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炬燵なく手毎に剥いたミカン消へ [おくのほそ道]

 芭蕉は金沢で「ある草庵にいざなはれて」の詞書で、47句目を詠んだ。<秋涼し手毎(てごと)にむけや瓜茄子> 秋の涼しい風を受けながら、もぎたての瓜や茄子(なすび)をめいめいに皮でもむいて気楽にご馳走になろうの意。瓜はわかるが、茄子は皮をむいただけでは食せぬ。揚げる、煮る、焼く、蒸す、漬けるのいずれかの手間がかかろう。おっと、水茄子は生食OKで、皮をむいて味噌ダレで食べるとか。元禄2年の金沢に水茄子があったのだろうか。

 同句をいじる。う~ん、そうだ、我が家から炬燵が姿を消したのはいつだろう。炬燵があった時分は、炬燵の上に必ずミカンを入れたカゴがあって、テレビを観つつミカンの皮を剥いて頬張ったもの。その炬燵がなくなって、ミカンも消えた。そう記せば、テレビニュースがミカン出荷が10年前の半分に落ちたと報じていた。あたしにミカン業界のPRをお任せ下されば、まずは炬燵復活から始めるがいかがだろうか。かくしてこう詠む。<炬燵なく手毎に剥いたミカン消へ>


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国滅ぶ軋みの中に春が咲き [おくのほそ道]

boke1_1.jpg 7月15日、芭蕉は倶利伽羅峠を越えて金沢入り。蕉門の新進気鋭「一笑(いつせう)」に逢えると楽しみにしていたが、昨年12月に早逝したことを知って愕然とする。その悲しみをこう詠んだ。<塚も動け我泣声は秋の風> 私の泣く声は、秋風となって塚を吹く。塚よ、わが深い哀悼の心を感じてくれよ。

 山本鉱太郎著「奥の細道なぞふしぎ旅」では、芭蕉がそこまで落涙するワケがわからぬと記す。金沢で支配的だった貞門派に比し蕉門派盛り上げに「一笑」をともくろんでいたも亡くなってい、そこに「北枝(ほくし/刀研ぎ商)」を据えて逆転せんとする芭蕉一流のプロパガンダで詠んだ句だろうと推測。嵐山光三郎の「悪党芭蕉」で描かれた、芭蕉のもうひとつの顔が浮かんでくる。そんなこんだで芭蕉は金沢で8泊している。

 そういえば『ふりむけば日本海』なる歌謡曲の取材で小松空港より金沢・内灘海岸へ行き、五木寛之と五木ひろしの海岸を歩くフォトセッションから市内会館のコンサートを取材したことがある。松原健之君『金沢望郷歌』もここで初披露されたか。

 さておき、この句をどう遊ぼうか。こっちはより大きく国を憂おう。<国滅ぶ軋みの中に春が咲き> どうもこの国は立ち行かなくなったようだ。大地震、大津波、放射能汚染、さらに関東にも大地震予測、国の財政破たん、政官のていたらく・・・。お先真っ暗だが、そんなことに関係なく咲く花は咲く。せめて、そんな花に癒されましょ。ボケ(緋木瓜・寒木瓜)ないように。


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荒磯や眺めるだけの海になり [おくのほそ道]

araiso_1.jpg 芭蕉は7月13日に市振を発って14日に高岡。ここから「くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出」、さらに早稲の香のする田の道を分け歩み、越中と加賀の境の倶利伽羅峠に出た。峠から見れば右に有磯海が見えると45句目<わせの香や分入(わけいり)右が有磯海>を詠んだ。「有磯海」は地名ではないから、場所特定できず句碑が何か所にもあるそうな。

 伊豆大島は荒磯に囲まれている。磯釣りとダイビング好きで、この荒磯が気に入って遊び小屋を建てたのが20年も前のこと。ねっ、魅力的な磯でしょ。磯前にはダイバーの車がズラッと並ぶ。磯に座って海を眺めれば、かつて親しんだ海の中の景色・地形が浮かんでくる。美しい魚が泳ぎ、旨そうな魚や貝もいる。だが歳と共に海は次第に眺めるだけになってしまった。<荒磯や眺めるだけの海になり>。今朝は身体に加え頭も動かねぇ。こんな句を詠んだせいで、ちょっと哀しい。「おくのほそ道」残すは16句。16日も経てば梅も寒桜も咲こう。


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遊女また貞女も揺るる春兆し [おくのほそ道]

roubai1_1.jpg 芭蕉は「今町」から「高田」へ。地元俳人の待遇が良かったか、歌仙を巻くなど機嫌を直している。越後は遊女が多い。この辺は例の深川芸人・繁太夫「筆満可勢」に詳しい。そんな艶っぽい地から「親しらず、子しらず、犬もどり、駒返し」の難所を越えて7月12日に市振(一振)に泊。ここで44句目、<一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月>」 思いがけず遊女と同宿で、自分のような男と遊女の組み合わせは月と萩のような不思議な取り合わせの妙よ・・・の意。いつの間に季が秋になった。

 この句は「曾良にかたれば、書とゞめ侍る」と記すも、曾良の日記にはそんな記述は微塵もなし。加えて当時の越後で遊女二人旅は考えられぬとも言われて、これまた芭蕉のフィクション説が勝る。俳句は虚構が面白い。

 あたしもフィクションで参ろう。取り合わせの極みは対極だろう。遊女に貞女、真面目と助平、勤勉と怠惰、嘘と誠、善と悪・・・両面を有して人。これ鬼平(池正)の得意科白。さらに加えれば、日本人は「夏・冬」に「秋・春」の良さも知っている。12ヶ月それぞれの良さも知る。職業、性別、年齢を越えてみな同じ人間という許容も広い。<遊女また貞女も揺るる春兆し>。 ははっ、お粗末!(写真は早春のロウバイ)

 ※有馬哲夫「原発・正力・CIA」読了で、次に同氏著「日本テレビとCIA」を読み始めた。2005年になってワシントンの国立第二公文書館から出てきたGHQやCIAの資料によって読売新聞、日本テレビ、正力松太郎の隠されていた顔が白日に晒された。これまた人・企業の別の顔で面白い。そう、芭蕉だって嵐山光三郎「悪党芭蕉」が面白い。


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織姫も汚れた国に眼をそらし [おくのほそ道]

syoriki2_1.jpg 前句<文月や六日も常の夜には似ず>で「天河(あまのがわ)」が浮かんだのだろう、あの有名句<荒海や佐渡によこたふ天河>が詠まれた。出雲崎で想を得て、直江津でまとめたとされるが、曾良の旅日記には出雲崎滞在の二日間は雨で、天の川は見えない。「流刑の佐渡」と「天の川」を幻視して詠んだ句だろう。名句はかく誕生すると肝に銘じた。

 さぁ、あたしも幻視(嘘)力を磨こう。空を仰げば、あぁ、なんという事よ、空に舞い散った放射能が浮かぶ。今は山野から川へ海へ流れて東京湾河口に沈殿・蓄積されつつある。眼に見えぬ放射能の恐ろしさよ。

 日本はどこで道を間違えたのだろう。東海村の実験炉が臨界に達したのが昭和32年(1957)。街には浜村美智子「バナナボート」、石原裕次郎「錆びたナイフ」、三波春夫「チャンチキおけさ」などが流れていた。それに先立つ昭和31年(1956)1月1日、初代原子力委員長に就任したのが、読売新聞と日本テレビの社長で衆議院議員の正力松太郎だった。正力の事業欲と総理大臣への野望で、安全性より性急に推められた日本の原発行政。政局、そしてCIA絡みの読売グループ挙げたメディア展開・・・。日本の原発は、端から個人の欲がらみで走り出していた。ねっ、読売のナベツネさん。<織姫も汚れた国に眼をそらし>

 有馬哲夫「原発・正力・CIA~機密文書で読む昭和裏面史」(新潮新書、2008年2月刊)が、この辺を詳細レポートしていると知って、さっそく図書館で借りて昨夜読了した。ブログは目下「おくのほそ道」の途上。旅が終わってから、読書備忘録を記しましょうか。はたまたマイカテゴリーに「原発関連本」を設けて読み漁ってみましょうか。


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睦月末ゆび折りて待つ開花かな [おくのほそ道]

fujikomati1_1.jpg 6月18日、芭蕉らは鳥海山を眺めて、再び11里半南下して酒井に戻った。津軽まで行きたかったらしいが、身体を心配した曾良に止められ。芭蕉は象潟で自分の二句のほかに、曾良二句と低耳の句を載せた。何故だろう。さらに酒田から越後・市振にかけての九日の長旅をたった100字ほどの記述で済ませている。「此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず」。一日九里を歩いているから体調は悪くなかったはずで、不機嫌な芭蕉の顔が浮かぶ。

 このへんは「おくのほそ道」研究者に任せて、記述通り越後に入る。ここで詠んだのが<文月や六日も常の夜には似ず> もう七月の六日となって七夕を明夜に控えた。そう思うと六日の夜も、普段の夜と違っているような・・・。直江津に同句碑が建っている。

 さぁ、これをどうひねるか。今は一月・睦月も下旬。<睦月末ゆび折りて待つ開花かな> ベランダのフジコマチは蕾をびっしりとつけたが(写真)、なかなか開花せぬ。2月になれば梅が、椿が咲く。新宿御苑の寒桜にメジロが群れ、我が家のベランダのローズマリーにもメジロが来よう。春はもうすぐです。


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西風の怯える夜にミサゴをり [おくのほそ道]

misago4.jpg 「おくのほそ道」象潟の項は五句も記されていて、最後に「岩上に雎鳩(ミサゴ)の巣をみる」と詞書があって、曾良の句<波こえぬ契ありてやみさごの巣> ミサゴは雄雌仲睦まじく、愛情こまやかな夫婦の引き合いにされる鳥。ミサゴが岩の上に巣を作っている。ミサゴは夫婦仲良い鳥だから、固い約束を結んで、波が越えそうもない岩の上に巣を営んでいるのだろう、の意。

 ミサゴは魚食性で、かつ白い顔に褐色の過眼線でパンダ顔に見えて、タカ科の怖さはない。芭蕉が象潟を訪れた6月中旬(陽暦8月初旬)は繁殖期も後半。ひょっとすると育雛中だったかもしれない。しかしミサゴの季は冬で、あたしも冬の伊豆大島に行けば、海岸沿いの空をミサゴ夫婦が飛んでいる姿をよくみる。

 大島ロッジは海っぺりに建っている。冬は西風が家を吹き飛ばさんばかりに襲ってくる。木々が断末魔の叫びのように荒れ狂い、まんじりもできぬ夜がある。そんな時にふと、あのミサゴ夫婦はどこに巣を作り、どうやって風から身を守っているんだろうと思ったりする。<西風の怯える夜にミサゴをり>

 ※「四か月以内に関東大地震」の報で、きのう防災用に「ミドリ安全」ヘルメットを二つ購った。ウム、これ自転車用ヘルメットにもなるじゃん。20㌅折り畳み自転車で「ミドリ安全」のヘルメットをして走っている人を見たら、その人はあたしです。かかぁはNASA開発の-10度でも23度維持の防寒シートも買おうと張り切っている。


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行水や盥とともに姿消し [おくのほそ道]

 「おくのほそ道」40句目は、象潟の「祭礼」二句目として岐阜長良の商人で俳人・低耳(ていじ)の句が載っている。<蜑(あま)の家や戸板を敷て夕涼> 「蜑」は漁師、海女。海岸の漁夫の家々は簡素な生活を営んでいて、夕方になると、海辺に戸板を敷いて涼をとっている。

 あたしの子供時分のとびきりの夕涼みは、浴衣姿になって縁側でスイカを食うひと時だったか。スイカは早くから井戸で冷やされてい、縁側には香取線香が揺らぎ、団扇の風もあった。浴衣になる前は、家族全員が順番で行水を澄ませていたかもしれない。戦後の貧しくも幸せだった夏の情景。今は行水も、あの大きな木の盥(たらい)も姿を消した。気候も変って、夏は灼熱地獄。夕涼みの風情どころではなく、夜も熱中症の危険からいかに身を守るかが問題になっている。<夕涼み>という情緒ある言葉も死語になりつつあるのか。

 今朝の東京は、昨夜の雪が凍って、早朝に歩く人の凍った道を割るバリバリという音が響く。季節も時代も違う「おくのほそ道」シリーズのページビューはすこぶる悪いが、あと20句は続く・・・。


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江戸ほどの質素な膳の美しさ [おくのほそ道]

 象潟に着くと、神祭りの最中だった。芭蕉は「祭礼」として曾良と、美濃商人で俳人の低耳(ていじ)の二句を載せている。曾良さん、腹が減っていたか、こんな句を詠んでいる。<象潟や料理何くふ神祭>。この祭りは魚肉を食べない習慣とかで、人々はお祭りのご馳走に何を食べるのだろうという句。魚肉がダメなら菜食だろう。野菜だけでも料理次第で美味しくいただける。

 ダイエット中に温野菜を食べ続けたことがある。そんな時に江戸時代の小説や映画に出てくる一汁一菜の膳を思い出す。それを気取って「おい、今夜は大根おろしだけでいいぞ」とかかぁに言えば、それに加えて他数品が食卓に並べられる。「一汁一菜」の食卓なんて考えられんのだろう。意識された「慎ましさ」は「美しさ」に通じる。<江戸ほどの質素な膳の美しさ>


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夏干潟セイタカシギの優美かな [おくのほそ道]

seitakaoya2_1[1].jpg 芭蕉が象潟で詠んだ二句目が・・・<汐越や鶴はぎぬれて海涼し> 「鶴はぎ=鶴脛(はぎ)」で「脛」はすね、はぎ、ケイ、ギョウ。「汐越」は象潟の北方で「海北にかまへて、浪打入る所を汐ごしと云」と案内している。潟が海に通じていた個所で、今も「大塩越し」の名あり。句の意は、汐越に降り立つ鶴の足は、浅瀬の潮にぬれ、あたりの海もいかにも涼しげだの意。

 しかし6月17日は、太陽暦8月2日。真夏に鶴がいるわけがなく、芭蕉が見たのは何だったのか。またも幻視か。安東次男「おくのほそ道」には、曾良が松島で詠んだ<松島や鶴に身をかれ~>の写しの洒落だと記しているが、「鶴に海涼し」では洒落にもならぬ。

 東京湾の干潟に鳥撮りに行けば、鶴もコウノトリもいないが、サギやシギの涼しげな光景はよく眼にする。そのなかでも脚が最も長く美しいのはセイタカシギだろう。この写真は昨年8月の葛西で撮った。隣の観察者が「昔は珍しかったが、今は普通にいるんだよなぁ」と呟いていた。<夏干潟セイタカシギの優美かな>


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御苑にて満面の笑み福寿草 [おくのほそ道]

fukujyusou1_1[1].jpg 芭蕉は6月15日に酒田から象潟を見るべく、北へ砂浜を歩いた。雨が激しく6里歩いて吹浦に泊。翌日も雨だが女鹿の関所を越え、馬も通れぬ難所を越え、再び砂の道を北上して塩越へ。翌日、舟を浮かべて西行が「きさがたの桜は波にうづもれて花の上こぐあまのつり舟」と詠んだ絶景を堪能した。

 この地は嘉祥3年(850)の大地震で陥没して九十九島、八十八潟が現出して名勝となった。そして文化元年(1804)の大地震で今度は隆起。潟の水が引いて八十八島はただの丘に。芭蕉が訪れたのは元禄2年(1789)。さぞ美しい景色だったのだろう、こう詠んでいる。<象潟や雨に西施がねぶの花> 象潟(きさがた)の雨に煙る景色を見ると、合歓の花が雨に打たれて、あの美人の西施(せいし)が物思わしげに目を閉じたさまとも見えると・・・。「西施」は中国越(えつ)の美人。「歌枕+雨+中国美人+合歓の花」。なんと複雑に凝った句だろう。西行の句が頭にあったか、芭蕉さん力が入り過ぎた。

 これをもじり遊ぶのは至難。「象潟」を近所の新宿御苑に、「ねぶの花」を福寿草にし、人を模して詠む。<御苑にて満面の笑み福寿草> 福寿草はパラポラアンテナ効果で、花芯の温度を高めて虫を誘う。御苑の福寿草は未だ咲いていないので、写真は昨年撮ったもの。あと1週間もすれば咲き出すだろう。


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大寒をはぜて知らせるイカルかな [おくのほそ道]

ikarumure1_1[1].jpg 芭蕉さん、酒井湊でもう一句詠んでいる。36句目。 <暑き日を海にいれたり最上川> 暑い一日を最上川が海に流してくれたおかげで、夕方になって少し涼味が出てきたよ・・・の意。

 「暑き日を」を明日21日の「大寒を」としたら、こんな句が出来た。<大寒をはぜて知らせるイカルかな>。鳥撮り数年だが、なぜか大寒の日に小金井公園でイカルの群れを撮っている。50羽ほどの群れが、木々から一斉に舞い降りて、落ちた木の実を啄む。枯葉の音と木の実を割るパチパチというはぜたような音が、静かな公園に地鳴りのように響き渡る。黄色い頑丈なクチバシと実を割る音。眼と耳を愉しむのは、これまた冬の風流なり。この舞い降り、飛び散るを5~10分おきに繰り返すが、2年目に群れの中に希少種のコイルカが混ざっていることを知った。ファインダーの中で頭の黒が喉まで広がっているコイルカを探す。

 さて、今年は冬鳥の出が例年に比し大きく遅れているようだし、天気予報の按配もよくない。果たして今年の大寒(明日)も小金井公園でイカルの群れに逢えましょうか。


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浦安や恐竜辺り春の澱 [おくのほそ道]

kyouryukyou_1.jpg 6月11日、芭蕉は羽黒を発って鶴岡へ。6月13日に川舟に乗って酒田湊の医師・淵庵不玉の家を宿にした。酒田は諸国の舟が出入りして大繁盛。ここで二句詠んでいる。35句目<あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ> 最上川の河口の袖の浦に舟を浮かべて夕涼みをしていると、南に温海山(あつみやま)、北は吹浦辺りが望める。大自然の景観に、のびのびとした気持ちで夕涼みをする快さよ。

 芭蕉が元禄2年の酒田湊なら、こっちは江戸の最新ランドマーク・東京ゲートブリッジと参ろう。鳥撮りに「葛西臨海公園」の渚に出ると、東に浦安のディズニーランドが見え、西に2月12日開通の同橋が見える。2頭の恐竜が向き合っているようで「恐竜橋」。江東区若洲から大田区城南島の約8㎞がつながる。橋は陸上部を含んで約3㎞、高さ約88㍍。2月4、5日に渡り初めイベント。また新たな東京名所。自転車で行ってみましょうか。

 だが、15日のNHKスペシャル「知られざる放射能汚染~海からの緊急報告」で江戸川、荒川の河口部にセシウムが蓄積中をレポートしていた。両川に挟まれているのが葛西臨海公園。また江戸川河口より上流8㎞上流に河口部の2倍、福島原発沿岸とほぼ同じ汚染ポイントあり。2年後には東京湾全域に汚染が拡大。10年間はなくならないだろうと報じた。3月の福島原発事故による放射能が、野山から川に流れ下っている。「春の澱」と記したが、これは人類にあってはならぬ最悪のセシウム134、137の蓄積。原発は国土を、故郷を、海を、山を、野を、田を、街を、産業を、営みを、生命を、文化をも破壊している。原発事故は欲を貪った結果だろう。日本人は慎ましく生きることを学び直さなければいけないのだが、まだ欲を貪ろうとする懲りない人々がいる。ドイツと人間の成熟度が違うのかも知れない。


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長蛇成す穴八幡のご融通 [おくのほそ道]

anahatimanezu1_1.jpg 曾良も湯殿山の句を詠んでいる。34句目<湯殿山銭ふむ道の泪かな> 湯殿神社のご神体は、大岩の女陰に似た部分から湯が湧き出し、その穴に賽銭を投げ込むと幸運が拓けるってんで、銭が踏むほど落ちている。俗世間と違い、それを拾う人もいない。銭の上を踏んで参拝するとは、神のご威光ならではと感涙にむせぶの意。現在もご神体は撮影禁止。参拝は素足になって、赤茶けた巨岩を巡るらしい。

 さて「賽銭、女陰」を「御札、穴」に替えて・・・<長蛇成す穴八幡のご融通>と詠んでみた。冬至から節分までの間に早稲田・穴八幡の「一陽来復」をいただき、節分の24時ジャストに恵方に向けて貼る。ここらで商売している皆さんがそうしてい、フリーという浮沈稼業のあたしも「ご融通様」と云われる「一陽来復」をいただいてきた。併せて免許証入れに「交通安全の御札」、財布用に「一陽来復御守」を家族分いただく。

 そんなワケで、穴八幡は冬至から連日長蛇の列。もう空いた頃だろうと数日前に並べば「私は九州から」「私は東北から」と、「ご融通様」頼りの熱心な方々が尽きぬ。並んでると閑ゆえ、卑しくも「一人ン千円×45日×一日ン千名」と穴八幡の売り上げを皮算用。まだ列は長く、今度は五木寛之が早稲田入学当初に穴八幡の軒下で野宿していたと記した文を思い出した。「あぁ、御利益が続いているか、今も大活躍だぁ」。あたしもフリーながら世の定年期まで勤められたのも穴八幡のお蔭かなと感謝御礼。今の穴八幡は御札で儲けたんでしょう、それは立派な社に建て替えられている。写真は境内に展示されていた江戸絵図。


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語られぬ湯殿談義に事件あり [おくのほそ道]

mikaiketu_1.jpg 芭蕉の出羽三山の三句目は湯殿山を詠った。<語られぬ湯殿にぬらす袂かな> 湯殿山の神秘は口外してならず。それだけに湯殿山神社から受けた感動がより内にこもり、涙で袂を濡らしたの意。季語は「湯殿詣」で夏。口外ならぬワケは、なんてこたぁ~ない、ご神体が女陰に似た岩で、そっから湯が湧いているんだ。芭蕉は律儀にご神体の秘密を漏らさなかったが、世の中、語れないことは多い。

 のどかな伊豆大島だが、最近は未解決殺人事件や大麻関連の逮捕者が出たりして穏やではない。12月22日の朝日新聞・東京面に<「未解決」島を包む不安>と題した6段記事も載った。人口8604名、4863世帯。狭い島ゆえ、うっかり口にも出来ぬ。島に行けば露天風呂で沈む夕陽を見つつ、古老らが語る島の昔話や噂を耳にするのが愉しみだが、今は誰もが口にチャックなのではと思われる。<語られぬ湯殿談義に事件あり> 写真は前述新聞を1/5秒でズーミング。


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雲のみね憑かれた夢の置き処 [おくのほそ道]

kumonomine_1.jpg 出羽三山の二つ目の芭蕉句は月山を詠っている。<雲の峰幾つ崩て月の山> 雲の峰が夕日に映え、月山を仰ぎ見れば空に淡い月。こんな月山になるまで、雪の峰は幾つ立ち崩れしただろうの意。

 この句を「甲斐駒」にして私事を詠む。1960年秋、社会党の浅沼稲次郎が日比谷公会堂の演説会壇上で、17歳の右翼少年に刺殺された。同年、17歳のあたしは社会人の某山岳会に入会。大人のなかに少年ひとり。その時にアメ横で買ったジーパンに放出ジャンパー姿で、それが右翼っぽい、17歳、姓も似ているで「オトヤ」と呼ばれた。

 以来、山男の日々。河原の石をリュックに詰めて荷揚げ訓練。寝ずに歩くカモシカ山行。冬季南アルプス縦走中に必死の伝令が来た。ベテラン勢がアタックの甲斐駒北壁で遭難の報。三名凍死。遺体収容は困難を極めた。ベースキャンプの山小屋生活が続いて電報が届いた。「ダイガクニュウガクテツヅキマニアワズゲザンセヨ」。

 春、大学の山岳部に誘われたが断った。北壁で亡くなった先輩からいただいた赤シャツを着て山行を続けた。ザイルワークの沢登りを控えて涸沢にテント。深夜に「逃げろ」の大絶叫。着の身着のまま這い出て尾根際の木に飛び付いた瞬間、テントが土石流に埋まった。

 その時に先輩のシャツを失したことで、なんだかプツンと糸が切れたようで山岳会を辞めた。今も山を、雲の峰を見上げると、そんな若かった山の日々を思い出すことがある。<雲のみね憑かれた夢の置き処>


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冴へる月はだ干涸びて保湿薬 [おくのほそ道]

yukisaete_1.jpg 芭蕉は最上川から離れ、羽黒に6月3日~10日まで滞在した。3日に羽黒山に登る。呂丸を訪ね、会覚(えかく)阿闍梨に謁見。4日、本坊で俳諧興行。<有難や雪をかほらす南谷>(もじり済)を詠んだ。5日、羽黒神社に参拝。6日は行者姿になって月山(がっさん)登山強行。頂上の角兵衛小屋に泊。曾良は疲労困憊。7日、湯殿山を巡って南谷の宿舎に戻る。8日、会覚阿闍梨が南谷に来訪。9日、再び会覚が来訪し連句を完成。会覚に請われ、三山巡札の三句を短冊に書く。10日、午後1時頃に鶴岡へ。

 まぁ、大充実の山岳修練の地・出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山)だった。会覚阿闍梨に書いた短冊には、三山が詠まれている。まず31句目が<涼しさやほの三か月の羽黒山> 季は「涼し」。「ほの」は「仄」。ほのかに三日月が見える羽黒山にいると、いかにも涼しくよい気分であるの意。金森敦子著では芭蕉以後の旅人らも、山伏らに強引に出羽三山の登山を勧められていると記す。案内賃、宿料など金がらみの強引な誘いが慣例化されていたらしい。

 さて「おくのほそ道」全句、これにて半分。まぁ、馬鹿な遊びを始めたもんだ。早くもマンネリだが途中で止められぬ。同句もじり遊びは「ほの三か月」を逆に「冴へる月」と季を冬にしたユーモア句、<冴へる月はだ干涸びて保湿薬> 去年あたりから冬になると手足が痒くなった。かかぁが「おまいさんのは乾燥肌ぢゃなくて、歳とって干からびたせいだよ」と笑うが、肌を美しく?保つには、掻く前に痒み止め入り保湿薬が欠かせぬ。絵は冴えた月を眺めつつ左手に薬容器、右手で薬を塗っている図。句と同じく数分即興描き。句は直してみたが、あぁ、共に救ひやうのないデキだ。


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坂こいで愉悦溢るる桜坂 [おくのほそ道]

sakura1_1.jpg 羽州路(うしゅうじ=秋田と山形の県域辺り)に入ると芭蕉さん絶好調だ。<閑さや岩にしみ入蝉の声>の次に29句目<五月雨をあつめて早し最上川>と有名句が続く。さぁ、この句をどうもじり遊びましょうか。こう飛躍してみた。<坂こひで愉悦溢るる桜坂> ※音便形の「い」は「ひ」にならず「い」。「坂こいで」が正しい。この絵の「ひ」は間違いですね。 

 五月雨の一粒ひと粒があつまってダイナミックに流れる・・・に似て、自転車も坂道を歯ぁくいしばって一漕ぎひと漕ぎ頑張れば、やがては頂に達す。あとはもう、ペダルを漕ぐ必要のない至福の下り坂。芭蕉句に似たダイナミズムがでたかしら。山の手からのポタリングは坂が避けられぬ。20㎞走れば10㎞は登り坂で10㎞は下り坂だ。

 自転車フリークは「フリーク」ゆえバカが多いから、すぐ「ヒルクライム」を語りたがる。正直に胸の内を語れば「下り坂」ほど楽しいものはない。嵐山光三郎は「おくのほそ道」を自転車で辿ったそうだが「下り坂の至福」を語っていた。今年になって新聞広告に五木寛之「下山の思想」があって「下り坂が肝心」ってぇ惹句が踊っていた。

 「下り坂」をバカにしてはいけない。あたしなんか人生下りきって隠棲の日々。下五は当初「下り坂」だったが季がないゆえ「桜坂」にしただけのこと。ふふっ、図に乗って筆で「書と絵」を描いた。それでも20㌅DAHONのEco-C7の雰囲気が出せたか・・・。もう少しサドルを高く描けばよかったかな。


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減量の腹にしみ入るキムチ臭 [おくのほそ道]

 芭蕉は5月27日、尾花沢から立石寺を一見すべきと、羽州街道を7里南下した。途中まで清風が用意してくれた馬に乗った。宿を決めてから山寺を見学。ここで詠んだのが28句目<閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声> 

 伊賀上野生まれの芭蕉は、二歳上の藤堂藩伊賀付き大将・藤堂新七郎良精の嫡子・良忠の俳諧相手として出仕(しゅっし)した。出世が期待されるも、良忠が25歳で早逝。芭蕉の波乱の人生がここから始まった。良忠の俳号は「蝉吟(せんぎん)」。芭蕉の胸には「蝉」に甘美な思いが秘められ、同句にはそんな思いも込められているとか。

 さて、この有名句には、とぼける他になかろう。あたしは人気過熱のコリアンタウン大久保在住。人をかき分けないと歩けぬほど賑わっているが、そこに並ぶのは芸能グッズ店(先日のニュースで脱税告発の報)、韓国料理店、食材店、化粧品店、韓国イケメン店が繰り返し並ぶだけ。そんなワケで大久保通りを歩くってぇと、韓国料理の匂いが鼻をくすぐる。これがダイエット中の身にちょっと辛い。ってことで、キムチを勝手に秋冬の季語とし・・・<減量の腹にしみ入るキムチ臭>ともじった。昨夕、韓国食材店「ソウル市場」で白菜キムチ、ネギキムチ、ニンニクキムチを買った。

 追記)11日、当ブログの画像ファイルがアップできなくなった。サムネイル表示が消え、<読み込み中>表示が固まったまま。さぁて、このブログもそろそろ止めようかしらと思ったが、「So-netブログサポートデスクMさん」より、操作指示のメールをいただいた。パソコン用語羅列で「Mさんや、隠居爺にそんなこたぁ~できるわけなかろう」と思ったが、んまぁ、そりゃ懇切丁寧な操作指示で、見事に直ったぢゃありませんか。ありがと。ブログを「So-net」にして良かった。Mさんがいてくれて本当に良かったと思った。明日からまた写真入りです。


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蚕飼する祖父が見てゐた遠眼鏡 [おくのほそ道]

 「おくのほそ道」尾花沢の4句目、計27句目は曾良句で<蚕飼する人は古代のすがた哉> 蚕の世話をしている人から、古の姿もこんなだったろうかと偲ぶ句。芭蕉は伊賀上野生まれ、曾良は信州上諏訪生まれ。共に蚕飼する家や人々の暮らしを知っていただろう。

 定かな記憶じゃないが、あたしが赤ん坊時分に疎開していたらしい。終戦後の幼少期も父方、母方の田舎に長逗留していた記憶あり。父の実家は横須賀の山ん中。二階に蚕棚があり、蚕が桑の葉を食うザワザワという音を覚えている。横浜港からの輸出で、その地も養蚕が盛んだったか? 祖父は海軍出か、モスグリーンの大きな単眼望遠鏡を持ってい、山の上から、さも米軍の軍艦を監視しているように覗いていた。幼児期の記憶を語れば、姉がいつも「嘘ばっかり。とんでもない記憶違いだ」と腹を抱えて笑う。

 定かでない記憶はさておき、芭蕉の時分、いやその前から続いていただろう養蚕や桑畑は、今はもう見ることも少ない。我が息子も蚕や桑畑を知らぬ日本人になった。古からの日本の暮しや情景が次々に失われ行くが、花や鳥は不変の姿で身近にいる。あたしの双眼鏡はNikonの「sportstar」で、ビッグカメラで1万円。使い勝手がすこぶるいい。鳥という古から変わらぬ愛らしい姿をピタッと捉えてくれる。原初が覗ける。

 ★So-netのブログ、相変わらずファイル=写真アップが出来ず。サムネイル画像表示がなく、<読み込み中>で固まったままだ。トラブルは苦情殺到など即反映が常だが、そんな様子もない。自分のブログだけのトラブルだろうか)。


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南国を俤にして木槿かな [おくのほそ道]

mukuge.jpg 尾花沢での3句目は<まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花>。 紅花の色や名から女性の化粧を連想して眉掃きを思い浮かべたという句。「眉掃き」は白粉を塗った後で眉を払うための小さな刷毛。見たことがあるような、ないような。ちなみにヒトリシズカ、ワタスゲの別名は「まゆはき草」。花の形が眉掃きに似ているのだろう。芭蕉にしては珍しく色っぽい。

 連日「おくのほそ道」の句をいじり遊んで26句目。ちょっとダレた。昨日、一昨日の句と文を直すも気に入らず。とんでもない遊びを始めちゃったが、途中で投げ出すわけにはいかぬ。

 さて、同句をもじって<南国を俤にして木槿かな> 大島ロッジに小さな庭があって、ガーデニングに凝った時期がある。南国リゾートっぽい花を試みて、ブーゲンビリアを何度か植えた。何度目かに屋根より高く伸びたが花が咲かなかった。ハイビスカスも数度試みたが、冬を越せず。そこでハタと膝を打ったのがハイビスカスに似た夏の大輪・木槿だった。散歩途中にいい色の花が咲いていれば10㎝ほど枝を失敬して挿し木で育てた。ねっ、きれいでしょ。・・・と言っても今朝のブログは写真アップが出来ぬ。

 木槿を詠った芭蕉の有名句に「野ざらし紀行」の<道のべの木槿は馬にくはれけり>がある。季は秋。


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大島に我家設けて鄙の冬 [おくのほそ道]

dokusyobench_1[1].jpg 芭蕉は清風の配慮で尾花沢10日滞在のうち7泊を養泉寺で過ごした。ここで<涼しさを我宿にしてねまる也>と詠んだ。「ねまる」はくつろいですわるの、最上地方の方言。「古語辞典」にあり。芭蕉さん、この言葉を遣いたくての句だろう。今は尾花沢に「芭蕉・清風歴史記念館」なぁんてのがある。

 さて、この句をもじって<大島に我宿設け鄙をぶり>。おっと、季語がないか。<大島に我家設けて鄙の冬>はどうか。東京生まれゆえ、田舎暮しを知らず。仕事でちょっと儲けた時期があってゴルフ会員権を買い、伊豆大島にロッジを建てた。バブル崩壊で会員権は紙屑になったが、島のロッジは大いに愉しませてもらっている。

 海っぺり防風林に建つロッジは、周囲にウチと同じ小さな別荘が数軒あるも滅多に来ぬ。夕陽が落ちれば漆黒の闇。今の季節は海からの強い西風がゴーゴーと吹き、家が吹き飛ぶかの恐怖。木々が騒ぎ、胸が騒ぎ眠れぬ夜となる。風がなければ虫の音と波音。騒音が夜通し絶えぬ新宿暮しに比し、大自然にひとり投げ込まれたような鄙なる暮し。「蚤虱馬の尿~」はないが、ムカデも出た。夜は6面体蚊帳ん中で寝る。風呂場に蛇も出て、かかぁが卒倒したこともあった。そこまで鄙でなくてもいいのにと思うのだが・・・。

 島に行けば、写真の手製長ベンチで「ねまって」読書。夏は裸で、冬は毛布を掛け、四季折々の鳥のさえずりが愉しみつつ読書している。


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荷風墓見下ろし番うインコをり [おくのほそ道]

wakake1_1.jpg 芭蕉は「封人の家」から「道さだかならざるば、道しるべの人を頼て~」厳しい山刀伐峠を経て尾花沢に入った。山々に囲まれた盆地。今は銀山温泉、花笠踊り、豪雪が有名。芭蕉の時代は紅花産地で、紅花商人で俳人の清風宅を訪ねて10日間滞在。芭蕉3句、曾良1句を残した。まず<這出よかひやが下のひきの声>。どこかでヒキガエルが鳴いている。蚕の飼屋の床下にいるのか、暗く侘しい所にいないでこっちに出てきて鳴きなさいよ。芭蕉はカエル好きだ。

 この句もじりは<大久保の七階下の異国声>。我が街は芭蕉史跡に劣らぬ大人気コリアンタウンになってしまった。昔は静かな商店街だった。ヨン様人気でオバさんが群れ、K-POP人気で若い女性が増えた。コリアンビルも次々建って、人が溢れている。その一画から道路を隔てる我がマンションも侵食されてアジア系住民が増えた。否が応でもコスモポリタンさ。夜中に耳を澄ませば彼方此方から韓国語が聴こえる。

kafuhaka_1.jpg もう一句。<荷風墓見下ろし番うインコをり> 7日土曜日に自転車散歩で雑司ヶ谷の古本市~雑司ヶ谷墓地を走った。鳥の鳴き声に見上げれば檜の洞にワカケホンセイインコがいた。腰に携帯の1万円デジカメで撮れば、洞から雌が顔を出した。繁殖準備でしょうか。檜の下がちょうど永井荷風さんのお墓。根強いファン(あたしも)がいて、お花とワンカップ大関が手向けられいた。荷風さんは帰朝者だが、インコは外来種だ。


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防災に冬仕度添え枕もと [おくのほそ道]

nomisirami1_1.jpg 芭蕉は鳴子温泉を経て尿前(しとまえ)の関を抜けて出羽国(山形県)に入った。そこは馬の産地で宿はない。「大山をのぼって、日既暮ければ、封人の家を見かけて、舎(やどり)を求む」。「封人」は国境を守る役人。関所の役人ってことだろうか。同家は今も「陸羽東線=鳴子~新庄間=奥の細道・湯けむりライン」に遺されて観光名所になっている。築後推定350年で重要文化財指定。そこで「三日、風雨あれて、よしなき山中に逗留す」で、23句目<蚤虱馬の尿(しと)する枕もと>を詠んだ。しかし写真を見れば外観も内部もそれは立派なお屋敷。本当に芭蕉が泊まった家ならば、築後28年で「蚤虱馬の尿~」とはほど遠いイメージだったろうに。ここでの芭蕉句も虚構か・・・。

 またここまでは主に歌枕を訊ね詠ってきた芭蕉だが、なんだか句の感じが違ってきた。「軽み」が出てきた。何か思い当ることがあったに違いないあ。

 さて同句をどうもじりましょうか。元旦の東京に震度4の地震。今もし関東大震災級の地震が襲えば、寒気と瓦礫のなかに投げ出されよう。辛いのはこの寒さ。なれば<蚤虱馬の尿する枕もと>でも有難い。枕もとの防災バッグに多少の水と保存食が入っているが、用心に防寒ズボン、ダウンジャケットも添えましょ。<防災に冬仕度添え枕もと>。

 芭蕉句、防災句に合う写真なし。再び書で逃げる。蚤虱ゆえ、白い余白を汚してみた。老いて絵心が芽生えた。次は筆で書に絵を添え彩色するかもしらん。図に乗らぬよう自重なり。


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凩の吹きのこしてや名残り揺れ [おくのほそ道]

fukinokosi_1.jpg 芭蕉は一関の宿から往復4里で平泉・中尊寺に足を延ばして22句目<五月雨の降のこしてや光堂>を詠んだ。あたりの建物はみな朽ち崩れているのに、五月雨はこの光堂にだけは降らなかったのか、昔の華やかさを遺しているの意。

 例の芸人・繁太夫の放浪記「筆満可勢」にはこう書かれているそうな。「此堂年久しき故、朽はてゝ風雨にかける故、さや堂といへるを拵へる。十年程以前に、盗来りて此箔をぬすみし故、所々取りし跡有る。開帳料三十九文」。

 繁太夫より139年前の芭蕉も、現在「旧覆堂(さや堂)」として保存される建物で光堂(金色堂)を見たのだろうか。光堂が創建(室町中期)の輝きに戻ったのは昭和43年(1968)。500年余の荒廃を元に戻して世界遺産登録。現在の拝観料は800円とか。

 さて、もじり遊びは「五月雨」を「凩(こがらし)」に、「降(ふり)のこしてや」を「吹きのこしてや」にして・・・<凩の吹きのこしてや名残り揺れ>と詠んでみた。光堂も名残り葉も、それが語るのは「無常」。


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卯の花にビルを宿した暮し哉 [おくのほそ道]

baikaame2_1[1]_1.jpg 芭蕉は石巻から北上川に沿って内陸部へ歩く。一関に着いたのが5月12日。ここから中尊寺に向かう。義経の居館であった高館より眼下の野を眺め<夏草や兵どもの夢の跡>を詠んだ。これはもじり済ゆえ、今朝は併記された21句目<卯の花に兼房みゆる白毛かな>(曾良)をいじる。同句は、卯の花を見ると、白髪の兼房が義経の最期にあたり奮戦しているさまが偲ばれ、哀れを催す・・・の意。

 十郎権頭兼房は室町時代に描かれた軍記・伝奇物語「義経記」登場の架空人物。義経関連は史実と伝奇がごっちゃになっている。江戸の皆さんは、これら物語からさらに脚色の歌舞伎、浄瑠璃などで義経に親しんでいた。不遜な指摘だが芭蕉は、歌枕の情景に、古歌で詠まれた歌や虚構物語を幻視して句を作っている。また平泉のポイントは、最初の<行春や>と、最後の<行秋ぞ>の中間が「平泉」で、この三角形で各句が対象構成されているとか。こうした仕掛けが、奥が深いとされるところだろう。

 さて「卯の花」から、一昨年五月に撮った写真を思い出してこう詠んだ。<卯の花にビルを宿した暮し哉> 北上川沿いの原野なら、卯の花にも趣があろうが、あたしんチは今や観光バスも来るコリアンタウン大久保のマンション7Fで、その猫の額ほどのベランダの鉢に梅花ウツギを植えている。その白い花は夜目にも妖しく美しい。雨に濡れた蕾を見ると、雨粒に自然の景色ではなく周囲の高層ビルが写っていた。都会暮しでも健気に切なく自然を慈しみ愉しんで暮していますよと。

 ★ベランダの花と同じく、都会の公園「新宿御苑」にささやかにいる野鳥を求めた。やっとシロハラ、ツグミが入った。今年は遅れているのか、野鳥が少ないのか。


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三番瀬ツルに身をかれサギの群れ [おくのほそ道]

sanbannseenkei_1.jpg 5月9日、芭蕉は塩釜から舟に乗って松島へ。宿は二階建て。そこから絶景を眺めたのだろう。19句目<松島や鶴に身をかれほとゝぎす>を詠んだ。(曽根句だが、これも芭蕉句か)。昔の歌人は千鳥が鶴の毛衣を借りて・・・と詠んだが、今は千鳥の季節ではなくほとゝぎが鳴く季節。そこでほとゝぎすよ、松に似合いの鶴に身を借り、この松島の絶景を鳴き渡れ・・・と詠った。

 ちょっと強引の感が無きにしも非ず。芭蕉は歌枕で詠まれた歌を俳句にもじり、あたしは芭蕉句を自分勝手のもじりで遊ぶ。松島には行ったことがないゆえ、何度か通った「三番瀬+身をかれ」でもじる。<三番瀬ツルに身をかれサギの群れ>

 三番瀬は目下3.11地震による主に液状化で歪み、プールや駐車場などの施設破損で立ち入り禁止。公園施設を使わず、貝を無断で採ることもせぬ野鳥観察の鳥撮りには、一日も早く立ち入りを解除して欲しい。前知事の時に埋立計画の白紙撤回と干潟再生・保全が約束されたと聞き及んでいるが、何か施策が行われたのだろうか。今はワケわからん元俳優知事になったが、三番瀬はどうなるのだろう。昔のように雁も鶴も飛来すれば、干潟保全への関心も大きく盛り上がろうに・・・の気持ちでもじった。

★今朝「おくのほそ道」全句を数えたら62句あった。松島から石巻~中尊寺を経て日本海~敦賀まで南下~終点の大垣へ。旅はまだ1/3。★机上旅なのに、大晦日に腰を痛めた。正月を寝たり起きたりして慎重に過ごしたのが良かったか、按配が良くなったので、まずは近所の新宿御苑から鳥撮り開始。千葉県の田にソデグロヅルが飛来だが、ちょっと遠い。そこまでは行かない・行けない。


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あやめ草ほぐして鳴さん親子風呂 [おくのほそ道]

kakizome2_1.jpg 芭蕉は5月5日に仙台入りした。端午の節句で家々の軒にあやめ草が挿してあった。仙台で4、5日逗留。画工・加右衛門に宮城野の各名所を案内してもらった。餞別に紺の染緒の草鞋(わらぢ)を二足いただいた。そこで詠んだのが18句目<あやめ草足に結(むすば)ん草鞋の緒>。いただいた紺の染緒の草鞋に、菖蒲を結んで旅を続けようという晴れやかな気分。

 紺の染緒もあやめ草も魔除け、マムシ除け。「あやめ草」は菖蒲の古名。「紺の緒があやめ草を結んだようだ」と「実際に鼻緒にあやめ草を結んだ」のか。あたしは前記と解釈するが、いかがだろうか。

 さて、<あやめ草足に結ん草鞋の緒>のもじり遊び。う~ん、正月の酒で頭がまわらない。あやめ草を「結ん」の逆、「ほぐして小さくカット」。そう、昔々のこと。息子が小さい時分に五月の菖蒲湯で菖蒲笛を作って鳴らすのを教えた。それを思い出して<あやめ草ほぐして鳴さん親子風呂>。あやめ、菖蒲、カキツバタ・・・。いろいろ撮ったが保存なし。写真がなければ、いざ、書き初めと参ろう。うむ、書道も趣味に加えましょうか。


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ササとゴイ撮れぬはヨシの四年越し [おくのほそ道]

sasagoiko2_1[1].jpg 金森敦子「芭蕉はどんな旅をしたか」では、芭蕉が旅をした前後の旅人30名余の日記が丹念に調べられている。当ブログおなじみの大田南畝関連で登場の平秩東作の「歌戯帳」も多々引用でうれしくなってしまう。これは芭蕉から94年後の天明3年(1783)に蝦夷地探索の際の紀行文。また「読書備忘録」で記した織田久著「江戸の極楽とんぼ」の「筆満可勢(ふでまかせ)」(芭蕉の139年後、文政11年=1828)も引用。こっちは江戸深川の芸人が、宿場遊女らと深間になっては逃げるように町から町への放浪記録。それにしても江戸時代は長い。

 さて、芭蕉17句目は「武隈の松」で<桜より松は二木(ふたき)を三月越シ)と詠んでいる。江戸を出て三ヶ月、遅桜もすんだが歌枕の二木を三月越しに見たという句。二木は逸話があって古歌に詠まれた一本の木から二股に伸びた松。芭蕉の時代にすでに植え替えられて何代目かで、今も植え継がれているそうな。

goisaginoko_1[1].jpg ここにも東作が出て来る。東作は岩沼を出発して一丁ほど行ってから「武隈の松」があるのを思い出して「おぅ、駕籠や、そこへやってくれっ」と頼むが、しぶる駕籠かきと銭の追加交渉のやりとりがおもしろおかしく記されているそうな。

 さて、芭蕉句のもじり遊び。芭蕉が「桜と松+二と三」なら、こっちは「野鳥三種の数字並び」。<ササとゴイ撮れぬはヨシの四年越し> 笹五位(写真上)は撮った。五位鷺とその若鳥・星五位(写真下)は水辺で容易に撮れるが、未だに撮れぬのが葭五位。鳥撮り4年目の今年こそ。


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ミヤコドリいづこで舞ふや遠干潟 [おくのほそ道]

miyakodoritobi1_1[1].jpg このシリーズ、仙台まであと一歩。芭蕉の足跡を辿ってネット検索すれば、東日本大震災の被害地で、改めてお見舞いと復興を祈念せずにはいられない。震災後の五月、早くも「おくのほそ道」を歩かれた方のブログを拝見すると、16句目の笠島道祖神、17句目の武隈の松も無事のようでございます。

 芭蕉は藤中将実方(さねかた、平安中期の歌人)の墓や道祖神を訪ねてみたいが五月雨のぬかんだ道で行くこともできない。これを詠んで<笠島はいづこさ月のぬかり道>

 この道祖神の社は和合の神。木製男根を奉納。実方も祈願を勧められるが「尊い神に男根を奉納するなど」とあざ笑い通り過ぎようとした途端に落馬死したと「源平盛衰記」にあるそうな。金森敦子は自著のなかで「生真面目な芭蕉はどのような反応をしただろう」と記す。その答えが上野洋三著「『奥の細道』の謎」にある。芭蕉自筆本の同句の推敲張り紙下の字を透視し、そこに狂歌があったと発見した。長くなるから引用せぬが、優雅な歌枕ではない地では、江戸初期の紀行文には、これを茶化して狂歌がしばしば登場とかで、芭蕉もそうしてみたが後に削除して当句だけにしたのだろうと推測している。さらに山本健吉は「笠島は」は最初に「笠島や」で、「や」を「は」に訂正して良くなった。「や」の「重く、したるく聞え」を、「は」で甘みを抜いて軽くなったと指摘。いろいろと難しい「おくのほそ道」なんです。

miyakodori12[1].jpg さて、この句のもじり遊び。「いづこ+ぬかり道」を「いづこ+遠干潟」にして<ミヤコドリいづこで舞ふや遠干潟>と詠んだ。三番瀬に行くと遥か彼方まで干潟が広がっていて、先へ先へ歩けば波打ち際に数十羽のミヤコドリがいた。昔から和歌・俳人で詠まれるミヤコドリはユリカモメのこと。今も歌人・俳人は本当のミヤコドリを知らん。

 塚本洋三著「東京湾にガンがいた頃」によると、1956年に浦安に初めて一羽のミヤコドリが飛来。当時のバーダーを騒然・狂喜させたとか。東京湾からガンは消えたが、今はミヤコドリの群れを見ることができる。


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