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応仁の乱(1)『深重の橋』の人買い市 [日本史系]

jinjyunohasi2_1.jpg 澤田ふじ子『花篝』最終編『あしたの雪』は、「応仁の乱」で朝廷財政窮乏、権威も失せた第104代・後柏原天皇に仕える勾当内侍(こうとうのないし)妙子の物語だった。京は焼け野原、禁裏御料も入らず。亡き帝の葬送費用、即位の費用もない。破れ築地から内裏に忍び込んで届けられる〝供御〟が頼り。妙子が土佐絵を描くことで供御の礼をする。そんな時代があったとは(ちなみに即位式は21年後の1521年。鈴木良一著『応仁の乱』)。~で「応仁の乱」のお勉強です。

 「応仁の乱」とは? 再び古本屋で澤田ふじ子の「応仁の乱」がらみ小説『深重の橋』上巻、呉座勇一著『応仁の乱』(中公新書)を入手。図書館で『深重の橋』下巻・初版本、石田晴男著『応仁・文明の乱』を借り、これらを参考にする。

 『深重の橋』第一章「無頼の市」は、86頁に亘って〝人買い市〟が描かれていた。今から575年前、嘉吉4年(1444)の摂津国広瀬(山崎宿の南)の人買い市。百数十人が手・足を縛られ、「場立ち」で次々に売られて行く。女は小袖の上半分を剥がされ、裾をめくられる。主人公「牛」15歳は10貫(江戸時代の10両相当)で湯屋・亀屋に買われた。※以下、史実を虚構で、虚構を史実で補いつつ記す。

ouninnoran2_1.jpg 第二次世界大戦も酷かったが、応仁の乱も酷かった。同乱は応仁元年(1467)から11年間もダラダラと続き、京都・奈良は地獄ほどに荒廃。小説「牛」が売られたのは嘉吉4年(1444)。その3年前、嘉吉元年に赤松満佑・教康が、室町幕府6代将軍・足利義教を殺害した(嘉吉の変)。将軍を千也茶丸(後の義勝)が継ぎ、幕府軍が赤松氏を討伐。嘉吉2年、義勝将軍誕生も翌年に没。三春(義政)が継ぎ、文安6年(宝徳元年1449)に元服し、8代将軍・足利義政が誕生。

 澤田ふじ子『深重の橋』第二章は「火の枕」。「牛」が湯屋で働き出して2年後ゆえ文安3年(1446)か。亀屋は洛中一の湯屋。場所は内裏(一町四方)とその倍の広さを誇る足利将軍邸(花の御所)近くの一条室町。

 亀屋は檜造り。にじり口に似た引違戸を開けると、15畳ほどの簀子の板敷に筵。客は並べられた木枕に横になって蒸気浴。簀子下に湯釜、その下は燃える竈。湯場奥は水浴び部屋。その先に手桶で運ばれた湯船の部屋。さらに「ふたの物(腰巻)一枚で、ててれ(褌)姿の男の垢落としをする〝垢かき女〟(江戸時代の湯女)が快楽へ誘う別室があった」。

 今の時代で室町時代を想像するのは難しいも、現・特殊浴場(旧トルコ風呂)のような湯屋ありとは驚いた。時代激変だが、そっち方面は何も変わっちゃいない。長くなったので次回へ。

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