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不運続きの幼少期(2) [貝原益軒「養生訓」]

kaibara4.jpg_1.jpg 前述紹介本より、貝原益軒の経歴をお勉強する。益軒の祖父は甲斐・武田家に仕えたが、信玄没後に黒田如水・長政(博多城)に仕えた。祖父の長男・貝原利貞(号は寛斎)が益軒の父で、長政没に福岡藩を継いだ黒田忠之に18歳で仕えた。祐筆役150石。益軒は寛永7年(1630)11月に福岡城内・海沿いの屋敷で生まれた。

 益軒は5男子(長男は早逝)の末男。父34歳の子。初めは助三郎、後に九兵衛、諱(いみな、本名)は篤信。号は損軒(益軒は晩年の号)。父は益軒誕生の翌年に博多片町へ、さらに6年後に博多築港地へ移住。理由不明だが、禄を失ったらしい。医薬を売り、子供らに読み書きを教えての生計。

 益軒は誰も教えぬ間に平仮名・片仮名を覚えたらしい。虚弱体質で近所の子らと遊ぶより、部屋に籠っての読書好き。兄の算法啓蒙書を読み、独学で算盤も修得とか。

 藩主・忠之が、幕府から謹慎を命じられたのは益軒3歳の時。藩主、甚だ精神的粗野ゆえに、父は禄を失ったと推測される。益軒6歳、母没。継母を迎えた。8歳、父は再び藩の禄を得て、福岡から約30キロ先の峠を越えた八木山高原の警備所(知行地)へ赴任。一家は山間の侘住居40坪で3年間暮らした(現在はその屋敷跡に石碑あり)。

 9歳の秋、島原の乱(天草四郎の原城籠城)。父と長兄が出兵。藩主・忠之は功を焦って1万5千の兵を出し、戦死者326名、手負い2293名。一揆勢は1万数千人が打首。

 同年。益軒は9歳年長の次兄・元端(存斎)から漢字を習った。元端は3歳で重い天然痘を患って両手が不自由ゆえ、家に籠って書に親しむ生活を送っていて、益軒の読書素養を育んだらしい。近所の家から『平家物語』『保元物語』『平治物語』などを借りて読んだとか。肖像は元禄7年、65歳の益軒。狩野昌運筆の一部らしい。

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