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19歳で出仕。そして6年間浪人(3) [貝原益軒「養生訓」]

kaiharamokuzo_1.jpg 11歳の冬、父は役務で福岡・新大工町へ、糸島郡へと移住。この時期に益軒は漢文『太平記』読破。13歳、継母没。彼は下女の〝おばさんっ子〟。14歳、父は再び浪人。医者と子供らに読み書きを教える生活に戻る。父は益軒に薬や食物の効用、医学基礎を教えた。

 その頃に、藩命で医学修行(京都遊学)から福岡に戻った次兄・元端から「四書(儒教の論語・大学・中庸・孟子)」を学び〝仏教信仰〟を捨てる。次兄に従って福岡・荒戸新町へ行き、引き続き「儒書」を学ぶ。同年冬、父は再出仕で江戸詰め4年間。18歳の長兄は浪人、次兄は豊後日田で開墾。貝原家は藩主・忠之と相性が悪かった。

 慶安元年(1648)、益軒19歳。藩主の御納戸御召科方(衣服調度の出納係)として仕え4石扶持(1年で玄米20俵)。20歳、藩主の参勤交代で父と共に江戸へ。慶安2年春に帰郷し、夏に藩邸で元服。藩主に従って長崎警護(外国船監視)へ。この時、益軒は唐書を目にし、唐通事や蘭通事らと会ったらしい。同年の出島を調べると、蘭館医カシパル・シャムベルゲルが渡来し「紅毛流外科」を長崎・江戸の医師らに指導。

 長崎で役務の域を脱する行動があったのだろうか、長崎から帰郷後の21歳、藩主・忠之の怒りにふれ閑居15日から謁見不許可4ヶ月。そして遠賀郡の藩主別荘を守る任を経て、藩主の宿直(とのい)で仕えるも、今度は俸禄も失って浪人生活へ。

kaibarajinbutu_1.jpg 22歳。ストレスから眼病、胃潰瘍。まさに艱難辛苦の青春。生活手段として医学修得。長崎へ2度。同地で医師・向井元升に教えを受ける。奈良・京都、さらに江戸へ。この間に本草学、地理、農学、歴史など幅広く学ぶ。26歳、食うために医者になるべく剃髪。柔斎と号す。江戸では父と藩邸暮し。林羅山の子・林鷲峰より朱子学も学ぶ。次第に「黒田藩に貝原益軒あり」の評価を得て行く。

 浪人生活6年後の27歳、藩主が忠之の嗣子・光之の代になって出仕。父が致仕(辞職)し、父の家禄を継いで6人扶持。次兄は藩医となって150石。3代光之は、先代藩主とは正反対の文治主義体制。益軒は水を得た魚で、一気に才能開花。俄かに前途が明るくなった。以後、光之から4代藩主綱政へ44年間仕えることになる。

 写真上は横山俊夫編『貝原益軒~天地和楽の文明学』(平凡社)、下は吉川弘文館の人物叢書、井上忠著『貝原益軒』。

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