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マイセンからウィーン窯風へ [デミタス&飾り皿]

demitizu1_1.jpg 「マイセン」の歴史・地理を知らぬと〝デミタス〟全般の理解がし難いと気付いた。まずは基礎から勉強。前述展覧会のカタログ文やネット文を参考に、分からぬ事を調べて自分流に以下にまとめた。

 「マイセン」のルーツは純白の中国磁器や日本の伊万里。これら蒐集と白磁生産に取り組んだのがポーランド国王&ザクセン選帝侯のアウグスト二世(1670~1733)。ザクセン選帝国の首都はドレスデン(現ドイツ)。国王は芸術と建築のパトロン。ちなみに同侯の旗にはマイセンの〝双剣〟が描かれている。

 同国王のもと、1709年にザクセンの鉱山で発見した原料で白磁製造に成功。翌1710年にドレスデンに「王立ザクセン磁器工場」を設立。その数ヶ月後に25㎞離れた(ドレスデンからエレベ川の西側)の「マイセン・アウブレヒト城」に工場移転。ここで10年、16色の上絵具を開発して上絵を施した「マイセン」を完成させて隆盛を極めた。

2wiener1_1.jpg ここまで調べて、ポーランド国王がドイツのドレスデンやマイセンで磁器工場を設けた背景がわかった。次に地理のお勉強。ポーランドに隣接してドイツのドレスデン、マイセンがあり、南に隣接が旧チェコスロバキア。さらに南にオーストリアのウィーンがある。この辺りが「デミタス」の生産域だろう。

 さて、我が家の次なる「デミタス」は「上絵金彩男女図のカップ&ソーサー&ゴールドホルダー付き」。バックマークは「デミタス コスモス」展カタログで紹介される〝ウィーン窯風マーク〟があった。同カタログより〝ウィーン窯風〟の説明文を要約する。~マイセン磁器に追従するように、フランスではポンパドゥール夫人が支援したセーヴル窯、オーストリアではマリア・テレジア女帝命によるウィーン窯など各地で様々な磁器窯が誕生した。ウィーン窯は国力衰退で1864年に閉窯。職を失った職人たちがオーストリア・ボヘミア地方を中心にフランスやドイツまで多くのウィーン様式の製品を世に出した。これらには「ウィーンスタイル」といわれるバックマークが付けられている。

2wiener2_1.jpg このデミタスは「1884年後のウィーン窯風」とまで判断したが、ウィーンスタイルマークの上に点、下にS7772 の数字がある。きっとここから窯元などの詳細もわかるのだろうが、目下はここから先が分からない。


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