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新井白石、千駄ヶ谷で隠棲~3(追加メモ5) [千駄ヶ谷物語]

hakusekihaka_1.jpg 「正徳の治」の内政主施策は朝幕関係の融和増進(朝廷の幕府信頼の向上)、武家諸法度改定(従来の武断主義に〝仁政〟理念を加味)、元禄期の金銀貨改悪を改善、司法関係諸事件の処理(前述の大赦、評定所の改革など)。

 外交面では対朝鮮外交の刷新、対琉球外交の強化、清・阿蘭陀など長崎貿易の改革(貨幣改鋳や密貿易取締りなど)。

 宝永6年(1709)にはイタリア人カトリック宣教師シドッチ(41歳)の小石川・切支丹屋敷で尋問。シドッチは屋久島~長崎奉行~同屋敷へ。白石は彼から欧州各国の地理、政治、日本への潜入事情などを三日をかけて詳細聞き取り。処分は生活費を与えて同屋敷拘留も、後に獄卒夫妻が洗礼を受けたことで地下牢へ。シドッチは正徳4年(1714)獄死。(数年前に出土の人骨3体の一つがシドッチだろうと報道されている)

 白石は併せてオランダ商館長とも会談し、今度はプロテスタント側も調査。ここから後の名著『西洋紀聞』を著わした。さらに琉球使節との対話から、これまた後の沖縄研究の名著『南島志』を刊。オキナワに〝沖縄〟の漢字を宛てた。

m_kirisitanzaka1_1.jpg また白石は正徳元年、55歳で辞職申請するも許されず。逆に加増五百石で計千石、拝領屋敷も一ツ橋外(小川町)へ。正徳2年10月、将軍家宣没。家継が7代将軍に。享保元年(1716)、家継の8歳没まで仕えた。8代将軍に吉宗就任。前将軍の近習者全員罷免。すでに白石は辞職願済で未練なし。旗本の身分、千石そのままで屋敷替え。その地が内藤宿六間町だった。

 「内藤宿 窪田弥惣兵衛五百五拾八坪之上ヶ屋敷」。当地へ行けば「杭は打たれているも周囲には誰も住んでなく麦畑が広がっているばかり」。まずが伝通院裏門辺りに仮寓するも、享保6年(1721)に焼失で、同年七月に千駄ヶ谷に家作。この時、白石65歳。

 手紙に「四谷大木戸より左の方へ十二町計り入り候処~」。現・新宿御苑内一隅で、文字通りの隠棲。「閑静にして言ふこと少なく。営利を慕わず」。庭には美しい草花が満ちての学究・著作生活。同時期の主著作は、わが国の学術上の大遺産『経邦典例』(歴史書21巻)、『史疑』(現存せず)、地理書『蝦夷志』『奥羽五十四郡考』『采覧異言』、古代史解釈の『古史通』など。

 享保10年(1725)5月、60歳で没。浅草報恩寺内(寺中寺)の高徳寺に埋葬(同寺は中野区上高田に移転。写真上の石垣内に夫妻墓石。左「新井源公之墓」)。写真下は切支丹屋敷跡。志賀直哉が自転車で切支丹坂を下ったと自慢する随筆ありで、7年前に同坂を訪ねた折の写真。

 藤沢周平全集・第22巻『市塵』を読んだ。最終28頁ほどが千駄ヶ谷暮し。そこで室鳩巣のこんな言葉があった。「(次代将軍・吉宗は)おそれながら文盲にてあられられる」。読み書きが出来ぬ?まさか、教養がないの意らしいが~。敬遠してきた新井白石だが、江戸の学者ゆえ身近な地に足跡がある。今後は抵抗なく彼の著作が読めそうです。

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