広重版画、御苑の先生の超淡彩のどちらでもない珍妙な絵になってしまった。

 今までの水彩画二点は「不透明水彩」で、これが初「透明水彩」。失敗も当然か。透明水彩はもっと色を混ぜぬと落ち着いた色気にならない。そうだ、水彩入門書で見た画家らのパレットの汚さよ。ウヒャ~と思ったが、あれで丁度いいらしい。なのに小生はひと筆毎にパレットを洗っていた。「ええっ、透明水彩絵具はチューブからパレットのポケットにグチャッと出して、数日かけて乾燥させて固形絵具のように使う」。うわぁ、それも知らなかったゾ。

 先日も万年筆で絵を描くなら顔料系インクと初めて知った。セーラーの「超微粒子顔料ナノインク・極黒」を購い、パイロットインク「竹炭」と入れ替えた。なんとまぁ、滑りの良いこと。その上から水彩を塗っても滲まない。初めての世界は知らぬことばかり。

 あすからパソコンなしの大島暮し。スケッチ三昧で多少は上手くなって帰ってこれるように、この珍妙な絵をアップさせたまま、しばしブログお休み。


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24:隅田川涼賦‐狂宴後のもの哀しさ [鶉衣・方丈記他]

sumidagawa3_1.jpg老人の碁会は仙家(せんか。仙人の棲家)のかげをうつし、役者の声色は芝居もこゝにうかぶかとうたがふ。卵子々々、田楽々々、瓜・西瓜、三味の長糸(切れても使える長い弦)売る声、西南(下流)にかしがましく東北(上流)に漕ぎめぐる。風呂をたく船、酒をうる船、菓子にあらぬ饅頭あり、鼓にあはぬ曲舞(鼓なしで扇子の拍子での曲舞・くせまい)あり。あるはみめぐり(三囲)、深川にうかれ、あるは両国の橋にとゞまる。遊ぶ姿ことごとなれども、たのしむ心ふたつならず。それが中にも、猶浅草の浅からぬちぎりたがへし、待乳山の待やわぶらんと、ふけ行く空に漕ぎわかれて、里にひかるゝ人もあるべし。

 「かしがましく=囂し」。うわっ、こんな字なんだ。「囂し=かしかまし、かまびすしい、かしまし」。「姦しい」ではない。漢和辞典で「姦しい=みだら、よこしま」。

 「風呂をたく舟」は今も「湯舟」の言葉が残っている。川移動の湯舟人気から銭湯が生まれた。最初の銭湯は、江戸城を造るための資材運搬水路で今もある「一石橋」から「和田倉濠」への掘の「銭瓶橋」際に誕生した。ネットに湯舟図があったので漫画風カットで描いておいた。「待乳山の待やわぶらんと」の「わぶらん=侘ぶらん=侘しく思う」。

yubune1_1.jpgさるはいかならむ遊びも、おなじ心におもてをならべて、見もしきかばと、こゝにだに物のかなしく事たらはぬ心地せむも 、はたにくからず、やゝ(あぁ)銀河の水東西にながれ、「あなにくのやもめがらす」、ひま白き松に啼きかはせば、さしも所せき舟も皆いづち行きけん。霧わたるそなたに漕ぎきえて、瓜の皮のみたゞようと暁の名残こそ、見しには引かへてまた哀なれ。

 「さるはいかならむ遊びも」は「さるは(然るは=とは云うものの実は)いかならむ(如何ならむ=〝推測するに〟どうであろうか)遊ぶも」になる。「おなじ心におもてをならべて」は「同じ心になってみれば」の解釈でいいだろうか。

 次の文も同じように解釈しつつ読む。「見もしきかばと(見るか聞いたならばと)、こゝにだに(だって)物のかなしく事たらはぬ(足らぬ)心地せむ(責む=辛い)も、はた(それでもやはり)にくからず(憎くない」。

 これを私流現代文にすれば「~とは云うものの、実は遊びというものを推測するに、あちこちも同じ気持ちになってみれば、見るか聞くかしても、ここにだってもの哀しく満ち足りない辛い気持ちもあって、特別に憎いというほどのことでもない」。

 「あなにくのやもめからす=可憎病鴉=遊里で夜明けに別れを告げるカラス」。「ひま白き松に啼きかはせば=松の隙間の(夜明けの)白い空にカラスが啼き交わせば」。「さしも所せき(塞き)舟いづち行くけん=あれほどビッシリだった舟は、皆どこにゆくのだろうか」。(隅田川涼賦・完) 


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小林清親を愉しむ [スケッチ・美術系]

kiyotikaten_1.jpg 新聞に「練馬区立美術館で小林清親展」の報。掲載の絵に「あぁ、何度も見てきた絵」と思った。ぜひ実物を拝見と自転車を駆った。山手通り、環七を横断して「中村橋」の同美術館へ。版画と肉筆画による江戸から明治の風景画。浮世絵でもなく西洋画でもなく「光線画」。描かれた江戸・東京の風景も技法も〝過渡期〟の脆く哀しくも懐かしさ漂う作品群。

 はて、どこでいつ見た絵だろうか。帰宅後にこれだ!と見つけたのが<井上安治『色刷り・明治東京名所絵』>とクレジットされたCD‐R。これは画集というより安治が描いた風景に現在写真を添えて江戸・明治・大正・今への街の変遷を解説した書。いい資料と思って複写保存していた。CD‐Rを開く。うむ、やはり先ほど見たばかりの清親(きよちか)の絵が収められているが、作者名は井上安治。どういうことだろう。

kiyotika1_1.jpg 『明治東京名所絵』全133図のうち54点が「清親展」で見たとほぼ同じ絵。ややして謎が解けた。井上安治は元治元年(1864)、浅草並木町生まれ。12歳で父を亡くし、14,5歳で清親に弟子入り。安治の才能開花は早かったが26歳(明治22年)で早逝。死後出版の同書に、師のコピー画が収録された。

 次に図書館で『小林清親・東京名所図』を借りた。水彩の練習に「橋場渡黄昏景」一部を模写してみた。水彩画を一枚描いただけの小生に上手く描ける筈もないが、さらに杉本章子『東京新大橋雨中図』(昭和63年の第100回直木賞受賞作)を読んだ。

 物語は小林清親が本所御蔵屋敷を官軍に引き渡す屈辱シーンから始まる。徳川家が移った駿府での厳しい暮らし。文明開化で変貌する江戸に戻ってからの絵への目覚め。小説に描かれた制作シーンを読みつつその絵を画集で愉しんだ。

 「石版画」時代になって、手間の多い「光線画」の採算が厳しくなり、かつ清親も「光線画」に倦み始めてきた。版元の「ハガキ版ならやっていけるが」に清親が首を振る。版元はならばと弟子・安治に依頼。また杉本章子は師の絵(模写)から抜け出せぬ安治を叱る清親に、こんな言葉を吐かせていた。

 「風景をそのままうまく写し取っても、君の絵ということにならん。それは写真なんだ。肝心なことは、見て取った風景のなかから、描きたいところだけを選んで、あとはばっさりと捨てる。これだ。その取捨に描くひとの味というものが出る」 

 ふむふむと感心していると、かかぁに「スケッチもろくに描けぬのに、自分らしさとは百年早いわ」と笑われた。安治は清親コピーから自分の世界を構築する前に死んでしまった。


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苦手の木々を描く [スケッチ・美術系]

kigirensyu.jpg 図書館で水彩画入門書を幾冊か見た。それらから木々の描き方を練習してみた。同時に水彩画には著者(画家)それぞれに画風・技があって、自分流に分析してみた。

 第一)実景鉛筆デッサンから透明水彩絵具で彩色するスタンダード流。淡彩から微細着色までさまざま。デッサンするに「デッサンスケール」で構図やアタリをとることも紹介されていた。

 第二)直描き法。鉛筆デッサンは簡単なアタリ程度で、透明水彩で着色を重ねつつ仕上げてゆく法。いかにも〝画家の水彩画〟の感じ。

 第三)鉛筆デッサンに重点を置いてサッと彩色の法。以上はデッサン力が問われそう。

 第四)上記に比し、デッサン力をトレースで補う法もあり。撮った写真紙焼きの下にカーボン紙を敷いてトレース後に着色。風景系イラストレーターはこの手を採っているらしい。省略の仕方で個性が出るか。

 第五)撮った写真紙焼き、画用紙に分割線を引いてアタリをとる法。第一の「デッサンスケール」を平面で行う。これらはデッサン力がなくても要領次第で、それらしい雰囲気が描けそう。

 第六)鉛筆デッサンに加え、水彩で滲まぬ顔料系インクペンでメリハリをつけてから彩色する法。

 第七)不透明水彩絵具、または「ポスターカラー」で重ね塗りして油絵風だったり、超写実、細密画のような絵を仕上げる法。しかしここまで描き込めばSketch(大まかに描写する。写生、素描)の領域ではなくなってくる。画室に籠っての作業で、参考にするのは写真(しかも拡大写真を見て)だろう。

 第八)新宿御苑を散歩していたら素晴らしい水彩画を描いている方がいた。プロ(絵描きさん)だった。質問すると丁寧に教えて下さった。小生が判断するに「ペン画+水彩画」。まず(1)鉛筆デッサン。描きたいポイントから始める。だが描かずに画面位置(ポイント)をつけるだけ。例えば池の水平なら左右に点を打つ要領。木ならば曲がった角だけ。それらポイントとポイントを結ぶ線は描かない。ここから(2)ボールペン描きに入る。普通の水性ボールペンで、拝見したら0.3㎜ほどのをお使いだった。影側及び影部分から描き、日の当たる側(ハイライト)にはペンを入れない。ハイライト部分は着色のみ。なお鉛筆、ボールペンの持ち方は万年筆持ちではなく、木炭でデッサンをするように寝かせ気味。つまり机上ではなく、あくまでのイーゼルに画用紙をセットして描くこと。(3)着色。中間色がポイント。特に紫+黄色のグレー系。数日を経て色が落ち着いてくるから、その按配を計算して配合・着色(ここは経験がものをいう)。各メーカーの透明水彩絵具を混ぜて使っている。「水彩画は面白い、奥が深いですよ」とおっしゃった。(★)御苑帰りに「世界堂」で0.3㎜、0.5㎜ボールペンを色違いで5本買った。試し描いてみたら「ウワァ、こんな線の世界もあるんだ」とちょっと驚いてしまった。

 まぁ、上手な方に伺えばそれぞれの流儀を教えていただけるかもしれないし、この記事は限りなく追加されるかも。それらから自分流を見つけることになるのだろう。他に白(明るい部分)強調に不透明水彩なら白などを重ね塗り。透明水彩では塗り残し白の強調に「マスキングインク」を塗って後で剥がす法、ナイフで画用紙薄皮を剥がす法も紹介されていた。さて、どの方向で水彩風景画を描けばいいのでしょうか。


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水彩絵具・道具が欲しくなった [スケッチ・美術系]

sitanoike1_1.jpg 水彩風景スケッチの二枚目を描いた。初水彩画では、木々や草木をどう描いたらいいのやら~えらく戸惑った。今回も木々や草木は避けられない。新緑が目立つ木を描いたら松のようになってしまった。その下の「山吹」は黄色の花が咲き誇ってい、緑を塗った後で黄色の点々をつけた。

 うまくは描けぬが、端から〝手こずる〟と覚悟していたので、最初の時のように〝うろたえる〟ことはなく、それがせめてもの〝進歩〟だろうか。木々の省略描きついでに、実景(新宿御苑の〝母と子の池〟のさらに下の池)とは違ったように描いてみようと思った個所もある。

 今は橋の下から池の倒木まで泥が堆積しているが、当初はちゃんと水も流れていた。その頃によく鳥撮りをした。数羽のアオジが山吹の下で餌を啄んでいる姿を撮った。倒木手前でルリビタキを撮った。一瞬のことで撮り逃がしたがキクイタダキらしきも見た。池の向こう側からは、倒木手前で水を呑むシメやカワラヒワの群れも撮った。

 そんな事を思い出しつつ描いたが、実は絵具のことが何もわかっていなかった。事務所をずいぶん前にたたんだが、辞めた社員の机から各種絵具がゴソッと出てきた。捨てずに持っていた「HWC18」なる絵具は、蓋が開かずに容器が裂けたので捨てた。後で調べたら「ホルベイン透明水彩絵具=ウォーターカラー」とか。「固形水彩絵具(ケーキカラー)8色」もあった。これも透明水彩絵具と知った。

 もうひとつの絵具「HOLBEIN12色」で描いた。「ホルベイン・ガッシュ」という不透明水彩絵具らしい。おまけに満足な筆もなかった。水彩画の多くは透明水彩絵具で描くらしい。改めて絵具を、水彩筆を、パレットを購おう。「あんたは道具から入って、道具が揃う頃になるともう飽きているのよね」というかかぁの声を背に、新宿「世界堂」へ向かった。


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23:隅田川涼賦‐狂はざるはなく [鶉衣・方丈記他]

sumida2_1.jpg京に四条の床(川床)を並ぶるより、爰に百艘のふなばた(舟端)をつらねたるは、誠に都鳥の目にも恥ぢざるべし。舟として諷(うた)はざるはなく、人として狂ぜざるなし。高雄丸(納涼船。以下のもみぢにかけて)の屋形の前には花火の光もみぢを散し、吉野家が行灯の影には、蒲焼のけぶり花よりも馥(かうば)し。幕の内の舞子は、鶯声聞くにゆかしく、舳先の生酔(酒に酔った人)は、鵆足(ちどりあし)みるにあぶなし。伽羅薫物(きゃらたきもの=香木+香りを合わせた練り物)のかほり心ときめきて、吸物かよふ振袖は、燭台のすきかげいとわかく、大名の次の間には、袴着たる物真似あり。女中の酒の座には、頭巾かぶりし医者坊あり。かしこにとよむ大笑ひはいかなる興にかあらん。こゝに船頭のいさかふは、何の理屈もなき事なり。

 「並ぶるより」の文法解釈に手こずった。助動詞「る」ではなく、「並ぶ」のバ行下二段活用「べ・べ・ぶ・ぶる・ぶれ・べよ」の連用形「ぶる」。「並ぶ(とき)より」だろうか。

 「ざる」が繰り返し出てきた。「ざら・ざり・ざる・ざれ」。打消し「ず」の連用形+あり=ずあり」の転用とか。「恥ぢざるべし=恥ではないだろう」。「諷はざるはなく=歌わぬ他はないだろう」。「狂ぜざるなし=狂わずにはいられない」か。

kiyotika1_1.jpg これが「さるべき」だと「然るべき(しかるべき)」で、まったく違ってくる。古語は濁点のあるなしがハッキリしないから「さる・ざる」の区別がややこしい。文脈で判断する他はない。「けぶり」は煙。

 文法の勉強と、同文が描く隅田川狂宴で老朽化脳ミソが混乱してきたので、自転車を駆った。行先は山手通り、環七を横断して中村橋の練馬区立美術館。開催されるは明治の浮世絵師?「小林清親展」。「向島桜」と題された絵に、桜の下の露店に「はしけ豆」の看板。艀でもあるかと思ったが「はじけ豆=弾け豆」。これも濁点なし。大川は「橋場渡舟」の絵もあったので、ちょっと真似をしてみた。


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22:隅田川涼賦‐也有から漱石 [鶉衣・方丈記他]

sumidagawa1b_1.jpg(一行目下から)数々の橋こえ過ぎ、両国の河づらにこぎ出づれば、風はかたびら(単衣)の袖さむきまで吹きかへすは、秋もたゞこの水上より立初(そ)めるなるべし。椎の木(両国と厩橋の間の東岸ににあった名木)の蝉日ぐらし(蜩)、けふもくれぬと啼きすさみ、岸の茶屋茶屋火影(ほかげ=灯の光)をあらそふほど、今戸あたりのかけ船(停泊の船)もともづなを解き、糸竹をならして、をのがさまざま(己が様々)にうかべ出ぬ。

 よく使われる言葉の復習。「初む=そむ」で「咲き初めし」など。~しはじめる、はじめて~するの意。「べし」の基本義は現状判断から「そういうことになるに違いない」。推量、予定、当然、適当、可能、意志、必要義務など。「すさみ=荒ぶ、進ぶ、遊ぶ」と意の範囲は広いが、ここでは「盛んな勢いで事が起こる」。「ともづな=纜」。船尾からのもやい綱。「糸竹=和楽器の総称」。「糸=琴や三味線などの弦楽器」「竹=笛や笙などの管楽器」。

 前回に記した「牛込揚場丁(町)」から舟に乗って浅草へ行くシーンは、夏目漱石『硝子戸の中』に描かれている。これは兄から聞いた姉たちの芝居見物の様子との前書きがあって、~当時(明治初期)は電車も俥もない時分で、姉たちは猿若町(浅草寺の裏側)の芝居小屋に行くのに、家(夏目坂)を朝早く出て筑土を下りて柿の木横丁から(牛込)揚場へ出た。そこの船宿にあつらえておいた屋形船に乗って御茶ノ水~柳橋~大川に出る。流れを遡って吾妻橋、今戸の有明楼に着けて芝居小屋へ行った。贔屓役者の楽屋部屋にも行って、来た路を同じ舟で揚場まで戻ってきた、という一日がかりの芝居見物。侍じゃなかったが名主ゆえの華麗なくらしがあったと書いてあった。

 我が家7F部屋の眼下東に広がる戸山公園向こう際に、若松町から早稲田に下る「夏目坂」がある。そこに代々名主の夏目家があって漱石の生家。家運衰退後に生まれた漱石は里子に出されたりして、名主時代の華麗な暮しを知らず、兄から当時の話を聞いている。

 一昨日のこと。かかぁと日本橋に買物へ行ったのだが、橋のたもとで日本橋川から佃島辺りまでの周遊クルーズ船に乗った。舟で大川にも出たゆえ也有や漱石の姉たちの気分をちょっと味わったことになる。えらく楽しかったので、機会があれば日本橋川クルーズ、神田川クルーズなどにも乗ってみようと決めた。


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21:隅田川涼賦‐牛込から舟に乗って [鶉衣・方丈記他]

sumidagawa1a_1.jpg隅田川涼賦 水無月(新暦では七月中旬から)のあつさの、けふことにさめがたければ、いざ隅田の川風に扇やすめばやと、牛込といへる所より舟出して「まづ涼しおし出す舟に芦の音」などたはぶれて竿をめぐらすに、舟はもとより一葉のことごとしからず、破子(わりこ)も場どらぬ趣向ながら、けふの乗合に手なみしれるくせものもあればと、樽一ツはいかめしくつきすえたり。

 也有は十九歳より延べ九年余が江戸詰めで、その時の隅田川遊び。「牛込といへる」とは、飯田壕から舟が出たのだろう。神田川沿いに隅田川に出る。尾張藩上屋敷は現・市ヶ谷防衛省、中屋敷は現・上智大辺り、下屋敷は現・戸山公園で、どこからでも牛込は便がいい。

 ここまで読んだ数日後のこと。「おまいさん、日本橋の〝奈良県アンテナショップ〟で上辻豆腐店の〝大和揚げ〟を買ってきてくれよ」ってんで自転車を駆った。するってぇと神楽坂下と飯田橋駅の間の「牛込揚場跡」碑に気付いた。~江戸時代には海からここまで船が上がってきた。全国各地から運ばれて来た米、味噌、醤油、酒、材木などがこの岸で荷揚げされたので、この辺は〝揚場〟と呼ばれた。第二次大戦後もしばらくつかわれていて~の説明文。その隣に広重『絵本江戸土産』第八編の「牛込揚場」が紹介されていた。なお広重は団扇絵「どんどんの図(牛込揚場丁)」も描いている。これは牛込御門の堰で滝のように〝どんどん〟と水音が聞こえる下で、若旦那と芸者衆が舟に乗り込む図。

usigomeageba_1.jpg 「扇」は古語読み「あふぎ」。「扇休め」いい言葉ですねぇ。つづく「ばやと」は「ば・や=自分の動作の実現を希望する。意志を表す。~したいものだ」と。「一葉のことごとしからず=一葉の事事然ず」で「一葉のそれぞれがそうではない」の意か。「破子=破籠(わりご)=内部に仕切りを設けた運搬用弁当箱」。「場どらぬ趣向=かさばらないような工夫」。「つきすえたり=築き据えたり」。

 也有が牛込から舟に乗った文を読んだ後で、牛込揚場丁(町)跡の碑を見て、日本橋まで走って奈良県の〝油揚げ〟を購った〝揚げ〟尽くしの余談。夏目漱石の小説にも、牛込から舟に乗って浅草に芝居を観に行くシーンがあるとか。それは次回に記す。


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初風景画‐木々が描けない [スケッチ・美術系]

sketch1_1.jpg 新宿御苑へ行くってぇと、多くの年配者らが水彩風景画を描いていらっしゃる。「うまいなぁ、あたしも、あぁして描いてみたいなぁ」。思うだけでは描けぬまま死んでしまう。意を決して、小さいスケッチブック持参で御苑散歩をした。

 座り込んでのスケッチは恥ずかしいので、立ったまま数分のラフスケッチをして、同じ目線で写真も撮った。帰宅後に改めて描き始めたが、いやはや、難しいのなんのって。木々をどう描いていいのかがさっぱりわからない。細密画のように描けるワケもなく、画家の風景画を見れば実に要領よく省略し、かつ其らしく描かれている。

 「あぁ、木々や草花を描くのは省略の技術なんだ」と初めて気付いた。昔、テレビスタジオ内で外国のペインターが、実際風景を見ることなく、5分ほどで絵葉書のような素晴らしい風景画を描き切って、そのテクニックを紹介していたことがあった。

 その時「それはスケッチじゃないよ」と思ったものだが、自分で実際に風景を描こうとすれば、あの手品師みたいな省略技術がなければ、とてもじゃないが描き切れるものじゃないとわかった。スケッチ教材も、端から森や木々を丁寧に描くのは無理ですから、省略かつ其らしく描く技術を身につけましょう、と教えてくれればいいのだが、そうは教えていない。

 かくしてウンウンと唸りながら、どうにか描き切った。これからは木々や野の草をパパッと省略、それらしく描ける技を身につける必要がありそうだ。パパッと風景スケッチを描く。簡単そうに見えるが、それは容易なことじゃないとわかった次第。挫折せずに続けられましょうか


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新宿のツバメ初認データ [私の探鳥記]

tubame2_1.jpg 4月10日、7階ベランダに立っていたら眼前をスィ~とツバメが飛んだ。「まさか!こんなに寒いのに」と眼を凝らした。間違いなく数羽のツバメが飛び交っていた。そう云えば数日前に〝アレッ、あの鳥は~〟と思ったことがあった。やはりツバメだった。

 ソメイヨシノは咲いたが、ここ最近の〝寒の戻り〟で、気分は未だ寒さに耐えている。〝ツバメ飛来〟は似合わない。

 だが自分の過去ブログで確かめてみれば、例年通り(左記表を参照)だった。早く暖かくなぁ~れ。


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チェコ亡命者たちのデミタス [デミタス&飾り皿]

5Thun1_1.jpg デミタス記事中断も、少しづつ続ける。我が家には他にも「Czechoslovakia」刻印のデミタスがあった。シンプルな嫌みのないデザインの「上絵金彩カップ&ソーサー」。バックスタンプは王冠下に「TK」Thunyだろうか。どんな窯元だろうか。

 プラハで仕入れ日本販売のサイトを拝見すると、「TK Thun社」は1794年創業の歴史ある陶器メーカーで、今ではKarlovarsky Porcelanグループの一つとして生産を続けている、とあった。それ以上の事はわからぬが、いずれにせよ1918年にチェコスロバキア共和国が誕生し、1939年にナチス・ドイツ保護領になる間の製品だろう。

 これらチェコ製のデミタスは、米国中を巡って骨董収集・販売をしている米国人から購入したもの。唐突だが小生は二十代の頃に勤めたPR会社は、入社前に大手広告代理店と競って「ベラ・チャスラフスカ」のCM権を獲得し、梶山季之が『チャフラフスカを盗め』と題して小説化した社だった。彼女は1964年の〝東京オリンピックの名花〟〝体操の妖精〟で絶大人気を得ていたが、その4年後が「プラハの春」。共産党体制に反対表明していた彼女は共産党崩壊まで厳しい人生を余儀なくされたらしい。

5Thun2_1.jpg テニスのナブラチロワもチェコ・プラハからアメリカへ亡命した。1993年のチェコとスロバキア分裂後にチェコに国籍を復活させて、今は二重国籍とか。これら例からも容易に想像できるがナチス・ドイツから、共産党政権から逃れてアメリカへ亡命したチェコ人はとても多い。アメリカで入手のチェコ製デミタスを手に取ると、チェコからの亡命者たちがアメリカに持ち込み、その後に手放しただろうことが想像され、彼らの厳しかった人生が垣間見えるような気がして胸がキュンとしてしまう。 


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20:武蔵野紀行‐「な~そ」のお勉強 [鶉衣・方丈記他]

musasino2_1.jpg 今とても猶端々には、其広き野の迹のこれりと聞きて、見にまかりける。案内するをとこの聾なるも、時鳥きくしらべならねばと、其日の興にして、亀ヶ谷・下富などいへる村々を過ぎて、かの野に出でぬ。誠に四方に木竹もなく、草さへも今は霜がれはてゝ、哀に物すごき原のさま也。 武蔵野やいづこを草のかげひなた

 武蔵野は雑木林イメージがあるも、草木もない野だったとは驚いた。調べれば「照葉樹林~焼畑農業~草原・原野~田畑・薪にする楢などの雑木林」の変遷があったと知った。安土桃山時代の歌人・一色直朝に「むさしのは木陰も見えず時鳥幾日を草の原に鳴くらん」がある。也有が訪ねた武蔵野はすでに〝今は家つらなり田畠と変じて〟いたのだから、そこに和歌で詠まれた武蔵野イメージを探し求めたのだろう。

 そこら見めぐりて「枯野にもすゝきばかりは薄かな」。 くれ行く空をおもひやりて「武蔵野に露ひとつなし冬の月」。 又の日、野火留といふ所を尋ね侍り。こゝは『伊勢物語』に、「けふはなやきそ」とよみし跡なれば、里の名もかくよぶ侍るとか。業平塚とて、さびしきしるし今も残れり。歌のこゝろをしらな、枯草に吸ひがらなすてそ、とたはむれて、「こもるかと問へば枯野のきりぎりす」

 「けふはなやきそ」「吸ひがらなすてそ」の「な~そ」は古語の有名な言い回し。「な~そ」は~に連用形の動詞が入って~するな、~してくれるな。禁止の終助詞「そ」が副詞の「な」を呼応する。「なやきそ=焼いてくれるな」「なすてそ=捨ててくれるな」。北原白秋に「春の鳥 な鳴きそ鳴きそ あかあかと 外(と)の面(も)の草に 日の入る夕(べ)」がある。

musasino3_1.jpg 『伊勢物語』は「なやきそ」の次はこう続いている。「若草のつまもこもれりわれもこもれり」。ここから也有は「こもるかと問へば枯野のきりぎりす」、枯野なのにキリギリスはここに籠るのだろうかと詠っている。

 また前回に加舎白雄の「妻も子も榾木に籠る野守かな」を挙げたが、年長(七歳上)の同じく蕉風復活を志した佐久間柳居が、野火止で「吸殻を追ふて踏消す枯野哉」を詠ってい、也有は「枯葉に吸ひがらなすてそとたはむれて」と記している。

 調べれば調べるほどに也有俳文の深さが分かってくる。ここにきてやっと岩波文庫の堀切実・校注から離れて、少しづつ自分流解釈が出来始めているか。


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19:武蔵野紀行‐今は茶にたく枯尾花 [鶉衣・方丈記他]

musasinokikou1_1.jpg 庚申のことし霜月のはじめなりけり。江戸を出でて、清戸といふ所に旅よりたびのかりねも十日あまり。母やある子やもてるあるじに咄もやをらなじみそめて、此あたりの事など尋ねきくに、昔はこゝももと月の名におふ武蔵野なりしよし、今は家つらなり田畠と変じて、霜おく草の名にもあらね大根・牛蒡のことにめでたき里なりと語る。 武蔵野は今は茶にたく枯尾花

 庚申(かのえさる、こうしん)について。「干支(えと、かんし)=十干と十二支の組み合わせ六十を周期とする数詞。庚申は五十七番目。『鶉衣』は元文五年(1740)の庚申で、近年では1980年、2040年になる。

 さて元文五年は吉宗に逆らった藩主・宗春が隠居謹慎させられて、藩主を宗勝が継いだ翌年。也有は諸々の激務から特別休暇でももらったか、のんびりと江戸近郊を十日余りの旅寝。緊急呼び出しがあるやもしれず、清戸(清瀬)辺りで遊んでいたのだろう。

 「母やある子やもてるとあるじに咄も=母もいて子も持つだろう主人に咄も」の意だろう。「も」のリフレイン。これは也有より36歳年長で蕉風復興に力を注いだ加舎白雄が野火止で詠んだ「妻も子も榾火(ほたび)籠る野守(のもり)かな」を意識した文と思われる。こんなことは誰も指摘していなくて、小生が野火止の歴史を探っていて気付いたこと。「榾火(ほたび)」。「榍=ほだ=囲炉裏や竈にくべる薪(たきぎ)」。

 「やをらなじみそめて=やおら(ゆるやかに)馴染みて」だろう。「ここももと月のなにおふ=此処も元・月の名に負う」。句「武蔵野や今は茶にたく枯尾花」は、武蔵野は今や人家が多く、風情あった彼尾花も茶を炊く材になっているよ。

m_kiyoseguro3_1[1].jpg 也有は武蔵野のどの辺を歩いたのだろう。「亀ヶ谷・下富などといへる村々を過ぎて」と後述している。そこは現・埼玉県所沢市に今も地名が残っている。西武池袋線「清瀬」駅の北、関越自動車道の所沢インター近く。「亀ヶ谷」の北に「下富」地区がある。同地域は元禄時代の大老・柳沢吉保が川越藩主だった元禄九年の検知で四十九戸の記憶があるそうで、今は新興住宅地。

 小生も6年前の鳥撮りで「柳ケ瀬川」沿いを延々と歩いたことがあって、間近でカワセミを観察し、またセグロセキレイが流水の中に頭を突っ込んで採餌する姿を初めて観たりした。也有も野鳥を観ただろうかと、なんとなくこの辺りの江戸中期の景色が想像できなくもない。


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行くところ無き身の墓詣 [永井荷風関連]

wasidukidouhaka1_1.jpg 昨今の政経のお勉強をするってぇと、心が卑しくなってくる。それを払うべく自転車を駆ることにした。行き先を定めず家を出た。まず自宅から右か左かの選択。左を選んだら戸山公園~早稲田~江戸川橋と流れた。ここから後楽園。白山通り・本郷通りを横切ったら根津・谷中。谷中墓地に至った。

 荷風さんは掃苔(そうたい)好きだった。よく文人らのお墓を訪ねている。大正十二年八月十九日の「断腸亭日乗」は親族のお墓を巡っていた。「午後谷中瑞輪寺に赴き、枕山(縁者)の墓を展す。天龍寺とは墓地裏合せなれば、毅堂先生の室佐藤氏の墓を掃き、更に天王寺墓地に至り鷲津先生及び外祖母の墓を拝し、日暮家に帰る」

 数年前に徳川慶喜公墓を訪ねた際に、永井荷風の外叔父・鷲津毅堂(儒教者)のお墓を探したがわからなかった。今回は案内図によって位置を確認。二度目にして掃苔相成った。鷲津家の広い墓地中央に神道の角柱の墓があった。左から「鷲津宣光配佐藤氏之墓」「司法権大書記官従五位勲五等鷲津宣光墓」「鷲津宣光後配川田氏之墓」(神道は戒名なし)。左が先妻、中央が毅堂、右が永井荷風の母を生んだ後妻のお墓だった。

 荷風は『下谷叢話(そうわ)』の「第三十」で、毅堂の妻や子らの詳細を記している。~鷲津毅堂は安政戊午(つちのえうま)の秋其の妻佐藤氏を喪(うしな)ひやがて継室(後妻)川田氏を娶ったのであるが、その年月を詳(つまびらか)にしない。然し長女友(ゆう)が生れた後、此年文久辛酉(かのととり)の九月四日に次女恒(つね)が生れた。但し明治の後に至って調整せられた下谷区の戸籍簿には恒を以て長女と記してゐる。恒は明治十年七月十日神田五軒町の唐本書肆の主人林櫟窗(れきそう?)の媒酌で、毅堂の門人尾張の人永井匡慍(まさはる、通称・久一郎)に嫁した。恒は今こゝに下谷叢話を草してゐるわたくしの慈母である。毅堂の継母川田氏は名を美代といふ。

 永井荷風は文壇にも、翼賛体制の政治にも無関心を装って隠棲を貫いた。あたしも心卑しくさせる「政経お勉強」から手を引こうかしら。最後に昭和十年一月二日の「断腸亭日乗」に記された五句のうち「行くところ無き身の春の墓詣」。この日の小生も、同じ気持ちで谷中墓地へ走ったことになる。


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テレビがポチになった日 [政経お勉強]

 3月27日のテレビ朝日「報道ステーション」その後がかしましい。古賀茂明が官邸圧力で降板することになったと言い、「I am not ABE」の自作ボードを掲げた。30日に菅官房長官が「事実に反するコメントだ。公共の電波を使った行為であり、極めて不適切。放送法があるので、テレビ局がどう対応されるのかを見守りたい」と〝圧力〟をかけた。

 その「放送法」をちょっとお勉強してみた。大本営一辺倒だった戦時中の放送を反省に出来たとか。だが政権はこれを逆手にとって攻撃し始めた。実際に「放送法」が問題になった事例がわかり易い。1993年の「椿事件」。以下、ウィキペディアの長文を200字で要約。

 細川連立政権誕生で、自民党が野党に下った。民放連の会合で「テレビ朝日」取締役報道局長の椿貞良が「ニュースステーションに圧力をかけ続けた自民党が許せない。反自民の手助けになるような報道姿勢で臨んだ」と語り、これに産経新聞が噛みついた。「放送法違反だ。電波法に基づいて無線局運用停止もありうる」。結果、椿は衆議院証人喚問に呼ばれて、その報道姿勢を否定。郵政省はテレビ朝日への免許更新(5年に1度)に政治的公平性に細心の注意をするよう条件を付した。

 次にここで問題の放送法を調べる。「第2章 放送番組の編集等に関する通則」の第4条。放送事業は~~ 一)公安及び善良な風俗を害しないこと。二)政治的に公平であること。三)報道は事実をまげないですること。四)意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 ついでに記せば、2011年には外国人株主比率を20%以下とする電波法違反で、フジテレビは28.59%で、あわや免許停止かと騒がれたこともあったとか。

 かくもテレビは制約されている。加えて自民党は野党転落時のテレビ報道のトラウマで、安倍政権はマスコミのトップらとの会食が活発で、彼らも弱腰で擦り寄っているそうな。結果、テレビはすっかり面白くなくなってしまった。ニュース番組も芸人の舞台と化した。芸人にとってテレビ局は神様仏様。逆らえぬ。本音も言えぬ。主義も殺して(あればの話だが)局の指示に従う。おっと、芸人でもサザンがチョビ髭で揶揄し(すぐに謝罪したが)や大田光が骨のあるところ(ラジオで安倍バカを連呼とか)を発揮しているらしい。

 故・筑紫哲也がテレビのジャーナリズムについて、こう書いていた。<「権力を監視する「犬」になるか、権力の「番犬」になるか。権力に情報と解釈を依存し、その伝達役にいそしむ時、それは権力の〝番犬〟である>(ジャーナリストとは何者か/岩波書店)で、今はあっちもこっちも「番犬」や「ポチ」ばかりになってしまった。またテレビ出演で生業っている人に、この件でコメントを求めても本当の事は言わない・言えない。

 放送法に無関係の活字媒体には、今こそ頑張ってもらいたい。「週刊新潮」の<大メディアを鷲掴み「安倍官邸」剛柔のカギ爪>と、「週刊文春」<「報道ステーション」古賀茂明AS古舘伊知郎 内ゲバ全真相>がちょっと面白かった。だが出版社や新聞社にも右寄り・左寄りがあって、そこを加味して読まなければいけない。しかし記者クラブにも属していないだろうネットサイトの方がグリグリ突っ込んでい「古賀茂明が報ステの放送中、放送後のスタッフとのやりとりすべてを明かした」なる記事をモノにしていたりする。

 今のテレビはポチ化して観る気もしないが、スポーツだけはテレビに限る。だがフジテレビのサッカー中継アナウンサーは余りに酷い。かつての古館伊知郎の自己陶酔系プロレス中継風を、細く甲高い声でやっている。テレビ映像を観ている側のそれぞれも考え、分析し、感動し、呼吸も整えつつテレビの前にいることを完全無視して、独り喋り没頭している。しかも「媚び」が入るから「虫唾」も走る。アナウンスは文章と同じで、スポーツ系アナは短文(ショートセンテンス)が相応しい。ハードボイルドの文体がいい。しかし彼奴は「あれがこうしてだからそうなってこうしたけれどこうなんですよね」とダラダラと喋り続ける。同僚や社員達は彼に注意、アドバイスをしないんだろうか。かくしてフジテレビのサッカー中継は「音量オフ」で観るにことになる。視聴者無視で自己中心アナ中継は、沖縄民意を完全無視して、自分たちの考えでだけで〝粛々とやる〟現内閣に似ていなくもない。

 脱線ついでに今のテレビは、おそらく芸能プロダクション頼みではなく局内スタッフのアイデアが冴える「テレビ東京」と、マイナー過ぎてアナーキーだったり、えらく洒落た番組があったりの「TOKYO MX」が面白い。放送法で縛られて反発する気概もなく体制のポチ化したテレビ(しかも最近の報道系番組のフリーアナウンサーはフィクサー系事務所の所属が多い)、芸人の舞台と化したテレビ、さらに通販CMに占拠されたテレビに辟易したら、書籍を含めた活字媒体に注目かつ奮闘を応援しに「さぁ、本屋に行こうっと」。


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チェコスロバキアの誇りと意地 [デミタス&飾り皿]

4czech1_1.jpg 「Made in Germany」と刻印されたチェコのデミタスの次は、堂々と「Made in Czechoslovakia(チェコスロバキア)」刻印の「チェコ製金彩カップ&ソーサー」を手にとってみた。

 カップ&ソーサー共に金彩(ゴールド)。それでもカップ内側底とソーサー中央に白磁の素が残されて花が描かれている。バックスタンプは針葉樹らしいニ本と「SCHLAGGENWALD」の文字。ネット販売で同マークのカップが売り出されていて、こう説明されていた。「チェコのホルニー・スラヴコフという町にある世界的窯元、シュラッゲンヴァルト窯の1930年代の製品」

 チェコの西ボヘミア地方は、ドイツのマイセンやドレスデン、南のミュンヘンに隣接していて、この辺一帯が磁器生産地なのだろう。シュラッゲンヴァルト窯のある「ホルニー・スラヴコフ」を調べてみたら、チェコのドイツ際の町だった。

4czech2_1.jpg ここでチェコの歴史を簡単にお勉強してみた。ポーランドやローマ帝国などに侵略され続け、「30年戦争」「フランス革命」「ナポレオン戦争」と気の遠くなるような戦禍が続いている。チェコとスロバキアが合同して「チェコスロバキア共和国」が出来たのは、第一次大戦後の1918年だった。しかし平和は永くは続かない。1939年になるとドイツ・ナチスによってボヘミア、モラヴィァ地方が再びドイツ保護領へ。ナチス・ドイツが敗れると、今度はソ連によって「チェコスロバキア社会主義共和国」へ。共産党体制崩壊後の1993年に現在のチェコとスロバキアが分離。

 チェコは千年に及んで周辺列強国に翻弄され続けて、独自の文化も育めなかった。しかし、このデミタスのバックマーク「MADE IN CZECHOSLOVAKIA」を見ると、ここにはチェコの誇り・意地・歓びが満ちているように感じられるが、いかがだろうか。


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ハイハンドルのウィーン窯風 [デミタス&飾り皿]

3jwk1_1.jpg もうひとつ「ウィーンスタイル」と思われる「上絵金彩男女図ハイハンドルカップ&ソーサー」があった。ここで注目は〝ハイハンドル〟だろう。

 三井記念美術館で開催「デミタス コスモス」の多数展示のなかで、ハイハンドルは僅か七点だけで、それらに遜色せぬデザイン。凝ってい、骨太の感がする。バックスタンプをみると、ウィーンスタイルのマークを囲んで「JWK」と「Dec.Karisbad」の文字が組み込まれている。写真はカップのバックスタンプだが、ソーサー裏には同スタンプに加えて「Made in Garmanuy」も刻印されていた。〝ドイツで作られたウィーンスタイル〟?

 ここからが謎解き。まず「Karisbad」とは? ネット検索するとアメリカの3州にこの名の街があった。チェコにもあったが、ドイツでは探せない。チェコの「Karisbad」を調べる。ボヘミア地方・カルロヴァ・ヴァリ地域から生まれた磁器ブランドとあった。ドイツとの国境に近い西ボヘミアのチェコ有数の高級温泉リゾートとか。読み方は「カールスバッド」。ドイツ語では「カールスバード」。

3jwk2_1.jpg チェコなのに、なぜに「Made in Germany」なのだろう。この謎を解明すべく、チェコの歴史を探る。なんと同地はドイツ系住民が多く、1938年にナチス・ドイツによってドイツ領となり、それが第二次大戦終結まで続いたらしい。ってことで、このデミタスは戦前までのドイツ領当時のチェコ製ってことだろうか。また「JWK」については調べられなかった。

 このデミタスを見つめていると、周辺国に翻弄され続けたチェコの厳しい歴史が垣間見えるような気もした。


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マイセンからウィーン窯風へ [デミタス&飾り皿]

demitizu1_1.jpg 「マイセン」の歴史・地理を知らぬと〝デミタス〟全般の理解がし難いと気付いた。まずは基礎から勉強。前述展覧会のカタログ文やネット文を参考に、分からぬ事を調べて自分流に以下にまとめた。

 「マイセン」のルーツは純白の中国磁器や日本の伊万里。これら蒐集と白磁生産に取り組んだのがポーランド国王&ザクセン選帝侯のアウグスト二世(1670~1733)。ザクセン選帝国の首都はドレスデン(現ドイツ)。国王は芸術と建築のパトロン。ちなみに同侯の旗にはマイセンの〝双剣〟が描かれている。

 同国王のもと、1709年にザクセンの鉱山で発見した原料で白磁製造に成功。翌1710年にドレスデンに「王立ザクセン磁器工場」を設立。その数ヶ月後に25㎞離れた(ドレスデンからエレベ川の西側)の「マイセン・アウブレヒト城」に工場移転。ここで10年、16色の上絵具を開発して上絵を施した「マイセン」を完成させて隆盛を極めた。

2wiener1_1.jpg ここまで調べて、ポーランド国王がドイツのドレスデンやマイセンで磁器工場を設けた背景がわかった。次に地理のお勉強。ポーランドに隣接してドイツのドレスデン、マイセンがあり、南に隣接が旧チェコスロバキア。さらに南にオーストリアのウィーンがある。この辺りが「デミタス」の生産域だろう。

 さて、我が家の次なる「デミタス」は「上絵金彩男女図のカップ&ソーサー&ゴールドホルダー付き」。バックマークは「デミタス コスモス」展カタログで紹介される〝ウィーン窯風マーク〟があった。同カタログより〝ウィーン窯風〟の説明文を要約する。~マイセン磁器に追従するように、フランスではポンパドゥール夫人が支援したセーヴル窯、オーストリアではマリア・テレジア女帝命によるウィーン窯など各地で様々な磁器窯が誕生した。ウィーン窯は国力衰退で1864年に閉窯。職を失った職人たちがオーストリア・ボヘミア地方を中心にフランスやドイツまで多くのウィーン様式の製品を世に出した。これらには「ウィーンスタイル」といわれるバックマークが付けられている。

2wiener2_1.jpg このデミタスは「1884年後のウィーン窯風」とまで判断したが、ウィーンスタイルマークの上に点、下にS7772 の数字がある。きっとここから窯元などの詳細もわかるのだろうが、目下はここから先が分からない。


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