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応仁の乱(6)宇野玄周の扇屋 [日本史系]

ougie_1.jpg 小説『深重の橋』の続き。武具屋(皮革商)宇野屋仁阿弥は妻子なく、「牛」に宇野屋を継ぐように依頼。「牛」は人を殺める武具甲冑商はイヤで〝扇屋〟への職替え了承で家督を継ぐ。従来の檜扇から、扇骨を紙で被った蝙蝠扇(かわほりおうぎ)を製作(そこに詩歌や絵を描く扇の祖)。宇野屋はその扇商でさらに財を成したとか。

 「牛」は相国寺に参禅し「宇野玄周」と改名。「頼助の弟・平助」は後に僧形になって文成梵鷟(ぼんさく)と改名して相国寺の一院を委されたそうな。同小説は最後に将軍義政を評して「愚かな将軍と烙印を捺されているが、銀閣寺や庭園など日本文化を成立させた稀有な人物だった」。「あとがき」で『深重の橋』はミネルヴァ書房『中世を生きた人びと』のなか「宇野玄周」を読んで創作意欲が湧いて書いたと記している。

 一方、呉座著『応仁の乱』では、こう要約されていた。~応仁の乱は、新興勢力たる山名氏が、覇権勢力たる細川氏を中心とした幕府秩序に挑戦した戦争という性格を持つ。さらのこう分析する。~この大乱の本質は二つの大名連合の衝突で、そうなった要因には室町幕府の体制にあった。幕府は地方で戦っていた諸将に上洛を命じて(在京義務)、彼らの動きを監視・統制しようとした。複数国の守護を兼ねる有力武将を「大名」として、幕府へ意思決定参加を認めて「守護在京制」を執った。従って京都には内裏、将軍御所の他に大名らが屋敷を構えた。自ずと大名らの交流が派閥形成され、細川派と畠山派の抗争が深刻化。また諸大名の意見を吸い上げる機能が失われたことにもよる。一方、守護在京制は結果として京都文化が地方伝播した面も見逃せない。さらに乱を終え、京都からそれぞれ国元へ戻った武将たちによって「戦国時代」が始まるとまとめていた。

 小説『深重の橋』はここで終わりだが、「応仁の乱」終結の経緯をおさえておかなければいけません。写真は「応仁の乱」の207年後の天和4年(1684)の菱川師宣筆『圑扇絵づくし』(国会図書館デジタルより)。宇野玄周による「蝙蝠扇」が江戸時代、そして今の日本に当たり前のように定着です。また義政が育てた茶道、華道、能、水墨画、書院造りなど「侘び・寂び」の日本美も今の私たちの暮しにしっかりと定着で、その辺にも注目すべきでしょう。

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