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去年今年年末ジャンボただの帋 [おくのほそ道]

junbo1_1.jpg 芭蕉は飯坂温泉の近く、医王寺を訪ねて15句目を詠んだ。佐藤継信・忠信の墓の前で涙を流しつつ・・・<笈(おい)も太刀も五月にかざれ帋幟(かみのぼり)>。継信は屋島で義経の身代わりで戦死、忠信は京で義経の身代わりになって自害。二人の息子を失った母を慰めるために、兄弟の嫁が甲冑を着せてみせたことへの供養句。

 金森敦子著「芭蕉はどんな旅をしたか」によれば、芭蕉は医王寺に入らず、笈も太刀も見ていない。兄弟の嫁の像がある齋川にも行っていない。芭蕉は土地を飛び越え、見なかったものを見たように書き、詠んでいると検証。旅を終え、幾度も直した(推敲)紙を貼り重ねたりして5年の歳月を経て「おくのほそ道」完成。幻視・虚構の句、紀行文なり。上野洋三著「『奥の細道』の謎」は、芭蕉直筆の何枚も重ね貼られた下の文字を透視・分析していて面白い。

 それはさておき・・・、「あれもこれも+帋」をいじる。今日は大つごもりゆえ、<去年今年(こぞことし)年末ジャンボただの帋(かみ)>。 皆様の宝クジが大当たりしていますように・・・。良い年をお迎え下さい。


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メジロ飛び合焦連写ゆめの夢 [おくのほそ道]

sakuramejiro1.jog_1[1].jpg 芭蕉は等窮宅の長逗留を切り上げ5月1日に福島入り。翌日、文字摺石を見に行く。石の上に布を置き、しのぶ草などでこすって色を染み込ませ、もじり乱れた模様にしたことから「もじずり石」。芭蕉がそこに行ったのは有名な歌枕(和歌に詠まれた題材)ゆえ。と云うより「おくのほそ道」は西行はじめが詠った歌枕を訪ねる旅なり。

 そこで芭蕉が詠ったのが14句目<早苗とる手もとや昔しのぶ摺> 田植する早乙女の素早い手つきを見ていると、昔、この辺りでしのぶ摺りをした手つきもあんなであったろうと偲ばれてゆかしいことよ。

 さて、この句をどうもじろうか・・・。昔の鳥撮りはまず露出計。露出とシャッター設定。左指でピントを合わせ、右人差し指でシャッター、右親指でフィルム巻き上げレバー。しかし今はコンピュータ全自動。被写体に自動合焦、動く被写体も一たび合焦すれば追従もする。1秒7、10回の連写。暗ければ感度も上げられて、手ブレ予防機能で三脚もいらぬ。中西悟堂、仁部富之助の野鳥本を拝見すれば、野鳥写真は苦心の極み。先達らにとってデジタルカメラは夢のまた夢だったに違いない。あの時代のプロ写真家の手順・手つきも今では懐かしい。おや、田植えも機械の時代。今は惚れ惚れとする「手つき」ってぇのが絶滅寸前。

 ということで芭蕉句とは大きくピントがズレて・・・<メジロ飛び合焦連写ゆめの夢>と詠んだ。メジロの季は夏だが、新宿御苑の2月の寒桜にメジロが群れる。1月半ばには我がマンション・ベランダのローズマリーにも数羽のメジロが遊びにくる。野鳥の姿や動きは、どんなにデジタル化が進もうが原初のまま。「ゆかしい」さが増すばかり。日々貧しい暮らしだが「メジロ飛び交う春を愉しみに待ちましょ」という元気をくれる。


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世の人の見付ぬカモや江戸小紋 [おくのほそ道]

ioriten1_1.jpg 須賀川宿の相良等窮の屋敷内に、大きな栗の木陰に庵を構えて隠棲の僧・可伸が暮らしていた。あの西行が「とち拾うほど」と詠んだ境地も、この閑寂の佇まいだったろうかと詠んだのが第13句目<世の人の見付ぬ花や軒の栗>。地味で目立たぬ栗の花を愛で、軒端に咲かせているこの「庵」の主人も、世の人の目にとまらず、いかにもゆかしいことよ。

 「庵」が出てきたついでに、上写真「庵点」について記す。文中に和歌、謡曲、俳句などを記すときに歌記号、庵点(いおりてん)を入れるが、それがSo-netブログ上では〓に化けてしまう。哀しいねぇ。仕様がないから歌詞挿入は「♪~」、俳句挿入は<>にしている。

onagaup_1.jpg さて、もじり遊び句は<世の人の見付ぬカモや江戸小紋>とした。誰も言っていないが、小生はひそかに江戸小紋のあの微細模様(クリックで胸から腹をご覧遊ばせ)は、江戸の職人が尾長鴨などからヒントを得たと勝手に思っている。年増がその妖艶な肢体を地味な江戸小紋で抑えて粋に着こなし歩いて行く。オナガガモを見ると、そんな江戸の色っぽい情景を幻視して愉しむのもまた風流でございます。


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風流の初は六十路で鷭を撮り [おくのほそ道]

okuhoso.jpg 芭蕉は白川の関跡を見たあとに阿武隈川を渡り、4月22日に奥州街道の宿駅・須賀川に入った。ここに奥州俳壇の有力者・相良等窮がいて6泊7日の滞在。「白河の関はどんな気分で越えましたか」と尋ねられ、等窮家の田植えを見学したあとなので<風流の初やおくの田植うた>と詠んだ。陸奥を歩き出す最初に鄙びた田植歌を聴き、いかにも奥州らしい趣です・・・の意。

 さて「風流の初(はじめ)や」をもじって一句。<風流の初(はつ)は六十路で鷭(バン)を撮り>。20代半ばから60代半ばまでワーカホリック。隠居して鳥撮りブログを始めたが、鳥撮りに収まらず「マイカテゴリー」は増殖する一方。今は「おくのほそ道」シリーズとして芭蕉句をいじる遊びに、自転車をこぎつつ撮った花鳥風月の写真を添えている。<老いぼれて初めてわかる風流か>

 このシリーズの主な参考書は「日本古典文学全集/松尾芭蕉集」と岩波文庫「おくのほそ道」。両書はすでに書き込みメモがいっぱい。併せて図書館で関連書を借りている。先週は5冊借りたがすべてつまらん本だった。今は写真の3冊がお気に入り。果たして「おくのほそ道」が大垣で終わるまで、この酔狂続けられましょうか・・・。


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神子秋沙ブログにかざして春を待ち [おくのほそ道]

miko2_1.jpg 芭蕉の10句目<田一枚植て立去る柳かな>はいじり済ゆえ、4月21日の白河の関の跡(平安末期に新道ができて関所が移転した)へ。芭蕉は関跡を訪ねてまずこう記す。「心許なき日が重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定まりぬ」。白河の関を越え陸奥入りして、やっと旅心が定まったと書いている。そして<卯の花をかざしに関の晴着かな>の曾良句を記す。これまた芭蕉句かも。「かざし=挿頭:上古の日本人が神事に際して髪や冠に挿した草花のこと」。昔の人は正装して越えた白河の関。せめて卯の花をかざして晴着にしましょの意。「卯の花」はウツギ(空木)の花。

 そこで「かざして」+昨日は皇居・馬場先濠で撮ったパンダガモことミコアイサ(神子秋沙、巫女秋沙)の組み合わせ・・・ <神子秋沙ブログにかざして春を待ち>

miko4_1.jpg ミコアイサは皇居お濠の、もうひとつの正月風物詩。鳥撮りを始めて初正月、09年1月4日の箱根駅伝ゴール応援に湧く人々を背に、お濠にカメラを向けた。ミコアイサは人混みに消え、カワアイサだけを間近で撮った。そして8日後の12日、大手門から平川門にかけて魚採りに夢中の3羽のミコアイサを撮った。この時は近くまで寄ってきたが、昨日は遥か遠くキンクロハジロの群れん中に一羽だけ。ミコアイサが来れば、お正月まで僅か・・・。


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希少種に見向きもされぬベニマシコ [おくのほそ道]

beni2_1.jpg 芭蕉は4月18日、那須湯本に到着。湯に入って疲れた身体を癒しただろうか。湯本温泉から馬に乗って殺生石へ。途中でほととぎすが鳴いた。馬方が鳴き声の方に馬を向けてくれた。そんな風流を解する馬方に即興で詠った第9句目が<野を横に馬牽むけよほとゝぎす>

 ふむ、「向き+下五に五文字の鳥の名」いじりで一句。<希少種に見向きもされぬベニマシコ>。 今年3月3日の雛祭り、希少種ハチジョウツグミを撮りに坂戸・浅羽ビオトープに行った。三脚に望遠レンズを並べた鳥撮りたちは、ハチジョウツグミが藪から出てくるのを待って、足許のベニマシコには見向きもしなかった。新宿暮しのあたしにはベニマシコも珍しく夢中で撮っていると「へぇ、ベニマシコがそんなに珍しいかぇ」の声。それを思い出しての句。

ban1_1.jpg その意では数日前にトモエガモを撮った際にも、足許に見向きもされぬバンがいた。バンはEF100-400㎜を購い、初試し撮りの鳥だった。場所は舎人公園。「な・なんじゃ、この鳥は」と近所の本屋に走って子供向け野鳥図鑑を買った。「おぉ、バンか」。鳥撮りのキッカケになった鳥。懐かしさを込めてもう一句。<稀少種に見向きもされぬバン一羽>


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小啄木鳥たち今年は来ぬか冬木立 [おくのほそ道]

kogeraup2_1.jpg 芭蕉は黒羽・光明寺の行者堂で<夏山に足駄を拝む首途哉>と読んだあと、ここより東へ12キロ山麓の雲厳寺へ。その奥で禅の師の仏頂和尚が山庵住まいをした跡を訪ねて第8句<啄木も庵はやぶらず夏木立>と詠んだ。

 「上五=鳥の名+下五=夏木立」をもじってみた。冬の新宿御苑に行けば必ず目や耳を愉しませてくれるコゲラたちだが、今年はどうしたことだろう、まったく姿を現さない。何か異変があったのだろうか・・・という心配を詠って<小啄木鳥たち今年は来ぬか冬木立>。

 新宿御苑は子供時分から通っているが、鳥撮りを始めるまで、この都会の公園にキツツキ科コゲラ(小啄木鳥、ジャパニーズ・ピグミー・ウッドペッカー)が居るとは気付かなかった。今年の冬、鳥撮りに行こうと早朝に家を出れば、家前の街路樹にコゲラがいて腰を抜かすほど驚いた。明治通りと大久保通りが交差するビル街で車が列なす都心。そこに啄木鳥である。おそらく他の誰も気付いていない事実・・・。


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トモエガモ撮って立ち去る見沼かな [おくのほそ道]

tomoe6_1.jpg 昨日、トモエガモを撮った。昨年2月に綾瀬駅下車の公園へ撮りに行ったら「30分前に飛び去った」の無念。今回はそのリベンジ。寒かったが早朝に家を出て大宮駅からバスで、その池へ向かった。

 さて、芭蕉「おくのほそ道」です。8、9句目より先に10句目<田一枚植て立去る柳かな>をいじる。那須湯本と白河の間の「蘆野の里」に西行ゆかりの遊行柳(新古今/道の辺に清水流るる柳蔭しばしとてこそ立ちどまりつれ)にたたずんで、ぼんやり感慨に耽っている間に、目の前の一枚の田がいつのまに植えられてしまった。物思いから覚めて柳の陰から立ち去ったという感嘆の句。

 嵐山光三郎は「田一枚植て」が早乙女の行為、「立去る」は芭蕉、そこで切れて「柳かな」とブツ切れの状況説明をするようなへたな句を芭蕉は作らない。これは謡曲「殺生石」の化物説話から柳の化物が田を一枚植て立去ったと解釈すべき。西行の旅を幻視する芭蕉の白日夢だと自著「芭蕉の誘惑」で主張している。

tomoe3_1.jpg あたしは下手な解釈「自分が立ち去ったあとの情景」をもじって、<トモエガモ撮って立去る見沼かな>と詠んだ。

 トモエガモは環境省レッドリスト絶滅危惧種。年末にライフリスト更新で、ちょうど160種目。写真下はあたしの下手句にゲッとたまげたトモエガモ。白い瞬幕が半分出て目付きが悪くなっている。


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霊峰に鉄爪(アイゼン)括る覚悟哉 [おくのほそ道]

fuji1_1.jpg 那須・光明寺に行者堂あり。役の行者の一本歯の足駄が祀られていた。芭蕉は陸奥路に臨むにあたり、これを拝んで健脚にあやかろうと詠んだ。<夏山に足駄を拝む首途哉> 

 「おくのほそ道」の7句目。「首途=かどで、門出、旅立ち」。この句もじりは「夏山に⇒冬山に」、「首途哉⇒覚悟哉」にして<冬山に鉄爪括る覚悟哉>。うむ、季が重なる? ならば<霊峰に鉄爪(アイゼン)括る覚悟哉>

 アイゼンは登山靴に装着する鉄の爪。今はワンタッチ装着もあるそうだが、あたしが山男だった時分は凍らぬように油をたっぷり染みこませた平紐を、かじかんだ手で必死に括りつけ、「いざっ」とばかりに歩き出した。富士のような風の強い地はアイスバーンが多い。鉄爪がギシギシと食い込んで滑落(死)を防いでくれた。写真は11月下旬、丹沢の奥の富士山。今はもう厚い雪に被われているだろう。


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なでしこは二重八重やの累(かさね)あり [おくのほそ道]

kidouato_1.jpg 芭蕉は日光から那須・黒羽へ。道に迷って男に訊ねれば「此野は縦横に道が分かれて迷うだろう、馬を貸すから馬が動かなくなったところで追い返しなさい」と道案内の馬を貸してくれた。その馬に二人の子供がついてきた。一人は女の子。名を訊けば「かさね」。女の子は撫子に例えられる。撫子で「かさね」なら八重撫子だろうと<かさねとは八重撫子の名成るべし>と詠んだ。曾良句だが、これも芭蕉句らしい。これで6句目也。

 さて、目下「岡本綺堂日記」の大正13年から1年余の大久保・百人町の借家暮しを読んでいるが、現在のコリアンタウンと化した大久保からは想像もできぬ良き時代。彼の「半七捕り物帳」の「津の国屋」は、崩れた島田髷に白地に「撫子」の浴衣の娘にゾッとするところから事件が始まる。岡本綺堂の怪談好みから言えば「かさね」は「累(かさね)ヶ淵」となる。岩波文庫「おくのほそ道」収録の「奥細道菅菰抄」にも「鬼怒川の与左衛門が妻、かさねと云しは~」と怪談に誘う注あり。

 季語は撫子で夏。江戸時代は朝顔と同じく「変わり撫子」作りも盛んだったとか。そこで<なでしこは二重八重やの累(かさね)あり>と詠んでみた。川柳なら<なでしこが無能政治を忘れさせ>。おぉ、其角と共に江戸を代表する俳人・松倉嵐蘭(とぼけているねぇ、ランランだって)に<撫子にふんどし干すや川あがり>がある。

 なお写真は岡本綺堂が大正13年に住んでいた辺り。突き当りが戸山ヶ原でその左角が綺堂宅。今はバイク作家の戸井十月宅があった。綺堂宅の隣が同じく作家の国枝完二の家だったそうだが、日記には「隣家の宮崎君方」とある。江藤淳もたしかこの辺の生まれ。綺堂が越してきた大正13年には戸山ヶ原に「アパッチゴルファー」が出没。マイカテゴリーに「大久保」を追加して調べましょうか。


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暫時は暖気控えて年の暮れ [おくのほそ道]

rakkaentotu_1.jpg 芭蕉は東照宮参拝後に「裏見の滝」へ。岩窟に身をひそめて入て、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝え侍る也~と記し、第5句目<暫時(しばらく)は滝に籠るや夏(げ)の初(はじめ)>と詠んだ。 仏道の夏の修行のような清浄な気持ちになったそうな。

 旅費工面の曾良もパトロンもいぬ貧乏隠居には旅立つこともできぬ。だがなんと「You Tube」に7日前アップロードの「日光・裏見の滝」映像がありて居ながらに鑑賞。便利と云うかヘンな世になった。

 「裏見の滝」と云えば、滝ではないがカウアイ島「シダの洞窟」を思い出す。洞窟から垂れ下がるシダ群に水が滴り落ちて裏見の滝のようなり。これもネットで見れば06年の豪雨地滑りで洞窟には入れなくなったとか。行ったのはその数年前だったか。おぉ、こう記せば次々に思い出が甦る。山男だった時期にザイルワークの沢登りで、滝裏に潜り込んだこと幾度か・・・。

 そして同句のもじりは・・・。各地雪便り来る年の瀬だが、原発事故の節電に関係なく貧乏節約生活で暖房控えめ。清浄どころか寒さに耐える日々。こんな時に島ロッジの薪ストーブが恋しいも、20年目にして煙突落下(写真)で使用不可。今朝はダウン着込んでブログアップ。<暫時は暖気控えて年の暮れ>


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剃捨て初秋の風のそよぎ哉 [おくのほそ道]

 「おくのほそ道」4句目は<剃捨(そりすて)て黒髪山に衣更(ころもがえ)>。曾良の句となっているが芭蕉句で、句に続いて「河合氏にして~」と同行者・曾良を紹介している。黒髪を剃り捨て、俗衣を墨染の法衣にして旅に出たが、この黒髪山(日光・男体山)まで来たら、ちょうど卯月朔日(4月1日)の衣替えになった。黒髪を剃り、僧衣にした出家隠世に踏み出した感慨を新たにしている。

 あたしが長髪を丸坊主せしは40代後半の秋。白髪がポツポツと出たのと、今さら若者を気取る歳でもなかろうと、事務所近くの床屋で坊主にした。床屋から外に出ると、頭の天辺を風がそよいで、その感覚の新鮮さに驚いたことを今でも覚えている。ヒッピー、ビート、サブカルチャー、若者文化の熱も失せ、「いか天」などのバンドブームでロックも単に仲間うちのお遊びみたいになってガッカリしたこともあった。<剃捨て初秋の風のそよぎ哉>

 丸坊主後の数年間は床屋も、次第に電気バリカンで手前坊主になった。気分次第でゼロミリ、3ミリ刈り。法事に行くと、俗臭漂う坊主よりこっちの方が解脱している。あの頃に若かったミュージシャンやロッカーらが今も白髪を染め、増毛し、カツラだったりして頑張っている姿をテレビで拝見すると失笑を禁じえぬ。ハゲの方がカッコいいのに。


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あらたうと落葉紅葉の夢の宴 [おくのほそ道]

momiji1_1.jpg 「おくのほそ道」第3句は、千住~鹿沼を経て4月1日に日光東照宮で詠んでいる。前夜から小雨が降っていたが、参拝する頃には雨が止んで陽も出たのだろう。<あらたうと青葉若葉の日の光>と詠んだ。

 「あらたうと」の「あら=あぁ」+「たうと=とうと(貴)」で、ああ貴い。この青葉若葉に降り注ぐさんさんたる日の光は、あぁなんと尊く感じられることよ、将軍様を敬っている。

 「おくのほそ道」第3句は春だが、今は師走。冬木立になる直前の紅葉に、日の光が注ぐと黄色から赤のさまざまな暖色系色彩がハッとするほど美しい。しかも朽ち落ちた葉は次の季節、世代のための貴重な腐葉土になるってぇから、なんと尊いものよと思ってしまう。そこで<あらたうと落葉紅葉の夢の宴>と詠んだ。写真は日の光(日光)ならず新宿御苑。


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伊佐沼やクロツラヘラが抜けた跡 [おくのほそ道]

isanuma_1.jpg 昨日、久々に小チャリ(AL-FDB14)輪行。副都心線・東新宿から川越下車、ここから自転車で伊佐沼へ。鳥撮りなら「はぁ~ん」と推察通り、まだ居るという稀少種クロツラヘラサギ狙い。だが目当てのサギは居ず、改修工事で底泥をさらした無粋な池が広がるだけだった。

 <伊佐沼やクロツラヘラが抜けた跡>と口遊んだら、やっ、どこかで聞いたような・・・。句の構成が「おくのほそ道」の<夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡>似なのだ。芭蕉の歩いた順に句を辿ってみようと思ったが、輪行ついでに一気に平泉まで飛ぶ。

 芭蕉が松島~石巻を経て平泉に着いたのは6月末。兄・頼朝の追討から義経が奥州藤原秀衡(ひでひら)を頼って高舘(たかだち)に居を構えたが、その高舘から眼下の古戦場跡を眺め、藤原三代の栄華も一睡の夢か。芭蕉さん「国破れて山河あり・・・」と涙を落し侍りつつ詠った句。

 ちょっと前まで世界に数千個体という超希少種クロツラヘラサギがいて、連日百名を超える鳥撮り爺さんたちがプロカメラマンも滅多に所有せぬ百万円余の超望遠レンズを並べて競い撮っていた光景が展開されていたそうだが、今はそれも一時の夢と化し、ただ池底の泥を晒した無粋な池が味気なく広がるばかり・・・。

 芭蕉はそのあと金色堂へ向かったが、あたしは輪行記念に池脇に見向きもされず朽ちかけた薬師神社で小チャリを撮っただけでカメラを仕舞い、準急電車で新宿三丁目まで帰ってきた。かかぁが言った。「フン、撮れなかったのかい。電車賃ソンしちゃったね」「でも、小チャリ輪行、楽しかったぜ」と負け惜しみ。粘ってでもいい写真を撮るつもりで買ったコンビニおにぎりを家で食いつつ、歴史の本を開いた。義経が亡くなり、平泉が落ち、頼朝が念願の征夷大将軍になって1192年に鎌倉幕府。


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師走来て鳥飛び魚へパンの屑 [おくのほそ道]

kinkuro1_1.jpg 時は元禄二年三月下旬。芭蕉は深川から舟で隅田川を遡って千住に上陸した。江戸から最初の宿場。吉原遊女の投げ込み寺・浄閑寺がある。芭蕉はここで六日滞在し、第2句を詠んだ。<行春や鳥啼き魚の目に泪>

 これから前途三千里の旅立ちが始まる。大江戸の安穏とした暮しに後ろ髪がひかれるも、「行春」に「離別」を重ね、鳥も啼き魚の目も泪で濡れているようだ・・・と詠った。嵐山光三郎は「芭蕉の誘惑」で「魚の目に泪」は泳いでいる魚の目に泪は不自然ゆえ、賑わう千住の町の魚屋で魚の目が泪を流したように濡れていたのだろうと書いている。

 「行春や」は、刻々と移り過ぎてゆく春。「不易流行」。「おくのほそ道」最後の句<蛤のふたみに別れ行く秋ぞ>と対を成す句。共に旅が終わって数年後に作られた句らしい。端から虚構である。さて、「行春や」だが今は「師走」。これに鳥と魚の組み合わせて <師走来て鳥飛び魚へパンの屑>と詠んだ。師走は人々が忙しいが老人は閑でしょうがねぇ。公園の池へ行くってぇと、そんな老人の一人や二人が必ず渡鳥や鯉にパン屑を与えている。写真は採茶庵の隣の清澄公園に北国から越冬にきたキンクロハジロ。老人が投げるパン屑に飛んできた。


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草の戸もプレハブ寒し芭蕉かな [おくのほそ道]

basyo1_1.jpg 隅田川と小名木川の合流地に「芭蕉庵跡」があるが、ここから南、清澄通りの仙台堀川に架かる海辺橋際の「採茶(さいと)庵」跡に、この芭蕉像があった。

 芭蕉は「芭蕉庵」を引き払い、杉山杉風(さんぷう)の「採茶庵」にしばし逗留してから「おくのほそ道」に旅立った。まずはここから舟で隅田川に出て千住に向かった。この「採茶庵」跡だが、江東区は予算がなかったか、哀しいことにプレハブ小屋で、その縁側に旅立とうとする芭蕉がいた。

 「おくのほそ道」第一句は<草の戸も住替(かは)る代(よ)ぞひなの家>。 これは引き払った「芭蕉庵」を訪ねると、もう代は替わって、女の子がいる家なのだろう、お雛様を飾った家になっていた」という句。死をも覚悟した旅に出る芭蕉の覚悟が込められた句。最初は「世や」だったが、後に「代ぞ」と強調されたとか。さぁ、この第1句をひねって<草の戸もプレハブ寒し芭蕉かな> 

 寝起きがしらの駄句のレベルを少しでも上げるべく「おくのほそ道」の句(5、60句)をなぞり弄る遊びを今日から始めてみた。果たしてどこまで続けられるか・・・。(主な参考書は小学館刊・日本古典文学全集「松尾芭蕉集」、岩波文庫「芭蕉おくのほそ道」付曾良旅日記、奥細道管菰抄ほか)


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蓑虫やライトダウンが流行りけり [花と昆虫]

minomusi1_1.jpg 久し振りにミノムシを見た。ミノガ科の幼虫。大別して「オオミノガ」と「チャミノガ」がいるそうで、なんと!「オオミノガ」が絶滅危惧種になっているとか。外来種のヤドリバエの寄生で西日本では姿を消した。

 蓑虫にそんな大事件が起こっていたとは知らなかった。もうひとつ、驚いたのは♀は翅も脚もなく蓑の中に一生いるんだって。蓑の中からフェロモン発散で♂を誘って、上の口から差し込まれた♂生殖器と交尾。そこで♂は死に、♀は蓑のなかに卵を産み、孵化する直前に下の穴から落下して一生を終える。孵化した幼虫は穴から糸を垂らして分散する。

 まことに奇異な生態。隠居の歳になっても知らないことが多い。いや、閑になって、知らないことがいっぱいあるのにやっと気付くんですねぇ。

 <蓑虫やライトダウンが流行りけり>は、蓑虫を見た時にユニクロのライトダウンを着ていたから。買ったのは2年前か。ベストと袖付き両方持っている。ウォーキング途中で身体が熱くなれば脱いで小さく片手に収まる。鳥撮りに着て行き、脱いでバッグに入れればカメラやレンズ保護材になる。ユニクロを褒めたので、次は文句を言う。今年、風を通さぬジーンズとかを買ったが、ありゃ~ダメだ・ダメだ。何かがコーティングされていてゴワゴワし過ぎて歩き難い。自転車もこげぬ。しなやかに動けない。買ったが一度も穿いていない。


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吉良殿は三百余年耐え続け [新宿発ポタリング]

kira_1.jpg ♪~時に元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風をふるわせて響くは山鹿流儀の陣太鼓~ 今日は忠臣蔵は討ち入りの日(西暦では1703年1月30日)。写真は両国3丁目(本所松坂町)の吉良邸内の吉良上野介像。事件は今から309年前のこと。まぁ、こんなに永いこと、イヤな奴と思われ続けた人物はいないだろう・・・。

 忠臣蔵云々はここまで。4日前に自宅・大久保から川向こうは江東区・清澄公園まで自転車で走った。行きはほぼ下り坂。同じく吉良邸のある本所までも下り坂。ポタリングで何が楽しいっかてぇと「下り坂」だ。寒風ん中とは言え、山の手から下町へのポタリングは楽しくて鼻歌も出る。写真下は「NAVITIME」自転車ルートによる大久保~両国間の標高図表。

navi_1.jpg 比して♪~行きは良い良い帰りは怖い~。当初は帰り道でへばったが、今は脚力がついて、まあぁ力強く帰還できるようになった。ってことは江戸時代の下町暮しと山の手暮しでは、脚力に違いがあったような。岡っ引きが遺体の足をさすって「親分、こいつぁ下町の人間じゃねぇな。この大腿筋は坂の多い山の手の人間だ」な~んて言ったかも。そう云えば、山の手でよく見る電動ママチャリも、下町では余り見ぬ。あれは坂の多い山の手用の自転車なんだ。

★吉良上野介から噺はとんだところに飛んだ。書き出してみないと何処に行くかわからゆえ、駄文は行方定めぬポタリングに似ている。それが面白いからブログを続けているような気がする。


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今年の字「絆」の半が跳ねてをり [読書・言葉備忘録]

 昨日のテレビニュースや朝刊で、日本漢字能力検定協会が発表する2011年を表す漢字が「絆」と発表されていた。清水寺の森清範貫主が「絆」と書いたが、半のタテボウがすっと伸びずに、左に跳ねていた。漢字検定協会と、おそらく書道家としても名のある貫主の書ゆえに、「ハン=半」はハネボウでもいいんですよと訴えているようだった。

 嵐山光三郎「おはよう!ヨシ子さん」で、著者は父の墓石に彫る苗字の「乗」のマンナカのたて棒がはねているのを、墓石店に訂正を申し入れた顛末を書いていて、なかなか味わいのあるいい文だった。漢字検定団体と貫主の「絆」には、どこか変・・・とひっかかった。

 


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冴える月欠ける摂理の寒さ哉 [暮らしの手帖]

gessyoku1_1_1.jpg 写真は昨夜の月食。太陽~地球~月が直線に並んで地球の影で月が隠れる。こんなのを復習すると子供時分に戻ったような気分になってうれしい。

 次の皆既月食は2014年10月8日とか。それまで生きているだろうか。その日が晴天とは限らぬから、今回が見納めか。ってワケで厳冬期の防寒具を用意してマンション屋上で観ようと思ったが、自室ベランダから簡単に見えた。ISO100 F5.6 1/400sec

 「寒さ哉」は、この年の政治(家)の体たらくを含む。官僚は私欲に走り、かつて尊敬された教師や公務員や警察官の不祥事ばかりが目立つ。少年、老人の犯罪も多発。茶の間に流れるテレビも制る人出る人みぃ~んなバカ、偽善に見える。せめてスポーツ番組と思うが、ここにもバカみたいな絶叫アナと芸人が出張ってくる。日本はカオスの様相を呈し、ますますお寒い状況・・・。 月食を習った子ども時分には、茶の間にラジオだけが優しく流れてい、尊敬できる大人がいた。

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嵐山光三郎「美妙、消えた。」 [読書・言葉備忘録]

 先日、新宿歴史博物館「大田南畝と江戸のまち」関連2回目の記念講演に出席した。講師は大妻女子大の石川了教授。南畝研究の第一人者で恩師の濱田義一郎名誉教授の思い出を語りながら、味のある講義を進めた。蔦屋重三郎と南畝の関係でこんなことを言われた。「濱田先生はお金のことは下世話ゆえ口にしませんでしたが、私は蔦重が金づる・南畝を離さなかったと思うんですよ」。ふむふむ、アカデミズムは金のこと、むろん妻妾同居の性生活、食い物、悋気など下世話、尾籠ごとには眼を反らすんだと再認識した。

 ここまでが前段。その意では嵐山光三郎は金、性生活、食欲、悋気など下世話、尾籠ごとから人を描くのが得意の作家で、そんな彼の「美妙、消えた。」を読んだ。概要はこうだ。

 ・・・尾崎紅葉と幼馴染だった山田美妙は、17歳で共に硯友社を結成。文学熱中で大学入学ならず。美妙の将来に賭けていた養祖母は半狂乱。頼るは文学(売文)で食うほかにない。硯友社から去り、言文一致を拓きつつがむしゃらに書いた、稼いだ。たちまちに注目作家になって自家用人力車まで持った。好事魔多し。良妻賢母の女性誌を編集しつつも、浅草の年増・留女に引っかかって性愛の深みにのめり込んだ。待合まで持たせて、せっせと通って「宝一」「宝二」。美妙日記の「宝」は交情記録で連日いたしている。(明治の文学「山田美妙」に同日記が掲載されている) やり過ぎで筆が勃たなくなってと揶揄され、この辺を嵐山は舌舐めづりしつつ嬉々と書いている。独壇場だな。

 やがて黒岩涙香「万朝報」に、爛れた関係が暴かれる。嵐山は放蕩を諌めようとした養祖母がタレ込んだとしている。これを根津の娼婦を妻にした坪内逍遙が筆誅の追い討ち。美妙は次いで女弟子・稲舟と深間になって文壇から袋叩き。父の愛を、友情を、男らしく闘うことを・・・知らずに育った優男・美妙は反撃することもなく世捨て人となって「日本大辞典」など地道な稿料で細々と生き、悲惨な最後を迎える。稿料で生きる作家の過酷な人生・・・。また同作は二枚目・優男作家と下世話・尾籠作家の妙であり、さらに言文一致運動と昭和軽薄文体作家の妙。

 作家ではないが、あたしも隠居するまでギャラ生活だったから、読んでいて胸がキュンと痛くなってしまった。さて、美妙とは正反対の下世話・尾籠好き嵐山光三郎は、不良中年ならぬ70の高齢者になり、仲間内から「歳を取るとガタッと原稿依頼がなくなるゾ」と忠告されつつも、相変わらず「サザエさんの性生活」など考察し、「この家の主人は、すぐお金の話をするので、抱きしめたいほど好きになってしまう」と記し、若い世代ににセンセイと崇められつつ人生「下り坂」でも大繁盛しているらしい。


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冬紅葉飛び入る鳥の頬を染め [新宿御苑の野鳥]

momijienaga2_1.jpg 3年前の御苑にエナガは居なかったように思うが、今秋~冬は群れエナガをよく見る。スズメより多かったりして・・・。大増殖しているに違いない。

 その日は「母と子の森」の紅葉した木々から、池の枯れ蒲(写真下)へ、そしてモミジの中へ移動。

 小さなおちょぼ口で微細昆虫を採餌ゆえ、常に忙しく動きまわりつつ移動。まさに師走の象徴みたいな鳥だ。撮るも一瞬。カメラのフォーカス機能が試される。そんな忙しいエナガの移動を、何もすることのない隠居夫婦が追い、撮っている。この戯れに「何がいるんですか」と人が問うも、一瞬にエナガの姿はない。大つごもりに向かって忙しさ増す新宿で、のんびりとエナガを追うも、この季節の風流・・・。

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<表示以前の月別表示>について

 このブログには本文左脇に広告などが入る枠外あり。そこに<nice>とか<カレンダー><月別表示><最新記事一覧><マイカテゴリー>などの項目。そのなか<月別表示>が最大20ヶ月分で、それ以前の月別表示が隠れてしまう。これがちょっと按配悪いのだ。

 2年前の3月はどこに鳥撮りに行ったのだろうか、どんな記事を書いていたのだろうか・・・と過去記事を見たい際に、目的の年月日の頁になかなか辿り着けない。さぁ、困った・・・。そこで<マイカテゴリー>のなかに<表示以前の月別表示>という項目を設けてみた。ここをクリックすると、3年半の全月別表示が出て来るようにした。それも日々に追われているうちに、丸1年間の<月別表示>が空白になってしまった。「さて、どうやってこの<過去の月別表示>を作ったけなぁ」。自分の復習メモに、また「So-netブログ」利用の方で、この<表示以前の月別表示>がいいと思って下さる方がいないとも限らないだろうから、このやり方をここにメモする。

 1)まずカテゴリーの<表示以前の月別表示>をクリック。するってぇと過去に作った「一覧表」が出てくる。一覧表ラスト月をクリックすると、その月頭のブログが出てくる。そのタイトル上に例えば<■2010年06月/2010年07月/2010年08■>の表示が出ているから、次月の<2010年08月>をクリックで<ショートカット・コピー>を選択すると、これで過去の月頭アドレスをコピーしたことになる。

 2)次に<管理ページ>から<記事管理>へ。<表示以前の月別表示>記事のあるを過去頁を出して編集作業にはいる。一覧表のラスト頭にカーソルで一行挿入。1行あいたところに文章がないと受けつけぬから「★2010年08月はここから」とでも打ち込んで(1)でコピーした過去も月頭アドレスを貼りつけて、<保存>する。

 さて、皆さん、お暇がありましたら左枠外の<マイカテゴリー>より<表示以前の月別表示>をクリックしてみて下さいな。過去3年余の全月頭アドレス一覧表が出てきます。ねっ、これとっても便利でしょ。

 ※翌日、過去3年間の新宿御苑の12月の野鳥状況を調べようと作ったばかりの<表示以前の月別表示>をクリックしたら、年次を間違えてペーストしていることに気が付いた。で、翌朝すべてやり直し。はあっ・・・。


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仁部富之助著「野の鳥の生態」全五巻入手 [野鳥関連本]

nibuhon3_1.jpg 一昨日、近所の「ブックオフ」で、何という事でしょう!かの仁部富之助著「野の鳥の生態」全五巻をボックス入りで入手した。こんな素敵な本が、陳列棚の上にひっそり隠れるようにあった。しかも1800円。買う人もなく店も困り果てた呈で、この値段をつけたのでしょう。帰宅後に古本ネット検索すれば4~6000円相場。

 「日本野鳥の会」創立が昭和11年。中西悟堂が野鳥観察を始めたのが昭和に入ってからだが、仁部富之助はその前から野鳥の観察研究を自然誌などに発表していた我が国の野鳥研究の祖。

 明治15年、秋田県生まれ。秋田県農業高校を卒業し、農商務省農事試験場陸羽(りくう)支場(秋田県・大曲)に勤務しつつ野鳥観察を開始。冷害に強い稲「陸羽132号」を世に出すと同時に、大正3年から野鳥研究成果を次々に発表。翌4年の33歳で「郭公の蕃殖に関する研究」を日本鳥学会より出版。その地道・精緻なフィールドワークから「鳥のファーブル」と評価される。「野の鳥の生態」は昭和11年に1冊が出版。昭和16年から3年に渡って1巻、2巻、3巻を刊。昭和22年に64歳で亡くなったが、昭和54年にご子息・仁部正五の校訂で未発表遺作をまとめて全5巻が出版。それが13年後に我が手に入ったってこと。

 これからじっくり愉しみつつ拝読です。なお中西悟堂著「定本野鳥記」全16巻は鳥撮りを始めた3年前に読了。これは徒歩10分ほどの図書館にあるのでいつでも再読自在。これを機にマンネリ、停滞の鳥撮りにもう少し熱心になりましょうかねぇ。

 コメント返信:返信機能使えず、ここで新切鰺郎様へ返信。ツバメの絵を拝見致しました。お上手で羨ましい。東京・新宿でのここ五年間のツバメ初認記録など2014年5月8日に記しています。


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石橋思案の自転車と紅葉、美妙 [新宿発ポタリング]

bimyou3_1.jpg 今、「明治の文学」第10巻「山田美妙」、嵐山光三郎の「美妙、消えた。」を読書中。嵐山本は再読だが、ここに石橋思案の自転車に言及個所あり。すでにカテゴリー「新宿発ポタリング」で<徳川慶喜の自転車><志賀直哉の自転車>をアップしているので、同書にある<石橋思案の自転車>についても取り上げたい。以下、概要・・・。

 明治17年、美妙は東京大学予備門に入学。文学没頭で学校に出て来ぬ美妙に、紅葉が「師走の学期試験があるから出て来い」と手紙を出す。美妙が久し振りに登校すると、自転車通学の思案がやってきて、二人に自転車の練習をさせようとする。嵐山はこう書いている。「思案は自転車通学だった。父親が裕福で、大きな屋敷に住み、イギリス製の自転車を買って貰ったという」。また駿河台の借家に越した美妙のところに紅葉が転がり込むが、そこに美妙がウイスキーを持って自転車で訪ね来るシーンもある。三人は盛り上がって硯友社の雑誌題名を「我楽多文庫」と決める。

 さて、志賀直哉が自転車狂だったのは明治29~35年頃。自転車で「切支丹坂」を下った自慢話の小説で、1ヶ月10円で暮らせた時代に、祖父に160円のデイトナという蝦茶色の自転車を買ってもらったことを書いている。一方、徳川慶喜が自転車に乗った(買った)のは静岡在住の明治20年頃。そして石橋思案は両者よりもっと早い明治17年にイギリス製自転車に乗っていたことになる。石橋思案関連本を探し読む愉しみが増えた。

 そしてもっと面白いのが、ここに大田南畝の絡みが出てくること。嵐山光三郎は紅葉が大田南畝の牛込中町の生家跡に移転し、その後を江見水蔭が入ったとまで書いたが(江見水蔭著「自己中心明治文壇史」引用)、実は石橋思案の祖父が長崎の通詞・石橋助左衛門で、大田南畝の長崎時代に一緒に仕事をした仲だったことを見逃している。大田南畝が長崎奉行詰を命じられたのが文化元年。ロシアのレザノフ使節との交渉に立ち会ったのは有名な話で、この時の通詞が思案の祖父だったはず。著者が逃した逸話を発見して「ふふっ」と笑ったりするのも、へぇ、読書の愉しみで御座いますぅ。


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地に還る祝ひ宴か冬日陰 [散歩日和]

fuyuhikage1_1.jpg 師走でぇ。マンションめぇの街路樹ハリエンジュの葉は半分ほど落っこち、欅は赤茶色で触れば落ちる按配ぇだ。写真はコナラかな。萌える新芽・新緑もいいが、落葉寸前の木々の色づきもなかなかてぇしたもんだ。

 やがて木枯らしが二度三度吹くってぇと、木々は枝だけになっちまう。未練なく散る潔さよ。「宵越しの銭は持たねぇ」さっぱり好きの江戸っ子のようだ。江戸っ子は貯蓄に執着しても、繰り返される江戸の花・火事で身上がすっからかんになることもいやというほど知っていた。大川でケツを洗ったようにさっぱりして新年を迎える。

 潔く散った落葉だが、これが腐葉土になって新たな季節の滋養になるってぇから、自然はうまくできているぢゃねぇか。潔く散れねぇ奴がいる。散っても次の世代に何も遺せねぇ奴もいる。あたしは落葉より役立たなかった人間かも知れねぇ。(今朝は下町言葉。あたしは談志より志ん朝の方がだんぜん好きだったなぁ)


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ホオジロかメスお独りの冬梢 [私の探鳥記]

hoojiromesu1_1.jpg 遠目で冬鳥「カシラダカ」と思ったが、ホオジロのメスだろう。ホオジロは概ね、あの長く元気な囀りで歌舞伎の隈取りのようなオスを見つけ、そして傍らの控えめのメスを見る・・・が常だった。

 葉の落ちた冬の梢に一羽、凛としたホオジロのメス。「おひとり様」のお嬢さんのようだった。そう云えば草食系男性はわがまま彼女はうざったく、仕事のできる女性は同世代男性が頼りなく、晩婚の世になってしまった。

 江戸、明治の男たちは全員ロリコンぢゃないかと思うほどの少女を娶っていたが、今は男はオジさんになって、女は大年増になってようやく初婚。世界人口爆発も、日本人は減少一途・・・。

メモ1:百万都市だった江戸は、明治維新で侍が国元に帰って40万人に減った。明治20年頃になるとまた人口が増えて100万人を越えた。「ユリイカ」の特集・江戸の文学、井上ひさしとの対談で暉峻(てるおか)康隆の談。

メモ2:東京の人口推移=昭和14年・700万人、昭和20年=350万人、昭和30年=800万人、平成22年=1300万人。

メモ3:江戸時代の平均年齢は38歳前後らしいが、これは幼児の死亡率が高かったためで、21歳以上になれば男女共に60歳位だった。(メモ2・3は面倒なので出典省略)


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