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19:武蔵野紀行‐今は茶にたく枯尾花 [鶉衣・方丈記他]

musasinokikou1_1.jpg 庚申のことし霜月のはじめなりけり。江戸を出でて、清戸といふ所に旅よりたびのかりねも十日あまり。母やある子やもてるあるじに咄もやをらなじみそめて、此あたりの事など尋ねきくに、昔はこゝももと月の名におふ武蔵野なりしよし、今は家つらなり田畠と変じて、霜おく草の名にもあらね大根・牛蒡のことにめでたき里なりと語る。 武蔵野は今は茶にたく枯尾花

 庚申(かのえさる、こうしん)について。「干支(えと、かんし)=十干と十二支の組み合わせ六十を周期とする数詞。庚申は五十七番目。『鶉衣』は元文五年(1740)の庚申で、近年では1980年、2040年になる。

 さて元文五年は吉宗に逆らった藩主・宗春が隠居謹慎させられて、藩主を宗勝が継いだ翌年。也有は諸々の激務から特別休暇でももらったか、のんびりと江戸近郊を十日余りの旅寝。緊急呼び出しがあるやもしれず、清戸(清瀬)辺りで遊んでいたのだろう。

 「母やある子やもてるとあるじに咄も=母もいて子も持つだろう主人に咄も」の意だろう。「も」のリフレイン。これは也有より36歳年長で蕉風復興に力を注いだ加舎白雄が野火止で詠んだ「妻も子も榾火(ほたび)籠る野守(のもり)かな」を意識した文と思われる。こんなことは誰も指摘していなくて、小生が野火止の歴史を探っていて気付いたこと。「榾火(ほたび)」。「榍=ほだ=囲炉裏や竈にくべる薪(たきぎ)」。

 「やをらなじみそめて=やおら(ゆるやかに)馴染みて」だろう。「ここももと月のなにおふ=此処も元・月の名に負う」。句「武蔵野や今は茶にたく枯尾花」は、武蔵野は今や人家が多く、風情あった彼尾花も茶を炊く材になっているよ。

m_kiyoseguro3_1[1].jpg 也有は武蔵野のどの辺を歩いたのだろう。「亀ヶ谷・下富などといへる村々を過ぎて」と後述している。そこは現・埼玉県所沢市に今も地名が残っている。西武池袋線「清瀬」駅の北、関越自動車道の所沢インター近く。「亀ヶ谷」の北に「下富」地区がある。同地域は元禄時代の大老・柳沢吉保が川越藩主だった元禄九年の検知で四十九戸の記憶があるそうで、今は新興住宅地。

 小生も6年前の鳥撮りで「柳ケ瀬川」沿いを延々と歩いたことがあって、間近でカワセミを観察し、またセグロセキレイが流水の中に頭を突っ込んで採餌する姿を初めて観たりした。也有も野鳥を観ただろうかと、なんとなくこの辺りの江戸中期の景色が想像できなくもない。


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