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乳ヶ崎は江戸=千賀崎、明治=千ヶ崎だった。 [週末大島暮し]

inoutiga.jpg_1.jpg いとまある身ゆえ、伊豆大島関連の古書ネット検索に興じた。明治6年(1873)頃刊の伊能忠敬/測量・製作「大日本沿岸輿地全図」第102図がヒットした。

 あらっ、現「乳ヶ崎」が「千賀崎」表記だった。同地図完成は文政4年(1821)頃だろう。(左図上:国会図書館デジタルCより)

 他に江戸期の図を探す。弘化3年(1846)の絵巻、嘉山外史(画・長谷川晋吉)「伊豆七島図絵」(都立図書館蔵)も「〝千賀嵜〟遊竿図」とあった。

 次に明治期を探す。明治35年(1902)の佐藤傳藏著『伊豆大島に於ける観察雑俎』一部がヒットした。「千ヶ崎の地貌の奇體なること」で「千賀崎が千ヶ崎」に変わっていた。

 taisyotiga_1.jpg そして大正時代へ。大正3年刊の斉藤和堂編纂『伊豆大島』(写真下。国会図書館デジタルCより。キャプションは千ヶ崎)を見ると、本文では 「千ヶ崎」と「乳ヶ崎」混在していた。

 さらに9月1日「防災の日」説明で ~大正12年(1923)9月1日、午前11時58分発生の関東大震災の震源は、伊豆大島北端の「千ヶ崎」の北15㎞の相模湾の海底で、マグニチュード7.9で~の記述。大正末まで「千ヶ崎」が頑張っていたらしい。

 以上から明治末~大正期が「千ヶ崎」と「乳ヶ崎」が混在期で、「乳ヶ崎」名称が固定したのは昭和になってからかなと推測した。それだけの話さっ。

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