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「源為朝碑」伝説の大島 [週末大島暮し]

tametomohi2_1.jpg 興味や出会いなしだと、スルーして無知のままの例も多い。昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」15枚セットに「源為朝碑」と「行者屈」あり。無関心だったが、いい機会ゆえお勉強。まずは「源為朝」から。

 源為朝は保元1年(1156)「保元の乱」の登場人物。後白河天皇方の平清盛、源義朝らが、崇徳上皇の白河殿を襲った乱。上皇方の源為義・為朝父子は、父が打首で為朝は大島に配流。史実としては概ねそこまでか。

 鎌倉時代の承久2年(1220)頃(年代不詳)に作者不詳の軍記物語『保元物語』が刊。「保元の乱」はじめの武勇は詳細記述も、捉えられた後は、弓が引けぬように肘を鑿で抜かれた。「為朝は伊豆に下着しても、物を物ともせず、人を人ともせず」で、伊豆国を預かる狩野工藤茂光も「あつかひかねる」で終わっている。島での暮し、鬼ヶ島などの詳細は記されていないとか。(次回に『保元物語』を読み、この辺を改めて記す)

 江戸は文化4年(1807)になって曲亭馬琴が、武将末路がそれでは気の毒だと、万巻の書を看破して膨らませた『鎭西八郎為朝外伝 椿説弓張月』(挿絵は葛飾北斎)の前篇を刊。計5編29冊。琉球でも大活躍の椿説=珍説、為朝外伝=正史外の物語に仕上げた。

tametomoya2_1.jpg さて、絵葉書「為朝顕彰碑」(現在は露天風呂〝浜の湯〟管理棟前にある)には、何が記されているのだろうか。「町史」によると大正8年建立だが、摩耗して解読できぬが「為朝公の事蹟を世に伝え、英雄の霊を慰め、更には島の男子の雄心を鼓舞するため」の碑文とか。

 島には為朝が祭神の岡田八幡神社、為朝神社あり。その神事を含め椿説・為朝が満ち満ちている。また島の娘と所帯を持った男性を〝為朝さん〟と云うそうな。加えて「役小角」他にも伝説があって、島民はそれらを上手に語れなくてはいけない。

 写真下は北斎の挿絵。為朝が射った一本の矢が、先陣・忠重の討伐船を撃沈する場面。島民にこの画を見せれば、血沸き肉躍る説得力で語ってくれよう。島民は〝大嘘上手〟で誰もが馬琴さん、北斎さんなのだ。(と記し、そうだ神田古本市で『保元物語』入手を、と思い立った)。

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「菊丸」月島桟橋と投身事件 [週末大島暮し]

kikumaru_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」15枚セットの「黒潮小屋」の次は船です。船マニアではないから自信なしも、煙突とマーク、その後ろのアーチ状柱などから「菊丸」と推測した。写真は岡田港で、手前のドロップ(涙)状堤防の内側は漁港かな。

 「菊丸」は昭和4年に就航の759トン。霊岸島~大島~下田、房総航路など。昭和10年に木更津港外で座礁。昭和13年頃に傭船で陸軍船として中国へ。昭和17年より機密津軽防備部隊船として室蘭方面で活動。昭和21年に東海汽船復帰。昭和44年に解体。昭和初期と昭和21~44年に大島航路に就いていたらしい。

 「菊丸」をネット検索したら、小生の記事「辻まこと(3)西木版:もく星号のダイヤ」がヒット。西木正明『夢幻の山脈』で、昭和27年の「もく星号墜落」後に辻まこと・西常雄の両名が、宝石回収に東海汽船・菊丸で竹芝桟橋から大島へ向かった、の記述に、それは間違いだろうと記していた。

 竹芝桟橋船客待合所竣工は昭和28年7月。松本清張著の「遺体は東海汽船の〝菊丸で月島桟橋〟へ帰ってきた」とある。また野口富士男『耳のなかの風の音』は、大島より〝月島桟橋へ帰港途中のK丸〟から実父が身投げした事件の顛末記。辻と西は「月島桟橋」から大島へ向かった、が正しい。

 霊岸島から芝浦桟橋に移ったのが昭和11年。昭和23年3月から月島桟橋で、昭和28年7月に竹芝桟橋になる。昭和初期に霊岸島発「菊丸」で大島へ渡った林夫美子、与謝野晶子、漫画家集団ら多くの文化人が記録を残している。「葵丸」が昭和14年12月に乳ヶ崎海岸で座礁沈没ゆえ、当時のメイン船は「菊丸」。

 時代は遡るが野村尚吾著『伝記谷崎潤一郎』を読むと、同家繁栄を築いたのが母方の祖父・久右衛門で、長男が二代目を継いだが女道楽。東京湾汽船の社長・桜井亀二の娘「菊」と結婚も芸者を落籍。「菊」は離婚し、二代目は信用を失って放浪生活へ。

 その後を潤一郎の伯父(先代の長女の養子婿)が引き受けて手堅く商売していたが、長男が無茶な相場で大損。伯父は大正4年(1915)に、息子の責を負って大島通いの船から三崎沖で投身自殺とか。「菊丸」の前の「豆相丸」だったろうか。

 船は乗客それぞれの悲しく辛い人生も運んでいる。そう思うと、船ってちょっと悲しく重い感じもする。

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黒潮小屋とナチスと三原山人気 [週末大島暮し]

kurosiokoya1_1.jpg 池袋西口「古本まつり」で「ジャポニスム」関連書の他に、面白い絵葉書を入手した。「黒潮に浮かぶ伊豆大島」15枚セット300円也。

 制作年の印字なし。何時頃のものだろうか。紙袋に「第五種郵便」。そこから昭和26年~五種廃止の昭和41年までの間と推測した。

 15枚の中で、小生まったくわからぬ「黒潮小屋」(写真)があった。これは何だろうか。島関連のネットで、大島公園の現・椿資料館が「元黒潮小屋」と知った。昔の「島の新聞」をひも解く。昭和十三年八月五日号に「太平洋を望む〝黒潮小屋〟大島公園に新登場」の見出し。

 今では想像もできぬ大仰なリード文に思わず笑った。「世界第二位の人口を誇る大東京六百三十万市民の健康・厚生のための近距離〝海の公園〟として~(中略)~面目も一新しやうと昨年から着々工事を急ぎつゝあったが、三年計画第一期工事中の王座たる山小屋が此のほど竣工したので、その一般的開放披露をかねた落成修祓式が去る一日同所で執行された」

 式次第レポート後に施設説明。「落成したロッジは木造平屋建百五十坪、赤瓦のモダンなコッテージ風の建物で、宿泊料は三十銭、休憩料十銭という大衆向きであるが、ベランダに出れば太平洋の黒潮が一望の彼方に見渡せる雄大な気分をそのまゝに『黒潮小屋』と井上公園課長が命名した御自慢のもの(以下略)」。

 同月廿五日発行号にも注目すべき記事。吉阪正隆氏『(大火の)元町復興計画』の項で記した「日独伊三国同盟でヒトラー・ユーゲント(ナチスの少年組織)一行三十名が、東京聯合少年団数百人と共に九月十八日に来島」の報。この東京少年団のなかに語学堪能の吉阪少年もいたのだろう。

 次に同年三月に大島人口の発表。「大島人口は一萬五百人。女性の方が百三十人多く〝女護の島〟の観を呈していると分析。大島の明日は限りなく輝いていた。

 それを裏付けるように、同記事隣に「春は大島へ、来るぞ!一萬人~」。「六日の日曜日に二千人、八日に東京のデパートガールが押しかけ、十日に東京の理髪業五、六十人を混えた四百名。その他に平日ながら四、五百人づつ流れ込む三原山ゴールドラッシュ。島内はまさにあふれるような超景気」とあった。

 昔の絵葉書「黒潮小屋」からのアレコレでした。島は今も輝き続けているだろうか。

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草かぶれ・アレルギー [週末大島暮し]

okadakou3_1.jpg 島暮しの初告白。実は20年も前から、島で草刈り・庭仕事をした後で、決まって腕に〝草かぶれ〟症状が出ていたんだ。帰京後1週間も経てば自然に治るので、皮膚科を訪ねたことなし。それが今回は脛に出て酷くなった。

 そもそも〝脛のかぶれ〟は十年ほどのキャリアがある。最初は鳥撮りで藪や干潟に踏み込むことが多かったので、ちょっと良い長靴を買った。ピタッと足に吸い付くようで誠に歩き易かったが、何が悪かったか、同長靴を履いた後に〝脛にかぶれ〟が出た。

 次は明らかに歳のせいだろうが、冬の乾燥肌で脛が痒くなり、掻けばかぶれた。爺さんなのに、娘さんのように入浴後に保湿乳剤を塗り始めたら治った。

 今回〝脛のかぶれ〟が酷くなったのは、5月の1年振りの島暮しで、腰までの雑草と闘って出来た際の脛のかぶれが完治せぬまま、再び草と戯れたせいかも知れない。帰京翌朝、初めて皮膚科を訪ねた。「こりゃ酷い。よく我慢したねぇ。これは間違いなく草かぶれアレルギーです」。塗り薬2種、飲み薬1種を出されてピタッと治った。

 上記に関係あろうか。若い時分から髭剃りは剃刀派で、数年前に小さな傷をつくった。茶飯事なれど、顔全体が赤くなった。その後は髯を温かい湯で柔らかくして、シェービングクリームの泡をつけ、終わった後はスキンコンディション液でお肌の手入れ。爺さんになって面の皮も〝したたか〟になったと思いきや、抵抗力を失って弱くなったらしい。

 さて、島の草木かぶれの原因は~。かぶれる草木は無数で、草に棲息する虫もいる。島は椿が多く茶毒蛾の毒も飛散しているかも。今後は肌露出なしの完全防具で草刈り・庭仕事になろう。「都会育ちはヤワで情けねぇ」と呟けば、かかぁが「おまいさんのブログには〝老い病〟のカテゴリーがない。そこが今は肝心じゃないか」と云いやがった。

 挿絵に「草かぶれ」は絵にならず、連日酷暑にクーラー部屋に籠って暇ゆえに、また岡田港漁船を描いた。船の絵は5回目。50回も描けばうまく描けるようになるだろう。(これにて6月下旬~7月上旬の島暮らしの思い出10で完)

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船を描き、船の思い出を~ [週末大島暮し]

okadafune4_1.jpg 絵を描き始めて、船は難しそうで敬遠していたが成り行きでジェットフォイル艇、さるびあ丸、橘丸を、そして岡田村で3年間漁師として暮した〝不染鉄〟にあやかって岡田港の漁船を描くに至った。いつかは手慣れた感じで〝船〟が描けるようになりましょうか。

 この絵を描きつつ〝船の思い出〟が巡った。まず中1秋の遠足が「橘丸」で大島へ。社会人4年後にフリーになって最初がレジャー企業のPR誌編集だった。社長が江ノ島ヨットハーバーに大型クルーザーを係留していて(当時は加山雄三〝光進丸〟の隣)、毎週末にクルー召集。その時期に波浮港までクル―ジングしたことがあった。

 某ヨット教室のテキストを作ったことがあって、お礼に24フィートのボロヨットをくれた。係留費がなく、真鶴(港)の青年らにヨットを預けた。その頃が確か小型船舶免許制開始で、あたしは裸眼視力がダメでかかぁに免許を取ってもらった。漁師達に混じっての受験で小型船舶免許を取得。その後に小型免許が細分化され、彼女の免許は「一級」(航行区域無制限)に昇格した。

 自動車免許を持たぬ彼女は「小型船舶一級免許」を身分証明証替わりに使っていた。その後、矯正視力が認められて小生も三級(現・二級?)取得も、ヨットやクルーザー所有には至らなかった。

 そうだ、子供時分の最初の夢が「外国航路の船員」で、それは祖父が外国航路の「大洋丸」に乗っていた時もあって、素敵な写真をみていたからだ。だが小4年頃からの眼鏡人生で、船員学校には裸眼審査ありと知って断念した。この歳では新たな船の思い出はつくれまい。船の絵を描くことぐらいだろうな。(6月下旬の島暮しの思い出9)

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岡田暮し3年の様子:不染鉄3 [週末大島暮し]

okadamoide1_1.jpg 最後に不染鉄の岡田村暮しをもう少しクローズアップしてみたい。前述「思い出の岡田村」の解説にこんな記述あり。~岡田村では「ネギどんの家」といわれる家に泊まり、漁師とともに漁をして、3年間暮らした。村人たちと親しく交流し「ふぜんさん、ふぜんさん」と呼ばれた~。

 同作には八幡神社下に軒を連ねる草屋根の一軒に、不染らしき人物が囲炉裏に向かっている姿が描かれている。雄大な自然に囲まれ、情の深い村民たちと過ごした大島での生活は、彼には欠くべからざる思い出・経験だったのだろう。

 また昭和44年の絵葉書「お正月」(写真)には、こんな文章が書き込まれていた。「私が三十ぐらいの時(正確には23~27歳)、伊豆大島で漁師をしていた時、いつも乗っていた小さな舟である。今は皆キカイ船で二人舟はあるまい。大浪の時、風の時、大きな魚をとった時、色々なつかしき思出はつきない。お正月は松かざりをつける。お前と別れて、今は都会に何不自由なく倖せだよ。七十九のお正月だよ。お前を思ひ出して年始にかいて皆んなにお前の話をするよ。あの時は楽しかったなぁ。これをかいていると涙がでそうになってくるよ。悲しいのではないよ。なつかしさの涙だよ。浪の静かなお正月の日出のころにしようねえ」。〝お前〟とは妻のことだろうか。

fusentetu2_1.jpg 読み間違いもあろうが、凡そこんな文章。また昭和初期の作「海辺の村」の解説には~ 「茅葺屋根の住まいには、一間の部屋にいろりがあり、潮風が吹き、波音が聞こえ、海草の香る生活だった。干潮時には、かにや小魚が岩場に姿を見せ、周囲に牛やにわとりを飼う家も多かった」で、そんな抒情的な絵が描かれている。

 また奈良に移った後も、可愛いミニチュア風の岡田村「草屋根の家や舟」と題した作陶を多数創り、思い出の家を板型にして着色したり、魚達の木彫・絵も多い。さらに「思い出の岡田村」と題された絵が描かれた「着物」を幾着も制作。これらは妻亡き後に身の回りの世話をしてくれた女性たちに贈ったとか。

 不染はまた若い女性たちに「正しく美しい心がからだに一パイになると、あふれてこぼれるようにいゝ美しい画になります」と書いた絵葉書を送ったそうな。不染鉄はそんな晩年を送って85歳で逝った。

 小生の島ロッジも間もなく崩れ朽ち、いや、その前に島へ行く元気も失せよう。自動車免許更新が無理になるかもしれない。島へ行けなくなったら、不染鉄のように思い出だけで〝大島暮し〟の絵を描きはじめるかもしれない。改めて〝島の写真集〟でも作るつもりで記録・記憶保存をしておくのも良いかもしれない。

 最後に図録掲載の不染鉄の写真を参考に、彼の絵を描いてみた。小生の心が「正しく美しくない」とみえて上手い絵にはならなかったが、晩年の彼は実にいい表情をしていた。(6月下旬の島暮しの思い出8:付録の不染鉄は3で完)

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岡田暮しが飛躍の原点:不染鉄(2) [週末大島暮し]

ohsimafuukei_1.jpg 不染鉄は「山海図絵」の前後にも「海村」「大島風景」などで各展入選。3年間の岡田村暮しが、彼の飛躍の基と言っても過言ではなかろう。

 「海村」は展示なしも「大島風景」は、これまた大島の絵では珍しい岡田・風早崎灯台(大正4年に灯火開始)を前面にした大島俯瞰図。灯台左に岡田港。港右の崖下に「龍王神社」、風早崎の右に乳ヶ崎と野田浜。多くの人家と沖に船。その先がたぶん赤禿で、遠くに元町。

 画面には〝すやり霞(素槍霞=大和絵から浮世絵に使われる省略、場面転換、遠近表現で使われる手法)〟が採用されて、沖に鯨が2頭。まさにこの俯瞰も漁師として沖に出て、そこから上昇して見る鳥眼(マクロ)と、想像的緻密描写(ミクロ)の混淆。

 さて、不染鉄は昭和2年末(1927)に、京都を離れて唐招提寺、薬師寺など名刹が点在する奈良県生駒へ移住。この頃に出自の僧侶資格も得たらしい。不染鉄の作品群を大別すれば奈良古刹を描いた作品群と伊豆大島作に分けられよう。

 昭和6年(1931)に神奈川県大磯に移住。昭和8年に妻の実家がある横浜へ。昭和10年(1935)に東京へ移住。同年頃の作に「大島絵物語」。これは霊岸島を夜の10時に出航し、荒波に揉まれて岡田村へ着くまでのを巻紙に描いた作品。

omoidenookada1_1.jpg やがて軍部の力が画壇を浸食し始めると、画壇から距離を置いた。戦後、昭和20年(1945)に乞われて奈良の中学校の理事長から校長へ。奈良の画室からの眺めを平和への感謝をこめて描き出す。昭和27年に同omoidenookada2_1.jpg校を退職。

 昭和33年(1958)、67歳で62歳の妻〝はな〟死去。この頃から再び亡き妻と暮した伊豆大島・岡田村を思い出して描き出す。岡田村を海上から俯瞰したシリーズ「海村」「南海海村」「南島」、そして昭和43年「思出之岡田村」など。これら作の多くには村中央奥に「八幡神社」、右崖の「龍王神社」に描かれている。

 ~村の人同様になり夏の海冬の山、お正月色々思ひ出はつきません。今から四十年も前の事です。今ではかはら屋根の家が並び、築港が立派になり岡田港となりました。~との文があるから、その後も彼は大島を訪ねていたと推測される。

 昭和37年、奈良に建てた終の住処兼画室で描かれたのだろう昭和47年(1972)81歳の作品が「思い出の岡田村」(写真下の横長の作品を2枚に分けてアップ)。脳裏に焼き付いた岡田港を描いたのだろう。沖に中型船が2艇停泊して艀が岸に着くシーン。海岸に並んだ小さな漁船。その右崖下に「龍王神社」、湾の左は現・堤防基部となっている勝崎(かったき)。その奥に人家が軒を連ねて、その一軒に不染らしき人物。人家の奥に「八幡神社」。同作を描いた4年後の昭和51年85歳で没。

 不染鉄の美術館回顧展は、21年前の奈良県立美術館の1回だけで、東京での展覧会は「東京ステーションギャラリー」(8月27日まで)が初めて。次回は3年間の岡田村暮しをクローズアップしてみたい。(6月下旬の大島暮しの思い出7:付録・不染鉄2)

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「山海図絵」の秘密:不染鉄(1) [週末大島暮し]

sannkaizue_1.jpg 「東京ステーションギャラリー」で開催「没後40年 幻の画家 不染鉄(ふせんてつ)」へ行った。ギャラリ―には東京駅竣工時(大正3年)の煉瓦壁あり。まずは代表作「山海図絵」(伊豆の追憶)に注目。

 この絵、なんと大島・野田浜から見た伊豆の風景だというから驚くじゃないか。同作の元になったスケッチ「伊豆風景」(下)も展示で、不染の文が紹介されていた。「大正十二年十二月廿五日 大島野田浜海岸にて伊豆を見て描く。暖かい冬の日向の下、枯草のそよぐ上に、煙草を吸ひながら海を見る。はるかに富士山に雪がふってるのを見、寒い国の冬を想ひ出す。枯木山や、かさかさした笹にふりつむ雪、霜の道。(中略)~数日前に乗った汽車は今頃もあの道を走っているかもしれない」

 伊豆から島に渡ったのだろう。その時に見た伊豆の風景を、大島・野田浜で蘇らせつつ描いている。見えるはずもない汽車まで走らせて、富士山の奥には雪降る日本海の漁村まで描いている。「山海図絵」は大正14年の第6回帝展入選で不染鉄の代表作。

nodahamafuji1_1.jpg 小生も絵を描き始めた2年前に乳ヶ崎(野田浜)を数度描いた。乳ヶ崎トンネル越しに見える海と富士山を描いた際には、ハッキリ見えぬのに伊豆の町並を描き込んだ。小生の想像力はそこまでだったが、不鉄は時空を超えた。

 図録解説文には、同作品に不染の特質=中心性、俯瞰構図、マクロ的視線とミクロ的視線の混淆、多視線のすべてがここに現れていると指摘されていた。あの<バベルの塔>を描いたブリューゲルと共通点が多いとも指摘。

 図録より不染鉄の経歴を読む。明治24年、小石川・光円寺(現存、茗荷谷駅の近く。大田南畝と共に活躍した狂歌師・鹿都部真顔の墓あり)生まれ。浄土宗の名門・芝中学入学もワルで放校。画家を目指し、小石川の川端画学校の日本画家・山田敬中の門下生から大正3年に日本美術院の研究会員へ。だが金も自信もなく行き場も失って、妻(はな)と共に霊岸島から汽船に乗った。〝行き場も失って〟の裏には、図録年譜に18歳で母を亡くし、22歳で父を亡くしたことの影響があろう。

「廿七の秋(正しくは大正3年23歳)東京に住むところのなくなった私は病ひ上りの家内と二人東京を小さな汽船に乗って話にきく大島へまいりました。途中風雨夜中からはげしく目的地まで行く事が出来ず、岡田村という淋しい村につきました。そこで三年程都を忘れて漁師と遊びくらしました」

 その後、京都市立絵画専門学校日本画予科から本科を首席で卒業。その年(大正12年、32歳)に大島を再訪して描いたのが「山海図絵」。彼は妻を亡くした晩年も、共に暮した岡田村を思い出して実に多くの大島を描き遺している。次回は〝不染鉄にとっての大島とは〟、その次に〝岡田村で暮した3年間の様子〟を探ってみたい。(6月下旬の島暮しの思い出6:付録・不染鉄1)

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岡田港の昔と明日 [週末大島暮し]

okadatunami2_1.jpg 今回の島暮しで、小生は〝岡田港〟について無知だったと相知候。我がロッジ住所が大島町岡田字~なのに、大島通い26年なのに。

 大島発着港は元町か岡田で、元町は島の中心で馴染店も多い。比して岡田港は馴染店なし。だが船は元町より岡田港が多い(ナライ=北風が強いと元町港で、西風や南風が強いと岡田港)。岡田に着岸すれば即バスやタクシーで港を離れ、出航時はいつも慌ただしい。

 今回は、元気な老夫人らに「港で慌ただしくお土産を買うのはイヤ」ゆえに、事前に岡田港へ連れて行けと仰せつかった。彼女らの買い物中に、初めて岡田港の村ん中を散策。家々を縫い歩けば鎮守様「八幡神社」へ出た。為朝建立。御神体も為朝がらみ。1月15日の「正月祭」で〝天古舞〟奉納。若衆が梃子(てこ)を用いて木槍に合せて舞う。都の無形文化財。その模様はYou Tubeにもアップされていた。

 そして漁港(絶壁)側に「力士大島伝吉碑」と「力石」。その右側の崖に「龍王神社」。八幡神社の祭神が源(為朝)ゆえ、平家の神々が怒って災害を起こすので建立とか。

 史蹟案内板には、岡田港の災害も記されていた。関東大震災(1923)の津波で繋舟(かいせん、つなぎぶね)が民家二階に押し上げられ、崖崩れで死者も出た。元禄16年(1703)の大津波では回船・漁船の18槽、男女54名、流人2人、家58軒が波に取られたとあった。史蹟看板に「繁舟」とあるが「繋舟」の間違いだろう。

 さて、そんな岡田港が目下大工事中。大島支局HPを見ると仮称「岡田港船客待合所兼津波避難施設」。当初は2015年完成も、何か事情があったのだろう、遅れに遅れて今は土手状階段部分(津波避難通路?)が完成しつつあった。ここから堤防基部に「緑地施設休憩所・船客待合所及び津波避難施設」(確かな情報ではないが外観三階建てだが4、5階に備蓄倉庫や貯水槽、その屋上部分が高さ約12㍍とか)へ繋がるらしい。

 島のブログを拝見すれば車で1分、走って数分で高台ゆえ、わざわざ海に面した避難施設が必要だろうかと云う指摘に納得もするが、竣工すれば店舗も入り、イベント開催も可能だろうから岡田港に新たな魅力も生まれるかもしれない。★完成予想図が見つからなかったので、勝手想像で完成図を俯瞰気味に描いてみた。

 そんなことで岡田港に改めて関心を寄せれば、大正3年(1914)から岡田港で漁師生活3年を過ごしたという日本画家・不染鉄(ふせんてつ)の展覧会が「東京ステーションギャラリー」(8月27日まで)で開催中と知って、さっそく鑑賞に行った。岡田港の絵がたくさん展示されていた。次回は不染鉄の岡田港暮しについて。(6月下旬の島暮しの思い出5)

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爺婆とBBQとスイカと~ [週末大島暮し]

kokisuika.jpg 古希越えの友人婆さんらと、ベランダでバーベキューをした。島のS氏に婆連を紹介し「この歳でも食える柔らかい肉を按配して~」と注文。まぁ旨かった、良く食った、ビールも戴いたワインも飲んだ。最近は〝長生き・元気の元は肉〟ってんで、老人達もよく肉を食う。

 もうひとつ、皆でぜひ食いたかったのが、口からプッと種を飛ばしつつ食うスイカ。誰もが子供時分は縁側のある生活も、今は縁側のある家には住んではいない。旨いスイカだった。「げんろく」で買ったが〝内地もの〟だろう。

 昭和40年の元町大火復興計画のコルビュジエ師事の建築家・吉阪隆正調べで都立中央図書館へ行った際に、横井弘三『東京近海 島の写生紀行』も借りて読んだ。未だコンクリートやアスファルト道路もない時代の長閑な大島スケッチ群。そして練馬区立美術館で昨年開催の「横井弘三の世界展」チラシが、写真の通り老人がスイカを食う絵だった。

 他によく食べたのが野菜即売場「ぶらっとハウス」の野菜たち。開店と同時に売り切れになる店は島のどこにもなく、島一番の人気店と云っていいだろう。とくにアシタバは元ベテラン主婦の婆さん連が腕を振るって様々に料理してくれた。また彼女らは実にたくさんのアシタバをお土産に持ち帰った。

 食さなかったは意外に思われるが〝魚〟だ。島で出回る〝地魚〟は僅少。〝魚市場〟はあるも鮮魚なし。島の宿が提供する魚は、一体どこから仕入れているのやら。島で魚が食いたかったら自分で釣るか、突くしかない。島は〝肉よし〟〝野菜よし〟だが〝魚よし〟とは参らない。

 さて、横井弘三が大島スケッチをしたのが昭和2年で、それより10年も前に岡田港で漁師らと共に3年暮した日本画家がいた。現在「東京ステーションギャラリー」で「没後40年幻の画家 不染鉄」が8月27日まで開催中。その話は後で~ (6月下旬の島暮しの思い出4)

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海原と空に似合わぬ船の色 [週末大島暮し]

tatibanamaru2_1.jpg 大島へのお客様の帰京便に「橘丸」をセットしたので、数日後の自分達も「橘丸」で帰ることにした。数年前の新艇だが、新しさ微塵も感じぬ〝何と無粋な色よ〟と思った。逆によくもまぁ、こんな色・配色を考えたものと感心した。

 例えば、こう問えば納得できようか。「貴方はこの配色の車を買いますか?」。おそらく全員がNOだろう。青い海原と空に、何とも似合わない。そう云えば、ジェットフォイル4艇も子供のオモチャみたいに着色されていて、もっとスッキリできなかったのだろうかとも思う。東海汽船の〝模様デザイン〟は柳原良平らしい。

 ちょっと前までの元町桟橋の壁画も、不気味な深海魚が蠢くような幻想ゴチック風だった。現・空港の土手壁もちょっとギョッとする。きっとバームクーヘン風模様を意識したのだろう模様が描かれている。海も緑も美しいのに、人間の変な手が加わって不自然、妙な具合になる。

daibakikyou_1.jpg さて、色は無粋も〝橘丸〟の船名復活は個人的には楽しい。その名に60年前の「中学1年生秋の遠足」を思い出した。「橘丸」で一泊の大島遠足。日本は未だ米不足だったか、宿泊する遠足は自分用の〝白米〟持参だったと記憶する。

 当時は裕次郎ブーム。小生のアルバムには三原山をバックにトレンチコートの襟を立て、短い脚ながら裕次郎を気取ったポーズの色褪せた写真が残っている。写真は「橘丸」で夜のレインボーブリッジ下を通過中。優雅な大型船の旅も、貨物船に乗っているようだった。(7月上旬帰京の大島暮しの思い出3)

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小綬鶏が玄関に居る鄙暮し [週末大島暮し]

IMG_6349_1.JPG 終始賑やかだった客人らが帰った後、ロッジに静謐が満ちた。気が抜けてソファーで惚けていたかかぁが「おまいさん、玄関に鳥が来たよぅ」。小綬鶏。網戸越しの写真はピンボケだった。

 ロッジに居れば、大鳴声「コッチコイ!」が響き渡るも、その姿をなかなか見ること叶わず。そこで幾羽の小綬鶏が出没するという東京郊外・府中の浅間山(せんげんやま)公園まで行ったことがある(下写真)。玄関に小綬鶏で長年の謎が解けた。久し振りに島へ行けば、玄関床に鳥の白い糞あり。「そうか、犯人はコヤツだったか」と。

 なお小綬鶏は昭和14年9月の「島の新聞」に「昨年に放した小綬鶏の繁殖全島で分布し~」の記事があり、昭和13年に放鳥されたものと推測される。

 野鳥話題をもうひとつ。静かになったロッジ・ベランダで寛いでいれば ♪特許許可局~トッキョキョカキョク~」。その鳴き声はホトトギスに違いない。スマフォで「伊豆大島 ホトトギス」で検索すれば「グローバルネイチャークラブのガイド日記」の写真と記事がヒットした。

m_kojyukei2_1[1].jpg ウグイスの抱卵時期に〝託卵〟すべく5月中旬頃に島に飛来とか。双眼鏡を手に鳴き声方向に車を走らせたが、姿を見ることは叶わず。だが白っぽい腹に横線模様の鳥が、上空を一直線で飛んで行く姿を見た。「うたた寝にその鳴き声ぞホトトギス」

 ウグイス、ホオジロの囀りは終日響き渡り、斜め隣家の屋根はイソヒヨドリのお好み場だ。野鳥に加え「グバッ・グワッ」の野獣声方向を見ればタイワンリスがいて、キョンの親子も歩いている。

 「あぁ、鄙なる暮しよ」と思えば、今朝のテレビで山形県鶴岡市の民家の玄関に熊出没の映像が流れていた。熊の心配はないが、かくも大島の鄙な暮らしです。(6月下旬の島暮しの思い出2)

 ★メモ:「生類憐みの令」(魚鳥類の令は貞享4年・1687)の際に江戸などで集めた鷲、鷹、雉子などが宝永5年(1708)まで20年余にわたり大島で放鳥された。(Weblio辞書)ホントかいなぁ~。

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煙突へ絡む枝葉の切り落とし [週末大島暮し]

tentotu1_1.jpg 薪ストーブの煙突に、桜の枝葉が絡み付いていた。秋のストーブ稼働を思えば、枯葉に火が燃え移る危険もあろう。当初はチェーンソーで木を伐採と思っていたが、それも大ごとで「高枝ノコ」で切り落としてみようと思った。

 東京のホームセンターで「高枝ノコ」を見れば、数千円から1万円余まで各種あり。島で安いのを購入と思ったが約7千円の品だけ。そこで隣家より長い垂木を借り、「くぼごん」で格安ノコと針金を求め、垂木先端にノコを括りつけた。

 ノコが格安過ぎか、ヘナッと曲がってしまうのを騙しだまし、かつ軟弱な肩の筋肉を励まし、膝の屈伸も加えつつ幾本もの枝を切り落とした。「ここまで切り落とせば、秋に薪ストーブが愉しめるだろう」と満足気に見上げれば、今度は屋根の垂木覆い?の板が弱っているのに気がついた。貧乏隠居には、業者を頼んで足場を組んでもらう余裕もなく、これまた垂木に刷毛を括りつけて防腐剤を塗りましょうか。

 ロッジを建てた若い時分はチェスト、ベンチ、椅子、棚などのDIY仕事が愉しかった。しかしロッジがボロくなってくるとメンテナンスで目一杯。併せてこちらの身体にあちこちとガタが来た。手当しつつだまし騙しで生きている。

 ボロ小屋暮しも、老いた身体との付き合いと同じく、ガタとだまし騙し上手に付き合って行くことに〝暮らし方の極意〟がありそうな気がしてきた。(6月下旬の島暮しの思い出1)

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大型船と中村屋とゴジラカレー〈2017‐10〉 [週末大島暮し]

ohgatasen3_1.jpg 元町の観光協会前、「寿し光」海側の小公園に座って元町桟橋を眺めていたら、大型船「さるびあ丸」が出航するところだった。

 かつて竹芝を夜発の同船に乗るべく長蛇の列に並び、座る場所確保に熾烈な闘いを展開した嫌や思い出が甦ってきた。だが大島を昼発の大型船には〝優雅な船旅感〟があった。「久し振りに大型船で帰ろうか」。しかし帰京日の大型船運航なし。

 大島暮し7日目に、元町からジェットフォイル艇で島を後にした。ややして右舷窓から我がロッジが見えた。大別荘の脇の小さな茶色屋根。手前の白線は塩工場の屋根。車で海岸通りをロッジへ走っていると「ロッジが火事だ」とドキッとすることがある。白煙は火事ではなく塩工場から立ち昇る煙(湯気)らしい。

 塩害については不明だが、いずれにせよ防風林が伐採されて船からロッジが丸見え。ロッジから海一望で、冬はニシ(強い西風)を食らって怖くて住めなくなった。老人ゆえ残り幾度の島暮し。ここは島の産業、塩の量産・発展を祈りましょ。

wagaya1_1.jpg 船の中で大島土産を確認した。「アシタバ五把、ゴジラカレー二つ、冷凍ハンバノリ四つ、そして大島の塩」。土産を見ながら「ゴジラカレーと中村屋がコラボすればおもしろかったのに」と思った。中村屋はインドカリー発祥店。中村屋の娘と結婚できぬ傷心を島で癒した中村彝。前回記したが新宿中村屋ギャラリーで「中村彝生誕130年記念展」をやっていた。実は我家は安くて旨い中村屋のレトルトカレーを常備している。

 それが元町「ベニヤ」にもあって驚いた。もしも前述のコラボが実現していたら、全国のスーパーに「中村屋の大島ゴジラカレー」も並んだだろうにと、その絵を想い浮かべたら、ちょっと楽しくなった。

 楽しくないのは、初めて描いた船の絵。友人が言う。「お前は線がダメなんだよ。描く前に線を引く練習をする。縦に、横に、円も描く。太く、細く、早く、遅く、入りと抜き~」。今回の大島暮しで痛感は、もう少しマメに島通いをすること。風景スケッチ苦手を克服すること。(今回の大島シリーズおわり)

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御神火太鼓の子供たち〈2017‐9〉 [週末大島暮し]

gojinkataiko2_1.jpg 今回の大島では、ライフライン復活と草刈りでスケッチをする余裕もなかった。そこで「ぶらっとハウス」裏の多目的広場で行われた恒例「軽トラ市」で行われた子供たちの「御神火太鼓」の写真より〝お絵描きの練習〟です。

 ブログ絵は迷った結果、やはり「ペン画+淡彩」がいいと結論し、改めてペンを再考。今までのペンは万年筆=LAMY Safari(ラミーサファリ)+インク=プラチナのカーボンインク・ブラックの細字と太字の2本。そしてボールペン=パイロットHI-TEC-C。共に水彩をのせても滲まぬインク。

 ボールペンではやはり硬質過ぎやしないかと、もっとタッチ感の出そうなSTAEDTLER pigment liner(ステッドラーピグメントライナー、水性顔料インク)が良さそうだ。世界堂へ行くとボールペンは文具売り場で、ステッドラーは画材売場。ドイツ製。絵を描くには、やはりコレがいいらしい。

 かかぁが言った。「お爺さんが文具に夢中になって、女学生みたいじゃないの。絵は道具じゃないの。腕よ、デッサン力よ。描いて・描いて・描きまくらないと上手にならないよ」。ピカソか、はたまた漫画の浦沢直樹みたいなことを言った。

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吉谷神社への参道に感動〈2017‐8〉 [週末大島暮し]

mikageisi2_1.jpg 新宿区百人町在住だった早大教授で「ル・コルビュジエ」に師事した建築家・吉阪隆正。彼は昭和40年の元町大火のテレビ映像を観た夜に「大島復興計画書」を書き上げて大島へ届け、復興の希望と勇気を元町に届けた。(弊ブログ2月に6回シリーズで紹介)

 「大島町史」にも昭和41年に〝吉阪教室による町づくり〟なる文言あり。彼らは「都市計画」と同時に建築家集団ゆえに島南部(例えば波浮小学校)の建物など多くを手掛けたらしいが、実際にどの建物の設計をしたのかは小生調べでは確証を得るには至らなかった。

 その中で「復興計画書」に図入り記載され、かつ多数建築家らが吉阪隆正について語った膨大な「You Tube」資料にも「吉谷神社への敷石参道」も彼のアイデアだったとあった。それは町づくりにおける海岸から神社へのドラマ性の演出で、敷石は都電廃止で不要になった御影石を利用とか。

 都電史をみれば、銀座を走っていた都電も同時期に廃止ゆえ、この参道の御影石に銀座の敷石が混ざっていたように推測してみた。さて、本当にその敷石参道はあるのだろうか。この眼で確認したく元町をちょっとワクワクしながら歩いてみた。

 「あった、あった、確かにあった」。

 計画書通り御影石の参道は、海岸沿いの道、現・観光協会事務所の前、以前に何度か共に呑み、元町花火を屋上で楽しませてくれた夫妻の現・廃業ホテルと東屋のある小さな公園の間から石畳みは始まっていた。

mikageisi3_1.jpg tosyokan_1.jpgそこから山側へ真っ直ぐ続いて役場通りの元町郵便局まで続き、すこし左にズレて銀行から吉谷公園(昭和43年開園。これも吉阪チームによるものらしい)を通って神社までドッシリとした石畳参道が続いていた。

 あぁ、これが銀座を含めた都電廃止による御影石の参道だ、コルビュジエに学んで都市計画に情熱を燃やした吉阪隆正の痕跡だな、とちょっとジーンと胸が熱くなった。彼は同計画に日本初?の住民参加のワークショップを勧め、また世界初のボンネルフ設計(人間優先の車道で、後に真っ直ぐな車道に直されたらしい)など数々のユニークなアイデアを提案・実施。

 小生なら参道下に、この石敷参道の由来を記した案内板を設置し、観光客を吉谷神社へ誘いたく思うのだが、そんなことを思う島の方は誰もいないんだなぁとちょっと淋しかった。

 また朽ちかけた元町図書館も、多くの資料に「吉阪プロジェクト」によるものとの記述があったので写真をアップです。

 追記:グーグルマップの大島元町上空からの写真を見ると、この敷石だけが何かを訴えるようにクッキリと映っていた。 

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夏来る繁茂の庭と老い戦〈2017‐7〉 [週末大島暮し]

kusakariman.jpg 何日も要して腰まで伸びた庭の雑草を、小生の頭(坊主)のようにきれいに刈り込んだ。島ではあちこちで〝草刈り現場〟を眼にした。その手際の良さに感服も、街育ちの老人(小生)は10分やって30分の大休憩。

 「こんなに辛い草刈りはもうイヤ」。ついに「除草剤」を買った。草刈り後に〝いざ散布〟と説明文を読めば、撒くのは草刈り後ではなく、雑草に直接散布して葉や茎を経て根を枯らすとあった。除草剤は次回へ。「老いぼれて闘い放棄の除草剤」

 さて、帰京後の仕事が上手く行けば、かかぁの友達らと再び島遊びの予定。同じメンツで幾度も島を愉しんできた。庭写真の「杉」は、I夫人が某社催事で入手の15㎝の苗を植えたもので、それがこんなに大きくなってしまった。

kusakarikanryo_1.jpg 昨年は玄関急階段でT夫人が転げ落ちた。いつの間に全員の足許が覚束ない歳になった。手摺りが必要だが、それを作る技術なく、庭に土を削った緩い階段を拵えた。

 ご夫人方全員がマンション暮しで〝あぁ、私たちもそんな土の階段作りがしたかったなぁ〟と言い出しそう。マンション暮しで出来ぬ作業に汗するのも〝島暮し〟の愉しみです。

 今回の庭仕事で、長年(20年)愛用〝黄色いツナギ〟がボロボロになった。庭仕事や防腐剤塗りなどで必需品。新調すべくネット検索すれば「草刈り専用ズボン(前部にパット、背部にベンチレーションジッパー)が15,120円。専用ヘルメット、ジャケット、手袋、ブーツもあって計68,000円。リッチな方も草刈りをするらしい。

 近所に「ワークマン」なし。西新宿の「萬年屋」か「伊勢啓中村屋」で安いツナギを求めよう。挿絵は描き終わってパソコン取り込み後に、肩ベルトが本体に繋がっていない(描き忘れ)のに気付いた。Windows「ペイント」のマウスで描き足した。草刈りが苦手でも、パソコン操作は若者のようにサッと出来る。

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長らへてあと幾度や島の風呂〈2017‐6〉 [週末大島暮し]

roten6_1.jpg ロッジのライフライン復活と草刈りで疲労困憊。いつもなら毎夕愉しむ「浜の湯」(水着着用の露天風呂)だが、今回は7日間で2日だけ。

 かつて、湯に浸かりつつ〝島の古老らの話を聞くのが愉しい〟と記したが、湯に寛ぐ方々を見回せば〝吾も古老〟かと気付かされた。かかぁが湯にあたって倒れはせぬかと眼を離せず、自分も弱った足腰をマッサージしつつの入浴。

 2年前のこと、突然の足裏のシビレに驚いた。大病院診断は「脊柱狭窄症」。病院通いをすれど改善せず、自己流ストレッチで痺れを軽減。1時間ほどのウォーキングも平気になった。腰痛は慢性。

 過日のこと、小石を踏んで転んだ。自己判断をすれば足首の柔軟性、強靭性が失われて踏ん張る力を失ったと判断。大腸内視鏡検査を勧められ「ケツから何かを突っ込んで調べるなんぞ真っ平御免でぇ」と啖呵を切るも、結果はポリープ(良性)を二度に渡って除去し、年に1度の定期検査を受けることにもなった。

 若い時分に無理をした反省あり、逆に遠慮したことの反省あり。いずれにせよ、人生やり直しが効かぬ歳。そう思ったら「浜の湯」隣にある「中村彝(つね)像」が気になった。彼は小生の半分37歳で逝った。島ではどんな暮らしをしていたのだろうか。

 帰京後に「新宿・中村屋ギャラリー」で開催中の「中村彝・生誕130年記念~芸術家たちの絆展」を観た。彼は岸田劉生と同じく「白馬会研究所」に在籍。劉生の2年先輩で、二人の仲は良くなかった。その劉生も39歳で逝った。思わず「長らへてあと幾度の島の風呂」です。(季は〝島〟で四季)

 挿絵は「浜の湯」に自分らを配す〝想像〟で描いた〝初想像画〟。今回の「浜の湯」は若夫婦と2歳半の赤ちゃんが展開する微笑ましい入浴風景が記憶に残った。

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自然木カウンター〈2017‐5〉 [週末大島暮し]

counter1_1.jpg 大島のボロロッジは薪ストーブ、吹き抜け、天井を回るファンに加えて、この太い自然木カウンターが存在感を発揮している。

 かつて島を去った知人が譲ってくれたもの。チェーンソーでカウンターの形に整えて入念に塗装。大人4、5名でワッセ・ワッセの掛け声に合わせて運び込んで設置したのを覚えている。

 ブログ挿絵は、目下さまざまな描き方を模索中。いや、迷って悶々としている。この際に改めて「不透明水彩(ガッシュ)」も使ってみようすれば、暫く使わなかった幾色もが凝固して使えなくなっていた。世界堂へ行けば2号(5ml)の単体販売はなしで、プロ仕様のような大きなチューブだけで頭を抱えてしまった。

 筆のコーナーを見る。「これは使い易そう」と選んだ筆をレジへ持って行こうとしたら4千円で、慌てて商品棚に戻した。それでも千円の水彩筆を2本買った。えらく彩色し易い。水をたっぷり含んだ描き方には、それなりの筆がある。ン万円も有りで驚いた。 

 今回は仕切り直して、チューブから出した「透明水彩パレット」を作り直し、色見本も作り直して壁に貼ってみた。初心者ながら、描き方の試行錯誤や迷いは限りなく続くのだろう。ブログ挿絵は「絵日記」のようなものゆえに、最も簡単な「鉛筆+淡彩」がいいのだろうが、悶々の日々は続く~。 

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薪燃やす愉しみ残す五月哉〈1017‐4〉 [週末大島暮し]

stove1_1.jpg ライフライン顛末記の次は〝良かった事〟も記す。まず海沿いの道(サンセットパームライン)から防風林を抜ける凸凹道が26年を経て、ついに舗装された。友人のブログアップ写真で飛行場際まで続く舗装かと思っていたが、我がロッジ際までだった(下写真、まるで藪トンネル。右側が次第に深い谷になっているが、少し先まで行けば飛行場脇からの舗装路が来ている)。いずれ全舗装を期待です。

 今回はライフライン修繕ばかりで、かかぁには「面白くない大島暮し」と思えど、「あらっ、楽しかったよ。東京でこんなトラブルは絶対に体験出来ないもの。家の中からキジを、キョンを、リスも見た。一日中〝ホーホケキョ〟の声に包まれ、ホオジロやコジュケイも盛んに鳴いていた。〝ぶらっとはうす〟で買った自然薯も美味しかったし~」。

 さらに〝良き哉〟は、東京出発まで真夏日だったが、島は天候不順で朝・夜が寒くて存分に「薪ストーブ」が愉しめたこと。〝島の朝は早い〟と記したいが、実際は我がロッジの朝は〝遅く・寒かった〟。

 東京はマンション7階で東向き。4時半頃に昇る朝日は、早くも恐ろしいほど真っ赤で、昇り切ると白熱で、灼熱の陽が部屋に射し込む。遮熱・遮光カーテンが必需品。

hosouroend_1_1.jpg 比して島ロッジは西向きで、東側に他家ロッジと雑木林で、太陽が斜め上まで昇らぬと陽が射し込まぬ。建物の立地環境で、こうも違いがあると痛感。そこでもう一句。「明六に独り暖炉や島の初夏」

 次回島暮しは、秋に備えて久々にチェーンソーで「薪作り」と「煙突に接触の朽ち気味の桜の木を伐採」。

 倒したい方向に三角の切り込み(角度30~45°、受け口)を作り、反対側に受け口の少し上にチェーンソーで(追い口)。チェーンソ―が挟まれないように(くさび)を打ち込む~だよね。倒す方向を間違えると大ごとになる。島暮しは次から次へと、都会では出来ぬ〝仕事〟が迫ってくる。

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島ロッジ1年放置の無残かな〈2017‐3〉 [週末大島暮し]

lifeline1_1.jpg 大島のボロ小屋を1年間放置すれば、尋常であるワケがない。庭の雑草繁茂は覚悟だが、まずは「あぁ、水が出ねぇ」。役場に電話をする。「検査をしたら漏水疑惑で元栓を閉じてあります」。次にプロパンも出ぬ。これも「長期留守のために定期点検が出来ず止めています」。

 次に「トイレの水の塩梅も良くない」。プロパン調整を終えたS青年が「ちょっと見てあげよう」。仕事外の親切に、かかぁと共に感涙す。この時点で水道漏水はトイレの垂れ流しが原因かと判断した。

 そこに「おぉ、久し振りに来たかぁ」とM氏。「草刈機の2サイクル燃料はこれを使ってくれ」とポリタンク。かくも皆さんの親切に支えられての島暮しです。

 翌日、家裏で水音がする。裏へ回って腰を抜かした。石油給湯器の裏側下部の水道菅とのジョイント部が腐食し、そこから水がジャージャーと勢いよく洩れ流れているじゃないか。慌てて「水道元栓(量水器)」を止めた。

 これは昨日、役場の方が雑草に埋もれていた元栓を操作するのを見ていて出来たこと。そして役場の方が教えてくれた近所の業者さんへ電話。やっとN氏の会社が電話に出てくれた。「どんな具合か夕方に見て、明日直してあげよう」。

 それからは水なし生活。風呂場に溜めた水をバケツに汲んでのトイレ流し。あぁ、被災地のライフライン崩壊の辛い生活一端を知ったり、です。翌日、水道N氏が石油給湯器の水漏れを修理し、トイレも応急処理。これでやっと湯が出た、風呂に入れた。

 そこに再びM氏登場。再びトイレを調整。おぉ、何と云うことでしょう。勢い良くジャーと水が流れでピタッと止まる。こんなに歯切れの良い水洗トイレは久し振り。島で生活するには、こうした技術と経験がなければ生きては行けない。都会暮らしの軟弱さ痛感です。

 そして、いよいよ草刈り。不安と緊張でリコイルロープを引く。「おぉ、な・なんだ!一発始動だ」。これは前回の島暮しでMK商会さんに〝上手な仕舞い方〟を教わった結果だろう。腰痛ベルトを締めて、腰まで伸びた雑草と格闘開始です。その姿を見た水道N氏が笑ったね。「貧乏老人の別荘持ちは地獄だねぇ、ふふっ」

 <メモ>1年間放置でもプロパン・水道・電気料金の請求書は毎月来る。電気はブレーカーを落とせばいいが、それが冷蔵庫の故障原因、また浄化槽ポンプ(ブロウ)は止めない方がいいのアドバイスで今までは電源は入れっぱなし。今回は思い切ってブレーカーを落として帰った。

 水道は26年目にして、役場で「別荘扱い」手続きで、使用時のみの請求になるのを知った。同じくプロパンも電話連絡で停止をしてもらえば、これまた使用時だけの請求になるらしい。今頃知っても、老いた身であと何回ロッジ通いができますでしょうか。

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東京ベイを経て島へ〈2017‐2〉 [週末大島暮し]

takesibax_1.jpg 前回、汐留を含む浜松町地区の近代高層ビル化を再確認したので、次は東京ベイゾーン(臨海部)も知っておこうと思う。

 まずは竹芝桟橋対岸の(勝どき地区)の特異な外観のビル2棟が気になる。これは平成20年(2008)竣工の58階建て分譲マンション「THE TOKYO TOWERS」。あの外観はヨットの帆をイメージとか。竹芝より海に出てから、この絵のビル右角から両面を見れば、確かに三角形のセールが膨らんだ形になっている。

 その左は「勝どき東地区再開発」中のA1棟だろうか。他にA2棟、B棟も建築中らしい。勝どき地区の北側は「月島~佃島」で巨大高層マンション群林立風景は有名。ついでに記せば、佃島の対岸が東京湾汽船当時の霊岸島発着場。東海汽船はそこから芝浦桟橋、月島桟橋を経て現在の竹芝桟橋に至った。

 勝どきの沖側が晴海埠頭。現在確認出来るのは「晴海客船ターミナル」だけで、目下はオリンピック選手村は基礎作り段階か。その先が混迷深める豊洲市場。小生の記憶が正しければ、平成3年ロッジ建設時の七島海運は、この豊洲埠頭にあったように思う。

 さらに先は「有明コロシアム」が写真で確認できるゆえ有明地区。ここに有明アリーナ(バレーボール等の屋内競技場、竣工費360億)、アクアティックセンター(水泳等、竣工帆470億円)が建設らしい。東京ゲートブリッジ際では揉めに揉めたカヌー競技他。お台場がトライアスロンやビーチバレー。東京ビッグサイトでは各種室内競技、夢の島葉バトミントン、バスケ、アーチェリー、馬術など。

toukyobey2_1.jpg 昭和39年(1964)の東京オリンピックの時は小生二十歳。〝東京がうるさくなってきたから〟と友人と伊豆へ遊びに行った。そんな小生ゆえ「よくもまぁ、巨費(税金2兆円?)を投じて、とんでもないことをしてくれるなぁ」の感が否めない。

 それだけの金があればアレもコレもできように。厳しい格差社会になって最新建造物、高層ビル街にまったく無縁の取り残された人々は膨大で、対策遅れが山積みだろうに。

 さて、レインボーブリッジ(平成5年開通)下から東京ベイゾーンを過ぎ、東京湾を出れば、伊豆大島は目の前。1年間放置したロッジは「ライフライン」全滅で、スケッチをする余裕もなかった。帰京後、竹芝桟橋の写真から、島通いの友人からいただいた「Cotoman Travellers24」(固形水彩24色、筆入れ、スケッチブック収納の旅行スケッチセット)でお絵描きに相成候。

 風景画は苦手だなぁ。美大出の友人は「クロッキー帖(コピー用紙風の紙)に水彩画は無茶だよ。ヘロヘロに波打っちゃうだろ。ちゃんと水張りした水彩用紙に描きなさい」

 下写真は「世界貿易センタービル・最上階展望台」から東京ベイゾーンを撮ったもの。午前中は都心部が順光で、臨海は午後が順光。観覧料大人620円(高齢者500円)。次はロッジ1年間放置が、いかに無残なことになるかのご報告。 

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島への玄関、竹芝の高層ビル群(2017‐1) [週末大島暮し]

bunkahousou_1.jpg 伊豆大島の1週間暮しから戻った2日後、19日の東京新聞にJR浜松町駅隣接「世界貿易センタービル」最上階展望台が紹介されていた。同ビルは昭和45年(1970)竣工。当時は霞が関ビルに次ぐ都心の超高層ビルだったが、東京オリンピック翌年に建て替えとか。

 小生昨今の大島経路は、大江戸線「大門」下車で竹芝桟橋まで徒歩。「大門」で地上へ出れば同ビル前。この辺りは平成12年(2000)から次々と高層ビルが建ち並び。今や近代高層ビル街に変貌した。

 同ビル前「浜松町スクエア」(写真上中央、下が賃貸オフィス、上が賃貸住宅)が平成16年(2004)竣工。右隣「文化放送ビル」が翌々年竣工、JRを渡った先の「〝芝〟離宮庭園」前の「汐留芝離宮ビルディング」(オフィスビル兼複合商業施設)も平成18年(2006)竣工で、デッキで繋がった隣の「汐留ビルディング」(2Fが25店の飲食街、4~24Fがオフィス)がその翌年竣工(下写真の右下の2棟)。その後ろの「〝浜〟離宮」際に建つのが「アクティ汐留」(下写真中央のビル。58階の賃貸住宅、平成16年・2004)、また最近では竹芝桟橋前に「浜離宮インターシティ」(平成23年・2011)が建った。

 その背後が〝虎の門・汐留地区〟だ。「東京汐留ビルディング」(ホテル・コンラッド東京、ソフトバンクが入る。平成17年・2005竣工)。その裏に「電通本社ビル」(平成14年・2002)、「ロイヤルパーク汐留タワー」(平成15年・2003)、「日本テレビタワー」(平成16年・2004)、「汐留メディアタワー」(共同通信社、平成15年・2003)等々が見える。

tenbou1_1.jpg そして今回は「芝離宮庭園」隣が巨大敷地になって工事中だった。東急不動産・鹿島建設2社共同「竹芝地区開発計画」。全体延べ面積20万㎡の国際ビジネス拠点を創出とか。業務棟は地上39階地下2階。竣工は2020年。ますます高層ビル街になる。

 かつて威容を誇った「世界貿易センタービル」に老舗感が漂うも、その最上階展望台からは360度の抜群の眺望が見える。眼下竹芝の近代高層ビル群も手に取るようにわかる。「竹芝地区開発計画」工事が進めば、竹芝桟橋は視界から消えよう。

 かく記すのも、小生「世界貿易センタービル」に多少の思い出あり。昭和52年(1977)頃か、30代半ばの頃に同ビル入居の音楽会社PCの仕事をし始め、同社は昭和53年秋に市ヶ谷・一口坂に移転。その頃が同社隆盛期で、同社は市ヶ谷から移転後に次第に凋落して行った。まぁ、そこでの仕事収入をもって平成3年(1991)に大島ロッジを建てた次第。つまり平成3年からの島通いの度に、竹芝周辺の変化を眼にしてきたことになる。

tenbou2_1.jpg PCはフジサンケイグループ。フジテレビは東新宿の自宅から徒歩圏内の河田町をあとに、お台場へ移ったのが平成9年(1997)。四谷の文化放送も前述通り浜松町へ移転、系列違いだが市ヶ谷の日本テレビも汐留自社ビルへ移転。

 かくして大島の玄関口ともいうべき浜松町~竹芝桟橋を歩くと、若き頃の仕事、我がフリーランス前半のあれこれが甦る。それにしても同地区の昼間人口は、かつての数倍増だろう。島通いの旅人らが大きな荷物を持ってゾロゾロと歩く程度だった道が、今はこれら高層ビル群の勤め人雑踏で、旅行荷物を持って歩くのが困難になってきた。

 浜松町、汐留地区が、かくも近代高層ビル街化して、そこが過疎化進む大島の玄関口とは何とも皮肉なり。いや、年々そのギャップが大きくなって、同地からジェットフォイル艇90分で〝東京のジオパーク・大島〟へが面白くなっている。このギャップ堪能で大島人気が復活すればいいのだが、と思ってしまう。

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島ロッジへ舗装路完成 [週末大島暮し]

keikai7.jpg 友人のブログ「つくって、つかって、つないで」に吉報あり。海沿い「サンセットパームライン」から我がロッジへ入る道が舗装されていたゾ!と写真掲載。腰を抜かすほど驚いた。

 大島ロッジは平成3年に建った。海から防風林を抜けるこの道は、26年間ずっと凸凹の未舗装路だった。タクシーは底を擦るから入りたくないと言った。道の凹部でコジュケイが砂浴びをし、キジが蛇を襲い、キョンが横切った。道脇に自然薯堀の深い穴が幾つもあって、道脇で「タラの芽」を採り、高い木に絡まってアケビが実っていた。

 そんな道が突然に舗装路になったという。写真ではわからぬが、この舗装はどこまで続いているのか。気になるなぁ。(追記:友人が同日ブログに舗装路写真を2点追加してくれた。舗装路はロッジ前で終わっていた。飛行場脇まで舗装がつながるのは先のことらしい)

 ロッジ周りの環境変化も26年間で様々なり。小生もロッジもガタが来た。防風林入口に塩工場ができ、木々がなくなってロッジからは海一望へ。ロッジ前防風林も伐採で大別荘が建ち、競売され、今は新所有者が定住されている。オーナー不明?のビニール製ロッジには、様々な方が住み替わった。呑み屋ができた。ハト小屋ができた。道奥にテニス民宿があったが今はなく、人家が増えた。今回の舗装化はこの道も生活道路になった、てぇことだろうか。

keikaihata_1.jpg 友人の写真をコピーしたいが、ここは〝ひとひねり〟。昨日覚えたデジタル「自動ペインティング」で〝印象派風〟にしてみた。このソフトは写真や絵を「細密水彩画、印象派、油彩、イラスト、水彩スケッチ、色鉛筆、鉛筆線画、パステル画」などへ瞬時加工してくれる。

 下の絵は、自分が撮った同道路前「ケイカイ風景」写真を、印象派風にしたもの。こんなことがパソコンで瞬時に出来るとは、昔の印象派画家らは腰を抜かして驚くだろう。

 以上、友人ブログによる吉報で腰を抜かすほどうれしかった御礼と、同道辺り26年間の変化と、腰を抜かすデジタルお絵描き技術でした。

 元写真はリンク「つくって、つかって、つないで」の23日の記事をどうぞ。島へはGW後に滞在予定。腰痛に耐えつつの草刈り重労働が待っている。

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「大島元町復興計画書」を見る [週末大島暮し]

namekuji1_1.jpg 大島へ行かずとも吉阪隆正チームによる「大島元町復興計画書」を見ることが可能かしら。東京都立中央図書館に『吉阪隆正集全17巻』があった。第12巻『地域のデザイン』に「大島元町に対する提案」と「大島元町復興計画」が収録。

 広尾駅下車、有栖川公園の都立中央図書館へ。同書を見たが、それは全てではなく僅か8頁のみ。そのリード文は次の通り。「大火の翌日、吉阪隆正を中心とするDISCONT(不連続統一体)グループは、元町再建案を作成し、ただちに現地にとび、地元住民組織および町、都関係者に提出した。これが吉阪研究室と伊豆大島の出会いとなり、以降1970年まで続く諸調査計画のスタートとなった」

 最初の提案は、港へ向かう緑の道路、公共機関を配置したシビック・センター、店舗をアーケード中央に納めて上部に民家を設けた山型建築(雛壇風)の提案。これが未だ残り火がくすぶるなかの提案で、住民を驚かせ、かつ夢と勇気を与えたらしい。

 ここから区画整理事業が住民積極参加で始まった。上からの復興施策への批判も活発で、吉阪研究室を中心とした調査計画案が元町復興協議会など地元住民に支持され、同年9月に正式に町より復興計画依頼を受けることになって、以降1967年に至るまで、様々な調査と計画、提案がなされた~と記されていた。

 同書には、その第1次報告書段階の「区画整理への提案と将来ヴィジョン/全体再建計画書、水取り山計画、参道・遊歩道計画等」が掲載。続いて第2次、第3次報告書が提出されたそうだが、それがどんな内容だったかも気になる。

 また同交流が深まって、島南部の設計なども頼まれたらしい。ネット検索では「旧波浮小学校、第3中学校、体育館兼講堂、大島町役場、野増出張所、野増灯台、庁舎、図書館、吉谷公園、公衆便所~」など〝大島一連の仕事〟列挙されたりしているが、それら計画書・設計資料には出会えず、それらが果たして吉阪チームによるものだったかは定かでない。

 東京都立中央図書館にも「昭和40年・元町大火」関連の資料はまったくない。この辺は島民の方でないとわからないのかもしれない。またそれらは吉阪隆正の代表的建築とも言えず、明示に至らずと解釈されているのだろうか。願わくは吉阪チームが手掛けた建築一覧、または写真一覧など見てみたい。まぁ、それが叶わゆえに、ここは吉阪チームによって「町つくり」、「発見的方法」、住民参加の「ワークショップ」などが生まれたと認識するだけでいいのかも知れない。またここで生まれた考え方は、平成25年(2013)の台風26号による土石流災害からの復興にあたっても参考になったらしい。

 以上で当シリーズ・完としたいが、そもそもが「大久保と大島」がテーマゆえ、最後に吉阪隆正著『乾燥なめくじ』で新たに知った百人町の吉阪邸などについて記しておきたい。(大久保と大島を結んだ建築5。6へ続く)★挿絵は『乾燥なめくじ』表紙模写とメモなど。


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語られる「大島元町復興計画」 [週末大島暮し]

 「You Tube」にアップされていた吉阪隆正に関する膨大インタビュー集より、各氏(教授ら)が「大島計画」で語っていた要点を、発言者名を省略し、小生補足付きで以下に箇条書きでメモってみた。

それは元町大火翌日に始まった:1965年1月11日、伊豆大島元町の大火映像を見た吉阪隆正は、その晩に(復興案)スケッチを描き、翌日に早大産業技術専修学校(現・早大芸術学校)の生徒に託して大島の役場へ届けさせた。まだ火がくすぶり、消防車が走りまわっている最中の〝復興計画案〟に役所は腰を抜かした。そこから都・役場・住民と一緒の区画整理が始まった。

吉阪隆正と大島の出会い:昭和13年(1938)9月18日、日独伊三国同盟でヒットラーユーゲント(ナチスの少年組織)23名が来日し、日本の青少年と合流来島。吉阪正隆は官僚の息子で語学堪能ということで参加したらしい。その時の大島の印象が鮮烈で島に親しみを持っていたらしい。(ヒットラーユーゲント来島は「大島小史」や「懐かしの写真集」にも記録あり。当日の様子が詳細レポートされた『島の新聞』は小生の手元にもある)

復興の夢と勇気を語った吉阪:吉阪チームが島に着くと、波止場に町長らの黒塗りの車が待っているも、吉阪はお構いなしのいつものマイペースでスケッチを始めた。しようがないからスタッフが車に乗って役場(焼失しているから仮役場だろう)へ。吉阪はミカン箱かなにかの上に立って「さぁ、素晴らしい町を作って行こう」と演説して島民に夢と勇気を与え励ました。

水取り山計画:島は水が大事。三原山砂漠に石を古墳状に積んで穴を開け、そこに昼の空気が入って夜に冷えて水が出来る。砂漠に三葉虫のようなそんな石積みを幾つも作って池に水を貯める。そんな夢のようなアイデアにスタッフは呆れつつも、次第に図面引きに夢中になっていった。

世界初のボンネルフ完成:ボンネルフ(またはボンエルフ。オランダ語で「生活の庭」の意。車道を蛇行させてスピードを落とさせ、歩行者との共存を図った道路)は1972年にオランダの都市デルフトで始まった、とされるが、この復興計画(1966)でいち早く伊豆大島で誕生していた。世界初のボンネルフだったが、町長が変わって〝これからは車社会だから〟と真っ直ぐに直されてしまった。

日本初のワークショップ:復興へ向けて住民が多数参加の懇談会が大いに盛り上がった。上への批判を含めた闊達な議論で、今和次郎のような案が次々に出てきた。今でいう「ワークショップ」が伊豆大島で誕生した瞬間だった。

★「発見的方法」の確立:それは上から目線ではなく、島に蓄積されていた知恵、眠っていたもの、潜んでいたもの、見捨てられていたものを再発掘し、それらを現代的にどう再生して財産にしてゆくかという都市復興計画の考え方で、それはこの「元町復興計画」で確立されていった。それは今も早大の都市計画の伝統になっている。

市街地と沿岸地の計画:斜面が多い元町の地形を生かした町つくり。椿を取り入れた町つくりや、火山岩を利用したペイメント採用。そしてドラマ性を大事にした海岸計画が練られた。

吉谷神社への参道:海から吉谷神社への参道に、都電廃止で不要になった御影石を轢く案を提案。それは今も遺っていて、後年に当時の吉阪スタッフが島へ行った際に、老人会の方々が掃除をしていた光景をみて感動したそうな。(同時期に銀座辺りを走っていた都電が廃止されているから、それら石は銀座辺りの石かも)

 以上が「You Tube」で各氏が語っていた主な内容。ここで語られた昭和40年の元町復興計画の考え方は、少なくとも1億9千万円の建造費、かつ維持費も多額な巨大「シン・ゴジラ像」建造案よりも大切な〝町(島)おこし〟の考え方があるような気がする。(大久保と大島を結んだ建築4。5へ続く)


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謎の「大島元町復興計画」 [週末大島暮し]

motomatitaika3_1_1.jpg 前述の通り元町の「図書館」が吉阪らの設計ならば、それは元町のT字路際ゆえ必ず眼にしてきた。だが残念ながら中に入ったことはなく、そのうちに朽ちて行った。また彼らの設計だという学校の多くが今や廃校になっているのでは~。

 もう少し吉阪チームの手掛かりはないだろうか。ネットには国会の災害対策特別委員会の速記「東京都大島町元町復興計画案」の文言があるも、これは建設省地方局による?区画整理中心の案らしい。次に分厚い『大島町史』をひもとくも〝吉阪隆正〟の名は出て来なかった。

 大島町サイトの「町小史」を見る。昭和41年1月(元町大火翌年)、早稲田大学吉阪教室による「新しい町づくり」展示会。5月大島支庁・新庁舎完成、7月野増出張所完成の記述。それらが吉阪チームの設計との明記なし。大島庁舎とは現「大島町開発総合センター」のことならば昭和59年竣工で、大島支庁のことだろうか。支庁長宅(官舎)へ伺ったことがあるが、昔のことで記憶定かではないが、妙にモダンだったような気もするが~。

 吉阪隆正「大島元町復興計画」はかくも謎に満ち、次第に謎解きへ惹き込まれて行く。さらにネット検索するとサイト「木村五郎資料館の日記」に次の記述あり。引用させていただく。「昭和40年の大島元町大火の際にいち早く焼失した街を再生するための復興計画を町に示した建築家が早稲田大学の吉阪隆正氏だった。どういう訳だが私の書棚にこの復興計画書が3冊ある」、「吉阪先生が設計した建物が残る旧波浮小学校で毎年夏に〝アートアイランドTOKYO国際現代美術展〟が開かれている」。

 続いて伊豆大島ナビ「伊豆大島漁業協同組合・加工部」の方へのインタビューに「旧波浮小学校は建築家吉阪隆正氏が関わった大島復興プロジェクトの時代に生まれた小学校。全体的に船舶をイメージした設計デザインが施されており、ユニークな構造」とあった。

 元町ではなく島南部の設計が多いのは何故なのだろう。その全貌がますますつかめなくなってきた。これで探求を終われるわけもない。今度はな・なんということでしょうか、「You Tube」に32名の建築家・都市計画家・歴史家による「吉阪隆正」についての膨大なインタビュー集がアップされているじゃないか。

 そのテーマをアトランダムに列挙すれば~教育者/吉阪から学ぶこと/多言語/呉羽中学校/自邸(例の大久保百人町の)/逸話/U研究所/コルビュジエ/住居論/ヴィラ・クゥクゥ/八王子大学セミナーハウス/言われたこと/油土/高田馬場の都市計画/いなかった/箱根国際観光センターコンペ~等々。

 その中の1テーマに「大島計画」と題された2編がアップされていた。語っているのはきっと建築界で名を成す方々なのだろう重村力、樋口裕康、富田玲子、地井昭夫、濱田甚三郎、古谷誠章、田中茂夫、石山修武、後藤春彦氏他。すでに故人の方もいそうです。

 夏目漱石に〝漱石山脈〟があったが、早大建築系に〝吉阪山脈〟のようなものがあって、門下生総出演のインタビュー集っぽい。興味ある方は直接アクセスして観て下さい。ここでは「大島計画」で語られていた要点を発言者省略でメモしてみる。(大久保と大島を結んだ建築家3.4へ続く)

 ★挿絵は昭和40年の元町大火の跡。元町の約7割が焼失。罹災408世帯1273人。「伊豆大島懐かしの写真集」を見て描いてみた。煙突は当時あった銭湯のものらしい。


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吉阪隆正と大島 [週末大島暮し]

yosizaka2_1.jpg 先日(2月8日)の新聞に吉阪隆正と同じくル・コルビュジエに師事した3人のうちの一人「前川國男」の建築が脚光を浴び、全国8自治体が協力イベント・観光ツアー開始の報があった。

 ならば吉阪隆正の「大島復興計画」が改めて脚光を浴びても良さそうなものだが、そんな動きもなく、彼らが大島のどの建物を設計、遺したかも定かではない。前述の著作『好きなことはやらずにはいられない 吉阪隆正との対話』より彼がどんな建築家だったを知るべく経歴を簡単にまとめてみた。

 大正6年(1917)生まれ。父・俊蔵は内務官僚、母・花子は日本最初の動物学者・箕作佳吉の次女。4歳で父の赴任地スイス・ジュネーブに移住。2年後に新宿大久保百人町に移住。小学6年を終え、昭和4年(1929)に再びジュネーブへ。5年間、同地の学校を卒業。翌1年間を英国エジンバラで学んで16歳で帰国。17歳より再び百人町に在住。早稲田高等学校から早大建築学科入学。たぶん高校生時代だろう、昭和13年(1938)のヒットラーユーゲント23名の青少年一行が来日して伊豆大島を訪ねた際に、吉阪は語学堪能ということで選ばれたのだろう、日本側の少年代表として一緒に来島した(この件は後述する)。

 昭和20年(1945)百人町の家が空襲で焼失。翌年、早大講師。百人町にバラックを建てる。彼の師・今和次郎が彼のバラックをスケッチ。昭和24年(1949)、早大工学部助教授。翌年、フランス政府給費留学でル・コルビュジエのアトリエに勤める。昭和28年(1953)に自邸設計。日本山岳会理事。昭和34年(1959)、早大理学部教授。翌年、早大アラスカ・マッキンレー隊隊長。以後ヨーロッパ、アフリカ諸国へ。山荘(涸沢ヒュッテ等)やアテネ・フランセ、八王子の大学セミナーハウスなどを設計。

 コルビュジエ師事の建築家にしては代表建築が少ない。彼はどうやら前川國男や板倉準三とは少し違った存在らしいのだ。暮沢剛巳『ル・コルビュジエ 近代建築を広報した男』によると、吉阪は他の二人より一回り年少。かつ〝コルビュジエに憧れての師事〟でもなかったらしいのだ。

 早大理工学部助教授になって、マサチューセッツ工科大学への留学が叶わず。得意の仏語からフランス政府の給費留学生試験に合格。(文部省に勧められて?)コルビュジエのアトリエ勤務。ゆえに帰国後にコルビュジエ風建築を次々に建てるというよりも、彼の哲学に触れ、彼の著作翻訳などで活躍。(夏目漱石に〝漱石山脈〟があるように、吉阪隆正にも〝吉阪山脈〟とも言える多数建築家が育って、それぞれが違った〝吉阪とコルビュジエ〟について語っている)

 さて、小生は建築の部外者ゆえ、その辺は飛ばして彼の年譜の先を読み進んでみる。昭和40年(1965)大島元町大火の復興計画書を提出。2年後に大島:庁舎、図書館、野増出張所、吉谷公園等。翌年に差木地小学校、第1,5中学校、クダッチ更衣室、商工観光会館とあった。

 小生は平成3年から大島通いをしている。狭い島、人口も現8千名。狭い世界だが「あの建物が吉阪の」、また「吉阪隆正」の名も「大島復興計画書」の話も耳にしたことがない。何故だろうか。謎が謎を誘って調べずにはいられない。次に何がわかるだろうか。(大久保と大島を結んだ建築家2。3へ続く)


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大久保と大島を結んだ建築家 [週末大島暮し]

yosizakahyaku1_1.jpg かつての〝大久保文化村〟には社会主義者、画家、文学者、学者、音楽家、軍人、アナキスト~とあらゆるジャンルの方々が暮らしていた。そして忘れてはいけない建築家がいた。

 江藤淳の生家近くにル・コルビュジエに師事した3人の日本人の一人、吉阪隆正が「百人町3丁目317番地」(大久保駅の北側)に住んでいた。彼はなんと!伊豆大島の昭和40年元町大火の復興計画に携わっていたらしいのだ。〝あぁ、なんで今まで気付かなかったか〟。

 同氏を知ったのは夏目漱石がらみで読んだ『地図で見る新宿の移り変わり 淀橋・大久保編』掲載の徳永康元(言語学者、ハンガリー文学)の『大久保の七十年』だった。「大久保の町は、大正十二年の関東大震災では全く被害を受けなかったので、江戸以来の百人組の子孫こそ数すくなったにせよ、第二次世界大戦中の疎開や空襲で散り散りになるまでは、私の家の横丁でも、いわば大久保の二世に当るわれわれの世代は、お互いに幼い頃からの顔なじみばかりだった」

 と記し、ご近所を紹介。「仲通りから北へ入るこの横丁の角には、東大理学部の教授をしていた私の母方の伯父(柴田雄次)が住み、その北隣にはクリスチャンで社会運動家の益富政助氏、更にその隣には国際労働機関の政府委員だった吉阪俊蔵氏の家があった。この家ははじめ大内兵衛の住宅で、吉阪の家になった。氏のジュネーブ駐在中は、たしか前田多門氏の仮住まいになっていたこともある」。なんだか凄い方ばかりだ。

 そして中学時代の遊び相手は「私より三つ四つ下の従弟の柴田南雄君や、同じ横丁の吉阪隆正君たちだった。後年、南雄君は作曲家として、隆正君は建築家として名をなした。その後、柴田家は戦災後にこの土地を去り、吉阪君は六十代の前半に亡くなって、彼が戦後に建てた師匠コルビュジエ流の異色ある住宅もこわされてしまった。吉阪君の遺書『乾燥なめくじ』(昭和五十七年)には、大久保の思い出が詳しく記されている」

 小生は未読だが『新宿・大久保文士村界隈』の著者・茅原健氏は同書から吉阪隆正の家の位置を紹介していた。さて、百人町に建っていたというル・コルビュジエ風の家とは。気になって吉阪隆正を新宿図書館の蔵書検索をすると「戸山図書館」に『好きなことはやらずにはいられない 吉阪隆正との対話』なる書が一冊だけヒット。同書は師弟らによるアフォリズム風内容で、部外者にはわかり難い内容だが、氏が昭和23年、焼け跡の百人町に建てたバラックを「今和次郎」がスケッチした絵や、例のコルビュジエ風の実験住宅の写真が載っていた。(挿絵は小生がクロッキー帖に簡易メモしたもの)

 実験住宅には、早大の建築学科教室の吉阪研究室が「U研究室」になってプレハブで隣接された。日々、そこに集った青年建築家らが熱い議論を交わしながらヴェネチア・ビエンナーレ日本館、海星学園、日仏会館など次々に有名建築を生み出していったらしい。

 そして昭和40年(1965)、伊豆大島の元町大火。吉阪とそこに集う青年建築家全員が即座に反応して「大島復興計画」書を作成して島に渡ったとあった。さて、吉阪隆正とは、その「大島計画」とは?(大久保と大島を結んだ建築家1。6まで続きます。)


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毒吸出器を購入 [週末大島暮し]

dokusuitoriki_1.jpg 先週末に大島へ行った友人より電話。「庭が茫々だぞ」。庭仕事へ行かねばと思っていたが「酷暑続き・冬到来」で行く機会を逸した。しかし行く準備はしていた。

 ウチの近所に昔「日テレゴルフガーデン」なる打ちっぱなしがあった。若い時分はよく通ったが、今は「新宿イーストサイドスクエア」なる巨大オフィスビル。その東裏にアウトドアの「A&Fカントリー本店」があった。過日ふらっと入って「THE EXTRACTOR(エクストラクター)を買った。毒の吸い取り器なり。

 「毒吸取器はアウトドア愛好者の必需品」なる文を読んだ記憶がある。今夏はテレビで〝スズメバチ特集〟が多かった。大島ロッジは二度も巣を作られた。大島では「これしきの事で役場や警察へ泣きつけない」。

 二階ベランダ上の軒下に28㎝ほどの巣があった時は、夜間は活動停止と勝手に判断し、深夜にゴミ袋持参で忍び寄り一気に被せ取った。二度目は玄関軒下の巣は15㎝ほど。造り出したばかりか。部屋内より数ミリの隙間からジェット噴射の殺虫剤を吹きつけた。弱った頃を見計らい、外から長い棒で突っつき落とし、再び部屋の中からジェット噴射で退治。

 スズメバチの他にも毒虫がいる。ムカデに二度刺されて悶絶した。椿の島ゆえチャドクガもいる。マムシもいる。島ではアウトドア用品ではなく生活必需品だろう。店員が「私の母は千葉ですがハチに刺されました。この製品は片手で吸出しが出来ますからお薦めです」。

 どういう仕組みなのか、注射器とは逆で押し込むと傷口がギュッと吸引される。傷によって「吸引カップ」大小各種、毛深い個所がやられた際の毛を剃る剃刀までセットされた優れ物。皮膚が盛り上がって吸引したら虫の場合は60~90秒、ヘビは3分ほどで毒を吸い出すらしい。むろん、そんな目に遭わないことが何より。

 東京でも、隣に変な人が住み出して身の危険を感じることあり。こんな物は遣いたくないが用心のために〝暴漢撃退スプレー〟を用意した。島も都会もサバイバルです。 


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