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応仁の乱(8)銀閣寺は苔寺を参考に~ [日本史系]

nihonbi_1.jpg 私事。小生は「古流」と「江戸千家」おっ師匠さんの子。母の茶の稽古は覗かぬも座敷に炉が切ってあり、床の間には季節毎の掛軸と雅でも華麗でもなく渋い花が常に活けられていた。

 さて足利義政の東山文化=日本美(侘び・寂び)と指摘されていれば、その辺のお勉強もしたい。ドナルド・キーン『足利義政~日本美の発見』、河合正治『足利義政と東山文化』を読む。

 まずキーン著。氏は昭和28年頃に京都在住で、観光化される前の廃寺のような等持院(夢窓疎石の開山、造園)に通っていた。彼が日本で書いた最初の原稿が、今も当時の雰囲気を保つ同院の霊光殿のこと。歴代足利将軍の等身大の木造座像が並んで不気味な冷気を発していたと述懐。

 文久3年(1863)、神道の平田篤胤を信奉の志士らが「日本国王」(天皇ではなく)の肩書を受け入れた足利尊氏、義詮、義満の木造の首を斬りおとし、賀茂の河原に晒した。氏が通っていた頃には、斬られた首は胴体に戻ってい、義満の首は尊大暴君の感がしたと記す。

 義教が恐怖政治によって暗殺され、武将らのタガが外れた。独裁者の子の義政の命を武将らはきかず。父への反発を一身に受け、彼は将軍の意欲を失って趣味の世界に入った。「応仁の乱」の時に詠んだ彼の歌「ハカナクモ ナオ収マレト 思フカナ カク乱レタル 世ヲバイトハデ」。勝手に書き直せば「儚くもなお収まれと思ふかな 斯く乱れたる世をば厭はで(厭とは思わず)」。キーン氏は、傍観者に成り切った心境の歌と解釈する。

kokedera_1.jpg 京に飢餓死の遺体が満ちても、百㍍先で戦闘中でも、義政は御所内で茶の湯を楽しみ、庭園を愛で、蒐集した中国・明の山水画を眺めて楽しんでいた。美的優雅の追求に身を捧げた中国の徽宗帝と同じで、彼は捕虜になって死んだが、義政はどちら側にも立たぬことで「応仁の乱」10年余を生き抜いたと記す。

 キーン氏は次に義政の〝造営〟について。彼が7歳から16歳まで住んだのが烏丸御殿(母方一族・公家で義政育ての親・烏丸資任の屋敷)。金に糸目をつけぬ増築・別棟建造も、自分の趣味が明確化した22歳、大飢饉最中の長禄2年に「花の御所」(室町御殿)へ移すことを決めた。翌年に新しい御所へ移った後も会所、泉殿、庭園を整備。その新御殿と庭園の見事なこと。

 寛正3年の27歳。母のために豪勢な高倉御殿を建造。庭園は善阿弥の妙発揮。その為に義政は夢窓疎石による西芳寺(苔寺)に再三出向いて参考にした。「花の御所」は応仁の乱では無傷も、天明8年の一揆暴徒の放火で全焼。将軍家財宝も灰と化した。富子と義尚は小河御殿に避難。文明12年、義尚は新婚早々に、義政寵愛の女とも情交で、親子対立がさらに激化。翌年に妻・富子とも再衝突。義政は妻、子とも関係を断ち、世事を離れて東山山荘の造営に没頭したと筆を進めていた。写真下は碓井小三郎編『花洛林泉帖』(明治43年刊。国会図書館デジタルデータ)より義政が造営参考にした西芳寺の湘南亭)。

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