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長らへてブログ遊びの恥ぢ紅葉 [散歩日和]

hajimomiji1_1.jpg 同じような駄句を記したような気もしたが、記事数千を越えて振り返へるもままならず。で、なんですねぇ、紅葉を見ますってぇと、反射的に己の身を恥じて「恥じ紅葉」と赤面なり。恥じを上塗りしつつ生きた日々で御座候。

 その上、いつ覚えたかブログ遊びまで始めた。小林一茶も永井荷風も山田美妙の日記も、情交回数まで晒す赤裸々さ。片や馬琴日記の味気なさ。そこで自身を晒さぬように私、僕、俺、小生、あたし・・・の一人称抜き文章を心がけ、さらにはフィクション(嘘っ八)を記すように心がけている。己とフィクションの境界、タイトロープを歩む遊び、酔狂。それでも己は出て、恥じに恥の上塗りになる。今朝こそ「いい嘘」が書けたかしら・・・。

 本当のことも書こう。卑しく美食を貪って、日曜日に恐る恐る体重計に乗った。69㎏。ガーン! 炭水化物抜きダイエット再開した。三日で2㎏減の67㎏。あと2㎏落とす。


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稀少種のコウライアイサ人を呼び [私の探鳥記]

kourai4_1.jpg 昨日の続き。酒匂川のコウライアイサで鳥撮り3年半、ライフリスト159。鳥撮りと同時に始めたブログは、ページビュー累計約52万。鳥撮りもブログも方向性を見失っている。

 酒匂川の土手を駅に戻る途中で、同好の士に声をかけられた。「もう長いんですか」 「いえ、3年半。当初の意欲が失せて、コウライアイサで久々に重い腰が上がりました」 「ふふっ、私も同じだ」 「今じゃライフリストも増えません」 「それでいいんですよ。巡る季節を身近な野鳥と共に愉しむ。身近な鳥でも同じ写真は撮れませんからね」 「ええ、鳥撮りで暮しが豊かになった」 「比して鳥撮りを暮しの中心に据えたマニアックな方々もいる・・・」

 なにやら面白い問答になってきた。同年配の士は続ける。「マニアック、つまり夢中になると風流の域を越えて専門的に、一途になる。いきおい視野と心が狭くなってくる」 「あぁ、よく偏屈、狷介なご仁がいます」 「我々は鳥類学者でもプロの写真家でもない。暮しを豊かにしたくて野に出る、野鳥を見て撮って愉しむ」 「ふむふむ」 「片や隠居後の暮しを<鳥撮り中心にした方々>がいる。或いは仕事は現役だが仕事が面白くないか身過ぎ手段に過ぎずで、鳥撮りを暮しの中心に据えた方もいる」 「そうなって来ると鳥を求めて西東、珍しい鳥を求めて各地へ神出鬼没・・・」「もうセミプロの域、一途の道です。そうした方々と、鳥を暮しの風流として愉しんでいる方々との間には見えない一線があります」 「おっと、分かれ道ですよ」 「私は車で沼津まで帰りますが、どちらまで」 「電車で新宿に帰ります」 「お互い好きですねぇ。またどこかでお逢いしましょ」 隠居同士の会話を、雪を被った富士山が嗤っていた。

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酒匂川コウライアイサ迷ひ来て [私の探鳥記]

kourai8_1.jpg 朝焼け。晴天なり。頭より身体が動いて「鳥撮り行」準備を始めていた。東新宿駅から小田急線。中高年のハイキング姿に山ガールが混じる。大学運動部の女子、サッカー少年と母・・・。みんな降りてもまだ先。高校の頃から慣れ親しんだ小田急線だが「新松田」乗り換え、各駅二つ目「栢山駅」は知らなかった。目指す鳥はいるだろうか・・・。

 報徳橋下流へ。双眼鏡で、先ずは鳥より鳥撮りの群れを探す。三脚に超望遠が並んでいた。遥か対岸に、点のようなコウライアイサ♂(高麗秋沙)がいた。世界的希少種。絶滅危惧種。寄り添うカワアイサ♀。カラスが襲う度に逃げてい、やがて下流に飛んだ。

kourai11_1_1.jpg 何度が繰り返して、中州対岸に寄ってきた。特徴のうろこ模様がわかる。長い冠羽をなびかせている。カメラマンは百人は超えていた。時折、動きに合わせて一斉連写音。「あっ、飛んだ。」

 コウライアイサが飛び去った酒匂川上流を振り返れば丹沢の山々。学生時代に降りるべき駅をやり過ごして、幾度も山に分け入った。河原で夜を明かしたことも幾夜。最後の人家から「ローハイド」が流れていた。フリー当初は江の島線通い。クライアントのワンマン社長が江の島に置く36フィートクルーザーに毎週末乗っていた。

 もうしばらくコウライアイサのシャッターチャンスを粘ってみようか。

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荷風と八重が出逢ふ前 [永井荷風関連]

yaeji3_1.jpg 永井荷風は大正元年(明治45年)、33歳で親が決めたヨネと結婚。片や巴屋八重次(後の藤間静枝)と深間で、大正3年にヨネと離婚し、市川左団次夫妻の媒酌で八重次と結婚。しかし翌4年に離婚。以来、独身を貫いた。

 塩浦彰著「荷風と静枝」をはじめ八重について記述した書は多いが、江見水蔭「明治文壇史」には荷風に出逢う前の八重が描かれている。明治35年秋、二回目の洋行から帰朝した川上音二郎が、江見に明治座「オセロ」の脚本を超破格千円でオファー。江見との打ち合わせで、シェークスピア「オセロ」を、なんと!日清戦争後日本領とした台湾を舞台に、オセロが台湾植民地総督として赴任する劇に翻案。

 脚本を正味五日で脱稿した江見は、翌36年1月末から川上らが住む茅ヶ崎での本読み稽古に参加した。その際の江見になにかと寄り添う娘がいて「二人は怪しい」の噂が立ち、川上音二郎・貞奴も信じた。江見の釈明は通用せず、彼はありのままを小説化した「霙」を、同年12月の「太陽」に発表。その「霙」がネット公開されてい、実名は変えられているが大筋はこうだ。

 ・・・「オセロ」の茅ヶ崎での本読み稽古に老女優・初代市川九女八(くめはち)の付け人の娘が、海岸を散歩する江見に寄り添って来て身の上話しをする。彼女は新潟で文学芸妓として名高かった庄内屋の八重。大尽爺さんの世話になったおかげで学問をさせてもらった。江見の小説も読んでいた。その娘が改めて夫の候補にしたのが軍人と会社員。会社員に身を任せたが本妻がいた。女の操がもうめちゃめちゃで尼にでもなる心で女優になりたいと訴える。江見が帰京する列車にまで追いかけて同行する。同年春の明治座舞台。軍人の真心を見抜けずまた妾の身になったことを天から罰せられているように花売り少女に扮した彼女がいた。芸名は内田静枝・・・という内容。

 そして約6年後、荷風と出逢う数年前の明治43年3月3日の「国民新聞」に八重は「女優の懺悔」(七)にこんな文章を発表した。「・・・江見先生が慕はしくなり稽古の間間は勿論暇さへあれば先生の側を離れず種々の事をお聞き申したり又咄もする様になりましたすると一座の俳優達が妾の仕打を見て妙に感ずり妾と江見先生と何だか可笑しいといふ様な噂を立てたのですご迷惑なのは江見先生でした」。江見は後にこの静枝文章を引用紹介。

 この頃の永井荷風は慶応義塾の文科教授になってい、同年の秋に新橋の芸妓巴屋八重次に逢った。荷風はこの「女優の懺悔」を読んでいたと推測されるがいかかだろうか。また後の荷風本の八重紹介の記述は、概ねこの「明治文壇史」「霙」、そして八重の「女優の懺悔」が出典と思われる。

 (追記1)嵐山光三郎「美沙、消えた」の「あとがき」に、七冊の手写本「我楽多文庫」は最初に早稲田大学教授本間久雄氏の所有であったが、つぎに勝本清一郎氏の所有となった。(略)。勝本氏は、山田順子との関係で世間に名をとどろかせた。順子は竹久夢二のモデルとして同棲したのち五十五歳の徳田秋声と同棲し、秋声はその顛末をせつせつと小説に書いた。順子は秋声にあきると若い慶大生のもとへ走り、半年間同棲した。その慶大生は勝本清一郎である。勝本氏は順子の前は日本舞踊師匠藤間静枝の若い愛人であった。

(追記2)荷風さんも竹久夢二も共に雑司ヶ谷墓地で眠っている。両人は知らんだろうが、互いの墓の間を「順子と八重」が踊っているような気がしないでもない・・・。


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星羽白プリミティブ秘め新宿へ [新宿御苑の野鳥]

hosihajiro1_1.jpg 今年の新宿御苑のカモ科の渡りはとても少ない。例年、少ないなりに群れを成したキンクロハジロも少なく、写真のホシハジロも数羽だけ。

 金黒羽白も星羽白もバイカル湖からヨーロッパにかけた地域で繁殖し、越冬のために渡ってくる。そう言えば、日本人のルーツはバイカル湖辺りの説があるとか。

 貧しくて年を越すのも大変だし、行政のていたらくに腹が立ち、人間関係も殺伐さを増しているが、しばしホシハジロから日本人のルーツに思い馳せ、悠久に遊ぶ。


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二丁目の嬌声近し翡翠かな [新宿御苑の野鳥]

kawasemi2_1.jpg ・・・昨日の続き。御苑のカワセミは、一昨年は時間に関係なく行けば間近で見えたが、今年はどうしたものかとんと眼にせぬ。で、9時入園で久々に再会。

 ワンダイブで大きな魚のゲットを目撃した。それは日陰でいい写真が撮れなかったが、日の当たる枝でキラキラの翡翠を楽しませてくれた。(♀が二羽いたような)

 間もなく師走。歌舞伎町のキャパ嬢も二丁目のお姐さん方も、カワセミに負けぬスパンコール姿で嬌声、媚態、狂宴を朝まで展開しよう。御苑のカワセミも愚かな人間どもに負けぬよう煌めいてもらいましょ。


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気忙しく綺麗な鳥の腰を振り [新宿御苑の野鳥]

kisekirei2_1.jpg 一昨日のこと。鳥撮りにと思ったが億劫が勝った。己の過ぎし年の11月ブログをひも解けば、胸躍らせて見知らぬ近郊に鳥撮りに出かけていた。あぁ、老いても日々そんな意欲と好奇心で生きたいもんじゃ・・・と反省。せめて新宿御苑・開園時間に入ってみようと思い立った。

 鳥撮りにも釣りで云う「朝マズメ・夕マズメ」あり。鳥が採餌活動に活発な時間帯。その時間帯を逃すと、鳥に出逢える頻度が低下する。

 かく反省し、久し振りに9時開園の一番のり。やはり居た、出逢いました。まずは池対岸縁を腰を振り振りキセキレイ。ブログ始めの3年前11月、初めて御苑でキセキレイを撮り「おぉ、新宿にもいたかぁ」とちょっと興奮した。こっちが怠けていただけで、鳥たちはその時期その場所にちゃんといたんですねぇ。このキセキレイ、御苑を越冬地に選んだのなら春まで愉しませてくれそう。

 この時期にあの川へ行けばセグロセキレイが川底に顔を突っ込んで採餌中で、下流の調整池では赤い実をたわわに実らせたピラカンサにカワセミが来て、さらに三脚ズラリッ並んだカワセミ・ポイントもあり・・・。まぁ、いいかぁ。新宿在住は新宿の野鳥を撮りましょ。<気忙(キセ)わしく綺麗(キレイ)な鳥の腰を振り> 「キセキレイ」を隠し言葉に詠んだ。


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少子化のはぐれ雀や吹溜まり [新宿御苑の野鳥]

suzumenoko1_1.jpg 16日の新聞に「スズメ6割減/都市部の少子化影響?」の記事あり。20年間の全国データ分析の結果で、これは営巣地や餌減少の都市部スズメの少子化が要因とあった。

 写真は新宿御苑のスズメ。まだ嘴の黄色が残っている成鳥前のスズメ。近くに群れもいず、一人っ子が彷徨っている感じ。この新宿スズメ、果たして生き抜けるか。

 「なぁ~に、大丈夫よ。あたしも生き抜いてババァになった。おまいさんだって池袋、新宿で遊んでジジィになったじゃないか」と新宿育ちで一人っ子のかかぁ。


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持ち重りする本を置く夜長かな [読書・言葉備忘録]

motiomori2_1.jpg 写真は読書中の江見水蔭「自己中心明治文壇史」と「川上音二郎・貞奴」。両書とも重く手が疲れる。何日か前の新聞に丸谷才一「持ち重りする薔薇の花」の新刊広告があり、数ヶ月前に読んだ諸田玲子「お順」に<持ち重りする乳房を~>なぁ~んて記述があったように思う。

 あたしも「持ち重りする」って言葉を使ってみたくて。 <持ち重りする本を置く夜長かな>。

 あたしにとってもうひとつ「持ち重りして」困っている物がある。鳥撮りの望遠レンズ。このレンズが重い。それがあんたぁ~、最近、4万円少々「PowerShotSX40HS」ってポケットカメラが、光学ズーム倍率35倍、デジタルズーム倍率140倍で、同機所有者のサイトには「手持ちで3360ミリ相当」なんて写真がバンバン載ってるんです。えぇ、羽の繊維?が1本1本クリアーに写る画質。気になります。


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大田南畝生家~南岳~紅葉~江見のこと [大田南畝(蜀山人)関連]

nanpotaku1_1.jpg 大田南畝「生家」探しの記事を何度かここにアップした。鈴木貞夫著「大田南畝の牛込御徒町住所考」なる研究資料に辿り着き、それによって後任御徒の「屋敷渡預絵図証文」から南畝の屋敷が特定(現在の新宿区中町36)されたことも記した。

 現在、新宿歴史博物館で開催中の<『蜀山人』大田南畝と江戸のまち>で頒布の同題冊子(千円)の冒頭「牛込御徒町」の章に、こう書かれている。・・・<明治三十九年の「新撰東京名所図会」四二篇は、北町四一番地を南畝の旧居とし、子孫で画家の大田南洋が住んでいたこと、その後、尾崎紅葉がこれを知り、明治二十三年から翌年まで住み、その後更に紅葉と同じ硯友社同人の江見水蔭が住んだことを紹介している>。同文は続いて永井荷風の大正十四年の南畝生家に関する記述を紹介し、冒頭の鈴木貞夫氏の研究による断定で結んでいる。

 前段はここまで。さて、尾崎紅葉が明治36年に亡くなるまで12年間住んだ家は「新宿区横寺町47」で、紅葉がその前に住んでいたのが眼の先の牛込中町の大田南畝旧宅で、紅葉が横寺町に転居した翌日に江見水蔭がここに入居・・・という記述が、当の江見水蔭著「自己中心 明治文壇史」にあった。これがおそらく「新撰東京名所図会」の基だろうと推測される。こんなのを探り出すとは、あたしも隅に置けない。ふふっ・・・。

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 江見水蔭の同著によるとこうだ。・・・明治23年1月5日、硯友社の新年宴会として初めての文士劇が行われた。尾崎紅葉から立作者(脚本家)に抜擢された江見水蔭が、その経緯、当日の様子、評判を振り返ったあとで、江見はこう記していた。<・・・兎に角紅葉は大学生中、既に「読売」に入社して、少しは経済もゆるやかに成ったのか、飯田町から牛込北町四一番地へ(大田蜀山人の屋敷跡で、其前まで同翁の曾孫大田南岳、書家で、先年市川で溺死した人が住んでゐたので有った。)転居してゐた。文士劇の大道具は、この北町で大概造られたので、雨戸の表には安絵具が付着して長らく落ちずにゐた。> なお江見は湘南・片瀬の貸別荘に転居する明治二十九年春までここに在住した。

 ここで明治39年刊の「新撰東京名所図会」は<南洋>で、江見水蔭は<南岳>の違いがある。大田南岳については、永井荷風が実際に逢っていて、彼の人生エピソードの数々を「礫川徜徉記」に詳しく書いてい、小生も本念寺の南岳お墓写真と共にこれを引用紹介(2011・07・11)した。それによれば大田亨(南岳)はずっと四谷在住で、大正4、5年に市川に移転。大正6年に江戸川で水死。よって、江見の同家転居は明治24年で、この江見の(其前まで同翁の曾孫大田南岳、書家で先年市川で溺死した人が住んでゐたので有った)というのは、同書刊の昭和2年の追加記述でまぎらわしい。南岳が四谷に移転後?の明治23年に紅葉が入居し、翌24年に江見が入居したのだろうか。

 そして(明治二十四年の初春)と記された「破天荒の原稿料」の章に、江見は再び同家のことを書いている。<・・・三月一日に、自分一家は、同じ北町の四十一番地に転居した。そこは紅葉が前日まで住んでゐたのだが、横寺町へ移居したので、其後へ直ぐ入ったのであった。紅葉が横寺町へ転じたのは(終焉の家)嫁取りの準備といふ事が後で知れた>。その頁にスケッチ(写真)を掲載。このスケッチには「明治二十七年十一月十一日夕写生」とあって、江見は「古日記の中に北町の住宅を背後より写生したるがあり、嘗て紅葉も住みし也 昭和二年七月 水蔭追記」が読み取れる。同書は昭和二年十月博文館刊で、同書執筆中に追記したのだろう。

  田山花袋「東京の三十年」にこんな記述がある。尾崎紅葉を訪ねる前のこと。「・・・その時分、私は牛込の納戸町にいたので、北町の通りは常に往来した。初めはそれと気がつかなかったが、Sが「紅葉は北町にいるじゃないか」と言うので、ある日、それとなく注意して歩いて見ると、長屋と長屋との間に小さな門があって、そこからずっと奥に入って行くようになっている家に、硯友社、尾崎徳太郎と蜀山人風に書いたかれの自筆が際立って目に付いた。」 小さな門というのは、御徒町組屋敷の東西にあった木戸だろう。花袋はその後、横寺町に移った新婚の尾崎紅葉を訪ね、翌日に成春社「千紫万紅」を任されて、その北町宅に入った江見水蔭を訪ねている。泉鏡花が何度か「成春社」会費徴収に花袋宅を訪ねて、江見は花袋のデビューとその後も応援し続けた。

(★花袋は牛込の富久町、納戸町、甲良町、喜久井町と転居を繰り返したのをはじめ、牛込は硯友社系文人が多く住んでいた。尾崎紅葉を慕った彼らの著作を読めば、北町辺りの記述が多い。)

(★整理すると、中町35が南畝生家。その西隣の中町35が昭和5年に宮城道雄が転居してきた家で、今は同記念館になっている。宮城道雄の著作と彼と親しかった内田百聞や佐藤春夫の著作にこの辺の記述があるやなしや。そして尾崎紅葉~江見水蔭らが大田南畝生家と得意げに語る中町41は大田南畝の遠孫・大田南岳が住んでいた旧宅・・・。これがあたしの結論)

(★千葉潤之介・優子「音に生きる~宮城道雄伝」より。◎昭和五年の七月に、道雄は牛込中町三十五番地(現新宿区中町三十五)へ引っ越している。この家は道雄が初めて買った家であり、生涯の安住の地となる家である。◎昭和十九年、中町の家は、五月二十五日の空襲でとうとう焼き払われてしまった。◎昭和二十三年五月、中町の焼け跡に新居が完成した。)★宮城道雄も関係者も隣が大田南畝の生家だったことには興味がなかったのだろう。隣の家への言及は一切ない。)

(★なお「川上音二郎・貞奴」好きの方は、江見水蔭が彼らの明治座「オセロ」脚本を担当したので、同書に記されている彼らとの交流、上演までの経緯、評判、さらには出演した永井荷風の元妻・八重=藤間静枝のことなどにご注目。)写真下は横寺町47の「尾崎紅葉旧居跡」。史跡看板の奥が紅葉が借りていた鳥居家、戦災で焼ける前は2階家で1階に泉鏡花らの弟子が起居していた。


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菊花壇明治時代に誘ひたり [花と昆虫]

kikutocyo1_1.jpg 毎日が日曜日の隠居だが、小春日和の土曜日は心が躍る。午前中に図書館巡りで、午後は御苑でお弁当。

 先週、四分咲きだった「菊展」の菊が満開になっていた。菊と紅葉。これまた色彩豊かで、まさに小春日和。野菊の「懸崖作り」に、蝶(紋白蝶と紋黄蝶)や蜂が舞っていた。

 新宿御苑は昭和24年に公園開放。あたしは子供時分に、オタマジャクシ採りに夢中になって池に落ちた。泣きながら大木戸門から四谷の親戚宅に走った。あれは開園直後のことだったか。

 御苑開放前、鹿鳴館時代にはあのドレス姿のご婦人方も菊展を楽しんだそうな。図書館で借りた江見水蔭著「明治文壇史」は、当時の文壇エピソード集。あたしは帰宅後、毛布にくるまった寝転び読書で、明治を彷徨って遊んだ。

 秋の紅葉ならぬ尾崎紅葉がらみの記述が多かったが、尾崎の葬儀で坪内逍遙が脳貧血で倒れた、音二郎・貞奴の「オセロ」脚本料が超破格の千円だったとか・・・。おぉ~、尾崎紅葉が牛込北町の大田南畝屋敷跡に転居し、その後に江見水蔭が入ったとあった。「大田南畝~大田南岳~尾崎紅葉~江見水蔭」と続いたと記し、その家屋スケッチも載っていた。これは注目、大発見?記述ゆえ、後日改めて記す。


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冬の雲見え隠れする邦の先 [東京スカイツリー]

tree12c_1_1.jpg 今朝の黎明。朝刊を開くと、17日発売「ギネス」にスカイツリーが「世界一の高さのタワー」と登録されているとあった。パソコンに向かう首を右に向ければ、窓の外にツリーが見える。ツリー先端は雲んなか。

 新聞にはTPP、原発、東日本復興、円高 年金、血税を貪る官僚、老害会長。日本の今も先も不透明。 冬の雲見え隠れする邦の先

 そうこうしているうちに、東の空は久々に眩しく晴れ上がった。我が邦の明日もそうなりますように・・・。さて、鳥撮りに行きましょうか、図書館巡りをしましょうか。

「おまいさん、たまには仕事をしておくれよ。米櫃がからっぽだよぅ」とかかぁの声。我が家の明日を覆った鉛色の雲は消えそうにありません。 


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鉄砲と自転車と野鳥の相関関係 [私の探鳥記]

mozu&kanban1_1.jpg 昨日、ひょんなことで「貞奴」関連本探し。すでに4冊は読んでい、他にないかしらと探索し、新たな3冊を借りたが、しっかり書かれたのは1冊のみ。図書館検索からネット検索したら、なんということでしょ・・。茅ヶ崎市で「川上音二郎没後100年・川上貞奴生誕140年」記念イベントで、先日まで「貞奴とその時代の自転車展」つぅのが催されていたのにビックリ。今夏「徳川慶喜は自転車好きだった」(その1~3)を記したあたしのアンテナがビビッと反応した。

 川上夫妻が帰国後に住んだのが茅ヶ崎で、そこで貞奴が自転車の練習をしたという記述がどこかにあって、貞奴が乗っただろう当時の茅ヶ崎の自転車を展示したものらしい。そんなネット巡りから「日本自転車史研究会」のサイトに辿りついたら、貞奴が晩年に夫婦然と暮らした福澤桃介が自転車ビクター号を前にした写真があった。で、面白いと思ったのは貞奴関連ではなく、概ね以下の記述だ。

 ・・・宮田自転車の創業者も、静岡(慶喜移住地)で発見された国産ダルマ自転車を作った人も鉄砲鍛冶師だった。宮田自転車は本所区菊川町で鉄砲工場を建て、日清戦争で大量受注。その後も狩猟銃が売れたが、明治34年の狩猟法改正で売れなくなった。そこで同年10月から自転車製造を始めた。鍛冶職人~鉄砲作り~自転車作りの流れがあったとは驚いた。

 そして、、その変遷の裏に鳥獣保護があった。明治28年(1895)に狩猟法制定。明治34年(1901)に鳥獣の保護繁殖を目的とする禁狩区制度創設。大正7年(1918)に狩猟法全面改正。とは言え密猟は止まらぬ。中西悟堂らが「日本野鳥の会」を設立したのが昭和9年(1934)で、彼らの熾烈な戦いで野鳥をはじめ鳥獣保護が浸透して行った。

 かくして「鉄砲と自転車と野鳥」の相関関係が浮上した。ねっ、だから鉄砲ならぬ超望遠レンズを背負い、自転車に乗って野鳥撮りに行くってぇのは道理にかなってんですよ。この辺を調べるのも面白そう。


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丸窓の外は見えずも冬木立 [暮らしの手帖]

marumado_1.jpg 昨日晡下、恵比寿某舎へ自転車で。今までは明治通り~駒沢通りだったが、「NAVITIME自転車ルート」で明治通り・並木橋左折~代官山通りを走った。

 某舎近くに大正8年建築「旧朝倉家住宅」(重要文化財)がある。回廊式庭園、大正ロマンと日本家屋折中の広大屋敷。一般百円、60歳以上無料。500円の鳩山会館より味わい深い。

 あたしの生家は下町風庶民平屋だったが掛け障子、細工格子の障子小窓、八畳の間には炉があり、その部屋まわりはL字に障子、廊下、庭だった。小さな庭だが池、石灯篭、鹿威し、そして盆栽が並んでいた。

 20代後半から転々とマンション暮し。旧朝倉家のような豪華屋敷は重要文化財で遺されるが、あの懐かしも普通の下町庶民家屋なんてぇのは、今は遺っていないんだろうなぁと思った。

 俳句は8日立冬から冬の季語です。<丸窓の外は見えずも冬木立> ※旧かなメモ:「見え」は「見ゆ」、つまりヤ行の「え」で「へ」にならぬ。


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「Eco C7」にバックミラーを付けてみる [新宿発ポタリング]

backmirror2_1.jpg 最近のTVワイドショーを観るってぇ~と各局で「自転車のルール違反」をやっている。TV観ながら、かかぁが言った。「おまいさんは、悪いことばっかりやってんだねぇ」。愚痴は止まらねぇ。

 「最初は放置地侵入で崖登りドラムカン越えのトライアルバイクだろ。次が山野疾駆の4駆遊び、魚突き貝採りのダイビング。海辺でバンカー練習。そう、金網越えて堤防釣り、野鳥も餌付けで撮ってるんだろぅ。そして今度は交通ルール無視の自転車族かぇ。フン、あきれた人生だねぇ」。

 自転車は軽車両ゆえ車道左側。歩道は歩行者優先。舗装の良い車道を走りたくも路肩駐車多し。これを避けて中央側に膨らむが、20㌅自転車では時速20㌔ほどで車の流れに乗れぬ。車道左側はバイク乗りン十年でお馴染みレーン。ここを走る危険をイヤと知っている。そこでバッグミラーを付けてみた。

 最初は普通にグリップ上に付けたが、ミラーに写るのはてめぇの姿ばかり。そこでグリップ下側に取り付け直して、年末仕事の打ち合わせに恵比寿・某舎まで走ってみるが・・・。ウム、こりゃ良く見える。推奨品なりで、品名は「ロングフレキシブルミラー」¥1029。このミラーと赤手袋の手信号で車道左側走行。


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「Eco C7」にボトルケージを付けてみる [新宿発ポタリング]

bottle3_1.jpg 野暮用ついでに自転車屋さんを覗いたら「ボトルケージホルダー」(パイプにワンタッチ)があったので、これとボトルケージ(アルミ製赤色)を購った。

 ロードバイクのフレームにはボトルケージ装着用突起があるも、折り畳み自転車にはない。夏の熱中症予防は「水分補給」が肝心も、冷えて水滴滴るボトル収納に困ったが、これで問題解決なり。

 ここで注意すべきは「ボトルホルダー」ではなく「ボトルケージ」ってコト。「ケージ=Cage:鳥かご、檻、保持器」。今まではペット籠・檻に使ってきたくらいの馴染みない言葉。わざわざケージは、ペットボトル・ホルダーではないことを主張か。ちなみにペットボトル280mlを置けばポロンと落下。500mlは落下せぬがスカスカ不安定。あくまでも「自転車用ボトル」。あの自転車選手が走りながら飲むアレである。保冷機能、飲み口の工夫、投げ棄ても生物分解するものと各種さまざま。チューブや工具収納のボトルもあり。

 今は保冷ではなく保熱で熱いコーヒーを飲みたい季節だが、まっ、これであたしも走りながら水分補給が出来るようになったってこと。ちなみにホルダーが1300円、ケージが1080円。ボトルもそんな値段だろう。


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コッカーの摩天楼見る暮し哉 [暮らしの手帖]

cocker2_1.jpg 息子の新居マンションにアメリカン・コッカースパニエルがいた。10階の部屋から新宿西口の摩天楼群が見え、西窓に富士山が見えた。

 そんな眺望を日々眺め暮すコッカーだが、元来はヤマシギ(Wood cock)を狩る犬cocker。今年2月にヤマシギを撮った際のブログに、こんな句を記した。<ヤマシギや亡き愛犬の血が騒ぎ> 二代目が飼い始めた二代目コッカーにも、時に地を駆る野生も甦らせていただきたいと思った。

 初代コッカー「バーキー」は、夏の海岸花火音を狩猟銃炸裂音と思ったか、気が狂ったほどの爆走で突進していった。大島ロッジの裏藪から小動物の頭蓋骨を咥えて帰ってきたこともあった。コヤツ、あの「バーキー」とそっくりの容貌なり。


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秋しぐれ自転車ナビで旅立ちぬ [新宿発ポタリング]

navutime3_1.jpg 昨日、ふと気づいて「自転車ルートマップ」なるサイトがあるのではと思った。まぁ、今の世は気付いたソフトは概ねある。幾つかのサイトを試したが「NAVITIME・自転車ルート検索」が最もよく出来ていた。

 出発地から目的地、中継地をインプットすると、ルート表示が表れて(1)距離が短い(2)坂道が少ない(3)坂道が多い(4)大通り優先(5)裏通り優先 速度レベルも5段階。そして距離。時間、消費カロリー表示。さらには標高もグラフ表示。例えば、緩やかに上っているが急坂はなく、ほぼ平坦地だが帰路の方が早く走れそう・・・などがわかる。「自転車乗りのために作りましたよ」という気持ちが込められた作り。

 写真は自宅~小金井公園のルート検索例。19.2㎞・1時間39分・417Kcal。なお、Googleマップにも「自転車ルート検索」が今春よりアップも未成熟。ただし自動車マップの支点ドラッグ機能は良くできていて、ルート変更、立ち寄りに便利。またプリントはGoogleが断然いい。NAVIは拡大印刷できぬのだ。さぁ、今日も何処かにポタリング。

 さて、今日は雨。この「自転車ルート検索」で紅葉狩りに東北へ輪行ルートで遊びましょうかねぇ。 <雨の日は自転車ナビで紅葉狩り>


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秋深し彼方此方で狂い咲き [花と昆虫]

tutuji1_1.jpg 新宿御苑でツツジがひとつ狂い咲き。ウチのベランダの梅花ウツギがひとつ狂い咲き。

 晩年にひょんなことを契機に人気沸騰の芸人・タレントがいる。枯れなきゃならぬ晩年に色恋、痴情もある。人々は万馬券や宝くじで、狂い咲きを夢見る。

 世は矛盾を膨らませて、摂理・条理を越えて「なんでもあり」の許容を迫って来る。変異や災難の多くも、よくよく考えれば、そこに何かが秘められている。花の狂い咲きには異常気象があり、原発には強欲と杜撰がひしめき、ギリシャ経済危機も然り。タイ大洪水も問題先送りの結果かもしれぬ。

 人には明日、何があっても動じぬ性根が必要らしい。 <今年こそ年末籤で狂い咲き> 


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子らが去り釣瓶落としの御苑かな [新宿御苑の野鳥]

akigyoen_1_1.jpg 「おまいさん、御苑に行きましょ。菊展が始まっているよぅ」。デパ地下で弁当を購い、御苑へ。

 重い一眼レフ+望遠レンズなし。そんな日に限って、1週間前とはガラリ変わって鳥が増えていた。エナガ、シジュウカラ、メジロ、ヤマガラ。池にはホシハジロも入り、オシドリは大きな群れになった。

 彼方此方に幼稚園児の集団。子らの声で賑わっていたが、それがひとつ、またひとつ消え、斜めに射す秋の陽に手をかざせば長い影。釣瓶落とし。<子らが去り釣瓶落としの御苑かな> ポケデジでもそんな情景が撮れた。 


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ブータンの幻蝶遥かナミシジミ [花と昆虫]

yamatosijimi1_1.jpg テレビにブータンの幻蝶「ブータンシボリアゲハ」の映像が流れていた。蝶も美しかったが、それを追うオジさんたちも素敵だった。老いても夢中になっている人の眼は輝いている。

 昨日、新宿御苑を歩いた。美大予備校生らが写生をしていた。蝶を追うオジさんらに負けぬ素敵な眼をしていた。

 イヤというほど長らえたあたしは、幻の蝶ならぬ並みのシジミ蝶、ヤマトシジミ(大和蜆蝶)をマクロレンズで撮った。翅を閉じて白地に黒斑の姿ではなく、ブルーの翅を広げている図。この程度の関心・行為は並みレベルで、眼が輝くには至らぬ。

 それにしても「ナミシジミ」ではなく「ヤマトシジミ」と云う立派な名で良かった。アゲハ蝶には可哀そうに「ナミアゲハ」なんて名の蝶がいる。嗚呼、我が並みの日々、人生よ。


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ちょっと怪な平秩東作(その2) [大田南畝(蜀山人)関連]

hedutu_1.jpgnogutinanpo_1.jpg 野口武彦「蜀山残雨」再読中。過日、新宿・善慶寺の平秩東作お墓を訪ねた。昨年5月の「ちょっと怪な平秩東作」の(その2)として、お墓写真と同書の平秩東作に関する記述をメモ。おや、野口センセイは平秩が亡くなった新宿・成子坂を自転車で走りまわる少年だった・・・と書き出していて、戸山高校卒と。ご近所さんだな。

 天明期はバブル。狂歌界のパトロンが勘定組頭・土山宗次郎。土山は勘定奉行・松本伊豆守の右腕で、その上に老中・田沼意次がいた。年貢米から金・銅・俵物・海産物に手を広げてのバブル。大田南畝も連夜の盛宴・遊芸三昧。

 平賀源内も鉱山発掘など<山師>になり、源内牢死後に白羽の矢を立てられたのが内藤新宿の煙草屋で町人文化の先駆け平秩東作だった。天明3年(1783)8月に物流調べという幕府密命で蝦夷(北海道)に旅立った。同行は源内とも親交の長崎のオランダ通詞・荒井庄十郎。

 天明4年、土山宗次郎は遊女を身請け、祝儀金などで千二百両の大盤振る舞い。南畝がお賤さんを身請けした資金も土山と揶揄される。

 天明6年に江戸大洪水。翌年、大飢饉。田沼政権が吹き飛んだ。八代将軍・吉宗の孫、白河藩第三代藩主・松平定信が台頭し、田沼は老中罷免。厳しい田沼派粛清。土山は横領で死罪。平秩東作は彼の逃亡加担で「急度叱(きっとしかり)」の罰。以来、鬱々として天明9年(1月に寛政元年)3月8日、柏木・成子坂の別邸?で死去。

 辞世の狂歌は「南無阿弥陀ぶつと出でたる法名はこれや最後の屁づつと東作」。な~るほど、確かに墓標に「南無阿弥陀仏」。台座には本名「立松之墓」。そんな平秩がどこか好き。


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