「源為朝碑」伝説の大島 [週末大島暮し]
「菊丸」月島桟橋と投身事件 [週末大島暮し]
黒潮小屋とナチスと三原山人気 [週末大島暮し]
草かぶれ・アレルギー [週末大島暮し]
船を描き、船の思い出を~ [週末大島暮し]
岡田暮し3年の様子:不染鉄3 [週末大島暮し]
岡田暮しが飛躍の原点:不染鉄(2) [週末大島暮し]
「山海図絵」の秘密:不染鉄(1) [週末大島暮し]
岡田港の昔と明日 [週末大島暮し]
爺婆とBBQとスイカと~ [週末大島暮し]
海原と空に似合わぬ船の色 [週末大島暮し]
小綬鶏が玄関に居る鄙暮し [週末大島暮し]
煙突へ絡む枝葉の切り落とし [週末大島暮し]
大型船と中村屋とゴジラカレー〈2017‐10〉 [週末大島暮し]
御神火太鼓の子供たち〈2017‐9〉 [週末大島暮し]
吉谷神社への参道に感動〈2017‐8〉 [週末大島暮し]
夏来る繁茂の庭と老い戦〈2017‐7〉 [週末大島暮し]
長らへてあと幾度や島の風呂〈2017‐6〉 [週末大島暮し]
自然木カウンター〈2017‐5〉 [週末大島暮し]
薪燃やす愉しみ残す五月哉〈1017‐4〉 [週末大島暮し]
島ロッジ1年放置の無残かな〈2017‐3〉 [週末大島暮し]
東京ベイを経て島へ〈2017‐2〉 [週末大島暮し]
島への玄関、竹芝の高層ビル群(2017‐1) [週末大島暮し]
島ロッジへ舗装路完成 [週末大島暮し]
「大島元町復興計画書」を見る [週末大島暮し]
大島へ行かずとも吉阪隆正チームによる「大島元町復興計画書」を見ることが可能かしら。東京都立中央図書館に『吉阪隆正集全17巻』があった。第12巻『地域のデザイン』に「大島元町に対する提案」と「大島元町復興計画」が収録。
広尾駅下車、有栖川公園の都立中央図書館へ。同書を見たが、それは全てではなく僅か8頁のみ。そのリード文は次の通り。「大火の翌日、吉阪隆正を中心とするDISCONT(不連続統一体)グループは、元町再建案を作成し、ただちに現地にとび、地元住民組織および町、都関係者に提出した。これが吉阪研究室と伊豆大島の出会いとなり、以降1970年まで続く諸調査計画のスタートとなった」
最初の提案は、港へ向かう緑の道路、公共機関を配置したシビック・センター、店舗をアーケード中央に納めて上部に民家を設けた山型建築(雛壇風)の提案。これが未だ残り火がくすぶるなかの提案で、住民を驚かせ、かつ夢と勇気を与えたらしい。
ここから区画整理事業が住民積極参加で始まった。上からの復興施策への批判も活発で、吉阪研究室を中心とした調査計画案が元町復興協議会など地元住民に支持され、同年9月に正式に町より復興計画依頼を受けることになって、以降1967年に至るまで、様々な調査と計画、提案がなされた~と記されていた。
同書には、その第1次報告書段階の「区画整理への提案と将来ヴィジョン/全体再建計画書、水取り山計画、参道・遊歩道計画等」が掲載。続いて第2次、第3次報告書が提出されたそうだが、それがどんな内容だったかも気になる。
また同交流が深まって、島南部の設計なども頼まれたらしい。ネット検索では「旧波浮小学校、第3中学校、体育館兼講堂、大島町役場、野増出張所、野増灯台、庁舎、図書館、吉谷公園、公衆便所~」など〝大島一連の仕事〟列挙されたりしているが、それら計画書・設計資料には出会えず、それらが果たして吉阪チームによるものだったかは定かでない。
東京都立中央図書館にも「昭和40年・元町大火」関連の資料はまったくない。この辺は島民の方でないとわからないのかもしれない。またそれらは吉阪隆正の代表的建築とも言えず、明示に至らずと解釈されているのだろうか。願わくは吉阪チームが手掛けた建築一覧、または写真一覧など見てみたい。まぁ、それが叶わゆえに、ここは吉阪チームによって「町つくり」、「発見的方法」、住民参加の「ワークショップ」などが生まれたと認識するだけでいいのかも知れない。またここで生まれた考え方は、平成25年(2013)の台風26号による土石流災害からの復興にあたっても参考になったらしい。
以上で当シリーズ・完としたいが、そもそもが「大久保と大島」がテーマゆえ、最後に吉阪隆正著『乾燥なめくじ』で新たに知った百人町の吉阪邸などについて記しておきたい。(大久保と大島を結んだ建築5。6へ続く)★挿絵は『乾燥なめくじ』表紙模写とメモなど。
語られる「大島元町復興計画」 [週末大島暮し]
「You Tube」にアップされていた吉阪隆正に関する膨大インタビュー集より、各氏(教授ら)が「大島計画」で語っていた要点を、発言者名を省略し、小生補足付きで以下に箇条書きでメモってみた。
★それは元町大火翌日に始まった:1965年1月11日、伊豆大島元町の大火映像を見た吉阪隆正は、その晩に(復興案)スケッチを描き、翌日に早大産業技術専修学校(現・早大芸術学校)の生徒に託して大島の役場へ届けさせた。まだ火がくすぶり、消防車が走りまわっている最中の〝復興計画案〟に役所は腰を抜かした。そこから都・役場・住民と一緒の区画整理が始まった。
★吉阪隆正と大島の出会い:昭和13年(1938)9月18日、日独伊三国同盟でヒットラーユーゲント(ナチスの少年組織)23名が来日し、日本の青少年と合流来島。吉阪正隆は官僚の息子で語学堪能ということで参加したらしい。その時の大島の印象が鮮烈で島に親しみを持っていたらしい。(ヒットラーユーゲント来島は「大島小史」や「懐かしの写真集」にも記録あり。当日の様子が詳細レポートされた『島の新聞』は小生の手元にもある)
★復興の夢と勇気を語った吉阪:吉阪チームが島に着くと、波止場に町長らの黒塗りの車が待っているも、吉阪はお構いなしのいつものマイペースでスケッチを始めた。しようがないからスタッフが車に乗って役場(焼失しているから仮役場だろう)へ。吉阪はミカン箱かなにかの上に立って「さぁ、素晴らしい町を作って行こう」と演説して島民に夢と勇気を与え励ました。
★水取り山計画:島は水が大事。三原山砂漠に石を古墳状に積んで穴を開け、そこに昼の空気が入って夜に冷えて水が出来る。砂漠に三葉虫のようなそんな石積みを幾つも作って池に水を貯める。そんな夢のようなアイデアにスタッフは呆れつつも、次第に図面引きに夢中になっていった。
★世界初のボンネルフ完成:ボンネルフ(またはボンエルフ。オランダ語で「生活の庭」の意。車道を蛇行させてスピードを落とさせ、歩行者との共存を図った道路)は1972年にオランダの都市デルフトで始まった、とされるが、この復興計画(1966)でいち早く伊豆大島で誕生していた。世界初のボンネルフだったが、町長が変わって〝これからは車社会だから〟と真っ直ぐに直されてしまった。
★日本初のワークショップ:復興へ向けて住民が多数参加の懇談会が大いに盛り上がった。上への批判を含めた闊達な議論で、今和次郎のような案が次々に出てきた。今でいう「ワークショップ」が伊豆大島で誕生した瞬間だった。
★「発見的方法」の確立:それは上から目線ではなく、島に蓄積されていた知恵、眠っていたもの、潜んでいたもの、見捨てられていたものを再発掘し、それらを現代的にどう再生して財産にしてゆくかという都市復興計画の考え方で、それはこの「元町復興計画」で確立されていった。それは今も早大の都市計画の伝統になっている。
★市街地と沿岸地の計画:斜面が多い元町の地形を生かした町つくり。椿を取り入れた町つくりや、火山岩を利用したペイメント採用。そしてドラマ性を大事にした海岸計画が練られた。
★吉谷神社への参道:海から吉谷神社への参道に、都電廃止で不要になった御影石を轢く案を提案。それは今も遺っていて、後年に当時の吉阪スタッフが島へ行った際に、老人会の方々が掃除をしていた光景をみて感動したそうな。(同時期に銀座辺りを走っていた都電が廃止されているから、それら石は銀座辺りの石かも)
以上が「You Tube」で各氏が語っていた主な内容。ここで語られた昭和40年の元町復興計画の考え方は、少なくとも1億9千万円の建造費、かつ維持費も多額な巨大「シン・ゴジラ像」建造案よりも大切な〝町(島)おこし〟の考え方があるような気がする。(大久保と大島を結んだ建築4。5へ続く)
謎の「大島元町復興計画」 [週末大島暮し]
前述の通り元町の「図書館」が吉阪らの設計ならば、それは元町のT字路際ゆえ必ず眼にしてきた。だが残念ながら中に入ったことはなく、そのうちに朽ちて行った。また彼らの設計だという学校の多くが今や廃校になっているのでは~。
もう少し吉阪チームの手掛かりはないだろうか。ネットには国会の災害対策特別委員会の速記「東京都大島町元町復興計画案」の文言があるも、これは建設省地方局による?区画整理中心の案らしい。次に分厚い『大島町史』をひもとくも〝吉阪隆正〟の名は出て来なかった。
大島町サイトの「町小史」を見る。昭和41年1月(元町大火翌年)、早稲田大学吉阪教室による「新しい町づくり」展示会。5月大島支庁・新庁舎完成、7月野増出張所完成の記述。それらが吉阪チームの設計との明記なし。大島庁舎とは現「大島町開発総合センター」のことならば昭和59年竣工で、大島支庁のことだろうか。支庁長宅(官舎)へ伺ったことがあるが、昔のことで記憶定かではないが、妙にモダンだったような気もするが~。
吉阪隆正「大島元町復興計画」はかくも謎に満ち、次第に謎解きへ惹き込まれて行く。さらにネット検索するとサイト「木村五郎資料館の日記」に次の記述あり。引用させていただく。「昭和40年の大島元町大火の際にいち早く焼失した街を再生するための復興計画を町に示した建築家が早稲田大学の吉阪隆正氏だった。どういう訳だが私の書棚にこの復興計画書が3冊ある」、「吉阪先生が設計した建物が残る旧波浮小学校で毎年夏に〝アートアイランドTOKYO国際現代美術展〟が開かれている」。
続いて伊豆大島ナビ「伊豆大島漁業協同組合・加工部」の方へのインタビューに「旧波浮小学校は建築家吉阪隆正氏が関わった大島復興プロジェクトの時代に生まれた小学校。全体的に船舶をイメージした設計デザインが施されており、ユニークな構造」とあった。
元町ではなく島南部の設計が多いのは何故なのだろう。その全貌がますますつかめなくなってきた。これで探求を終われるわけもない。今度はな・なんということでしょうか、「You Tube」に32名の建築家・都市計画家・歴史家による「吉阪隆正」についての膨大なインタビュー集がアップされているじゃないか。
そのテーマをアトランダムに列挙すれば~教育者/吉阪から学ぶこと/多言語/呉羽中学校/自邸(例の大久保百人町の)/逸話/U研究所/コルビュジエ/住居論/ヴィラ・クゥクゥ/八王子大学セミナーハウス/言われたこと/油土/高田馬場の都市計画/いなかった/箱根国際観光センターコンペ~等々。
その中の1テーマに「大島計画」と題された2編がアップされていた。語っているのはきっと建築界で名を成す方々なのだろう重村力、樋口裕康、富田玲子、地井昭夫、濱田甚三郎、古谷誠章、田中茂夫、石山修武、後藤春彦氏他。すでに故人の方もいそうです。
夏目漱石に〝漱石山脈〟があったが、早大建築系に〝吉阪山脈〟のようなものがあって、門下生総出演のインタビュー集っぽい。興味ある方は直接アクセスして観て下さい。ここでは「大島計画」で語られていた要点を発言者省略でメモしてみる。(大久保と大島を結んだ建築家3.4へ続く)
★挿絵は昭和40年の元町大火の跡。元町の約7割が焼失。罹災408世帯1273人。「伊豆大島懐かしの写真集」を見て描いてみた。煙突は当時あった銭湯のものらしい。
吉阪隆正と大島 [週末大島暮し]
先日(2月8日)の新聞に吉阪隆正と同じくル・コルビュジエに師事した3人のうちの一人「前川國男」の建築が脚光を浴び、全国8自治体が協力イベント・観光ツアー開始の報があった。
ならば吉阪隆正の「大島復興計画」が改めて脚光を浴びても良さそうなものだが、そんな動きもなく、彼らが大島のどの建物を設計、遺したかも定かではない。前述の著作『好きなことはやらずにはいられない 吉阪隆正との対話』より彼がどんな建築家だったを知るべく経歴を簡単にまとめてみた。
大正6年(1917)生まれ。父・俊蔵は内務官僚、母・花子は日本最初の動物学者・箕作佳吉の次女。4歳で父の赴任地スイス・ジュネーブに移住。2年後に新宿大久保百人町に移住。小学6年を終え、昭和4年(1929)に再びジュネーブへ。5年間、同地の学校を卒業。翌1年間を英国エジンバラで学んで16歳で帰国。17歳より再び百人町に在住。早稲田高等学校から早大建築学科入学。たぶん高校生時代だろう、昭和13年(1938)のヒットラーユーゲント23名の青少年一行が来日して伊豆大島を訪ねた際に、吉阪は語学堪能ということで選ばれたのだろう、日本側の少年代表として一緒に来島した(この件は後述する)。
昭和20年(1945)百人町の家が空襲で焼失。翌年、早大講師。百人町にバラックを建てる。彼の師・今和次郎が彼のバラックをスケッチ。昭和24年(1949)、早大工学部助教授。翌年、フランス政府給費留学でル・コルビュジエのアトリエに勤める。昭和28年(1953)に自邸設計。日本山岳会理事。昭和34年(1959)、早大理学部教授。翌年、早大アラスカ・マッキンレー隊隊長。以後ヨーロッパ、アフリカ諸国へ。山荘(涸沢ヒュッテ等)やアテネ・フランセ、八王子の大学セミナーハウスなどを設計。
コルビュジエ師事の建築家にしては代表建築が少ない。彼はどうやら前川國男や板倉準三とは少し違った存在らしいのだ。暮沢剛巳『ル・コルビュジエ 近代建築を広報した男』によると、吉阪は他の二人より一回り年少。かつ〝コルビュジエに憧れての師事〟でもなかったらしいのだ。
早大理工学部助教授になって、マサチューセッツ工科大学への留学が叶わず。得意の仏語からフランス政府の給費留学生試験に合格。(文部省に勧められて?)コルビュジエのアトリエ勤務。ゆえに帰国後にコルビュジエ風建築を次々に建てるというよりも、彼の哲学に触れ、彼の著作翻訳などで活躍。(夏目漱石に〝漱石山脈〟があるように、吉阪隆正にも〝吉阪山脈〟とも言える多数建築家が育って、それぞれが違った〝吉阪とコルビュジエ〟について語っている)
さて、小生は建築の部外者ゆえ、その辺は飛ばして彼の年譜の先を読み進んでみる。昭和40年(1965)大島元町大火の復興計画書を提出。2年後に大島:庁舎、図書館、野増出張所、吉谷公園等。翌年に差木地小学校、第1,5中学校、クダッチ更衣室、商工観光会館とあった。
小生は平成3年から大島通いをしている。狭い島、人口も現8千名。狭い世界だが「あの建物が吉阪の」、また「吉阪隆正」の名も「大島復興計画書」の話も耳にしたことがない。何故だろうか。謎が謎を誘って調べずにはいられない。次に何がわかるだろうか。(大久保と大島を結んだ建築家2。3へ続く)
大久保と大島を結んだ建築家 [週末大島暮し]
かつての〝大久保文化村〟には社会主義者、画家、文学者、学者、音楽家、軍人、アナキスト~とあらゆるジャンルの方々が暮らしていた。そして忘れてはいけない建築家がいた。
江藤淳の生家近くにル・コルビュジエに師事した3人の日本人の一人、吉阪隆正が「百人町3丁目317番地」(大久保駅の北側)に住んでいた。彼はなんと!伊豆大島の昭和40年元町大火の復興計画に携わっていたらしいのだ。〝あぁ、なんで今まで気付かなかったか〟。
同氏を知ったのは夏目漱石がらみで読んだ『地図で見る新宿の移り変わり 淀橋・大久保編』掲載の徳永康元(言語学者、ハンガリー文学)の『大久保の七十年』だった。「大久保の町は、大正十二年の関東大震災では全く被害を受けなかったので、江戸以来の百人組の子孫こそ数すくなったにせよ、第二次世界大戦中の疎開や空襲で散り散りになるまでは、私の家の横丁でも、いわば大久保の二世に当るわれわれの世代は、お互いに幼い頃からの顔なじみばかりだった」
と記し、ご近所を紹介。「仲通りから北へ入るこの横丁の角には、東大理学部の教授をしていた私の母方の伯父(柴田雄次)が住み、その北隣にはクリスチャンで社会運動家の益富政助氏、更にその隣には国際労働機関の政府委員だった吉阪俊蔵氏の家があった。この家ははじめ大内兵衛の住宅で、吉阪の家になった。氏のジュネーブ駐在中は、たしか前田多門氏の仮住まいになっていたこともある」。なんだか凄い方ばかりだ。
そして中学時代の遊び相手は「私より三つ四つ下の従弟の柴田南雄君や、同じ横丁の吉阪隆正君たちだった。後年、南雄君は作曲家として、隆正君は建築家として名をなした。その後、柴田家は戦災後にこの土地を去り、吉阪君は六十代の前半に亡くなって、彼が戦後に建てた師匠コルビュジエ流の異色ある住宅もこわされてしまった。吉阪君の遺書『乾燥なめくじ』(昭和五十七年)には、大久保の思い出が詳しく記されている」
小生は未読だが『新宿・大久保文士村界隈』の著者・茅原健氏は同書から吉阪隆正の家の位置を紹介していた。さて、百人町に建っていたというル・コルビュジエ風の家とは。気になって吉阪隆正を新宿図書館の蔵書検索をすると「戸山図書館」に『好きなことはやらずにはいられない 吉阪隆正との対話』なる書が一冊だけヒット。同書は師弟らによるアフォリズム風内容で、部外者にはわかり難い内容だが、氏が昭和23年、焼け跡の百人町に建てたバラックを「今和次郎」がスケッチした絵や、例のコルビュジエ風の実験住宅の写真が載っていた。(挿絵は小生がクロッキー帖に簡易メモしたもの)
実験住宅には、早大の建築学科教室の吉阪研究室が「U研究室」になってプレハブで隣接された。日々、そこに集った青年建築家らが熱い議論を交わしながらヴェネチア・ビエンナーレ日本館、海星学園、日仏会館など次々に有名建築を生み出していったらしい。
そして昭和40年(1965)、伊豆大島の元町大火。吉阪とそこに集う青年建築家全員が即座に反応して「大島復興計画」書を作成して島に渡ったとあった。さて、吉阪隆正とは、その「大島計画」とは?(大久保と大島を結んだ建築家1。6まで続きます。)
毒吸出器を購入 [週末大島暮し]
先週末に大島へ行った友人より電話。「庭が茫々だぞ」。庭仕事へ行かねばと思っていたが「酷暑続き・冬到来」で行く機会を逸した。しかし行く準備はしていた。
ウチの近所に昔「日テレゴルフガーデン」なる打ちっぱなしがあった。若い時分はよく通ったが、今は「新宿イーストサイドスクエア」なる巨大オフィスビル。その東裏にアウトドアの「A&Fカントリー本店」があった。過日ふらっと入って「THE EXTRACTOR(エクストラクター)を買った。毒の吸い取り器なり。
「毒吸取器はアウトドア愛好者の必需品」なる文を読んだ記憶がある。今夏はテレビで〝スズメバチ特集〟が多かった。大島ロッジは二度も巣を作られた。大島では「これしきの事で役場や警察へ泣きつけない」。
二階ベランダ上の軒下に28㎝ほどの巣があった時は、夜間は活動停止と勝手に判断し、深夜にゴミ袋持参で忍び寄り一気に被せ取った。二度目は玄関軒下の巣は15㎝ほど。造り出したばかりか。部屋内より数ミリの隙間からジェット噴射の殺虫剤を吹きつけた。弱った頃を見計らい、外から長い棒で突っつき落とし、再び部屋の中からジェット噴射で退治。
スズメバチの他にも毒虫がいる。ムカデに二度刺されて悶絶した。椿の島ゆえチャドクガもいる。マムシもいる。島ではアウトドア用品ではなく生活必需品だろう。店員が「私の母は千葉ですがハチに刺されました。この製品は片手で吸出しが出来ますからお薦めです」。
どういう仕組みなのか、注射器とは逆で押し込むと傷口がギュッと吸引される。傷によって「吸引カップ」大小各種、毛深い個所がやられた際の毛を剃る剃刀までセットされた優れ物。皮膚が盛り上がって吸引したら虫の場合は60~90秒、ヘビは3分ほどで毒を吸い出すらしい。むろん、そんな目に遭わないことが何より。
東京でも、隣に変な人が住み出して身の危険を感じることあり。こんな物は遣いたくないが用心のために〝暴漢撃退スプレー〟を用意した。島も都会もサバイバルです。