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応仁の乱(7)東山文化の誕生 [日本史系]

ginkaku_1.jpg 「応仁の乱」はどう終わったか。石田晴男『応仁・文明の乱』を読む。文明4年(1472)正月に細川勝元と山名宗全が和睦交渉。畠山義就と大内政弘も参会したが、勝元の嫡子問題で決着せず。

 その間にも各武将らは守護地で合戦続行(朝倉孝景の越前制圧。美濃守護代・斉藤妙椿の越前・飛騨・近江・伊勢・尾張・三河への勢力拡大。江戸では文明8年に長尾景春が内乱など(早くも戦国時代の様相)。文明5年(1473)に西軍総大将・山名宗全が70歳で、東軍総大将・細川勝元が44歳で没。

 翌文明6年、代が代わった山名政豊と細川政元の単独講和が成立。室町時代の〝守護在京〟も無視され、武将らは次々に帰国し、文明9年(1477)に「応仁・文明の乱」が終わった。最初から最後まで暴れた畠山義就も赦免決定の戦後処理が文明18年(1486)。

ginkakuhasi_1.jpg 足利義政は、乱が落ち着いた文明14年2月から念願の東山荘の造園に専念。翌年に同地へ移住。錦鏡池中心の「池泉回遊式庭園」と建物群に己の美意識すべてを注いで、東山文化の神髄=簡素枯淡美の一大山荘を造った。

 国会図書館デジタルデータより外山英策著『室町時代庭園史』(昭和9年刊。写真も同書より上が銀閣寺、下が池南側の龍背橋)を読む。~東山殿(慈照寺)は、従来から義満の北山殿(金閣寺)に模し、相阿弥の作と伝承されているが、それは間違いだろう。築庭当初には天下第一の称ありし善阿弥がいて、相阿弥の出る幕は無かっただろう(★ドナルド・キーン:義政は河原者の庭師の中でも文明14年に97歳の高齢で亡くなった善阿弥を最も信頼していた)。実際の築庭は彼の子の二郎、三郎、孫の又四郎の3代が携わったのだろう。

 義政の東山荘の趣旨は、自らの禅僧の生活を喜び、山居を楽しむ心で、世事を厭ひて風流三昧に太平を楽しもうとした趣旨で作られたもの。義政が東山を詠った歌が「我いほは月待山のふもとにてかたむくそらの影をしぞ思ふ」。隠棲の心境だな。彼は延徳2年(1490)55歳で没。同日、遺命で相国寺の大智院を慈照院とし、東山殿を慈照寺とした。

 なお善阿弥は、他に将軍の縷々出入りせし相国寺諸頭や蔭涼軒、睡蓮の庭、奈良大乗院の築庭も造った。泉石の妙手で「山を築き、水を引く妙手比喩なし」と記され、彼らの築庭には禁忌や風水が多く反映されている。東山荘は其の後の火災で、観音堂と東求堂の他は焼亡。今日の大部分は慶長の再興後のもので庭園も甚だしく変化した、と記されていた。

 「応仁の乱」で京は荒廃したが、それ以上に重要なのが義政によって育まれた東山文化=日本美。それは現在の日本人のこころ、生活にもしっかり根付き、生き続けていると紹介されていた。ならば次に、東山文化に焦点を当てたドナルド・キーン著『足利義政~日本美の発見』、河合正治著『足利義政と東山文化』を読んでみる。まずは共に足利義政の人物像にスポットを当てているので、今までの<~(6)>の文に補足してみる。

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