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新井白石終えんの地(追加メモ3) [千駄ヶ谷物語]

araibotu_1.jpg 新宿御苑・千駄ヶ谷門の横、鳩森小学校の御苑側、千駄ヶ谷6丁目1番1号に「新井白石終えんの地」史跡案内板がある。御苑は子供時分から馴染で、同看板の存在は知っているも、新井白石に興味抱かず仕舞いだった。

 目下ブログは「貝原益軒」シリーズ中で、益軒は京都遊学の明暦3年(1657)頃から「木下順庵」と相往来。順庵が江戸幕府に儒官として招聘されると、江戸での門下の一人が新井白石だった。

 かくして初めて新井白石を知りたく相成候。そこで改めて「千駄ヶ谷物語」は『江戸名所図会』や『絵本江戸土産』からスタートしたも、歴史的には新井白石から入るべきだったと反省。

 まずは『森銑三著作全集』から〝新井白石評〟を拾いつなげてみた。「江戸の学者に新井白石あり。儒学から出て、史学に、地理学に、語学に新生面を開いた。その覇気の強いのは、やはり関東の生んだ学者であった。またその詩は近世期の第一人者とせられるし、或はその仮名交じり文もまた近世期の第一人者に推してよいのではないかと思われる偉才であった。それにしても白石は『折たく柴の記』(松岡正剛も新井白石を江戸時代きっての大学者と評し、同著は〝屈指の自伝文学〟と紹介)や、『藩翰譜』(江戸時代の家伝・系譜書。全12巻)の独自の文体を、一体古典の何から得たのであろうか。詩人としても近世文芸史上に決然として群を抜いてゐる」

todaiotitaku.jpg_1.jpg 新井白石は千駄ヶ谷に隠棲してから、友人への書簡にその地をこう説明したそうな。「此たびの新宅は、内藤宿の六間町と申す所に候。其辺に千駄萱の八幡とか申す有之候。かの社より西の方、六~七町の可有之候」

 同地に隠棲した白石は著作活動に没頭だが、その合間に鳩森八幡神社へも散歩をしただろう。いや、そんな事より「新井白石」をスルーしてはいけないような気もした。写真上は「新井白石終えんの地」の史跡看板辺り風景。

 『折たく柴の記』を探したら、森鴎外の直筆入りの東京大学総合図書館所蔵「森鴎外文庫」よりの同書表紙を見つけた。赤字で「明治三十一年三月源高堪」ゆえ鴎外直筆だろう。読み違いもあろうが面白いので記す。「我家に折たく柴記写本三巻あり。本書中巻三十六頁「外使の事しるすにつけて」云々より下を漫(みだ)りに分ちて三巻とせたものなり。中山堂の桜(印)あり。貸本屋などいふものゝ押したるにや直ちに破り棄てんも惜しければ試みに対校して本書の傍に註す」。昔の人はみんな白石を読んでいたんですね。次回は新井白石の経歴概要。

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