SSブログ

応仁の乱(2)鴨川の薪拾い [日本史系]

gennji.jpg_1.jpg 湯屋の続き。京には亀屋のような立派な湯屋の他に〝町風呂〟が市中に数10軒。さて「牛」は荷車を曳いて鴨川べりや町辻で薪拾いと釜焚き手伝いで働き出した。鴨川は大雨の氾濫で流木が多い。だが河原の叢には死期を迎えた病人、飢餓死の遺体が棄てられ、その衣服を剥ぐ男もいた。遺体多く死臭満ち、それを狙う犬も鴉もいた。

 鴨川近くの荒無地には、領主に仕えぬ河原者と呼ばれた社会底辺で置かれた人々も住み着いていた。澤田小説では「貴族や富裕層は、自分たちが行えぬ物事に携わる人々を差別の対象にした。死牛馬の始末、皮剥ぎ、捕鳥、弓弦や矢の製作、壁塗り、井戸掘り、清掃、道路普請、造園、また染色は化学知識なき時代ゆえ、呪術的行為に携わる異能者と見なされた」と記す。そうした人々のなかの芸能者から、やがて歌舞伎や猿楽(能)も誕生した。

ohninmoran.jpg_1.jpg 著者はさらに『源氏物語』『伊勢物語』『枕草子』「和歌」などは、そうした庶民の辛苦の上に成り立った王朝文化・文学で、庶民には無縁だった。だが彼らに卑賎視された庶民の間から「わび・さび」が誕生したと記す。

 以上を小生調べで補足してみる。足利将軍の室町時代は2代足利義満が「北山文化」。金閣寺が建ち、将軍保護下で観阿弥・世阿弥(嘉吉3年没)が鎌倉時代からの猿楽・田楽を「能楽」に大成。世阿弥は『風姿花伝』に芸道論を著わした。出雲阿国が鴨川・五条河原で歌舞伎踊を演じたのはずっと後の慶長3年(1603)。『源氏物語』『伊勢物語』『枕草子』成立は平安時代。

 8代足利義政の時代が「東山文化」。銀閣寺が建ち、禅宗の影響で「わび・さび」の「侘び茶」が開始(次の戦国時代に千利休が完成)。また同時代は鎌倉時代から続く連歌も盛ん。絵画面では足利将軍家の部下(同朋衆)の能阿弥、真阿弥が山水画を。東山時代に画僧の技法を経て雪舟が水墨画を完成(明での水墨画修業から帰国が応仁3年)。狩野正信~元信によって、水墨画と大和絵の技法融合で狩野派へ。

 さて小説の「牛」も下人のひとり。河原や町辻で薪を拾いつつ「いろは」「九九」を、また市中に貼られた為政者を笑う落首の漢字を読みたく「論語」で漢字も勉強。湯屋に売られて5年を経て20歳に。共に湯屋に売られて垢かき女にされた姐御肌「もも」といつしか深間の関係へ。

 カット上は庶民に無関係世界が描かれた「源氏物語絵巻」。カット下は大正2年刊「少年日本歴史読本」より応仁の乱の1頁。共に国会図書館デジタルコレクションより。

コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。