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吉原「行き来する人のいく度詠めても~」 [狂歌入東海道]

15yosiharae1_1.jpg 十五作目は「吉原」(左リ富士ノ縄手)。狂歌は「行き来する人のいく度詠めてもあしと思はぬ富士はよし原」。ここはあし(葦)ではなく、富士はよし原(葦原⇒吉原)ですと、同音異義語の掛詞。

 絵も狂歌通り、松並木が続くあぜ道を多くの旅人が歩き、やや左に大きな富士山。この地は〝左富士〟が有名。保永堂版も「吉原・左富士」で同じような風景。旧吉原が寛永十六年(1639)と延宝八年(1680)に大津波に襲われる度に奥地へ移転で、現・富士市中心街に移った。ずっと海沿いの街道を歩いて来て、ここで右折して陸奥へ向かうために、俄かに富士山が左に見えるようになるってこと。

 弥次喜多らは「やがて元吉原を打ちすぎ、かしは橋といふ所にいたる。此所より富士の山正面に見へて、すそ野第一の絶景なり」と記している。かしは橋(河合橋)からはまだ富士山は正面にあって、ここから先が〝左富士〟になって行くのだろうか。

15yosiharabun2_1.jpg 「餅の名のかしわ橋とて旅人のあしをさすりて休(やすみ)やすらん」。校注に、柏餅は手でさすって葉を剥ぐゆえ「かしわ・さする」は縁語とあった。ここから左富士を堪能しつつ吉原宿(現・富士市)に入ると、田辺聖子『東海道中膝栗毛を旅しよう』では「たちまち何ともいえぬ悪臭が町全体を掩(おお)っていて息もつけない」とあり「大昭和、本州、十條、王子、ここは二百五、六十の製紙工場がある」というタクシー運転手の弁を紹介。

 同書は1990年刊ゆえ「田子の浦ヘドロ公害」「公害デパート・富士市」と揶揄された1960~70年代からまだ改善途上だったのだろう。富士市広報サイトを拝見すると「11年間と68億円を投じて港のヘドロを除去。破棄したヘドロで河川敷を緑地化。併せて排ガス・排水を改善化を行った、と記されていた。

 弥次喜多らは、そんな街の未来像を想像出来るワケもなく、道端で子らが売るくわし(菓子)や餅をのんびり食いつつ富士川の渡し場へ。「ゆく水は矢をいるごとく岩角にあたるをいとふふじ川の舟」。「いとふ=厭ふ=危険を避ける、嫌に思う)。富士川を渡ると蒲原宿です。

 ★松尾守也様から多数のご指摘をいただきました。ありがとうございます。「吉原」の図を改めてみますと、ご指摘の通り「詠めても」ではなく「詠あても」が正しいように思いました。安易に読んでしまったと反省です。他のご指摘も「初心者はこんな誤読・誤解釈をしてしまった」の例になりますので、松尾様のご指摘コメントをそのまま維持掲載し、より完成された内容になればと思っています。よろしくお願い申し上げます。


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