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日本のアリストテレス(6) [貝原益軒「養生訓」]

torirui.jpg_1.jpg 元禄8年66歳、辞職を請うも叶わず。翌年、百石加増で計300石。元禄12年に古希。黒田家の忠之、光之、綱政3代に仕えて翌年に隠居。この頃に親族・学友・知人の死去相次ぐ。好古37歳で没、楽軒78歳で没。

 元禄16年(74歳)。養子の重春が、東軒の姪を娶る。益軒はこの頃は年に数冊ペースの著作。同年刊は『和歌紀聞』『黒田忠公譜』『五倫訓』『君子訓』。

 宝永4年(1707)78歳。蓄髪して「損軒」と号していたが「益軒」と改号。「損」は下に損(へら)して、上に益す。つまり国家安泰・発展が民のための意。「益」は上を損して下に益す。まぁ、同じ意だが、藩主・光之没で人生区切りの改号らしい。

 宝永6年(1709)80歳。本草学者として『大和本草』(草木、禽獣、魚介、鉱石など1360余種についての名称、来歴、形状、性質、効用などを解説。16巻+附録2巻+諸品図2巻)を刊。本邦初の本格・体系的な博物学書。これは後の平賀源内『物類品隲』(宝暦13年・1763)へつながるのだろう。

 正徳3年(1713)84歳。40年余連れ添った妻・東軒が12月に62歳で没。この年に『養生訓』を刊。正徳4年85歳。春に『慎思録』(6巻。哲学・道徳・倫理・教育・修養・交遊・礼儀など古今の典籍から得た持論を漢文でまとめた処世訓)を刊。夏に『大疑録』を成す。

 これは漢文2巻。明和4年・1767年春に江戸の書肆・須原屋市兵衛から刊。「学を為むるには、疑ひなきを患ふ。疑へば則ち進むあり。故に学ぶ」の朱子学信条にのっとって朱子学への疑問を表明。益軒は自ら歩き、観察するが信条。朱子学を知り尽くした上で「知行併進=考えつつ飛べ」的な自然科学的実証主義からの疑問提起。

 同年8月27日、85歳で没。71歳の隠居から85歳までの著作30冊余。生涯の著作98部247巻。山崎光夫著では日本の最大ベストセラーは紫式部『源氏物語』、松尾芭蕉『奥の細道』、貝原益軒『養生訓』と記される。その分野は歴史、政治、農業、地理、医学、本草学(博物学)を網羅で、シーボルトは益軒を「日本のアリストテレス」と感嘆したとか。

 また勉強ばかりではなく、晩年は大いに旅を、読書を、音楽を、家庭生活を、交遊を、著作執筆を、飲食を、自然を、善行を、養生を愉しみ暮したらしい。辞世は漢詩2首と和歌「越し方は一夜ばかりの心地して 八十路あまりの夢をみしかな」。

 菩提寺は福岡市・金龍寺。夫妻同じ大きさの墓。益軒は仏教を捨てたが、実際は多数僧侶とも交流。ここでも寺僧と互いを認め合い、益軒の墓は仏教のしきたりの華燭、花を手向けることなしとか。現在は墓とは別にほぼ等身大の銅像座像が設置。明治32年には森鴎外の「小倉日記」に掃苔記ありとか。次回から筆写に入ります。

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